閑話・スカイワゴン
そんな言葉に振り返る七月の午後。昇降口の下駄箱で、大久保呼弥とその友人が体験入学の話をしている。由鶴は先の言葉を忘れて、しばらくは彼女の制服の白さにとらわれていた。(……巴台)学校名を反芻する。市内の公立高校で、レベルは極端に高くも、低くもない印象だ。彼の選択肢にはないものの、名前はよく聞くのだからたぶん評判はいいんだろう。彼女の志望校はあの様子だと今のところ巴台高校らしい。視線の先にはもう大久保はいない。目を逸らせば自分の進路のことに思考が行き、巴台のことは押し出されていく。教師が生徒の進路希望を把握しておく程度のものだが、調査票を丁度提出したばかりの日で、他の生徒たちも自然と将来のことを話題に出しているように思う。出さなくてもそれぞれ考えてしまう時期だろう。体験入学にも行けと再三言われていた。由鶴には小学生のときから祖母に指定されていた進路の水準があったから、高校も大学も既に行き先には悩む必要はないし、担任も他の教師もそれで満足する学校を報告していたので、あとはどれだけ勉強するかといったところだ。表向きは。今回もとりあえずはこれまで通り、特にレベルの高いところと、その次くらいのところを記入しておいた。ただ、そのままで受験するつもりはあまりない。味の無い高級料理をふたつ並べたような気分だった。
下校時刻の一番人の多いときで、日光は惜しげなく照り付けるし酷いものだなと、気休めに手のひらで口元の汗を拭う。帰ったらまずシャワーを浴びようと決意して、少しでも空気の流動があることをイメージしながら歩いた。気化熱が起きているはずだ。(涼しい、涼しい………)意義を疑う重みを持った指定鞄を謙虚に運んで自転車の籠まで辿り着いてしまえばあとは帰ったも同然だと思うことにする。本当は自転車通学者たちで混み合う登校坂が待っている。冬はともかく夏では一番うんざりする時間だ。
「あー、榊さん」
「……あつくるしい…」
「ちょっと待って僕そんな暑苦しいキャラじゃないよ」
自転車置き場で向かいに二年同じクラスだった如月という男子生徒がいた。誰とも話さずに無言でこの時間を乗り切ればまだ自己暗示が効いた気がするので、話しかけられて由鶴はがっかりした。それが正直に口に出ただけであって、彼が暑苦しいとは元々思っていないが、別に訂正する必要もないだろう。この友人はなつっこいところがあって、冗談も通じる。榊さん、という呼び方も、榊が中学一年生まで男女の別なく苗字にさんづけで他人を呼んでいたのを、今になって親しくからかっているようなことだった。三年でクラスが離れて会話する機会こそ減ったが、関係自体が疎遠になった印象はない。
人波の中でのろのろと自転車を押しながら、アイス食べたい、からはじまって如月が夏の醍醐味を求める声を連ねていく。水泳部の癖に泳ぎたいとは言わないのかと思いながら「今言ったって現実にあるのは人ごみですよ」と告げると、「少しは涼しい気分になれるかもしれないじゃん」と嘆いた。「榊さんゆめがない……」「夢とかそういう問題ですかこれ」もう少ししたら下校する中学生を引き留めている信号を越えて、それで今度こそ、すぐに自宅だ。自転車の受ける風もおそらく生ぬるいが、停滞した空気の中にいるよりは数倍マシ。人は今あるものから幸せを選び取らなければいけないのだと人生を悟ったような考えが浮かぶ。暑い。
生産性がない会話が続くので、せめて何か中身のある話でも振れないか話題を探したが、出てくるのが進路希望とか体験入学とか、飽和したようなものばかりだったからまたがっかりする。考えることは同じようで如月が似たような主旨の問いかけをしてきた。内容は忘れた。「やめましょう、暑苦しい」「別に暑苦しくないよ! 知ってる榊さん、山咲って教室にクーラーついてるんだってさ!」「それあなたの志望校ですか?」「全然違う」「残念でしたね」「うん……」暑い。
「じゃあーもう全然違う話しよう。甘酸っぱい恋の話とか」
「ないですね」
「作ろう。僕もないから榊さんの恋バナ聞きたい」
「ないですね」
「ほら想像。苺シロップのカキ氷のような恋してるんだよ榊さん。なんかこう……」
「玉砕して出血してるような感じでしょうか」
「違う」
暑い。
