『遷和』

 店員の女性が戻ってくるまで、呼弥は生理現象や室内の環境のこと以外について何も考えていなかった。戻って来たのは三十分ほど後で、お茶入れるね、と素っ気なく言って準備を始める。気の利いた言葉は何一つ浮かばなかったために、呼弥は礼を言うに留めた。手早く茶を用意した彼女は湯呑みを机の上に置くと、ファイルの端を掴みもういいかと尋ねた。頷くのをみとめて閉じる。


「一人で帰ったって嘘言ってあったのよ。戻ってくるからって奴ら外探しに行っててさ。カウンターに人がいないと怪しまれるからお客さん放置してたけど。誰か迎えに来んの?」

「あっ……はい、あの、四時間ほどここに居ても構いませんか?」

「いいよ。彼氏?」

「いいえ、」

「じゃ、おとーさん」


 再び言葉が出て来なかったので首を振る動作で対応し、彼に当て嵌まる関係性をざっと考えてから、友人です、と答えておいた。彼女はそのときだけ非常に柔らかく笑んで、いいね、と言う。「あたしこういうときお父さん以外助けてくれないのね」

 クールで自立した女性に見えたので、自分の父親のことを「お父さん」と呼ぶのが少し意外だった。笑みを消して目を伏せた彼女は、面倒ごとに付き合ってくれる気概のある男が自分の周りには集まらないのだと静かに言った。


「あたしがオトコマエ過ぎてね。一応女なんだけど。いい友達じゃん。大事にしなよ」


 頷くが、彼女はまた速やかにカウンターへ出て行く。所作がすばやいから仕事をきちんとこなす人だろうなとふと考えて、普段自分がどのように初対面の人を見ているのかそのとき初めて知った。

 室内の壁掛け時計を見ると一時を過ぎていた。メールが来たのが十二時半だから、榊が到着するのは四時半くらいになるだろう。簡易的な計算をしてから、自分を迎えに来ようとしている“榊”という人物を不思議に思い、緩やかに脳が彼の姿を捉え直し始める。さかき由鶴ゆづるはたしか、中高と呼弥を蔑み貶めてきた人物のはずだった。ただ一人呼弥の本性を突いてきた彼は——嫌っていたのではなかっただろうか。人に媚びをうるような、さもしい笑みを浮かべる女子のことを。最後に見せたあの表情はなんなのか。あれは高一の球技大会の夜にみせたものと同じに思えたし、今考えてもそうだ。

 嫌な予感が徐々に胸に広がってゆく。あの彼が、本当に、呼弥を助けになど来るというのか。

 現実的なことは頭から抜け落ちていた。榊は首都圏の大学へ進学したはずで、地元との行き来もそうそう手軽に行うものではない。友人達も都内のイベント事には行くか行くまいか考えあぐね、通帳と睨めっこして、結論は二分する距離である。交通費のことを考えても、呼弥のためにそこまでするだろうか。例えば中学高校のときのように呼弥を賎しめる目的があったとしても、こんな深夜に呼び出しに応じるとは思えない。それならむしろ、助けのこない状態を嘲笑うような手段に出るのではないだろうか。



 随分、彼の本意について考えた。与えられた時間はあまりに長く、疑いを確実な形に彫り出すのには充分だった。時計は三時を回っており、少なくともあと一時間半はこの状態が続くのだと思うと気が気でない。

 あの後店員は一度だけ入ってきた。店長が来たから少しの間交代なのだと言って、夜は普段個室で歌ってるから従業員達はカウンターから離れられないといった愚痴を軽く零してから、顔色悪いね、少し寝たら?と毛布を引っ張り出してきて渡してくれた。その言葉に甘えて少し眠ってみたのだけれど、十分もせずに起きてしまったので諦めて毛布を被ったまま考え事をしている。

