5.どうにして、さよならを
「えっ、推論って……なに?」
波止中は呟いた。物珍しいものでも見るかのような目つきであるのには無理もない。
この場面に初めて遭遇した時、光莉も同じような反応をしていた。気持ちは理解できる。だからこそ、「まあ、とにかく見てて。彼女のメッセージについて、何か分かったみたいだからさ」と、アドバイスができたのであった。
「は、はあ……」波止中は言われるがまま口を閉じ、静かになる。
「ヒントは、送られてきた日付にありました」
美波は自分の世界に入っているからか、そんな二人の反応は視野に入っていない様子。
「衛藤さんにお尋ねしたいのですが」平然とただ普通に、美波は光莉へと視線を向けた。「すいへーりーべー、から始まる、化学で用いられる語呂合わせはのは、何を覚えるためのものでしょうか」
さっき片桐が話していたことだ、と振り返る光莉。「それは、周期表の順番、を覚えるものかな」
「周期……表?」波止中の頭の上に、ハテナマークが見えた光莉。
「えっと、物質を構成する単位を……あっ、元素ってあるじゃない? 窒素とか酸素とか二酸化炭素とか」
「あぁ、空気っすか?」
「あっいや、ごめん、例えに出したものが悪かった。それだけじゃなくて、ええっと……」
まさかの回答に、光莉は頭を悩ませた。知らない元素で表現したらピンとこないだろうし、かといってさっきのように知っているものだけ並べたら伝えたい方向からずれてしまうかもしれない。とりあえず「鉄とかカルシウムとか塩素とか、マグネシウムとかフッ素とかネオンとか」と聞いたことあるだろうと思われるものを無造作に言い並べた。
「ああ……」目に力を感じない。尻切れトンボの口調に、ピンときていないことは明らかだが、ここでいつまでも足踏みするわけにはいかない。光莉は、彼が納得したということにして、話を進める。
「そういうやつを一定の規則で決められた順番や性質ごとに並べた、一覧表みたいなもののことを周期表っていうの」
「へぇ」
当然反応は芳しくない。だが、得るべき解答を得られた美波は、「次に波止中くんに確認したいのだけど」と話を進める。
「例のメッセージが送られてきた日付は、いつだった?」
「確か……」画面をスクロールして確認する。「29日」
「では、その原子番号は?」
「ええっと……」現役世代ではないため、すぐには出てこない。歳の経過を感じながら、感じないフリをしながら、思い出した。「
「はい」
美波は縦に首を振る。同じ二言でも、その二言は全く別物だった。暗く覆っていた雲が、一気に晴れ間を見せてきた気がした。
「えっ、じゃあこの、どう、っていうメッセージは……」
「クエスチョンマークのない疑問形ではないのだとしたらおそらく、金属の銅についてを指しているのではないかと。29日に送ったというのも単なる偶然ではなく、意図的にこの日を選んで送ってきていると推測します」
「もしくは、文系だった彼へのヒント?」
美波は成る程といった表情を浮かべ、「確かにその可能性もあり得ますね」と言うと、「では今度はその銅について、改めて衛藤さんに伺いたいのですが」と続けていく。
「銅の元素記号は何でしょうか」
「元素記号は、確か、大文字の
「それをもう一度、単純にゆっくり読んでみて下さい」
「ええっと、
美波の口角には笑みがこぼれていた。
「ええ。後日友人伝いに教えられた彼女さんの言葉も考慮しますと、
「どうが銅、銅が
軽く眉をひそめ、腕を組む片桐。
「ええ、正直、こじつけた感も否めないと思います。しかしそう考えれば、彼女さんがご友人を通して話していた発言に隠された意図がなんとなく、見えてくるような気がしていて……」
「意図?」光莉は軽く首を傾げた。
「化学の原子番号や元素記号については、基礎科目として、文系であっても高校で習うところが多い傾向にあります。例え習っていないとしてと、目や耳に触れる機会はあります。だからこそ彼女さんが波止中くんに『考えれば分かる』と伝えたかったのではないでしょうか。けど、その後は文系科目ばかり履修していた、つまり理系科目、特に化学を深く『学ばなかったあなたに』とって『は難しい』かもしれない、という意味なのではないかと」
片桐はふと眉を上げる。「あっいや、ここまで話してくれた中で申し訳ないんだけど、僕は別に疑っていないよ? 小難しい顔で腕組んだのはさ、彼女さんはなかなか粋なことをする人だなぁって思ったんだ」
「粋?」光莉は感心している片桐に、訝しげな表情を向けた。「これもただの駄洒落じゃないですか??」
「違うよ違う。もぉ、風情が無いなぁ。いいかい、エトっちゃん。かの文豪が、アイラブユー、を何と意訳したか知ってるかい?」
「月が綺麗ですね」
知らないとでも思っていたのだろう。当たり前のように返されてしまったことに、片桐は少し残念そうな顔で、「そ、そうだな」と口にした。
「とにかく、意味合いはそれと同じさ」
「おんなじですかねぇ」光莉は納得できなかった。「アタシには連想ゲームにしか思えませんでしたけど」
「おいおいおい」指先を額につけて、少し垂れた首を左右に振る。
