第1話 はじまりの海
「……?」
目が覚めた。自分は誰だろう。視界は深い藍色に閉ざされている。ちゃぷちゃぷと水の音がどこからともなく聞こえる。
「お姉ちゃん!」
遠くから呼ばれる。
――ああそうだ、自分の名前は、ヨウ。自分を呼んでいるのは、妹のアオだ。
意識が覚醒する。途端に全ての感覚が返ってきて総毛立った。芯から震える。
「は……?」
胸から下が水に浸かっていた。冷たい。すぐ傍で音を立てているのは絶えず繰り返される波だった。
鼻腔をくすぐる濃密な潮の匂い。水を少し飲んだのかやや塩辛い口の中。深い藍色に閉ざされたと思っていた視界は、ただ藍色の海を映していただけだった。
そう、海に浸かっていた。一人で。
それを自覚した瞬間、途轍もないほどの寒気に襲われる。意識を引きずり込まれそうな感覚にも襲われる。歯を食いしばって耐える。いつからここに浸かっていたのだろう。
自分は何でも記憶できる頭脳を持っていた。一度見たものは必ず忘れない。だからこそ今回の記憶喪失は異常であり、喪失感に襲われるのも無理はなかった。なんて冷静に自己分析してみる。
「お姉ちゃん!」
もう一度呼ばれる。声のした方を見ると、妹が大声を上げながらこちらに近づいてきているのがわかった。もう至近距離まで来ていた。
あっというまにぱしりと手を取られる。
「もう、お姉ちゃん、どこ行ってたの。心配したんだよ」
顔を上げる。そこには慌てたような妹アオの顔。どうしてこうなっているんだっけ。わからない。
手を強く引かれて海岸へ向かう。小さいと思っていた妹も、大きくなったなあと思う。もう少しで身長も抜かされてしまいそうだ。
妹の方が大きくなることが多いと何かで読んだことがある。メカニズムも知りたくなってきた。理由はなんであれ、妹に身長を抜かされそうになっているのだ。時の流れは早いなあ。
こんな年寄りじみた思考をしているけど、まだヨウは中学三年生だ。笑っちゃうよね。
陸に上がる。人間はやっぱり地上で生きる生物なんだなあと痛感した。風が心地よい。
遠くでカモメか何かの鳥が啼いている。
なんだか、平和だった。水平線の向こうに真っ赤な夕陽が半分だけ見えている。じきに隠れて見えなくなるだろう。夜が来るのだ。消える寸前の夕陽は、染み入るように綺麗だった。
「ねえ、どうして海なんて入ってたの、お姉ちゃん」
砂浜に座り込んでアオが訊いてくる。家から持ってきたバスタオルにくるまって二人で座り込んだ。アオが持ってきてくれたらしい。よくできた妹だ。多分、前にもこんなことがあったのだろう。
「うーん、わからない」
「また記憶喪失?」
またってなんだろう。前にも記憶喪失だった時があるのだろうか。解らないというのは恐怖だ。だから適当に返事をして自分も含めて誤魔化す。
「……そうかもー?」
「えっ病院行く?」
「ううん、大丈夫」
お金もないし。病院が記憶を呼び起こしてくれるなら話は別だが、残念ながら今の医療の技術では無理千万な話である。
それに家にはお金がない。少なくとも食費を削るくらいには貧乏だった。だから行く意味なんてないし、そもそも行くことができなかった。
ふとアオを見遣る。心配そうな顔。そうだ、自分は妹にこんな顔をさせてはいけない。
「なーんちゃって、冗談だよ、冗談」
どう? お姉ちゃん、役者の才能ある? なんて茶化していってみる。
「もうお姉ちゃん、からかうのもいい加減にしてよね。心配したんだから」
「ごめんね、今度はもっと面白い嘘をつくねー」
「そうじゃないって!」
もう! と怒りながら、アオは笑った。
そうだ、こどもはそうやって笑っているのがいい。
たったニ歳差の妹でもずっと幼く見えてしまうのは、どうしようもない姉の性ということだろう。
「あはは、わらび餅みたい」
思想に耽った自分に辟易したのだろう、アオは砂浜に打ち上げられているクラゲに砂をまぶして機嫌よく遊び始めた。
そこにいたのはミズクラゲだった。勿論、もう死んでいる。さらさらとした砂浜の砂を被った様は、本当にわらび餅のようにもみえる。
「こんな時期に打ち上げられているなんて、珍しいね。まだ春なのに」
アオはそう言いながら、まだまだ砂をまぶして遊んでいる。
「ほんとだねー」
自分が返事をすると、アオはばっとこちらを見遣る。
「あ、帰ってきた。お姉ちゃん、こういう思索の海に入ったときって帰ってこないときがあるから。あと三時間は待つつもりだったのに」
冗談めかして言っているが、多分これは嫌味。
「えへへ、優しいねー、アオは。じゃあ、三時間くらい考え事しようかなー」
わざとこんなことを言って困らせてみる。アオはこう見えて、世話を焼くのが好きだった。そう、「シスコンが何を言う」なんていわれるかもしれないけれど、この世界で一番優しい妹は誰かの役に立つことが好きだったのだ。
だから、甘えてみせる。ダメダメなお姉ちゃんを演じてみせるのだ。その方が、きっとお互いがラクだ。家くらいバカみたいに振る舞わないと。
「待って、嘘、嘘だから。ほら、家に帰ろう」
そう言って手を差し伸べてくるアオ。優しい妹だ。そっと手をつなぐ。
アオの手についていた砂がじゃりじゃりした。多分これは払っても落ちない。砂浜の砂に少しの水分。手に纏わりつくに決まっている。
でも、それでいいのだ。そうじゃないと手からすり抜けてしまうものがあまりにも多すぎるから。
そうして陽の落ちた薄暮の中、家路についた。影は消え去り、もう伸びなかった。
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