青い信号が見えてこの話はすぐに終わり、由鶴と如月はおとなしくそれぞれ帰路についた。面白味のない街並みを追いながら空の青さと雲の白さを背中に感じ、一度だけ、カキ氷のような恋とはどういったものなのだろうかと真剣に考えていた。
帰宅すると涼しげなワンピースを着た母がフェイスタオルを持ってわざわざ出迎えてくれる。若くてきれいな人だが過保護なところがあり、そのためににじむ甘さが由鶴には受け入れられない。そういう反抗期なのかもしれないなと思いつつ、彼女が荷物を持とうとするのを重たいからといつも通り断り、シャワーを浴びたいことを伝えた。にこやかに了解して準備に向かう背を見送って、靴を脱ぎ自室へ。汗でじっとりと濡れた肩から鞄を下ろすときに、他人の汗で湿った鞄の持ち手を掴むのは気持ち悪くないのだろうかと実母の感性を疑う。そういうことは口に出さない方が無難なことくらい理解していたので本人に問いかけたことはなかったが、バスタオルくらい自分で用意するのに、というのはそろそろ言ってもいいかもしれない。
「由鶴さん、進路希望は今度はなんて書かれたの?」
シャワーを終えて、出された麦茶を飲んでいるところにそんな声がかかる。ぽうっとしているようでいて、息子の学校の予定なんかをよく把握している母親だ。由鶴も理由がないから包み隠さず全て報告しているのでとくに疑問はないが、煩わしいと思うことはそれなりにあった。これまで通りだと答えれば返ってくる、この言葉に一番辟易している。「むつかしいところに行くことばかりが道ではないから、無理しなくてもいいのよ。好きなところを選んだらいいわ。
祖母の知寿が、由鶴にとくに期待を寄せていたことはみな知っている。彼女の孫たちの中で一番従順で、成績もよかったからだ。だから期待に応えようと一生懸命だったようにみえるんだろうか。
「
「はい?」
「心配なさらなくとも……、北も、大西も、学力としては丁度いいレベルです。入学しても無理はありません」
そういう話ではない。多分貴子もそう思ったろうが、彼もそんなことを言いたいわけではない。ただ、見くびられているような気分がするのか、プライドが先行した。周囲の評価に関係なく勉学が好きだということを理解されてない口惜しさもあるのかもしれない、声にも少し刺が出る。彼女はそれでもふんわりと微笑んで曖昧に肯定していた。いつものことだから冷えた麦茶と一緒に飲み下して、それでおしまいにする。
人はいないけれどただいまを言って、呼弥はまず一階の窓を開けて風通しをよくし、次に扇風機をつけた。靴下を脱いで汗を包むセーラー服に風を当てて少し涼むと、洗濯機を回す為に洗面所へ向かう。途中、玄関の置時計を見ていつ保育園にいる弟を迎えに行くか考えた。手早く済ませればみんな干せそう。唸りだす洗濯機に背を向けて、二階の自室へ上がり、もうどんな服に着替えるか考えている。五限で終わって友達と会う予定もない日だから、あとで録り溜めた番組をまとめて観るつもりでいるけれど、
鏡を前に櫛を通しながら、思ったようにまっすぐ伸びてくれない髪を引っ張る。こんなに髪が多くなければ、とちょっと考えてみるけれど不毛だ。ポニーテールに縛りなおした髪を揺らしながら宿題と軽い鞄を持って一階へ降りていく。
友人に勧められて見始めたドラマのうち急ぎのものを再生しながら、洗濯機が止まるまで三年生向けに配られた総合問題集の今日の分を進める。「〜でできている」はbe made of、電流の関係と電圧の関係は直列回路と並列回路とでは逆。洗濯物を干し始めた頃に主人公は先週関係が悪化した親友ともう仲良くなって、その代わり、洗濯物を干し終わる頃には恋に発展しそうだった相手に勘違いをされていた。
「こんにちは呼弥ちゃん。最近ポニーテールなのねえ」
「暑くってもー。お洒落してられなくて」
「やだ、私、可愛いって言ってるのよ」
「ほんとですか? やったあ、えへへ、でも私、くみこ先生みたいにバレッタで上品に決められるようになりたいです」
「中学生にはまだ早いぞ。あ、在手君来たわね」