 本人にメールや電話で確認する勇気はなかった。今の状態で彼の言葉を聞いたら、死んでしまうような気がしていた。けれど四時半にはおそらくそんな連絡が来るだろうから、一人で帰宅する手順も考える。店員曰くあの二人は帰ったらしいので、道で会いさえしなければそんなに難しいことではないのだと、今では考えることが出来ていた。タクシーを呼ぶか、朝までここにいさせて貰って、電車で帰ろう。よくよく考えてみればこんな深夜に動いてる交通機関など殆どない。電車や新幹線が動かないのにあんな場所から来るわけがなかったのだ。路線情報を調べていた携帯を閉じ、前屈みになって手のひらで顔を覆い息を吐く。

 間もなく、スタッフルームの扉が開いた。咄嗟に顔を上げると、店員が「来たよ」と言いながら先に入って戸を押さえ、後ろの人物を誘導した。

 榊は手を差し延べて、行きましょうか、とだけ言った。


 店の前に停まっていたタクシーに乗り込みながら、追って隣に座った人物の存在に混乱している。本当に来た。どうして。相手は運転手に簡単に目的地を告げ、車が発進してすぐに、「なんともありませんか」と呼弥の身を案ずる言葉を掛けてきた。冷静にはなれなかったのでカラオケの店員にしてきたような応答をする。

 しばらく考え込み、二、三問い掛けてみようかとも思ったが体力的にも気力的にも限界が来ていて吐き気や寒気がしていた。榊はそれに気付いたようで、寝てていいですよ、と静かに言って、この時期にしては少し厚めの丈の長い上着を鞄から取り出して貸してくれる。運転手がシートベルトを外してもいいと言ってくれたので、外して、身体を縮めて横たわった。

 揺り起こされるまで呼弥は眠っていて、気がつくと何処か建物の前に車は停まっていた。車内を温めてくれていたようで、起きぬけの肌寒さはそんなになかった。既に支払いを済ませたらしい榊は先に降り、呼弥は借りたままの上着を腕にかけ、バッグを掴んで、運転手に礼を言って後に続く。

 人通りのあまりなさそうな道だった。建物は薄い暖色の壁をしたごく普通のビジネスホテルで、エントランスの白熱灯の明かりになんとなく温かみを感じる一方で戸惑う。景色がなんとなく、先程のカラオケと大差ない気がした。気遣うように視線を寄越しつつも何も言わずに榊はエントランスに向かい、それに大人しくついて行く。チェックインを済ませる間、周囲を見渡す。受付の端にある花瓶、質素なカーペット、壁に掛けられた絵画。描かれている水の都のちいさな船乗りの色合いを眺めているうちに受付が終わり、相変わらず無言で彼の後を追う。

 借りたらしい二人部屋に入ると榊は手前のベッドに自分の荷物を置きながら、シャワー先に浴びますか、と問うてきた。呼弥は入口に立ったまま彼の様子を眺め、今更現状を把握しはじめる。まだ、混乱していた。何故彼はここまで来たのか。何故自分はホテルにいるのか。ここはどこで、今はいつで、明日は。

 わたし、と呟いた言葉は非常に頼りない音をした。距離のある相手がふいに目を合わせてくるのにびくりとする。


「わたし、やっぱり、帰る……」


 榊は無表情のまま、荷物を広げるために屈めていた身体を起こし、こちらに向き直った。責められているような気分になって、言葉を接ぐ。


「明日、一限あるから、……家に」

少しの沈黙。「……今から帰っても一限には間に合わないと思いますよ」


 もう四時になりますし。言われて時計を確認しようとするけれども、今は鞄の中だと何もない手首を見て思い出す。ここが何処だかわからないが、彼の言うとおりな気がした。家に帰ってそこから電車で半時間かかるキャンパスに通っているのだから、準備を済ませて講義に出ることは出来ても課題には手をつけていないし、睡眠時間も取れない。けれど理由もなしに講義を休むなんて。理由も分からず彼とここで眠るなんて。「……な、…なんでなの……?」不安が口から零れた。逃げ出してはやくいつも通りの生活に戻りたかった。


