悪魔の手助け

差掛篤

第1話

あせっている男がいた。


男は40歳を数年後に迎える年齢で、独り身であり、定職についていなかった。


男は夢の実現のため、定職や結婚という選択肢をあえて避けてきた。


孤独の中、腹が空けばその日暮らしの労働で何とか糊口を凌いでいた。


男の夢は作家になることだった。


作家となり、著名な文学賞を受賞し、『先生』と呼ばれつつ書斎で執筆をするような…そんな文士になりたいと夢見ていた。


全てを捨て、若さも青春も文学に捧げたつもりだった。


だが、うまく行かなかった。


数少ない彼の作品は世に出ることもなく、ただ同好の士から少ない寸評が寄せられる程度だった。


男が蓄積するのは、社会との断絶距離と、家庭を持ち社会的地位を手にした同年代への焦りの感情…それとボツ原稿と顔の皺だけだった。


男は凄まじい焦燥感から、創作の手が止まっていた。


何も頭に浮かばず、日々、怠惰に過ごすばかり。

やるべきことは分かっている。

だが、無から有を生み出すのはそう簡単な事ではない。…と男は決め込んでいた。


男は何も書かない日々が増えた。

世に出た作家を妬み、同好の士を見下し、自作は書かないが辛辣な他者批評だけはSNSで展開するという困った活動に勤しむようになった。


当然、男からは同好の士も離れていく。


男はボロアパートの自室で悲観と妬みにくれる。


「俺はもう何者にもなれない、何も持たざる者になるのでは…世間のやつはオレを分かってない。無能な馬鹿野郎だらけだ」


そんな時だった。

彼の前に何者かが現れた。


それは人の形をしているようで、どこか歪で不気味な実体だった。


「化け物!」男は恐怖に叫び声を上げる。


「まあ、そうです」その実体は人語を話した。「化け物…というか、まあ…妖怪といいますか…魔物ですかな」


妙な実体は魔物だと自称した。


「何しに来たんだ!俺を食うのか!?」男は叫ぶ。


「冗談じゃない!そんなことしませんよ」魔物は言った。「困ってるとお見受けしましてね。あなた、人生迷ってるんじゃないですかな?」


男はギクリとした。


「確かに…人生に悲観してたが」そして頭を振る「…悪魔が助けに来るなんて、魂を買おうとしてるんだな。悪魔ならもう少し妖艶な女悪魔が良かったが」


「夢魔のことですか?何と短絡的な。貴方のような男は皆そう言いますがね。彼女らは必ず死をもたらしますよ。あなた死にたいのですか?」


「いや…それは嫌だ。まだやることがある」


「でしょう?図々しさが言動に現れています。見たところ、あなた作家になりたいようですね」魔物は、黒々として光る眼を向けてきた。「その割には、手を動かさず、口先ばかり達者で、迷惑な批評家になって…ただ自意識を肥大化させ、社会性を欠落させていってる…ボロボロと…まるで崩れゆく石灰のように」


「なんだと!」男は怯えから一転して怒った。「勝手に入ってきて何だ貴様」


魔物は笑った。

「こりゃ失礼。図星でしたかな。だが、あなた自身うだつの上がらない原因は分かっているでしょう」


「簡単に言うな。時期や、気分、創作意欲というのもあるのだ」


「しかし、分かっているでしょうが…残された時間は多くないですよ。このまま、怠惰に身を任せて、真綿で首を絞めるような生活を続けてご覧なさい。あっという間に、何も持たざる年寄りになりますよ」


「ふざけるな!お前になにが分かる!」男は怒りで立ち上がった。

怠惰な生活で育てられた太鼓腹がゆさゆさと揺れる。


「ご覧なさい、腹の揺れを。それは死と絶望へのさざめきですよ。そのお腹では、夢魔すらあなたを避けるでしょう。ここ数年、健康診断受けてないでしょう?あなた、身体にも半分ガタが来てますぞ」

魔物は、男の腹を指さした。細長く歪な指だった。


男の顔は青ざめた。

そして、ボソボソと弁解し始めた。

「オレには何もなかったんだ。才能も、恋い焦がれるような女も、恵まれた体格や容姿も、尊敬できる恩師も…世に出てる奴は何かしら恵まれてる。オレには何もない、時間しかない。神はオレを見捨ててるんだ」


