キシンリキ 第一部・碧い狛犬の涕
子子八子子
第一章 ~息長 心詞~ 第1話 悪夢を見たようだが俺は覚えちゃいない
“おーにーさーーん、こーーちらーーーー、”
暗闇のどこか遠くで子供たちの笑い声が聞こえる…
屈託の無い笑い声が空間を占める中で突然、闇を切り裂き
ゴォオオオオオオオオオオ…
まるで巨塔の天辺から奈落の底に落とされるかのような、激しい重圧感で胸が苦しい。ケホッと軽く咳きをする。
そしてグワングワンと激しい耳鳴りと、止まない重圧、圧迫感の中で『苦しい』と言う肉体の訴えが伴う光景が瞬く。
『…クソッッ…!また…駄…目なのか…』
『もう…間に…合わな…』
《…俺?か…?誰だ、あの
真っ黒い渦のような雲が頭上に立ち込め、嵐のような暴雨風の中、俺と誰か知らない女の子が、見知らぬ荒れ果てた土地で泣き叫んでいる。
『苦しい』そして『絶望』という感情が重なり激烈な痛みを伴い全身に逆流する。
すると今度はピッピッピッピピピピピピピ…と細かい光と連動して電子音がどこかで聞こえる。
ピピピピピぴピピピピぴぴぴぴぴ
“…駄目です、…オーバー、限界点到達します…レベル0…”
“……もう、あとは…一度しか……”
ピピピと言う音の他に複数の電子音に混ざり、更に知らない複数の人間の声がする。
《ーーーー何だ…病院とかかな……?》
暗転。
ゴォオオオオオオオオオオオオオ オ オ オ オ!!!!!!
更に増す重力に加えて息をするのも困難な圧迫感。
めちゃくちゃにあちこち吹っ飛ばされるような乱雑な浮遊感、そして再び果てしない轟音が頭の中を巡り、身体がどんどん押し潰されながら下降していくような感覚。
“てーーーのなーーーるほーーーうへーーーーーーー……”
また、子供たちの笑い声。
数人の子供たちに囲まれた一人の子供の姿。泣いている・・・のか?
“いたい…たすけて、…止めて、お願い止めて…ごめんなさい、ごめ…”
“…この…いけしゃあしゃ……おま…なんか人じゃな……”
激しい叫び声と泣き声、そこに嘲笑する声、罵声が重なる。
《やめろ、やめろ、何…を一体……駄目だ、押し潰され…て…声が……》
穏やかでない声、雰囲気。止めたいが声はおろか指一本動かせない。
そうした中でも身体は圧迫されながらどんどん沈む。
そこでようやく今の状況が視認出来た。
自分は今、円筒形のトンネルに落ちていく最中、そしてそのトンネルの壁には沢山の日常を切り取ってそこだけコマ上映しているような光景が見える。
折り紙を珍しそうに触る幼稚園児、転んでひっくり返ってもも引きのようなペチコートが丸見えになってしまった西洋の女、スナックフードを買い食いするアジア系の男女、日めくりカレンダーをめくる肌の黒い老人、園庭を散策する貴族、広く果てなく広がる黄金の稲穂の揺れ渡る実りの田園地帯……そこに映る光景は年代も人物も場所も全てまちまちだ。
それに、俺はどの光景も覚えていない。
《ーーーーなんなんだ、この状況は…?》
もう限界まで圧迫され、心象的には薄っぺらな紙切れにまでひしゃげたような身体が突然軽くなり、その瞬間いきなり自分が子供になって誰かを追いかけている。
初めて見るような、ひどく懐かしいような、山村の光景。
空の青色が濃い。
群青色ってのは、本当はこんな色なんだ、と感心するくらいの濃い青。勿論、見た事が無い。
シャリシャリとした枯れ草、冷やりと湿った土の感触が裸足の足の裏に伝わる。
“…おーーーい!待ってーーーー……”
“…はやくーーこっちよーーーー……”
草原、稲田、山…
土、水、大気、岩、自然…
雄大な自然の中で追いかけていた草むらと小さな背中は、いつしか視線が上がって草むらの姿が消えて長い髪が翻り、飾りの鈴がシャリン、シャリンと鳴り響く。
“あ…ま、待ってーーーーー……”
“うふっ、うふふっ……”
“…だめですよ……あまり走っては…”
途中から残像が重なるように二人は成長した姿に成り代わっていた。
そして、こみ上げるこの想いは…
《ああ、懐かしい、あなたはーーーーーーーーーーーーーーーーー》
“…”
フッ、と全てが掻き消されるように再び辺りは予告無く暗闇に包まれた。
ゴーーーーーーーーーーォォォンンンン……
ゴーーーーーーーーーォォォォンンン…
鐘の音が響く。突然、ものすごく嫌な予感が俺を支配する。
ここは何処だろう。鐘の音は、正面の寺の鐘だろうか。
暗闇の中に朧気に見えるのは、墓場なのか。
墓場の奥に、薄明かりの灯った寺が見える。
《なんだろう。確かそこに行くと……だったんだよな…》
暗闇。嫌な予感だけが取り残された、ただの暗闇。
だが、何か思い出さないといけない、そんな気がする。
《待ってくれ、今思い出すから、ちょっと……》
「待ってくれっ!…て…ば?」
俺は虚空に伸ばしている、絆創膏の貼られた自分の手を見た。昨日の傷はもう癒えたようだった。
天井には見慣れた丸い染みというか
