【16】一人目の死者
その日、我々は夕暮れまで出来る限りの歩みを進めると、大きな水溜まりの畔に辿り着いた。貴族の館が収まりそうなくらい広い水溜まりだった。
その水溜まりに近づくと、まずはスレイルが指先で水をすくい鼻先に近づけて水質を見極める。
特に変な臭いはしなかったそうだが、指先がほんの少しだけピリピリと痺れたらしい。
水溜まりの底が見えるくらい綺麗だったが、飲み水の蓄えはあったので、念のために口にするのはやめておこうという事になった。
その水溜まりはすり鉢状の窪地の底にあり、風を避ける事ができそうだったので、その日はこの畔で朝を迎える事にした。
これは毎度の事であったが、夜を越すのは簡単な事ではなかった。
雨季が終わったあとの荒野は蒸し暑かったが、夜は良く冷えたからだ。特に風が吹くと最悪で、極寒の雪原にでもいるような心持ちになった。
火も起こせなかった。
なぜなら、その周辺に生えた木や草は、燃やすと毒の煙が上がるものばかりだったからだ。森を出たばかりの頃は、まだまともな木々が少ないながらも見られたが、荒野を進めば進むほど数を減らし、もう一つも見当たらなくなっていた。固形燃料もあったが、暖を取れるほどではない。
毎夜毎夜、革のマントにくるまって、体温を失わないように、なるべく地面と接しないような体勢で
そうして、いよいよ日が完全に落ちて、我々は固形燃料と小さな鍋で水を温め、それを
固形燃料で起こした火の周りで、五人で輪になって座り、ぬるま湯を啜りながら干し肉を齧る。
この時間が一日の中で唯一心の落ち着く瞬間だった。だから、みんな完全に油断していたのだろう。
兎も角、このとき、お喋りなゾイルが、いつもの話をし始めた。他のメンツは、黙ってそれを耳を傾けながら、適当な相づちを打っていたところだった。
ああ……いつもの話?
話の本筋とは関係ないが、一応話しておくか。
それは、ゾイルとスレイルが冒険者だった頃の話さ。
彼らは数人の仲間と一緒に、悪名高い『死の迷宮』に挑んだ事があったらしい。
そこの帰り道の途中に天井が崩落して、迷宮の中を何日も彷徨った事があったんだとか。
ゾイルは、そのときよりも今の方がマシだといつも
その話を彼は荒野を彷徨うようになって十回目以上はしていた。この事から陽気な彼ですら、相当精神にキている事は誰の目から見ても明らかだった。
だから、このときもリーダーのザックが、そろそろ見張りの順番を決めて休もうと提案し、彼の話を無理やり終わらせた。
その直後だった。
大きな水溜まりの湖面が盛り上がり、
水溜まりに一番近い位置にいたユージンが、驚いた顔で地に腰をおろしたまま振り返った。私を含めた三人はすぐに立ち上がって動ける体勢になり、各々の武器を手に取った。
水溜まりの方を見ると湖面の中央から、
兎も角、その透き通った瘤がにょろりと蛇のように伸びてきて、ユージンを頭の上からすっぽりと飲み込んだ。
その瞬間、鼻を突くような酸っぱい激臭がして、透明な何かに包まれたユージンの身体が身に付けているものごと、ボロボロと血を滲ませながら溶け始めた。
酸性のスライムだよ。
たぶん雨季が来るまで地中で休眠し、水溜まりの底に潜んでいたのだろうな。そのスライムの狩り場で、我々は野営をしていたらしい。
もちろん、スライムなど、ティナのような火の魔法を使える術師がいれば恐れる事もない。小さなものなら乾いた砂の上で踏み潰してやればいい。
しかし、このとき我々の仲間には炎の術を使える者は誰もいなかったし、このスライムは信じられないくらい大きかった。撤退以外の選択肢はない。
このとき、私は背負い袋を地面に下ろしていた。右手は剣を掴んでいたので、背負い袋へと左手を伸ばした。しかし、指先が届く寸前で枝分かれしたスライムが、背負い袋を包み込む。
私は思わず歯噛みした。
背負い袋の中には、食料や水筒が入っている。
今、スライムの中に手を突っ込めば、間に合うかもしれない。しかし、ユージンの方を見ると、もう彼の身体のいたる所から骨がむき出しており、ぐったりとしていた。背負い袋を取ろうとすれば、確実に腕が一本駄目になる。
私は
そんな私を救ってくれたのはザックだった。
彼が私の右腕を掴んで強引に抱き寄せると、更に私を突き飛ばしてくれた。
急いで立ち上がり、私はザックの方を向いた。すると、ちょうど彼の背中にスライムが覆い被さるところだった。
彼は苦痛に満ちた顔で悲鳴をあげた。再び激臭が
「ザック!」
と、私は彼の名前を叫んだ。すると、彼はどうにか革のマントと背負い袋を脱ぎ捨てて、恐ろしいスライムの魔の手から逃れた。
そのとき「早くしろ!」という声が鳴り響いた。
スレイルだった。
彼が窪地の斜面の縁で逃げ遅れていた私とザックを見下ろしていた。隣にはランタンを手にしたゾイルもいた。
私はザックと共に斜面を登り、どうにか彼らに追い付いた。
そのまま、私たちは脇目も振らずに逃げ続けた。
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