「……何がですか?」

「なにが、したいの……? なんでこんなとこまで、」

「大久保」


 榊が歩み寄ってくるのに怯えて、咄嗟に「こないで!」と後退りしていた。後ろ手にドアノブを掴んだのと同時に、反対側の、上着を掛けていた左手を捕まれ、回避しようとした反射のために扉に背中を打ち付ける。上着が床に落ちるのを追い掛けるように、彼女もその場に座り込んだ。

 落ち着いてください、と静かな声音で彼は言い、膝をついて目線を合わせてくる。手首は直ぐに解放された。相手が何を考えてるのか全くわからず、恐怖だけが胸のうちを巣くっている。


「なんで、ここまで、きたの、なんで、迎えにきたの」視界がぼやけてぼろぼろと涙が零れてきた。「榊は、だって、……私をどうしたいの……! また、あんな、ことっ……、…」


 もうやだ、と背を丸め、手の甲で目を隠すようにして俯く。なぜだか裸になっているような寒気がした。借りた上着はもう用を成さないだろうから、早くひとりにしてほしいと心の中で繰り返す。

 大久保、と呼ぶ声とともに両肩に触れられた。柔くはあったものの掴んで来たのだとわかって、振り払おうと自分の腕を少し動かしたけれどもどうしたら振り払えるのかわからなかったために隠していた顔を晒しただけになっている。相手の眼差しを受け取ることは、とてもできない。彼が口を開く。受話器で聞いたのと同じような声音だった。


「僕はあなたに謝らなければいけませんね。………けれど一先ずは、信じていただけませんか。僕は決してあなたを怯えさせるために来たわけじゃない。助けにきたのだと」

 恐る恐る一度顔を上げて、すぐに背ける。「うそ、」

「本当です」

「榊は嫌いでしょ、私のこと……」

「……嫌いだと言った覚えはありませんよ」

 否定するつもりで首を横に振る。言わないにしても、そうだとしか思えない関わり方をしてきたではないか、と。

「聞いてください」

「…………」

「……信じろっていうほうが無茶かもしれませんけど、……僕はあなたのことをあいしています」


 はじめ、呼弥は彼が何を言ったのかわからなかった。かけられた言葉を緩やかに吸収して、それがなにか温かい種類のものであること——呼弥にとって都合のいい言葉であることに気づくと、今度は聞き間違いなのではと疑う。榊を見ると、真っ直ぐなひとみがこちらに向けられていた。それはいつもの、穿つような色はしていなかった。

 どうして、思う。どうしてこの人はいつも、この心に直に触れる言葉を持っているのだろう。

 否定しなければと思った。そんなはずはない。だって榊は、呼弥のみっともない性格が目障りだと言っていたはずだ。そのはずなのに、恐怖や不安は不思議と息絶えてしまった。うそ、とぽつりとこぼした一言にあんまり意味がこもらなかったのを、おそらく榊も気づいて、それについては何も言わない。代わりに穏やかな声が続く。


「休みませんか。あなたはかなり疲れているはずです」

「……、」


 でも、と思うのに先回りして彼は、これまでの講義にも皆勤でノートもきちんと取っているのだし、友人だっているのだから少しくらいサボっても支障はない、と普段から見ていたかのように説得を重ねる。実際、その通りだった。そして、榊がそう言うのであればそれでいいのかもしれない、と思えてくる。


「休みましょう。休養が必要だということを、本当はあなたが一番よく知っているはずだ」


 涙は止まっていた。何の障害も感じずに呼吸をすることができて、どこか新鮮な空気が肺を満たしていく。暗澹はもう、この身の内から消えていた。

 追って榊が「必要なことはすべて説明します」と約束してくれた。だから、安堵だけが呼弥に遺っていた。

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