俺はガバッと身体を跳ね起こした。まだ背中も腹筋も足やら手やらが痛いが、許容範囲だ。問題ない。
問題なのは、今が既に朝の8:30を回っていることだ。
「やぁ…っべーーー!!完っ全遅刻じゃんっ!!」
慌ててパジャマを脱ぎ捨て、椅子の背にかけてあるシャツと制服を羽織り、新しい靴下を履・・・きたいがストックがない。
「母ちゃん、かーちゃん、俺の靴下、くつした!どこどこ!」
スマホ以外ほぼ何も入っていない形だけの鞄を引っつかみ、ドタドタと裸足で階段を転がるように降りてリビングへ行く。階下には味噌汁と炊き立てのご飯の良い匂いが充満しているが、残念ながら食べている時間は絶対に無い。
リビングでは母親がこの時間に毎日習慣で点けているテレビのチャンネルの音声が流れていた。
『…先日からの報道の続きです。回転すしチェーン○×店での××行動を挙げたSNSについての続報です…』『CM明けの第一報となります。大手情報ケーブルの○○社が…』『つまり個人の情報セキュリティ支援の一環として、政府の施策は一部…』『国民の皆様へのお願いです。個人情報保護対策としての、随時アカウントチェックをお願いします。“あ~なたのアカ、あ~なた~の為~の~♪”』
化粧をしながら片手でリモコンを押してザッピングしているようだ。
あらゆる声、音、バラバラのタイミングで色んな音声が冷めた味噌汁の匂いに混ざって流れている。
「まぁたもーぅ!顔も洗わずにご飯も食べずに行くのぉ?!」
母ちゃんの声の必殺ノールック打撃が飛んできた。
母ちゃんは懸命にテーブルに置いた鏡を見ながら化粧の仕上げに取り掛かっている、決して似合っている感じじゃないのに。
厚化粧して元より不細工になる時間があるなら、俺を起こしてくれたっていいじゃないか。
「それより靴下はどこだよう?!」
彼は自分の母親を元より不細工、とは言っているが、決してその容姿が不美人では無かった。年齢よりは年若く見えそうで、喋り方にも愛嬌がある。
ただメイクの仕方に問題があるのだろうーーその化粧の下手な母親は机の端に置かれた、きちんと包まれた弁当箱と、その上に置かれた、またきれいに畳んであるハンカチと靴下を塗りかけのリップブラシで指し示した。
「そこでーす!」
うちの母ちゃんはいわゆる“シンママ”、つまりうちは母子家庭だ。
だが、詳しい事情は知らない。物心付いた時から俺は母ちゃんしか知らないし、俺にはそれが普通だった。その後、成長するに従って、父親がいないのは何か事情があるのだという事をようやく知った。
しかし、どんなに忙しくても、母ちゃんはいつでも俺が些細な疑念を抱く暇も無い程、いつでも笑顔で明るいし(優しいかどうかはその時々によるが)、きっちり弁当(まあおかずの大半は冷食なんだが)とアイロンの当てたハンカチを毎日持たせてくれる。そこにどれほどの苦労があったのか、ガキの俺には知る由も無く。
母ちゃん、ありがとう。でも、その口紅の色はやめたほうがいい。
「さーーんきゅーー!」
ガサッと弁当とハンカチを鞄に突っ込み、靴下は玄関で靴を履く直前にズボッと足を突っ込んでOK!すげー腹が減ってるけど学校着いたらパン買えばいーし!
「いってきゃーすっ!!」
「色々物騒だからぁ、気を付けてねーー!」
閉まりかけのリビングのドアから投げかけられた母ちゃんの声を背に、家の鍵とチャリの鍵を掴んで玄関を飛び出した。
いよいよ朝から玄関脇に立てかけてある俺の愛車が火を吹くぜ!
「頼むぜ相棒っ」
チャリに跨り、門扉を出る前に左右どちらからも進入車や歩行者が無いのをしっかりと確認した上で、道の真ん中で(無駄な)90度ドリフトターンをかましてから、一気に通学路を駆け抜ける!勿論、周囲の安全確認は光の速さで行う!
そう、俺は毎日ぎりぎりの時間に登校するが、この緊張感の中で自分を試せてるみたいな充実感が実はたまんなかったりする。
「…いや、今日は完全にアウトだよなー……」
途中の横断歩道で信号待ちしている間に急に我に帰り、少しだけ青ざめた。
…まあ、今更か?
あと俺は子供の頃から運だけは良い。
おみくじも自慢じゃないが大吉しか引いたことが無い。
もしかしたらおみくじってのは大吉しか入ってないものだと、一時期は本気で思っていたくらいだ(友人たちと一緒に初詣した時に各自引いたおみくじを見せ合いっこして、そうではないとその時に初めて知った)。
とりあえず、焦ってこけたりしないようにしよう。また怪我が増えるとさすがに部活に響く。
「カレーパン…焼きそばパン…いやウインナードッグ…いややっぱ火曜だからカレーパン…」
学校着いたら何のパン買おう。
その頃にはとうに始業時間は過ぎてしまっていると思うが、俺はそんなことだけを真剣に考えていた。
うん、カレーパンにしよう。やはりカレーパンは正義だ。
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