21 サプライズ
「でもさ、ラスト近くの直接会話しているようなカット割りはないんじゃない?」
結局、それ一本でキネマ館を後にして、三軒茶屋のニンジン色のランドマーク=キャロットタワー最上階展望ホールで紙コップ入りのコーヒーを飲み交わしながら、ディーが指摘。
「あ、ぼくもそう思った。あれだとカメラに向かって演技している感じが浮き彫りになっちゃって逆効果だよね。まぁ、途中の数カットはあれでも良かったけど」
「ちょっと醒めたわぁ……。まぁ、全体としてはすっごく良かったけどね」
「キミも本好きみたいだしね」
「さぁ、どうだか? ……でも、ナントカ語」
「ウズベク語!」
「そう、その言語で書かれた聖書をわざわざ註文してまで読みたいとは思わないよ」
「それはそうだけど、でも、どうしてもあれが読みたい、今読みたい、っていう切羽詰った気持ちってあるじゃない」
「うん」
「それでも本好きとはいえない?」
「だって片っ端からってことはないしね」
「そうなの?」
「出遭うんだよね」
「あ、それはある!」
「映画でもそうなんだけど、何かのきっかけから、緩かったり、きつかったりしながら、連綿と連なっていってさ」
「キミはそんな感じがするよ。作者で本を読むタイプでしょ?」
「わかる?」
「わからいでか!」
「だから掌編だったらやったことあるけど、訳がない場合は本当に困るよ。途方に暮れる。それで、英語以外は諦めた」
「英語だったら読むんだ!」
「二話だけで降参したよ。意味が十分の一も取れなかったし……」
「熱が引かないとイライラしない? 音楽でもあるよね」
「そりゃあ、するけど、そのうち忘れる」
「でもって、そのうちまた急にぶり返してきてさ」
二人して笑う。
「何か予定、ある?」
「ないけど、キミの方は?」
「キーボードがないから、ない!」
「キミが休みにすることは、それしかないわけ?」
「そんなことはないけど……。今日は普通のデートでいいよ」
少しだけ期待した眼差しでこちらを見、
「で、どこか知らない? 前みたいなところ」
「うーん、今日はデートなんだね。普通の?」
「だとしたら?」
「考えがあるよ。前に自転車で彷徨っていて偶然発見したとき、絶対一緒に行こうと思った場所があるんだ。気に入った人と……」
「キミが連れて行きたいんだから、洒落た喫茶店だとか、ショッピング街とかじゃ、絶対にないよね。景色?」
「うん。だいたいそんなところ。……で、どうされますか? ディーお嬢様」
「では、エフ。案内して頂戴」
「Yes, milady(はい、お嬢様)」
「訛ってない?」
「上手く真似できないや。Yes, be delighted to (はい、喜んで承ります)、の方が良かったかな?」
「原点は?」
「結局また父さんに行き着くんだけど、今回は秘密」
「え、何で?」
「付き合う相手には謎があった方がミステリアスじゃないかと思ってさ」
「でも、いまみたいなのはミステリアスとはいわないと思う」
「その次がMysterons(ミステロン)だしね!」
「(゚Д゚)ハァ?」
「ジェンダー論はともかく、男の子と女の子の興味の対象は違うってことさ」
それから、その場でサンドウィッチを食べて空腹を満たすとキャロットタワー地下の東急田園都市線に乗り、武蔵溝ノ口駅まで電車に揺られる。そこでJR南武線に乗り換えて宿河原駅まで再度揺られる。田園都市線は平日ならば混まない逆方向だが、休日なので――時間帯もあり――思ったよりも混んでいる。
その途中――
「ね、あれ見て?」
ディーが小声で囁き、乗降口近くの座席を指し示す。
「あ、ふうん!」
そこには、掃き溜めに鶴――といってはまわりの乗客たちに申しわけないが――モデルのように綺麗な若い女性が腰掛けている。十代ではなく、二十代前半のようだ。近傍の乗客の何人かは気づいたらしいが、雰囲気が一般人と異なると簡単にはジロジロと見つめられないらしい。
すると――
「貫禄っていうのか、風格っていうのか、雰囲気あるわよねぇ……」
ディーが耳許で囁く。
「たしかに……。でも、そういう意味なら、キミだってオーラ出てるよ」
