第4話 どうがいいとわかっても~世間を騒がすディープフェイクで作られた告発動画と奇妙な言葉を残して消えた恋人……二つの騒動に隠された真実と伝えたかった想いを、いま〜

1.あなたはどう読むか

 光莉がコインランドリーに着いたのは、いつもより遅い時間であった。理由は残業のせい。


 とはいえ、残業自体は今日に限ったことではない。なんとなく帰りづらい空気感のせいで、残業とは名ばかりに普段もしている。

 しかし、忙しさの密度、というのは時期によって異なるもの。暇な時は暇だが、忙しい時はてんてこ舞い。


 今日の残業理由は後者。どうしてこうも重なるのだろうか、というぐらいに仕事が立て込んでいた。そして、どうして忙しい時に限って、次から次へと期日までタイトな仕事が舞いこむのだろう。


 仕事の依頼が増えれば、会社の利益は出る。当然、会社にとっては嬉しい悲鳴なのだろうけれど、当の対応する社員たちにとってはただの悲鳴でしかない。

 だがしかし、仕事がなければ給料やボーナスは減る恐れがある。もしかしたら首を切られる。最悪の場合、倒産なんていうことも。

 仕事を回していかないと、結果的に自分たちの首が絞まってしまう。株式会社とは、ひいては資本主義とは、何とも厄介な仕組みである。


 疲れも溜まっていた光莉。普段よりも少しばかり足取り重い状態で、コインランドリーの自動ドアをくぐった。


〈えー、今日のラジオテーマは、最近身の回りで起きたなんかよく分からなかったこと、です。番組も終盤ではありますが、まだまだメールをお待ちしております。採用された方には素敵なプレザントもご用意。宛先は……〉


 早速聞こえてきたのは、垂れ流しのラジオ。相も変わらず、番組はマスモリのラジオ特報便。アシスタントのモリモトの声が、店じゅうに響き渡っている。


「遅かったね?」


 光莉はラジオのせいで、声をかけてきた片桐に気づくのが遅れた。視線を向ける光莉。

 いつものように作務衣姿の片桐は既に店の中にいた美波と隣り合わせで座っていた。光莉から見て手前側には美波が。片桐はその奥におり、少し身体を傾けて美波越しに、光莉へ声をかけた。


「ええまあ、ちょっと。仕事が立て込んでまして」


「お、お仕事お疲れ様です」


 一方の美波は、労いの言葉をかけながら、軽く会釈をした。ショートな黒髪と丸い眼鏡が微かに揺れる。膝の上にはランドリーバッグを抱えており、洗濯物が中に入っている。

 これから洗濯するのか、もう終えたのかについては、洗濯物が濡れているのを見る限り、もう既に終えているのではないかと光莉は推測。

 おそらくは、帰ろうとした時に片桐から話しかけられ、タイミングを逃してしまったのだろう。二人の性格が分かってきていた光莉にとって、想像に難くないことであった。


「ありがとう」


 光莉は嬉しさを感じていた。会社で交わされるありがとうの言葉はどこか乾いている気がしていた。気持ちがないわけではないのだが、確実に薄い。反面、美波の言葉にはその乾きが無い。意味が込められた湿度を感じていた。だからこそ、心から労ってくれているような気が、光莉にはしていた。


「しっかし、大変だねぇ、社会人は。こんな遅くまで」片桐は傍らに置いていたワンカップを一口。「そんなに働いたら、エトっちゃん嫌になっちゃうよね。身体を第一に、程々にね」


