8 駒沢公園
ウィークデイには偶然は起こらないだろうと思い、次の休日のために作戦を練ろうとしたのだけれど、『パタンの一致』だけでは、どうにも打つ手がない。
ただし『乙卯』の読みかただけは――二つの可能性に分かれたとはいえ――調べてわかる。
『乙卯』は干支のひとつで、『きのとう』または『いつぼう』と読むらしい。『干支の組み合わせの五十二番目で、前は甲寅、次は丙辰』というのは、ウィキペディアからの引用だ。『陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の卯は陰の木で、比和』であるそうだが、何のことだか意味不明。世の中にはわからないことがいくらでもある。『西暦年を六十で割って五十五が余る年が乙卯の年』のようだが、現在に近い乙卯の年は、二千年紀では一九七五年、三千年紀では二〇三五年。一九七五年には生まれていないし……っていうか、影も形もないし、二〇三五年に生きているとすれば立派な中年になっているはずなので、双方とも感覚的にピンと来ない。どちらの読みか、またはまったく別の読み方があるのか、ディーの母親に尋ねに行くのは反則なのかどうか悩んでいるうちに、週末が来てしまう。
ただそれで、ちょっと面白いと思ったのは、ウィークデイの間、ディーに逢えなくても、あんまり淋しく感じなかったことだ。もちろん、それは逢えて顔が見られるのならば、それに越したことはないのだけど、不思議と心が通じ合っているような気がして安心できる。上手く表現できないけれど、そんな感じの心理状態。
そして土曜日……。
天気は秋晴れ。抜けるような晴天。
くどくど考えていても仕方がないので走ることに決める。陸上部は事実上退部状態だけれども、走ること自体が嫌いなわけではない。今思えば、何かを目的にして走るのが厭だというか、苦手だったのだろう。そんな気がする。もっとも、単にプレッシャーに弱かっただけかもしれないが……。仮にぼくが将来性のあるスプリンターの卵だったとしたら、まず先輩や教師が放っておかないだろう。それに何より、自分で可能性を感じたはずだ。が、残念なことに、ぼく自身がそれを感じることはなかったし、おそらく他の誰もそんな期待は抱いていないようだ。
出かける前にウェアをそれなりのものに変える。吸湿性の良いTシャツに膝上の短パン。底のシッカリしたランニング・シューズ。それにウエストバックと少し大きめのタオル。タオルは腰にぎゅっと巻いて止める。
普通に歩けば約一時間かかる駒沢オリンピック公園総合運動場――俗にいう駒沢公園――までの道のりを軽いジョギングを折り混ぜながら約半分の時間で歩&走破する。今は東京郊外の南大沢に移転してしまい、名前まで首都大学東京に統合改名させられた元東京都立大学が――でも英字表記はどちらもTokyo Metropolitan University――、その昔には隣接していたらしい。駒沢公園側から見える工学部の建物が、青とガラスの意匠で当事のモダンを伝えていたようだ。
充分にストレッチを繰り返してから、それぞれのスピードと型で走る人々の群れに合流し、最初はゆっくりと風を感じながらランニング。吹き出る汗が気持ち良い。もっとも風がなければ、暑くてけっこう地獄だったかもしれないが……。
通常の周回コースを二週したところで、自転車を押しているディーの姿を発見。最初にそれらしき姿を見かけたときは、
「え、いくらなんでもウソだろ?」
と自分の目を疑ったけれども、幸いなことに嘘ではない。
「見―つけた!」
と、ぼくが声をかけると、
「見つかっちゃった!」
と、その声に気づいたディーが、走って自分の方に向かって来るぼくの姿を確認して答える。
「チェッ、今度はこっちから見つけようと思ってたのに……。いったい、どんなトリックを使ってるわけ? こんな偶然なんて、ありえないよ」
「信じなさい。救われるから……」
「GPSでも、仕掛けられてんのかな?」
服をパタパタとする。
「感じるのよ、キミを……。エフの波動。あっ、ちょっとその言葉、格好いいかも」
「感じるにしたって、ねぇ……」
「前に『足だけは速いって』話してたわ。そしてこの前、荻窪駅近傍を禁じている。最初に出遭ったのが桜新町……っていうか、用賀の東だったから、その近くにある大きな公園といえば『駒沢公園』。小さな公園はいろいろあるけどね。……そして、今日の抜けるような青空。走るのが好きだったら、身体がウズウズするんじゃないかと思ってね」
首を傾げる。ついで、
「推理小説だったら、まあ、アリでしょうけど。……でも本当にいるとは思わなかったわよ!」
「そだね!」
