第6話 人間 -1

 セナはかつてない体験をしている。これからも、自分の一生にこんな形で人間が介入することなどないだろう。

 セナだって考えはするのだ。朝比奈家も祐斗も、いつかは自分の人生の一部に……ごく一部の存在になっていく。そうだ、過去のものになる。

(いくら人間と仲良くなったってなぁ……)

 そんな感覚が生まれたことも無いのに、今回はどうも勝手が違う。ヴァンパイアと知ってて自分を放っておいてくれない者たち。書物や美術品くらいしか自分に刺激を与えるものは無かったのに、ここにきて祐斗と雫という二人の人間が気になっている。

(ま、しばらくは退屈しないで済むか)

 世間のヴァンパイア狩りは、もう無くなることは無いだろう。いつかはヴァンパイアだけの村落でもできて、ひっそりと暮らすことにでもなるのではないだろうか。東南アジアとかヨーロッパの山岳地とか。そんなところに落ち着くことになるかもしれない。

 セナには恐怖心は無い。能力が高いのだ、自分がヴァンパイア狩りに引っかかるとは思えない。

 ただ何かあった時に、その逃走劇に祐斗を巻き込みたくはなかった。不思議だ……祐斗が可愛くなり始めている。もう『はいはい』というものをする。

「祐斗」

 呼ぶと、にこにこと自分の膝に一直線に這ってくる姿にはつい目が細くなってしまう。もう(おやつ代わりに)なんてことも考えなくなった。『愛しい』という感覚に馴染みは無かったのだが、それに近いものが芽生えつつある。



 セナは、ごくたまに夜中に遠出をした。もちろん、祐斗がぐっすり眠るのを待ってから。

 雫には食事の量についてこう言った。

『血を飲むのは眩暈がする程度』

 だがそれは一人の人間から、という意味だ。実はそれだけでは満腹には足りない。本来、人間一体分ほどは必要だ。その点、小説に書かれていることは正しいと言える。しかし、欲しいままに一人の人間を飲み干していたのは大昔のこと。昨今の世情がそれを許さない。死体を残すなどとんでもないことだ。

 飢え切ってからでは見境がつかなくなるから、セナはある一定の空腹を覚えると夜の町を漂い、のんびりと歩いている人間を探す。そして闇に紛れて後ろから抱きしめ、密やかに耳に声を忍ばせる。

「お前は目が覚めたら何も覚えていない」

 ヴァンパイアの声に含まれている周波数には独特の催眠効果があり、囁かれた人間はほろ酔い加減になる。そしてヴァンパイアに自ら身を差し出してしまうのだ。

 痕が人目を惹くから首筋など狙わない。うなじの上、髪が生えている部分から血を吸うのが主流だ。

 吸われている間、その人間は恍惚とした表情を浮かべ、痛みを感じることはない。

 現在では、ヴァンパイアはある程度飲んだら人間を解放するが、これにはかなりの精神力を要する。食事中に対象を開放するなど、厳しいことだ。だが、人間との関係性が変わってしまった今、身を守るには食事を分散するしかない。危険でも、遠く離れた町で幾体もの獲物を探して回るのがセナの食糧事情だ。つまり、結構苦労している。



 ある夜、食事が終わって家に戻ると寝室から祐斗の泣き声が聞こえた。

「どうした? 目が覚めちゃったのか?」

 抱き上げてあやしていると、家の中から微かな物音がした。瞬時に深紅の瞳が現れる。家の中にぐるりと視線を飛ばすと、台所に潜む者が見えた。警察に通報してもいいのだが、正直面倒くさい。

 祐斗をベッドに横たえると、音もなく台所に入る。

 いきなり現れたセナの姿に怯えた強盗は震える手で包丁を構えた。

「金が欲しいのか? 入る家を間違えたな」

(腹は、いっぱいなんだけどな)

 だが放り出すわけにもいかない。瞬時に男の背後に回り込むと、体内の血を6分の1ほどを一気に吸った。体内の血液は約4.7リットル。1リットル以上も短時間で飲めば死んでてしまうからそれは避けたい。気を失った男の体を担いで隠し部屋を開ける。こんなことのために作ったわけじゃないのだが、男をベッドに縛りつけて猿轡をした。ランプは付けず、暗いまま放置する。

(ま、いいや。非常食ってことで)

 この辺り、ヴァンパイアであるセナはあっけらかんとしている。

 持ち出した男の財布を調べてみた。灯りは無いが、別に困らない。男は41歳。住んでいる場所はここからずい分遠い町だ。多分強盗に入るためにここまでやってきたのだろう。だとしたらなおのこと、好都合だ。行方不明になってもきっと誰も気づかない。セナは男を次の飢餓まで置いておくことに決めた。

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