「……えっ……あっ、はい。ありがとうございます」


 光莉が返答に遅れたのは、社会人は、というまるで距離でも置いているような言い方の違和感とその背後に真の意味を汲み取ろうとしたから。

 だが、そんなこと分かるはずもなく、泣き寝入りとなるのが常。最近ではもはや考えることすら無意味な気がしつつある中で、今回もご多分に漏れず、光莉は諦めた。

 それに今回は引っかかるところがあった。


「そういう片桐さん、も?」


「まあね」頬杖をつく片桐。「少々、いやかなり苦労しててね……今もミナっちゃんに相談していたところ」


 光莉は二人のそばに腰かけた。「相談、ですか」


「内容はね、日本語の複雑さについて」


 片桐の口から出たのは、まるで論文の表題のような台詞であった。


「あー……確かに」疲れのせいでか半分うわべで答えてしまった。光莉はすぐ後悔するも、口にしてしまった以上、今更後には引けなかった。「日本語は世界で一番難解な言語、なんて言われたりもしますからね」


「難解、なんかい」


「……」


「そう、なんかいっ」


「……」


「……なんつって」


 口角を上げる片桐。


「駄洒落ってことは、はい、理解はしてます。問題は、話題を放り投げたことです」


「あれ。振るじゃなくて?」


「はい」


「そんな匙みたいに言わないでよ」


「匙なら、単に投げた、だけです。放りはしません」


「細かいことはいいのさ」構わず話を続ける片桐。傍らから紙の束を取り出し、両端を持って、カウンターに立てた。「んじゃあ、これはなんて読む?」


「ええっと」光莉はじっと見てみる。答えは簡単だった。「きる、ですかね」


「うんそうだね。次は、これは?」


 紙芝居の要領で、手前に出している紙をぬき、奥に眠っていた次の紙を出す。


える、ですね」


「じゃあ、これ」同じやり方で、新たな紙を見せていく。


い立ち、です」


「なら、これ」


「芝


「うぅんと、これっ」


「羽にゅうっ、または羽っ」


「これ!」


なり業!」


「これっ!」


あい憎っ!」


「これぇっ!」


いけ花ぁっ!」


「これぇっ!!」


醤油ぅっ!!」


「もぉういいっ!!!」片桐は唐突にやめた。怒り半分で、紙を置いた。


「もうさなんなの? む、って、漢字一つに何個読みがあるんだって思わない? いにしえの人、もっと漢字作っておいてよって思わない? なんで手を抜いちゃったのかねぇ」


 気持ちを吐き出せたからか、途端落ち着きを見せる片桐。


「というのをね、あなたはどう読みますかっていうことを、話をしていたんだよね」


「言われるまで気にしたことなかったけど、確かに多い……えっ、ちょ待って下さい」光莉は抱いていた違和感を口にする。「この紙は?」


「もちろん、この説明のために用意したんだよ。やっぱさ、訴えかけるならば、ワープロとかじゃなく、こういう手書きでね、人肌ってものを感じられるように昨日から一枚一枚丁寧に……」


「片桐さん」辛抱たまらず光莉は口を開く。


「ん?」逆に口を真一文字に閉じて、眉を上げている片桐。


「……えっ、暇なんですか?」


「失敬だな、エトっちゃん。僕はね、人よりも、多少、時間があり余ってるだけだよ」


「あっ……そうですか」


 片桐の扱い方にも慣れてきた光莉は、それ以上問わなかった。


 そこに、ひとりの男性が反応の遅さに驚きながら、店の自動ドアを通った。手に持っている洗濯カゴには、衣服が一杯に入っていた。上には半分まで飲んだスポーツドリンクがのっている。

 格好からして大学生ぐらいの男性。脇目も振らず一直線に、奥の洗濯機へと歩いていく。こちらのことなど見向きもしないのは、耳の穴にはめた黒いワイヤレスイヤホンのせいで、自分の世界に没頭しているからだろう。


 そのまま光莉は目で追うが、あまりじろじろと見続けるのはよろしくない、と、ふと我にかえり、やめる。そしてまた、視線と意識を戻した。


「はぁぁあ」片桐は身体の向きをテーブルに向けると、両腕をついて、顔を乗せた。背中はこれでもかとへこむようにカーブしている。「日本語の難しさを抱えながら、どうこれからの人生を生きていけばいいんだ」


