充つ日

 彼女の笑顔を、彼は忘れたことがない。

 大久保呼弥このみはそれはもうよく微笑む生徒ではあったけれども、由鶴ゆづるはその殆ど、あるいはすべてを一度は偽物であると結論づけていた。改めて疑う余地もない、と考えていたのは、当の本人がそれをコンプレックスと感じるまでに肯定していたためである。彼は彼女を殊に注意深く観察するようになっており、隠れた感情の判断もかなり確実なものとなっていたし、その目に映る大久保は確かにいつも怯えか煩わしさを携えていた。しかし、幾度劣等感を突いて自信を崩そうと彼女はいつも翌日には立ち直ったような顔をしていて、それに関しては勿論はじめから全く疑問がないわけでもなかった。ただ彼にとっての彼女とはしばらくの間掃き溜めのような位置づけでしかなかったため、さして興味をひく疑問ではなかったのである。それよりも悲鳴にも似た声たち、涙たち、稀に零す攻撃的な態度をひとつひとつ思い返すことのほうが彼にはずっと楽しかった。その点を考えると、二年生の終わりには既に、由鶴は大久保に心を奪われていたのかもしれない。

 進級してまもなくの彼女は随分疲れていたようだった。クラスの構成が変わることによる弊害は大きなストレスをもたらすのだろう。自己紹介からまだまとまらないクラスメイトたちの繋ぎ役まで、気を揉む事柄が多いのかもしれない。そのあたりのことは由鶴はよくわからなかったが、先の卒業式に際して、どうやら彼女が行事ごとを不得手としているらしいということには感づいている。しかし彼女が笑ったのを見たのはそれから一ヶ月もしない始業式のときだった。

 三年生の教室は一階にあって、由鶴の配属されたクラスは極近距離に昇降口へ向かう渡り廊下が伸びていたのだが、式が始まる前、早めに登校した彼がたまたまトイレに立ったときにそちらのほうからかしましい声がした。大久保を含む数人の女子と、教師らしい女性の声だった。由鶴は少し位置を移動して、窓から渡り廊下を覗く。見たことがない教師だったが彼女たちは親しげに話していて、おそらく卒業した小学校から転勤してきた教師だったのだろうとあとで納得した。実際始業式の新任紹介で聞き覚えのある小学校の名前を出していたし、後に他の生徒たちにも知ったような様子を見せるものがいくらかいた。

 大久保ははじめ、誰にするのとも変わらない親しみのある笑顔で一緒に登校してきた友人と共に再会を喜んでいた。だが何を言われたのかふいに照れたような表情を見せたのである。他者からしたらなんでもない、くるくると変わる豊かな感情表現の一つとして流してしまう景色だったかもしれないが、そのとき彼は絶句すらした。その表情は「微笑んでいる」と表現する他ない、何の飾り気もない本当に単純な笑みだったのだ。

 それまで大久保呼弥とはその日々のすべて、自己嫌悪と他者を厭う感情で成り立つ人間なのだと由鶴は思っていた。素直な笑顔など浮かべられる、彼女が理想としているであろう聖女的な感情それ自体が起こらない、道徳には憎まれるべき感覚をまるきり本性とすると信じていたのである。しかしあの大久保の笑顔は表面的なものではなくもっと底の、本音と呼ばれる域から揺り起こされた効果だった。

 それでその日、由鶴の中で彼女という人間像の再構築の必要性が生まれたのかもしれない。彼女が発現した笑顔の正体のような、心根というか、そんなものの説明が出来るだけの情報を希求した。ところが、まず一番に結果が得られそうな本人の感情を揺さぶるといういつもの手法を考えたものの、あの笑顔に関しては突く点がまるで想像つかないのだ。あの瞬間、もしくはあの日、彼の目には大久保がひとつも欠点のない少女のように映っていたのだった。



「どこへ行くんですか大久保さん。」


 掛けられた声に彼女はすばやく振り返り、驚いた顔をみせた。

 六月の修学旅行、二日目の夜である。しおりの予定では入浴時間だが、大久保はもう片付けも終わり閉じられた食堂へ続く通路を辿っていた。ふらりと、空気に溶けるように道を反れたのを由鶴は見ていたから何か忘れ物をしたために戻ってきたわけでもないのは知っている。そういう場合、彼女はもっと速やかにことを済ませるのが普通だ。由鶴を認めた大久保はわざとばつが悪そうに笑って、ハンカチをなくして、と言い訳をした。怯えと疲労を塗り固めるいつものしぐさであるが、二年生のときと比べて危うさが見えるのは、彼女の変化かそれとも彼の変化か。

 別の観点から彼女を見てみるようになって二か月強経ったが、未だ“笑顔”のはっきりとした実態に結論は出ない。とはいえその視点の移動がもたらした発見もかなりのもので、別に彼女は人間関係を作ったり保ったりすること自体に苦手意識はないらしいことや、これはよく考えてみれば当然なのだが彼女にも好きなものくらいあるということがわかった。先の大久保像は先入観の産物だったのだから、認識できた、というくらいが正しいのかもしれない。手持ちの情報と新たな情報とを取捨選択しながら組み直す作業は一からイメージを作っていくよりも当然時間がかかるから、由鶴の大久保について考えている時間は気がつけばうんと増えていた。思考を重ねる分疑問は増えるから不思議なものである。