「思い出してごらんよ。ラジオメールの文章には、思い出をリストアップしている箇所があったの覚えてる? その中に、謎解きをしたってことがあったでしょ」
そういえば、と思い出す光莉。
「それってつまり、彼の思い出の中でも色濃く残っているってことじゃないかな。なら、彼女にとっても、謎解きで遊んだことが思い出に残っていてもおかしくない」
光莉は、彼女は謎解き好きだった、と波止中が話していたことを思い出した。
「だろ? だからさ、もしかしたら、彼女自身が作った謎で最後、この関係を締めくくろうと思ったんじゃないかな」
わざわざ遠回しに、しかも面倒な伝え方を用いたことにどうも納得はいかない光莉。
月が綺麗ですね、だって、風情は良いものの、そのままの意味で取られてしまう可能性だってあるわけで。だからその予防策として、『最後の連絡』だと伝えていたのかもしれない。
彼女の気持ちとしては、たとえ送ったメッセージの真の意味が伝わらなかったとしても、最終的には『別にそれで構わない』ということなのかも……そんなことを脳内で呟いた。
「もしかしたら、彼女なりの優しさがあったわけで。つまりは、君のことを思っていたかもしれないってわけで。だから、ショックかもしれないけど、まあ前向きに……って、あーっと、気絶してらぁ」
「「は?」」美波と光莉が揃う。
二人が視線を向けると、口を半開きにし、遠い目をした波止中がそこにいた。言われ放題でも何一つ反応がなかったのはこのためだ。
「
「喜んでる場合ですかっ」光莉は急いで波止中の両肩を持ち、彼の身体を前後に激しく揺らした。帰ってきて! 戻ってくるの、波止中くんっ!!」
「……うっ、はぁっっ!」
意識を取り戻した波止中。途端、呼吸を忘れていたことに気付いたのだろう、酸素を取り込もうと一度に多量の空気を吸い込む。
「えっほっ、けほっっ」
そんな脳の緊急信号に肺の機能は追いつかなかったのか、波止中は激しくむせた。大きな咳をしながら、身体を前に折り曲げる。
「だ、大丈夫?」心配そうに顔を覗き込む光莉。
咳は止まらない。
「おーい、生きてるかぁ?」片桐も少し身体を曲げた。
美波は波止中の隣に行くと、「ゆっくり、慌てずに息を吸って。吐いて」と背中をさする。
「吐くことを意識して。酸素を出し切ってから吸って」と、美波のアドバイスのおかげもあってか、波止中の呼吸は次第に落ち着いてきた。
「あ゛ぁっ……」と、苦悶の表情を浮かべ、数秒そのままの体勢の波止中。呼吸が安定してくると段々と身体を起こすことができ、それから十数秒で元の姿勢に戻ることができた。
「も、もう治りました。平気です、すんません……」
気持ち悪さが胸元に残っているのだろう、声色からして、まだ平気ではなさそうだった。それには体調としての身体的なものだけでなく、気持ちの、精神的なものも含まれていた。
「動揺しちゃった?」片桐は話しかける。
「は、はい」
「で、気絶した?」片方の眉を上げる片桐。
「なんか突然ふっ……と、意識が無くなったんですよね……」
「そうだよねぇ〜、びっくりしただろうからねぇ〜、と言、い、た、い、ところだが」片桐は少し腰を浮かせ、座り直した。「なんとなぁくは、分かってたんじゃないの? 彼女に、最後の連絡だのなんの言われた時点でさ。どう、に込められた意味のオチは、ロクなもんじゃないってことぐらい流石に」
そういえば、と光莉は思い出す。フラれてたとしてもいいって言ってた。それは、本能的に予感していたのか否か、波止中自身がなんとなくでも気づいていた、ということに他ならないことではないだろうか。
「か、覚悟していたところもあるにはあります。無いと言ったら嘘です」波止中の声は大きかった。「けど、割合的には、その、前向きな意味合いだってことに賭けてた部分が多かったといいますか」
自らの主張に自信を持っていたからか、その声には強さすら感じられた。
「もしかしたら、口ではそう言っているけれど、実際には違うんじゃないかって。周りの目を気にしてそう言っていただけで、実際の俺への気持ちはあのメッセージの中に隠されてるんじゃないかって。そう思っていた割合のほうが多かったと言いますか……」
「周りの目でそういうことを言わざるを得なかったのだとしたら、それはそれで、君に問題があるってことになるんじゃないか」
片桐の言葉に、波止中は、がくりと肩を落とした。首も頭も、糸が切れた操り人形のように、プツンと一緒に落ちた。とどめを刺す、とはまさにこのことだ。
「波止中くんもさ、いつまでもヨリを戻してくれるって期待をせず、この恋を引きずらずに、次の恋へと進みなさい。さすれば与えられん、よ?」
「そう、ですね。はい、前に進みます」
「よし」片桐は手を叩く。「じゃあ閑話休題、というこって、この話はこれでおしまい。いつのまにか、フェードアウトしちゃった、本題に戻そうか」
「本題?」光莉は首を傾げた。
「忘れちゃったの? ほら、動画だよ。フェイク動画」
「ああ、そうでしたね」
光莉は思った。そうか、まだ謎は残っているんだ、と。
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