「あのね。そう言って永遠に人のせいにしては大成しませんよ」魔物はため息をついて言った。「まあ、これも何かの縁です。助けてあげますよ」


「えっ?」男はキョトンとした。



「珍しいでしょう?魔物が助けに来るなんて」魔物はひひひと笑う。「安心していいですよ」


「悪魔のくせに手助けしてくれるなんて、信じられない」


「まあ、信用できないの分かります。日ごろの我々の行いからすれば。でも誓いますよ。命を奪ったり、廃人にしたり、親族を殺したり…そういうのはしませんから。」


男はうーんと呻って答えた。

「まあいい。やってくれ。俺には失うモノなんてない」


魔物はにやりと笑った。

「ありがとうございます。一応、契約ですからね」


それを聞いて男はゾッとした。たが、期待もした。

「これで俺は売れるのか?」


魔物は鼻で笑った。

「あなたが魂を売ってくれるなら、いいですよ。すぐに億万長者にしましょう。でもその代わり、すぐに悲惨な死を遂げ、地獄行きですがいいですか?」


「それは嫌だ!」


「では、小口契約しかできませんよ…。図々しいですな、即バズなんてそんな簡単なもんじゃない。才能あふれる作家や、編集チームが作り出すものです。あなた如きの売れない作家なら、魂だって万バズと同価値はないかも知れない」


「お前も失敬な悪魔だな!」


「すみません。口が過ぎるのです私。ところで、あなたは自分に何が必要だと思いますか?」



「えーと…とにかく執筆すること、本を読むこと、運動すること…かな」

男は答えた。


魔物は妙な呪文を唱えた。

一見して何も起こらない。


「はい。これでOKです。有効な呪いを掛けました」


「呪いだと!?」


「今日から、最低でも1時間は必ず執筆、運動、読書をしないと即死します。」


「なんだと!」男は絶望の表情を浮かべる。


「落ち着きなさい。たかだか1時間ですよ。執筆や読書にはもっと時間をかけるべきです。また、運動はきつすぎないモノを続ければいい。きちんとこなせればあなたは死なないのだから」


「ふざけるな!やはりお前は悪魔だ」


「まあまあ、いずれ私に感謝することになりますよ」


魔物はそれだけ言うと消え去った。


緊張の日々が始まった。


男が目覚めたら、漆黒の死神が常に横に控えているのだ。

男がよたよたとランニングに出かけ、無理にでも机に向かいお粗末なネタをひり出すと死神はため息混じりに消えた。


男は死にたくない一心でひたすら、毎日のランニングや執筆、読書に励んだ。


すると、どうだろう。

以前は全く書く気も起きず、一文字も書けなかった執筆が安定して書けるようになった。


読書でネタを貯め、ランニングで体の調子を良くするとともに、リフレッシュした脳が気の利いたネタを作り出した。


男は悪魔に感謝した。


横にいる死神は鬱陶しいが、この分なら将来につながる実力がつきそうだ。



2週間が過ぎた。


例の悪魔がやってきた。


悪魔は言った。


「素晴らしい!習慣になりましたね!もう後は私のサポートもいらないでしょう。売れるまでそれを続ければ良いのです。呪いを解いて差し上げますよ」


「わあ!解放された!」男は喜んだ、たが、すぐに表情を引き締めた。

「しかし、あなたが作ってくれた習慣は続けるよ。この習慣のお陰で、なんとか成功できる気がする!アイデアもどんどん沸くんだ」


「そうでしょう、栄光はすでに目の前です」魔物は笑顔で応えた。


男は喜び勇んでかけていった。



男の背中を眺め、魔物は左手に大きなエネルギーの塊を手にしていた。

それは、魔族にとって魂に等しい黄金の価値があるものだ。


「わあ!すてき!それどうやって手に入れたの!?」一匹の夢魔が魔物の横に降り立った。

「あんなブ男から?そんなにも価値があるの?あいつに」


「あるさ」魔物は答えた「人間はね、ある努力を習慣化するのに3週間は必要だと研究結果が出ている。」


夢魔は首を傾げる。

「どういうこと?」


「彼はもう一週間続けていたら、この習慣を固定化して、作家として大成功を収めていた。文学賞も、溢れる富もね…。だが、私の呪いがないとあの男はすぐに軟弱な怠け者に戻るだろう」


「分かんないでしょ、そんなこと」


「このエネルギーがその答えさ。僕は奴に大成功する可能性を授け、育て、その未来を刈り取ったのさ。」


そう。

魔物は敢えて無能な男にチャンスを与え、有望な未来を作り出し、それを無情にも刈り取ったのだった…。


「じゃあ、あの人どうなるの?」


「このまま、何もないまま…いつか野垂れ死ぬさ。可能性はすべて摘んだ」魔物はニタニタと笑った。


「まあ…残酷ね…」夢魔はうっとりとして魔物を見る。「いい夢を見させて、殺す私達の方がよっぽど優しいわ」


「どうだい?あの男は。つまみ代わりにでも」


「遠慮するわ」夢魔はツンとそっぽを向く「私だって好みはあるもの」


「ははは…夢魔すら食わないか…」魔物は笑って魔界への扉を開く。

恩恵に預かりたい夢魔は猫なで声でついて来る。


果ては大文学者となる男の未来を刈り取ったのだ。

しばらくは遊んで暮らせるだろう。


魔物は自分の輝かしい未来にほくそ笑んだ。

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