二人で一緒に日陰に入る。
「自転車、乗るんだ?」
「もう、体力ないから、人ごみなんか必死だったわよ! それにここ、思ってたより遠いし……」
「あと一まわり走ってこようかな?」
「どうぞ。……わたしは見てるわ。キミの走る形はきれいだし……」
場所を若干移動し、直線コースの前まで歩く。それから、その直線コースを高速ダッシュで走り抜け、あとは適当に流しながら――息切れもしてきたし――呼吸を整えつつ、リラックスしてコース一周を走り終え、ディーの許に戻る。
「お帰りなさい」
「ただいま!」
大きく深呼吸を数回。
「で、これから?」
「ちょっと水を浴びる」
上半身裸になって、水飲み用の水道が上部についているコンクリート製給水設備の、ちょうど腰の高さくらいに生えている壁面水道の蛇口を上に向け、両手でぴちゃぴちゃと身体に水をかける。余った水が排水溝とぐるりのタイルに撥ね返る。ディーの視線を感じる。加えて世間の別の人たちの視線も……。
Tシャツをザーッと絞ってから、腰に巻いていたタオルで濡れた部分を拭き、ディーに言う。
「『駒沢』繋がりで『駒沢線』を追っかけてみない?」
「駒沢線?」
「送電鉄塔・駒沢線?」
するとディーは駒沢公園内の一番近くに見えた送電鉄塔を指差し、
「あれのこと?」
と尋ね、ぼくが首を振る。
「この公園内に立っている四本の……っていうか、四塔の、もしくは四基の鉄塔は『都南線』といって、片側の終着点が公園近くの病院の裏にある駒沢変電所で、もう片側の端が多摩川を渡って川崎市高津区 千年(ちとせ)の南部変電所まで延びてる」
「やっぱ、マニアだ! ……っていうか、オタク? でもって、それもお父さまの?」
「ううん、前に自転車に乗ってて発見したのが最初……だったんだけど、それについて話すと長くなるし、サゲもバレちゃうから……」
「わかったわ。じゃ、行きましょう!」
わずかに歩いた後で、
「あっ、そうそう、この先、終点予定地までトイレがないから、必要ならば寄った方がいいよ! では失礼して、ぼくはイイトコロに……」
それで最寄のトイレで用を足してから、ぼくの先導で駒沢公園敷地内を抜け、駒沢通りを東に向かう。
駒沢陸橋に出会うわずか手前で南東に曲がり、駒沢線・第三十一番鉄塔に至る(この先に出会う鉄塔番号については簡単に確認できるものはプレートか鉄塔の脚部に貼ってある照合札で、すでに確認してある)。ついでほぼ南下して、民家や建材店の敷地内に立つ鉄塔を辿り、手書きの画が楽しい小さな鉄塔公園――向かいに第二十五番――を過ぎて目黒通りを渡り、東急東横線の都立大学がない都立大学駅の高架線路をくぐり、いわゆるマンションと呼ばれる建造物群をいくつか抜けると、あとは呑川緑道をやや東にずれてほぼ南下。それから一キロ弱の道のりをそのまま道なりに進むと、向かって左手側に緑の柵に囲まれた野球場があり、それに隣接する東京工業大学(大岡山側)の敷地内に第十七番が屹立している。そのまま道なりに進んでトンネル……っていうか、私鉄の緩い地下通路を抜けると、東急大井町線の緑ヶ丘駅があり、その大井町線が目黒線と交差する中間地点に第十四番が、川沿いの東京工業大学敷地内に第十三番が立っている。そこから連続して第九番までが大岡山キャンパス内にあり、それまでほぼ南下していた方角が変わって東に曲がり、第八番が、場所的には隣接しているけれども名前の違う石川台実験棟内に、そこから道なりにまた南下して、中原街道手前の切り通しの高い階段の上の小学校敷地内に第六番、街道を渡り、やはり高台の会社の敷地内に第五ノ一番、そしてその先の第五番で駒沢線が終わっている。
そこから東急池上線の門型鉄塔に電線を繋げているのだ。
その接続の様子をしげしげと眺めながら、
「鉄塔の終わりだぁ!」
と、ディーが叫ぶ。
「ね、面白いでしょ?」
と、ぼく。
「変電所でも、発電所でもないんだ!」
「まぁ、種明かしはあるけどね。……最初にこれを見つけたとき、ちょっとびっくりしたのを思い出したんで、キミを連れて来たのさ」
「なるほど!」
「で、さぁ、線路の上の門型鉄塔のプレートを見てごらん」
「『千鳥線三七』って書いてあるよ」
「次のも確認してみて……」
それから線路沿いの道を北東に、千鳥線の番号を確認しながら洗足池駅の方角に歩く。
駅手前の線路の南側に洗足変電所があり――道が複雑なので回り込むのがちょっと大変――千鳥線は番号を増やし、駒沢線の第一番に相当する鉄塔で変電所に連結されている。
「そういうことか?」
「そういうことです」
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