「そうなの?」
「うん」
「どんな?」
「あの綺麗な人のとは違う」
「まあ、そうでしょうねぇ」
ディーの口調に、むくれた調子はない。ディーが言う。
「そういえば仏像の背後か、頭の後ろにある円とか炎を象ったあれ、オーラらしいね」
「ああ、光背(こうはい)ね。……っていうか、普通に後光じゃいけないの? オーラっていうと意味がずれちゃう気がするけど」
「違うの?」
「うーん、そう見做す解釈は間違ってないんだけれど、今の日本語だと、毒気に当てられる……じゃ違うか、その人が発した邪悪な電波に狂わせられる、っていうような意味も持つじゃない、オーラって……。丈光相(じょうこうそう)だけじゃないんだよね。如来や菩薩が放つのは偉大な智慧、悟りの世界に至らしめるような智慧(→般若波羅蜜多)の光だからね」
「ふうん」
そうこうするうち宿河原駅に到着する。下りホームに直接繋がった改札を抜ける。
「どっち?」
「あっち!」
改札口向かいのコンビニエンスストア右の道を南下する。ほどなく二ヶ領(にかりょう)用水に抜ける。その側道をほぼ北西に進む。
「四月には桜の名所らしいよ」
「また桜? キミは桜好きには見えないけど……」
「そうなの?」
「暑いわね」
「そだね」
十月も半ばだったが、暑さはまだ退いていない。
けれども――
「あっ、いい風!」
そのとき涼風が頬に当たって熱を冷ます。
「ここの桜は一九五八年に地元の有志が植えたものらしいよ。用水沿いに約四百本も……」
「へぇ? ……でも、その季節外れの桜じゃないわよね? 目的地は?」
車道を渡り、しばらくして側道が北向きに曲がり、
「あらぁ、なんとなく見えてきたわ」
用水が側道とともに南武線の線路の下に潜(もぐ)っている。
その高さは人ひとり分ない。
「ふえーっ」
「どう、気に入った?」
「怖くない?」
「少しはスリルがあるけどね」
そして線路の下に二人して蹲り、四角く切り取られ、網の張られた線路の隙間から空を見上げる。息を潜めて電車を待つ。幸い、ちょうどその時間帯に側道を通り過ぎる人たちはいない。道幅に余裕がないので、その場合は一旦線路の向こう側まで抜けて道を譲る必要があったからだ。
「ゴミとか落ちてきたら、やだな」
「大丈夫だよ。そのために網が張られているんだし……。あ、聞こえる!」
電車の振動音が聞こえてくる。下り線だ。その直後、凄まじい轟音を発し、ディーとぼくが二人して見上げる頭上を南部線が通過していく。電車が離れる音がドップラー効果して遠ざかる。通り過ぎる瞬間は、ちょっとしたイベント並みの迫力だ。
「ふう。……でも、面白―い!」
すると――
「あれ、もう一両来るみたい!」
電車の音が聞こえてくる。さっきとは反対の方向からだ。ついで轟音とともに上り電車が頭の上を通過する。でもその直前に上り線路の真下までわずかに移動し、二人で待ち構える。
「どう?」
「すごっくサプライズなプレゼントだったと思います! ありがとう」
「良かった、そこにいるのがキミで……」
それからディーの手を引いて線路下を出、服や髪に付いた白い埃をパンパンと払う。
前方と後方から人が近づいて来る。一組は高校生くらいのカップルで、もう一組は醸し出す雰囲気がいかにも不倫といった中年同士だ。和やかに会話を楽しんでいるようにも見えるが、二人の表情が暗く沈んでいる。
「他にもいるのかなぁ? さっきので遊ぶ人たち」
「ちっちゃい子たちだったら、良くやってるんじゃないかな」
口にすると、その光景が目の裡に浮かぶ。そこには小学校入学前のぼくたちがいて、きゃらきゃら騒ぎながら、何度も何度も電車の通過を楽しんでいる。
「何、考えてんの? 口許が笑ってるよ」
「あそこがあんな構造に組み上がってから、いったい何人の人たちがワクワク・ドキドキしたかと思うとね……」
「そだね!」
けれども、それからディーはこう続ける。
「でも心に余裕がないと難しいかもね」
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