5.隠したかった事

「予防線を張るわけではありませんが」


 美波はそう前置いてから、左方向へと歩いていく。


「ラジオの時と同じく、私がこれから話すことは、頂いた情報の中から導き出した、結論の一例です。合っている合っていない、というのは定かではない、というのが正直なところです。ですのであくまで、仮説、としてお聞き頂ければと幸いです」


 美波は身体を半回転させ、光莉と片桐がいる方へと戻ってくる。


「まず第一に、弐瓶さんは猫背にしたかったわけでも、ましてや猫背が好きだったわけでもありません。そこには、猫背にしなければいけなかった理由、というものが隠されています……」


 勿体ぶる言い方をしたかと思えば、美波は「が、その前に」と、急に立ち止まる。途端踵を返し、二人のほうに身体を向けた。


「例えばですが、今、衛藤さんが駅まで向かいたいとします。しかし、土地勘など無く、どう向かえばいいのか全くもって分からない。そのため、どうにか駅までの道を教えてもらおうと、近くにいる人へ声をかけようとしたとします。そこにいたのは、二人。酷い猫背の人と普通に背筋を伸ばした人。その時、衛藤さんであれば、どちらにお声をかけようとしますか?」


「かけ易そうって考えたら、そりゃあ後者だけど」まじまじと見られている光莉は、目線を逸らした。


「同じ問いかけに大半の方がそう答えるというのは、想像に難くありません。となれば、弐瓶さんもそう考えていたとしても、特段おかしな話ではないですよね?」


「えっ……弐瓶さんもそう考えて、猫背にしたと?」


「おそらくですが、わざと猫背にしていた、皆にそう猫背を見せていた、というのにはそういった側面もあった、のではないかと」


 ふと光莉は、片桐が弐瓶さんの猫背について話した時に、話しかけるのを少し躊躇う、と言っていたことを思い出した。ただ聞いただけでそうなのだから、実際に目の当たりにしたら尚更だろう。


「脱線しましたね。すみません。では、本題へと参りましょう」


 美波は歩みを再開する。


「弐瓶さんは何故、猫背なのか。その仮説を思いついたきっかけは、お知り合いの方と、その先輩の、猫背への表現が最初でした」


「表現?」


「ええ。衛藤さんが仰っていたのは確か……」虚空を見上げる美波。「お知り合いの方は、首が七十度ぐらい折れ曲がり、肩はぐっと内側に巻き込んでいた、そう仰っていたのですよね?」


「ええ、そうだったはず」


「けど、先輩は、首を少し落として肩をぐっとすくめた丸い姿勢、と仰っていた」


 片桐は「エトっちゃん、その表現に間違いはないの?」と問う。


「ええ。実際に見た姿をありのままに言っていたかと」


 そう光莉が言うと、美波は再び二人の前で立ち止まった。「試しに同じ姿勢をしてみましょう。まずは、お知り合いの方から」


 そう言うと、美波は首を七十度に曲げて、肩を内側に巻き込むような姿勢になってみせた。


「私の主観が入ってしまっているため、正確さに欠ける部分がありますが、おおよそこのような形ではないかと。では、次に先輩のを」


 そうして今度は、首を落として角度をつけ、さらには肩と顎の位置が一直線になるように身体を埋め込んだ。「こんな……感じですかね」


 少し息苦しそうに美波が呟く。その姿を見て言わんとしたいことを、光莉は汲み取った。というより、すっと飲み込むことができた。見比べてみれば、その違いは一目瞭然であったからだ。


 その丸さ、猫背の角度が先輩のほうが緩いのだ。言い換えれば、先輩のほうは、猫背が酷くない、のである。


「ここまで首が深く曲がっていたとすれば、それを見て、少しという表現をした、というのは、考えにくい気がします」


 美波はそう言って、姿勢を元に戻した。いつも綺麗に背筋が伸びているから、少し辛かったのだろう。戻す時に一瞬だけ目元が歪んだ。


「けど、少しっていう表現の度合いは、人によってだからねぇ」片桐は腕を組みながら、言葉を発した。


「仰る通り。人によって、様々です。しかし、そこに受け手との身長差という要件が加われば、どうでしょう。違った側面が見えてきませんか?」


「身長差?」片桐は少し眉をひそめた。


「その少しというのが、仮に本当に少しだった、とすると、それぞれが見ていた首の角度などの体勢そのものが異なっていたのではないかと思えば、納得がいくのです」


 最後の質問はそういう意味でしたのか。光莉は心の中で呟いた。


「もし猫背になっていたのが、背丈の違う人によって異なるのだとすれば、猫背にしていた本当の目的は、猫背の角度によって見える、視線の先にあるものなのではないでしょうか」


「視線の先……」それが何なのか、光莉は閃かない。


「お知り合いの方の表現とすると、普通にしていたら、目線はどの辺りに来るんでしたっけ?」


「それは確か、胸元辺り……あっ!」


「ええ。そうです。皆さんに共通して、そこにあるものといえば……」


社員証・・・、か」


 片桐の呟きに、美波はこくりと頷いた。


「猫背の角度が変わっていたのは、その人の身長に合わせていたから。つまり、猫背の真の目的は、常に社員証が目に入るようにするため、ではないでしょうか。これで、平日休日関係なく、仕事がある時にだけ猫背であったことに、一応の説明がつきます」


「「成る程」」光莉と片桐は口を揃える。


「もっと言えば、髪を長くしたということも、これに関係しているのではないかと考えています。いくら猫背でも、社員証へ目線が向いていれば、なんとなく気づかれる可能性は高い。それを長い髪で覆えれば、視線をある程度まで誤魔化すことは出来ますから」


