第39話 受験
受験。ヨウは、私立高校を受験しなかった。公立高校を受ける生徒は原則滑り止めとして私立高校を受験しなければならないのだが、先生に言って丸め込めた。こういうとき知識があってよかったと思う。
絶対に合格する地元の公立高校。安さだけで選んだ。学校は社会勉強さえできればいい。本気で勉強したければ参考書を買えば良かったから。図書館に行けば専門書だって沢山ある。
勉強は、やる気があるがどうかが大切だろうと思っている。この国は勉強しようと思ったら幾らでも勉強できるシステムが整っているのだから。
歴史を辿ると、勉強をするのは特別なことで、選ばれし人間が手にするものだった。しかし与えられると勉強しないのが人間なのである。また、義務にされるとしたくなくなるのが人間だ。
気が付けば受験前日になっていた。シノは受験がないのでいつも通り綺麗に笑っていた。
「シノは本当に受験しないの。あんなに頑張っていたのに、勿体ない」
今更何を言っても仕方がないのだが。
「ええ、前にも言いましたが、私は家の都合で海外に行くので」
「海外の学校の受験するの?」
「いいえ、しません」
それは流石に予想外だった。
「学校行かないの」
「多分そのつもりです。家族のお手伝いをするので、実質中卒で働くことになりますね」
シノは口元に手を当てて優雅に微笑んだ。そこに焦りはなかった。もう全て終わった、そんな余裕と儚さがあった。まるで自分の将来に無頓着なように。
「ええ勿体無い。折角あんなに勉強していたのに」
ありったけの非難を込めて言ってみる。家族のお手伝いで中卒だとか、もう少し自分のことを考えればいいのに、と思ったのだ。
「でも勉強は自分でもできると先に言ったのはヨウですよ」
論破されたような感じがした。そうだった。勉強は自分でもできる。学校に行かないからと言ってシノが勉強を止めてしまうはずがなかったのだ。少し安心したのも事実だった。
「……まあ、確かにね。とにかくシノには楽しく生きてほしいなあ」
「ふふっそれは理想ですね。でもヨウにも楽しく生きてほしいと思いますよ、私は」
そうですね、とシノはヨウに視線を合わせる。感情のないまぜになった瞳がヨウを捉えて離さなかった。
「まずは受験がうまく行くことを願っています」
「……ありがとう」
「まあヨウは余裕でしょうけれどね」
「うん、まあね」
もうシノに対して謙遜なんていらなかった。このノリにももう慣れた。それがシノにも伝わったのだろう。二人して同時に笑った。こんなしようもないやり取りが一番楽しかった。
「とにかく頑張ってくださいね。それでは、邪魔をしては悪いので私はこれで……」
今はシノとの時間が惜しかった。もうタイムリミットが迫っているのだ。
「ねえ、もうちょっと話そうよ。どうせ家に帰っても何もしないし。シノに予定がなかったらだけど……」
もう深い藍色に染まった空は星を映し出し始めていた。夜がやってくるのだ。
「ええ、もちろん。ヨウの気のすむまでお付き合いしますよ」
♢
ココア買って公園のベンチに二人並んで話す。人の気配はどこにもなくて、通報されることもなかった。傍から見たら高校生くらいにも見えたのかもしれない。
わざわざ寒空の中で何を話したかというと、本当に他愛もない話だった。今日の夜ご飯が美味しかっただとか、修学旅行だとか遊園地の思い出だとか。
そうだった。シノと過ごしたこの一年はとても楽しかった。多分、人生で一番楽しかった。だからこそ変化が怖かった。シノがいなくなるのが哀しかった。
星が夜の世界に帰っていき、東の空が白んでくるまでヨウたちは話し続けた。この夜が明けなければよいのに、なんてロミオとジュリエットみたいなことを思った。
なんだか受験なんてどうでもよくなった。人生さえもどうでもよくなってきた。
♢
そして半分徹夜で迎えた受験当日。徹夜なんて慣れているから、珈琲を一杯飲んだら睡魔なんてどうでもよくなった。
チャイムの音と共に響く試験監督の声。
「用意初め」