帰る準備を整えた弟が友達に手を振りながらこっちに走ってくる。「あっくん、沢山遊んだ?」「あそんだ! ねー、こんちゃん、まりんちゃんが一緒に帰りたいって」園内はまだまだにぎやかで、子供達はみんな誰のことも待っていないみたいに遊んでいる。うらやましいような気もしたが、自分が園児だった当時を思うと別に戻りたくはならない。
「まりんちゃんは今日、お母さんのお迎え来るよね?」
「まりんちゃーん! 今日まりんちゃんのママおむかえくるー?…」
呼ばれた園児はこちらまで走ってきて、来ないよ、と嘘をつく。一度彼女の母親に頼まれて一緒に帰って遊んでから度々こういうわがままを言うようになったのだけど、うれしさよりも困ってしまうことが多いので、呼弥はその都度悩んでしまう。「まりんちゃん、」
「私もあっくんもまりんちゃんと同じ気持ちだけどね、……でも嘘はついちゃダメだよ」
「うそじゃないもん」
「そう? じゃあ、お母さんに聞いてもいい?」
「……」
「今まりんちゃんと一緒に帰っちゃったら、後から迎えに来たまりんちゃんのお母さんはまりんちゃんがどこに行っちゃったかわからなくなっちゃうでしょう?」
「……やだ、いっしょにかえりたい」
「うん。まりんちゃんが嘘つかないで良い子にしてるって約束してくれるなら、私がまりんちゃんのお母さんにお願いしてあげる」
こういうことがある度、子供って面倒だなと、思わなくもなかった。それでも、口は噤んだままにおずおずと差し出される小さな小指をやっぱり愛しく思う。「やりたいことがあったら、普通にお願いしてみたらいいんだよ。まりんちゃんにとってよくないことはお母さんや私もダメって言うけど、そうじゃないことはいいよって言えるから…」諭すような言葉はどこまで聞き入れて貰えるものなんだろう。呼弥が生きてきたどの時点でだって、大人の言い聞かせる言葉はなんとなく嘘で包んであるように感じたものだけれど。実際嘘も多いんだろう。年の離れた弟を持ってからは少しだけ親の事情もわかるようになって、ときにはどうにも逃れられない嘘に出逢うこともあった。……別に誰かを傷つけようとしているわけじゃないのかもしれない、嘘をつくのは、自分も含めたみんなが苦しんだり嫌な思いをしたり、それこそ傷つかないように運ぶ最善を、作ってしまうことじゃないだろうか。とはいっても、事実と噛み合わないから結果的に他者を傷つけることになるし、そこが一番の問題点だから誉められないものなんだろう。この口はいつでも嘘をつく。同じだけのほんとうを云っていたとしても、どの程度拾って貰えるのだろう。対面した少女はきっと素直で、解ってくれたように、はにかんだ。絡めた小指が少し重たい。
園内の外の時計は五時のおわりのほうをさしていた。彼女の母親がいつ仕事から上がり、彼女を迎えに来るかは分からないのだけれど、ひとまずは園の先生に聞いてみるところからはじめよう。
母親が部屋に顔をみせて、食べたいおやつがないか問う。これから買い物に行くのだろう。冷たいものが欲しいと由鶴は思ったが、素直に答えるのはなんとなく憚られて「結構です」と断ってしまう。
相手は口元に手を当てつつ「そう? じゃあ、私の好きなものを買ってきますね」と言って下がった。自分が食べたかっただけじゃないのかと疑いながら、数学の課題に戻っていく。二等辺三角形の証明問題。なぜこの期に及んで解答欄が穴埋め形式なのだろう。まさかこんな単純な証明文のテンプレートも覚えられないなんてことがあるのだろうか。高校に入ればもっと複雑な証明を一から書かなければならないのを知っているので呆れてしまうのだが、まあ、学力が分散しているから易しくしているのだろう。とはいえ……、…。
不自由さに気が散ってしまって椅子に背を預けてしばらく、取り留めのないことを考えた。不自由とは、抑圧されること。権利がないこと。範囲が限られていること。中学は不自由だ。高校が不自由でない保証もない。
(自由に、なりたいな………)
由鶴にとっての自由とは学に没頭することだ。他人のいない環境で、知識欲を満たし続けること。
この世界がまったくの無人で、古代の遺産かなにかの永久機関によって衣食住が賄われていたなら自分はもっと自由なのだろうか。そこには巨大な、すべての知が詰まった図書館があって、誰にも邪魔をされずに本を読み、いつでも快適な気候に保たれていて、食べたいと思った時に冷えたデザートが食べられる。そうしたら、苺シロップのかき氷に恋慕感情との類似性があるかどうかなんていうくだらない証明を延々としていたっていいだろう。
