第50話 記憶と今と未来
簡単にハッピーエンドはやってこない。
シノは感情の乗っていない声で言葉を置いてゆく。
「ねえ、ヨウ。……あの日私に見せてくれた猛毒、私にくれませんか。ずっと預かっていたんですけれど」
シノは制服の内ポケットから
それにしてもシノは律儀だ。別に無言で持ち去ってもよかったのに。
「……何に使うの」
それでも一抹の警戒心を持って答える。やっぱりシノが何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
「大したことには使いませんよ」
シノは世間話をするように言った。ちょうど一筋の風がやってきて、さらりと過ぎ去っていく。そこに残ったのは静寂とシノの声だった。
「ただ――私が死ぬために使うだけです」
死を考えている人間とは思えないくらい爽やかな表情でシノは笑った。
「……は?」
いつぞやのシノと同じような声を出す。あの時とは立場が全く逆だった。やっぱりシノは誤魔化すように軽やかにわらった。
「別にこの世界に絶望したとか、そんなのではないですよ。ヨウと生きた一年は楽しかったですし」
「なら、何故……」
海外へ行くのではなかったか。どうして死を望むようなことを言うのか。
「……私は、卒業しても海外へは行きません。ただ、私は兄の影武者になるんです」
「影武者?」
言葉の意味は知っているが、シノと全く結びつかなかった。
「ええ、影武者。兄が人の前に出るときは、私が兄の格好をして代わりに出るんです。ヨウも知っているように、私の家は真で真っ当な家族はありません。だから、命のやりとりだって行われている。次期トップになる兄は必然的に狙われやすいんです。だから、私が兄に変装して、殺されるはずの兄に代わりいつか殺されるんです」
ヨウとは無縁の世界。以前シノは零していた。「長男なら、威張ることもできたのに」と。長男なら、下のきょうだいに守ってもらえるのだ。だから、義務教育を卒業したら海外に行くことにして、社会から存在を消す。
「……そんなのおかしいよ。どうして、シノにだけそんなしわ寄せがいくの。理不尽だよ」
シノは笑った。
「ヨウ、この世界は理不尽なんですよ。子供は大人に従わなければならない。従っても殺される、反抗しても殺される。……ならば、従って殺される方がラクでしょう?」
「でも……」
頭では理解できた。でも、感情が理解したくないと訴えていた。
「ふふっ、ヨウが悩む必要はないんですよ。私はもう受け入れていますから。でも、殺されるのは受け入れられない。兄として人に殺されるくらいなら、私はわたしとしての尊厳を保って死にたい。そうして至った結論が自死なんです。だから、私は今日死にます。家に帰るとすぐに殺されてしまうかもしれないのだったら今すぐにでも死にたい」
そんな極端な。でも簡単には言えなかった。シノだって一朝一夕で考えついたことではないのだろうから。
「……死なないでよ、シノ。もう少し生きて。ヨウが、寂しいから」
はやく言葉を紡がないといけない気がして思考が停止する。幼児みたいな言葉しか紡ぐことが出来ない。柄にもなく焦っているのかもしれない。
「人間らしくなりましたね、ヨウ」
そこに非難も称賛もなかった。シノはただ事実を淡々と述べただけ。その言葉にヨウはすとんと憑き物が落ちたように冷静になった。
ふとシノが熱を出した時を思い出す。そうだ。いつもヨウを焦らせるのはシノで、ヨウを落ち着かせるのもシノだった。ヨウの心をかき乱していくのはシノだけだった。でも今、お陰様で思考は冴え冴えとしている。それだけはよかった。
「……そうだね。ねえ、シノ。人は変わるんだよ。良くも悪くも」
「そうですね。少なくともヨウは変わりました。人間臭くなりましたね」
さらりとお綺麗な顔で宣う。なんだろう、少し悔しい。高みの見物をされているみたいで。
「そう言うシノも変わったでしょ?」
噛み付いてやる。シノだけきれいなままなんてずるい。俗世に堕ちろ。
「私?」
「ほら。生きたがってるじゃん」
毒薬を指さして言う。本当に今すぐにでも死にたいのなら、はやく毒薬を飲めばいいのだ。ヨウがラクに死ねると言ったからには、本当にラクに死ねるのだ。煽ってみせる。それが吉と出るか、凶と出るかヨウにはわからなかった。
膨大な知識を以てしてもシノという少女の行動は予測ができなかった。毒薬とシノと閉鎖的な渡り廊下。シュレーディンガーの猫みたいだ。何が起こるかわからない。
「ふふっ、生きてほしいと言ってくれたのに、死を急かすんですか?」
ヨウの言葉なんて意にも介さないというように、悪戯っぽい笑みを浮かべてシノは答える。噛み付いたと思ったけれどシノは無傷だった。知っていた。シノは災厄みたいな少女だ。全てを荒々しくかき乱していく。どこまでも静かな方法で。でも、もう慣れた。
「ううん、違うよ。まあ、シノが死にたかったらどうぞご自由にって感じだけど。ヨウはシノの生死を決められるほど偉くないからね」
天井を見上げる。そこに過去が映し出されて見えているように。確かに、ヨウの脳裏には過去が映し出されていた。本音をぽつりと置いてゆく。
「でもシノと過ごした一年間は愉しかったよ。今までで一番。もう手に入らないと思うと、堪らなく惜しいくらいには。そして、これからも思い出をつくりたいと思うくらいには」
そういうとシノは両手でそっと顔を覆った。その華奢な手の下でシノはどんな表情をしているんだろう。
知りたい、知りたい、知りたい。
どんなときでも飄々としているこの少女がどんな顔をしているのか、知りたい。好奇心の波に溺れそうだった。記憶を取り戻したからか、いつもに増して好奇心があふれ出す。知れないと思うから知りたい。人間は禁止されたらしたくなる生き物なのだ。
「……酷いですね、ヨウは」
手の下からシノは答える。どこかくぐもった声。でもシノはきっと泣けないんだろうなと思った。ヨウだってそうだから。ふとこんなこともあったなと修学旅行を思い出す。シノとはあまりに思い出を作りすぎた。
「シノもどっこいどっこいだよ。お互い酷い人間だから今まで釣り合ったんだね」
からからと笑って見せる。風が追従するするように吹きすさんだ。シノが手から顔を上げる。いつものように美しい顔がそこにはあった。荒れ狂う感情なんてどこにも存在しなかったような、清らかな笑み。
「そうですね。最初から私たち狂っていたんですから」
「あは、そうだね。今更気付いたの?」
くすくす。あはは。静かな渡り廊下に笑いが広がる。心底愉しそうな笑いだった。笑い声だけ聞くと、ただ卒業を喜んで気分が高揚している中学生だった。
「ねえ、ヨウ。私も愉しかったですよ。多分、一生忘れられない思い出になりました。……でも、今日でお別れです。ヨウ、幸せになってくださいね」
こんな時にもシノはきれいにわらう。透明な笑顔にヨウの中では様々な感情が渦巻いた。
これで終わり? こんなに呆気ない?
――勿論、これで終わらせるわけにはいかない。ハッピーエンドは掴み取るものだから。
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