周りの受験生と同じように問題用紙をめくる。ぱらぱらと問題を見るが、全て簡単だった。何なら暗算でも解けるくらい。
ちらりと周囲を伺う。他の受験生は必死に問題にしがみついている。当たり前だろう。人生が変わるかもしれないのだから。
ガリガリとシャーペンの音がうるさい。こんな問題に本気になっちゃって、馬鹿みたい。
彼らは、いつもは「勉強なんて嫌い」とか言っているのに今だけは本気を出すのが不思議だった。
シャープペンシルを手に取る。でも、手が動かなかった。恐怖でとかじゃない。意味を見出せなかったのだ。少ないお金を払ってまでして高校に行って、この先どうしたいんだろうと。
アオもシノもいない世界で長生きしても仕方がないだろうと。
問題をぼーっと眺めながらそんなことを考えた。多分、今考えることではないのだろうけれど、それを止めてくれる人はここにはいなかった。
幸い、時間はたっぷりとあった。誰にも騙されず集中する時間が。
♢
キーンコーンカーンコーン。
「はい、やめ」
生まれて初めて白紙でテストを提出した。
受験会場でたった一人、ただぼんやりと真っ白な解答用紙を眺めている受験生だった。
♢
そうして、勿論受験には落ちた。
担任はいろいろ取り合ってくれようとしたが、ヨウは率直に進学の意志がないと伝えた。就職はどうするんだと訊かれた。就職先はありますと伝えた。母親の仕事の手伝いをするんです、と。
その母親は今どこに、なんて色々訊かれたが、担任の知らないような法律をかざしたり、担任の知らない単語を沢山使って至極真っ当なことを言っているようにきかせると、担任はあっさりと引き下がった。
ヨウが丸め込んだんじゃなくて、最後にヨウが言った言葉に担任はきっと安心したのだ。
「――という理由から、先生が責任を問い詰められることはありません。法律の観点からも、全て母の責任です」
こういうと担任はほっと安堵の笑みを浮かべた。多分この教師が恐れていたのは、自分が責任を咎められること。義務教育であるから生徒の進路を確定させるのは教師の仕事だったのだから。
これはヨウの言葉ではない。担任の言葉だった。
♢
「何故学校に来なければならないのか。それは義務であるから。何故義務か。それはこの社会を維持していくためだ。だから、先生は今ここにいるし、先生は君たちの進路を確定させてやる義務があるんだ」
よく進路の時間に担任はこう言っていた。一回で記憶できるヨウからすると耳にたこができそうだったけれど。担任は、自分に責任がふりかかるのをいつでも一番恐れていた。一年過ごすとそれくらい見抜ける。
だから、先生が責任を被ることはありませんよ、と明確に伝えてやると引き下がってくれるのだ。担任をバカにしているわけではない。ただ事実だった。
♢
そして、平和に卒業式が訪れた。ようやく卒業できる。
でもヨウにとって卒業式とはタイムリミットだった。ヨウがわざと蓋をした記憶がこじ開けられる日が来るのだ。
この一年はいろいろなことがあった。シノのおかげで一番色鮮やかな一年だったと思う。生きているのが楽しいと生まれて初めて思った年でもあった。それが、終わりを告げる。
出会いがあれば別れもある。シノは卒業したら海外に行くと言っていた。遠い、遠い国に。どう頑張っても別れは訪れる。それが早いか遅いかの差だった。
でも、それがヨウは一番哀しかった。
これほどまでに、妹のアオ以外にヨウが肩入れする存在ができるとは思わなかった。嘘でも誇張でもなく、シノと会えなくなるのは酷く淋しい。
今なら、こじ開ける記憶がどんなものでも許容できる気がする。それはシノのおかげだった。シノがいたから人生が楽しかったし、今が楽しかった。過去に囚われなくてもいいんだと教えてくれたのもシノだった。
そんなシノが、ヨウの今からいなくなる。
でも、引き留める術をヨウは持っていなかった。それが一番哀しかった。
終わりを告げる卒業式は、もう明日に迫っていた。
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