けれど、その時そこには彼女はいないから――というところまで考えて、目を覆った。続こうとした思考に悩んだのだ。
“彼女がいないから証明にならない”? そんなことを言ったら完全に、由鶴にとっての恋愛対象はあの女子生徒ということになる。(まだわからない、)そう、恋愛なんて。
そのまま、大久保呼弥が無人の永久機関の中でどう過ごすのだろうかと考えた。決して彼女に想いを馳せるためではなくて、思考を少しずらしてクールダウンを図るためだ。
他者が煩わしいなら彼女にとってもそこは自由だろう。しかし他者がいないところで彼女が笑うところを想像することはできない。笑わなければならないことは彼女にとって不自由に違いないけれど、笑えないこともまた不自由なのではないか、という気もする。いや、これは自由や不自由の話ではなくて幸福かそうでないかの議論になるのだろうか。
――卒業したら。学校が変われば、由鶴もわざわざ大久保のところにあしげく通ったりしない。そもそも生活の中で彼女を見かけることがなくなるだろうから、だんだんと分からなくなっていくだろう。彼女の行動パターンや心理的仕草、好きなもの、嫌いなもの、話し方、泣き方、笑い方。日々の変化も何もかも。そうしたら修学旅行の時のようなあの完全な微笑みはいつ、どのくらい、彼女に訪れるのだろうか。
失われはしないだろうか。それは、どうも、惜しいように思えた。
襖と廊下の窓を開けて外の空気を入れる。せっかくクーラーで冷ました室温にぬるい風が混じって、けれど一瞬の不快感を越えたら日差しがあたたかかった。夏になると貴子が勝手につける風鈴が微かに鳴る。ちりちりと惑うように、かと思えば笑うように、りんと。
結局今日は一緒には帰らせて貰えなかったけれど、少しだけ遊びに混ざってやると満足したらしく笑顔で手を振って別れることが出来た。弟曰く、「まりんちゃんはおねえちゃんがほしいんだよ」ということなので十分に甘えてもらえたんだろう。安心するのと、本意が全然別のところにあったことに肩透かしを食らったような気持ちと半々だ。ちょっと一緒に遊んでいってあげなよ、と提案したのはくみこ先生で、流石に経験値が違うんだなあと感心もした。確かに、バレッタはまだ早そうだ。
在手はバスの車窓に張り付いて同じクラスの子を探している。一度呼弥が歩道に弟の友達を見つけて教えてあげてからここ最近の彼のブームで、全然見つからなくても「あのおじちゃんきょうもいるよ」「おかいもののおばあちゃんねぎもってる」などと見知った顔の通行人について色々伝えてくれる。
「こんちゃん、きょう、スーパーは?」
「今日はおつかい頼まれてないけど、あっくん行きたい?」
彼はこくんと頷き、「せんせーいっておさかなみるの」と宣言した。この場合の「せんせー」は先生ではなく生鮮のことだ。せいせん、が言いにくいのか、それとも本当に「先生」だと思っているのか呼弥にはわからない。「せーせん、行こうね」とこっそり訂正してみても、嬉しそうに笑顔を見せるだけだ。そして、鮮魚コーナーにたどり着くと走っていって「せんせー!」と呼びかける。やっぱり「先生」だと思っているのかもしれない。
鮮魚の店員の一人が出てきて、「おー、らっしゃい」と在手を構う。ピアスをした金髪の若い青年だ。「先生今日はいないよ」
「西崎さん、こんにちは! 木戸さんお休みなんですね」
「そーよ、お陰でクタクタ。あのひと魚捌きマシンだから人数揃っててもいねぇと追いつかねーの」
「にしちゃん、おさかなみてていい?」
「いいよ。そん代わり『サザエ買って』って姉ちゃんにお願いして」
サザエはちょっと、無断で買っていくと親に驚かれる気がする。慌てて断りつつも、しかし冷やかしになってしまうのも申し訳ないのでなにか無難なものは買っていきたい。
魚のおすすめが何か聞くと、今日は珍しく鱚が入ってきたから鱚買ってって、とパック済みの商品が並ぶ冷蔵ケースを指差した。「きすって、どうやって食べるのが美味しいですか?」「塩焼き塩焼き。簡単っしょ。汁物に入れてもいーし」ちょっと薄味にして、と続くのをイメージを膨らませながら聞く。汁物に入れるなら今日でもいいな。さっぱりしていて食べやすそう。