 以前までは手に取るように解っていた気になっていた彼女を見つめ、数秒逡巡して、“ハンカチ探し”の手伝いを申し出た。大久保は虚を突かれたような反応すらせず、申し訳なさそうに、それでも嬉しそうな表情も浮かべながら、多少大袈裟に断った。「いいよー、入浴時間過ぎちゃうといけないし!」そういう自分こそどうなんだ、というところから切り込んでいく。丁寧に導けば彼女の繭はほつれを見せて、やがて解れていった。随分手慣れた作業だけれども、迷い道が同じ場所に出やすいような、目的地へ辿り着けない感覚が纏わり付く。隠して、怯えて、耐え兼ねて、泣いて、諦めて、毒づいて。

 毒づくようになったのは、それこそ二年次の卒業式の時期だった。それまでは泣くところまでしか見せなかったのだ。

 涙をそのままに、床に膝をついて俯いた彼女の髪は由鶴が意識を始めた昨年の九月よりもいくらか伸びている。四月のかおを一度思い、大久保、とうなだれた頭に声をかけていた。返答は重く素っ気ない。こんな声音を知っているのはおそらく彼一人なのだけれど。(——あの笑顔は何なのか。)喉から滑りそうになる問いを押し止める。聞いたところで、まず彼女本人が自身の笑顔に違いがあることを認知していなければ事実など返ってこない。面とむかって聞く類の質問ではないのだ、と悟って、では一体どこに問うべきものなのかを考えあぐねながら由鶴はポケットから自分のハンカチを取り出した。彼女の手にそれを握らせ、言う。


「見つかりましたし戻りましょうか? 大久保さん」


 もしもう一歩踏み込んで彼女の自尊心を詰ったら、笑顔の正体は現れるだろうかと考えた。しかしそれはとてもワンパターンな上に構造的に成り立たないように彼には思えて、だから実践はしなかったのである。



 そしてこれ以降も、毒づき始めた大久保に追い討ちをかけることはなかった。なぜなら、結論はこの日の翌日に出たためだ。



 朝はバイキング形式で、食缶や大皿が並ぶテーブルを囲んで生徒たちは賑わっていた。プレートに何をのせるかをいちいち相談し合い、トングは置かれては拾われ掴んでは渡されを目まぐるしく繰り返している。これは本当に偶然だったのだが、食堂を訪れた時間が近かったらしく由鶴のごく近距離で大久保は友人たちと朝食を選んでいた。彼女は、わらっていた。例の一切屈託のない、単純な笑顔を振り撒いていたのである。

 隣り合った際由鶴に気づくと、まったく自然な調子で朝の挨拶を投げ掛けてきた。内心あっけにとられながらも応じると、大久保は彼にさえ微笑んでみせた。


「榊君オムレツ食べる?」


 食缶の中身を指しながら問うので、肯定してトングを受け取る。友人と共に席を探しに行く彼女を短い間見送って、盛り付けを済ませてしまうと、あえて彼は彼女に背を向ける形になる、彼女から遠い席を選んだ。

 何故笑うのだろう。昨日あんなに絶望した顔をして。

 突いた翌日に彼女に会ったことはあの文化委員の仕事の時くらいだったけれども、あの日はこんな笑い方をしなかった気がする。普段は——? いつも、翌日はこうなのか。それとも昨夜はあの後気を取り直すような何かがあったのか。想像してみるのだが、うまく頭が働かない。まだはっきりと頭が覚醒していないのだろうかと目を閉じて目元を押さえると、眼裏に描かれたのは先ほどの大久保の姿だった。一旦苦笑して、まるで彼女に恋でもしているようじゃないかと自分を揶揄したけれども、ふと思考が立ち止まり、血の気が引く。感情を改めてみたときに果たして今自分が大久保呼弥という存在にどのような価値を付けているのか。それが出会ったころと変わらない自信が、なかった。(なんだ、これは)何度打ちのめしてもあんな笑みを零す難解な他人、ではなく、そもそも他者なんて難解なもので、ではこうして解き明かしてやろうとするまでに興味を抱いている存在は——本当はただの一同級生ではないのだろうか。

 振り返って彼女を探すと、すぐ見つかる。視界のどこかには必ずなくてはならない画のようにただ一人の他人が切り取られて映っている。直向ひたむき。単語が一つ現れて消え、それと入れ替わるようにして捉え難い感情が沸き起こってきた。恋慕などと名付けるにはまだ探求心に近く、しかしそう呼ぶには少々理性の足りないもので、一体いつからこんなものを育てていたのかと焦燥を感じる。けれども。けれども、紛うことなく先の瞬間、由鶴は大久保のほころんだ笑みに魅せられていた。

 

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