第3話 セナと朝比奈家

 セナが慣れるまで、雫はほぼ毎日来た。口は悪いが面倒見はいい。

「泣き止まないんだけど。うるせーったらない」

 雫に文句を垂れたが、眠れないという苦情は生まれない。多少体が楽にはなるから目を閉じるが、いくらも寝ない。夜電気を消せば人間っぽく見えるから消している。夜目は利くから読書にも困らない。

「ちゃんと面倒見てる?」

「ミルク、やった。おむつも大丈夫だ。棘もねぇ。なにが不服なんだか」

 確かにラグの上で赤ん坊は泣いている。その両手両足を空をかくように精一杯ばたばたと動かしながら。

 雫は抱き上げた。

「よしよし、どうしたの?」

 雫の胸に頭を預けた赤ん坊は大人しくなり始めた。

「なんだ? 泣き止んだぞ」

「こうやって抱いてる?」

「抱く? なんで」

「赤ちゃんって……寂しがり屋なの。人肌が恋しくても泣くのよ」

「独身男じゃあるまいし」

「いいから抱いてみて」

 セナの両手に赤ん坊を押し付けた。いかにも慣れない不器用な手つきでセナが抱く。赤ん坊はまたぐずり始めた。

「私がやったみたいに赤ちゃんの耳を胸につけて。赤ちゃんはね、人の鼓動を聞きながら眠ったりするの」

「俺、人じゃねぇし。鼓動出すの面倒くせぇ」

 すかさず雫の蹴りが尻に入る。こう見えても雫は空手二段だ。

「いってーな! もうちっと女らしくなれねぇのか? 第一なんでそんなに赤んぼのこと分かるんだよ。あ、いつの間にか産んでたとか?」

 もう一発さっきよりキツい蹴りが入った。

「お姉ちゃんのとこの赤ちゃんを時々世話してるの! 変な想像しないでくんない?」

「その足癖、直せよ。黙ってりゃ可愛いのに」

「あんたに褒められても嬉しくない。鼓動くらい出しなさいよね!」


 


 朝比奈あさひな雫は大学三年生だ。本屋の娘らしく趣味は読書。いろんな本を読んでいるお陰で、ヴァンパイアというものを割とすんなり受け入れた。

 セナには姉の命を助けられている。心臓の弱かった姉のしおりはここから2キロ先の道端で倒れてしまった。そこに通りかかったのがセナ。満腹状態だったセナは栞に自分の血を飲ませて、心臓病自体を治してしまったのだった。

 セナの正体を知ってしまった栞はどうしていいか分からず、父親の秀太朗に相談した。

「お前を助けてくれたのはヴァンパイアか……」

「どうしたらいい? 郷田ごうださんに通報しなきゃダメ?」

 郷田というのは、ヴァンパイア対策センターのセンター長だ。あまり褒められた性格じゃない。捕まったヴァンパイアは牢に繋がれ、提携の病院の血液センターにその血を”提供”することになっている。そこから富裕層に供給されると言う仕組みだ。

「会ってみよう」

 秀太朗はすぐに立ち上がった。

「私も行く!」

 思わぬ声に秀太朗は驚いた。雫が父と姉の話を聞いてしまったのだ。

「お前はだめだ」

「なら郷田さんとこに行く」

 半ば強迫めいて、雫は父と姉に同行した。


「普通の家だな」

 セナの家の周囲をぐるっと回った秀太朗が呟いた。身の危険を感じているヴァンパイアは隠れるように暮らしている。だからセナも慎ましい家で目立たないように暮らしているのだと思い込んでいた。

瀬名せな 祐司ゆうじ

 表札が堂々と出ている。

「本当にヴァンパイアか?」

 思わず栞に聞いてしまう。

「だって血を飲まされた途端に発作が治まったし、あれきり胸も苦しくないもの」

「そして無事に帰された……」

 秀太朗は戸惑っている。郷田の言っていたヴァンパイアというのは、血肉を喰らう見た目も恐ろしい怪物だ。

 その時ドアが開いた。

「外でごちゃごちゃうるさいけど、なんか用?」

 出てきたのは20代後半に見える男性だ。大柄な秀太朗より少し背が高く肩幅が広い。髪は黒で少し長め。血色がよく、見た目はいい男だ。大きな目は黒。

赤い目、鋭い牙、長く尖った爪、青白い顔…… 全てが物語に出てくるような魔族のヴァンパイア。だが、目の前の男は健康的な日本男性だった。

 栞は頭を下げた。

「あの時はお世話になりました。お蔭さまで元気になりました」

 瀬名はいぶかしげに栞を見た。

「会ったことある?」

「先週、この先の道端で……病院の帰りでした」

「……ああ! 道で倒れてた人!」

 屈託のないその様子を見て、秀太朗は通報の義務を忘れた。瀬名の手を掴む。

「ありがとうございました! 娘を助けてくださって本当にありがとうございました!」


 雫はヴァンパイアというものを初めて間近で見た。

「普通の人に見える……」

 そう呟いた娘を秀太朗は「失礼だぞ!」と叱った。

「いいですよ。ふつーの人に見えなかったら俺、狩られてるんで」

 ケロっとした言い方に思わず笑いが漏れる。

 リビングに案内されて、みんなは瀬名にコーヒーを振舞われた。

「美味しい!」

 雫が目を輝かす。コーヒーに目が無い。

「そりゃ良かった」

「食事作ったりするんですか? それとも血を飲むだけ?」

「雫!」

 冷や冷やものの質問だ。ヴァンパイアの食事は人間の血に決まっている。

「俺、シチューなら得意だよ」

「わ、人間と同じもの食べるんだ!」

「食べるけど。腹減るし」

 ヴァンパイアの空腹は人間と変わらない。問題は、『飢餓』だ。ヴァンパイアの本質を揺るがす本能から来る飢餓。

 そんなデリケートな問題に足を踏み入れたくない秀太朗は、急いでコーヒーを飲み終えて立ち上がった。

「とにかく娘をありがとう。なにか困ったことがあったら頼ってください。私は町で本屋を開いているから」

 セナの目が見開き、嬉しそうに輝いた。

「俺、すごく本が好きで。じゃ、注文したら売ってくれる? 今まで遠くに足を伸ばしてたんだけど」

「もちろん喜んで! なにせ商売ですからね。いつでも電話ください。入荷次第届けますから」

 秀太朗は電話番号を教えた。

「今欲しいのがあるんだけど。頼んでもいい?」

「どうぞ」

 セナは奥にリストを取りに行った。

「ね、変わったヴァンパイアね。文化的だし、料理作るんだって!」

「雫、お前は好奇心が過ぎる。必要以上に近づくんじゃない」

「父さんだって本を届けたりするつもりでしょ?」

「それは商売だ。第一栞を助けてもらったんだ、その恩は忘れちゃいけない」

 雫はセナをもっと知りたいと思った。こうして雫はセナに付きまとうことになる。

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