「そこまで考えなきゃいいんじゃないですか?」


「そんな殺しょうな!」


 また出てきた。光莉はそう思いながら、「第一、そんな字の読み方が多過ぎるからって怒られても」と続ける。


「怒ってはいないよ。苦言を呈してるだけ」


「同じですね。困ります、苦言呈されても……」


「さ、さっき言いそびれてしまったのですが」美波が珍しく割って入る。「確かそれって、に、日本語の中でも一番読み方の多い漢字と、い、言われているかと」


「えっ、そうなの?」


「例えば、ち、地名ですと壬生みぶ福生ふっさといった、と、特殊な読み方のもあります。それから、な、名前になると、もはや際限はなく、麻生あそう桐生きりゅう。め、珍しいものですと、生見ぬくみとか宿生木やどりぎ、ええっとそれから」


「ごめんごめん、なま半可な気持ちで言ってごめんよ」慌てて止める片桐。「一しょう懸命頑張ってはいるんだけど、恥ずかしながら余りに多過ぎて脳が追いていかないんだ。おじさん、置いてけぼりなんだ」


「す、すみません。この辺にしておきます」


「しかしまあ、そんなにあるんだね」片桐はしみじみと頷く。


「こ、古語や特殊な読み方等も含めれば、およそ、ひゃ、百はあると言われています」


「そんなに!?」


「はい」こくりと頷く美波。


「にしても、ミナっちゃんは相変わらず物知りだねぇ」


「いえ、これはつ、ついこの前大学の講義で耳にしただけで。た、ただの受け売りです」


「あれ?」洗濯機の方から声が聞こえる。さっき入ってきた男性だ。「あれれ……どこだ?」


 見ると、ケータイをどこかにかざそうとしている。電子マネーかバーコードで決済しようとしているのだろうが、端末がどこにあるのか分からず、狼狽えていた。しかし、ここにはそもそも電子決済できる端末などない。


「外観からしてもそこまで最新じゃないのにね、ここは」片桐は口をとんがらせる。


「ちょっと、手伝ってきますね」美波は椅子から立ち上がる。


「お、おう」片桐は歯切れの悪い反応をする。


 すたすたと歩いていく美波。


「段々治ってきたのかね」その後ろ姿を見ながら、片桐は光莉に身体を近づけた。


「何がです?」


「人見知り」


「あぁ」以前よりも話す機会は確かに増えた。美波のほうから喋りかけてくれることも。「エトっちゃんのおかげで」


「ア、アタシ?」光莉は思わず自分を指差す。


 美波は男性に近づき、声をかけた。光莉と片桐には話している内容は聞こえてこない。


「いやだって、前まではそんなことなかったからね。話す人が僕ぐらいだったってこともあるかもしれないけど、なににせよエトっちゃんとのやり取りで、変わっていったところはあるよ、間違いなくね」


「はぁ……」実感がない光莉。「お役に立ててるようならいいんですが」


「まあ、備わって困る能力ではないから」


「あれ、浜音さん?」


 コインランドリーじゅうに響くあの男性の声。光莉と片桐は身体を向けた。


「あっやっぱそうじゃん、浜音さんだ」相手の男性は付けていたイヤホンを外し、意気揚々と喋り出す。「えぇ、あれ? なんでここにいんの??」


 最初困惑の表情を浮かべていた美波。だがすぐに思いついたようで、「あっ、もしかして……」と声をかけて喋り始めた。美波の表情も柔らかくなる。雰囲気は悪くなさそうだ。


「なんだなんだ、これは運命のいたずら的なやつかぁ?」実況中継のような口調の片桐。顔は何故かにやけている。「はたまた、恋の予感的なやつかぁ?」


 めんどくさいオジサンの典型的な絡み方を、横目に見る光莉。もちろん、無視を決め込んだ。

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