「きす?」
「そー、きす。チューとは別。あっくんチューしたことある?」
「あるよ、かなめちゃんとね、ののちゃんとね、さくくん」
「えぇちょっと色男じゃん〜! こんちゃんは?」
「なっ…ないです!」
それこそ、園児のときの戯れで友達にされたことはあるのだが、この場合は下手に「ある」なんて言わない方がいいだろう。在手が「にしちゃんは?」と問うのに、「俺はめーっちゃあるよ。もっとオトナなやつ」とか答えているので。
「おとななやつってなに?」
「そっちにある鱚ぜーんぶ大人だから食べてみな。うし、そろそろサボりって言われちゃうから仕事戻るね」
しれっと売りのトークに戻して話を締めるので、お礼と応援の言葉で見送った。最後に思い出したように振り返って、「あ、フライもオススメ」と呼弥の鼻先を指差していったので、思わず笑ってしまう。
先にトレーの魚を覗きに行った在手はまだ何も言わなかったのでてっきり見つけられてないのだと思ったが、見てみるとちゃんと鱚の売り場の前にいた。こちらを仰いで「これ、ぜーんぶかうの?」と不思議そうにしている。一パックに六尾ほど入って、それが十二パックほど。西崎の「全部」を「食べてみな」のほうに繋げてしまったんだろう。食いしん坊さんだ。「全部大人だけど、買うのは一個だけ。」
ただいま、という声が遠くから聞こえてくる。薄目を開いて脳が徐々に目覚めるのを感じてやっと、自分がうたた寝をしていたのだと気づいた。体を起こすと畳に押し付ける形になっていた腕に痕がついていて、意味もなく触って確かめる。
飲み物が欲しくてキッチンへ入ると貴子が微笑んだ。「ただいま、由鶴さん。寒天食べます?」由鶴は少し悩んで、素直にいただくことにする。母親は嬉しそうにして、見ていたらどうしても食べたくなっちゃって、と話しながら冷蔵庫からスーパーのプラッチック容器に入った牛乳寒天を取り出した。その安っぽい感じにどうしてか安心しながら席につく。
「これね、あと一つだったの」小皿に取り分けつつ彼女が話した。「譲っていただいたのよ。由鶴さんと同じくらいの女の子に」
由鶴はその状況を想像した。
「……大人気ないのでは」
「やだ、違いますよっ。蜜柑が入っているでしょう? 果物が苦手で買おうか悩んでいたんですって」
「気を遣われたのでは」
「そっ……………そういうことも、ありますか……?」
急に自信なさげに語調が萎む。常々思うがこの人は少し純粋過ぎないだろうか。仕方がないので、仮に気を遣ったにしても相手が好きでそうしたんだから構うことはないとフォローを入れてやると、おずおずと「そうだといいんですけれど……」と紡いだ。
「小さい弟さんも連れていて可愛らしかったわ。おつかい?って聞いたら、その子が生鮮のお魚を見たがって、って」
「そうですか」
籠に入った鱚はおすましにするのだと話していたとか、栄螺を勧められたらしいとか、貴子はあれこれ話していくが全く知らない未成年の客とそんなに話し込むものだろうかということが由鶴には気になる。恥ずかしいからやめてほしい。
それで今日は貴子も鮮魚コーナーまで赴いて、今度はそこの店員と話し込んだようだ。同じく勧められた栄螺と、鱚を買ってきたから今晩食べましょうと言っているころにはすっかりいつもの調子を取り戻している。由鶴は適当な相槌を打ちつつ冷えたデザートを口にする。誰かの善意。誰かが不自由を被って、ここに自由が運ばれてくること。これを譲ったひとは相手が喜んで笑っただろうか。あるいは、幸福感を得ただろうか。不自由なのに?
――それが彼女であれば、きっとそうだろう。与えずにはいられないから、受け取る者がいてこそ存在意義がある。だからおそらく、無人の世界では彼女は不幸にならざるを得ないのだ。
それなら仕方ない、と由鶴は思った。茹だる暑さのなか人に揉まれて帰るのも、母の厚意が煩わしいのも、数学の解答欄が易しすぎるのも。明日がまたそんな有様でも、まあ、仕方がない。
そうして彼は、自由を一つ差し出した。
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