 そうかそうか、と納得を交えた頷きを繰り返す光莉であった。


「さてここでまた新たな疑問が出てきます。何故酷い猫背をするまでに、社員証を見ていたのか、ということです。そこまでしていたのには、よっぽどのもの理由があるはずです。普通であれば、少し目線を落とせば済む話なのに、弐瓶さんはそれさえも避けていたのですからね」


「そう、なんだよね……」そこに関しては、光莉も思っていたところだった。


「ではここで、また一つ質問です。光莉さんがもし、話している相手が会うたびに毎回社員証を見ていたら、どう思うでしょう?」


「まあ」光莉は虚空を見る。「名前を覚えられていないんだなって」


 すると、何かを察したような表情の片桐が「少なくとも、良い気持ちにはならないかもね」と付け加えた。


 閃く光莉。「まさか、そう思われないようにするために?」


 こくりと頷く美波。「ええ。毎回社員証を見るため、です」


 その回りくどさと手間のかけ方に、少し同情を含んだ声色で話す。「でも、なんでわざわざこんなことまでして……」


「それは多分」片桐はワンカップを傾けた。「忘れちゃう・・・・・からじゃないかな」


「忘れる?」光莉は首を傾げた。


「ああ。昔見たドラマでやってたんだ。事故とかの後遺症で、時間がある程度立ったり、寝たりすると、それまでの記憶がリセットされて、忘れちゃうっていう。前向健忘症、とかいうんじゃなかったかな」


 へぇ、と感嘆の声を漏らす光莉。


「実はその可能性も考えてみたんですが」と美波は言うと、視線を光莉のほうへと向けた。「衛藤さん、確か、会話をしてみる分には問題が無かった、とお知り合いの方は仰っていたのでしたよね」


「猫背のこともあってコミュニケーションが取りづらかったけれど、実際問題、仕事の話は出来ていたし、何も取れなかった、ってわけじゃなかったはず」


「誰と何の会話をしていたのかは覚えていた。つまり、リセットはされていない、ってこったな」


「そうなると、社員証を見ていた、という行為は、記憶が無くなっていたせいではなく、社員証から分かる一番の情報、どこの誰なのかということを判別すること。言い換えれば、人を識別することに関して、不安がっていた、と考えるのが、ここでは適切かと思います」


 咳払いを軽くする美波。


「以上のことから私は、弐瓶さんは、相貌失認・・・・、なのではないか、と仮説の結論をつけました」


 一瞬訪れる沈黙。聞き馴染みのない単語であったからだ。


「そ、ソウボウ……シツニン?」光莉は片言の拙い日本語で繰り返す。「それは一体?」


「顔の区別する機能だけが働かず、人の顔を覚えられないために、誰なのかを顔で判別することができない、別名、失顔症しつがんしょうともいう脳障害の一つです。勿論、それぞれに程度が異なるため、自分がそうだということにすら気がついていない程度の発症の場合もあるため、人によってまちまちという側面はありますが、およそ百人に一人、発症していると言われています」


「そ、そんなに?」まさかの人数に驚きの声を上げる光莉。


「公言しているハリウッドスターもいるぐらいですから」


「「へぇ~」」光莉と片桐は、自然と声が合った。


 片桐は膝を重ねた。「それは、顔を覚える記憶力のみが悪いとか、そういうこと?」


「いえ、あくまで顔を見た時に識別する能力がないのです。そのため、思い出すや覚えているといった記憶力とは全く別ものになります。他の認知能力に問題ないことが多いため、日常生活を送る上で特別な介助が必要でなかったり。それゆえ、他の人から分かり辛く、また理解されにくい、という難点があります」


「けど、話しかけた先輩のことは、よく覚えていなかったみたいだけど?」


 片桐は膝を組み直す。そこには、だって記憶を失っているわけではないんでしょ、というニュアンスが含まれていた。


「あくまでこれは私の予想ですが」


 美波はそう来ると思って、と言わんばかりにすぐさま用意していた、自身が考えていた可能性を話した。


「単純な記憶の風化と相貌失認の症状によって、思い出すことができなかった、と考えるのが妥当かと。例えばその先輩がよくある苗字で名乗ったのが苗字のみであれば区別ができない。そんな中で、何かの拍子で紐が捻れ、社員証が裏返しになってしまったりしていたとすれば、誰なのか個人を特定することができませんからね」


 社員証が裏返しなっていた……よく発生しそうな、多々ありそうなことではあるが、相貌失認の人にとって、名前を見れないという事象は、生命線を断たれるようなものであるのだ。


「つまり、その相貌失認って病気ってことがバレないように、猫背にして話しかけづらくしたり、社員証を見たりして、誤魔化してたってこと?」


「そういうことになります。営業から異動したのも、対人関係に支障が出てきてしまったからでしょう。まあ、相貌失認であることまでを会社に報告していないかもしれませんが。していれば、少なからず広がっていますでしょうし」


「ホント、人の噂ほど早くて広がるものはないからね……菌やウイルスなんかの比じゃないよ」片桐は軽く腕を組み、ため息を吐いた。


「ここまで来れば、疑問はあともう少し。しかも、自ずと解くことができる」


 もう少し……光莉はそれに心当たりも、ましてや実感もなかった。思わず、「というと?」と尋ねた。


「カフェで会っていた人、のことです」


 ああそれか、と頷いてみせた。


「弐瓶さんの背筋が伸びていた、猫背ではなかった、ということを考えると、これまでのことのを考えてみると、自ずと見えてきそうです」


「つまり?」


「つまり、相貌失認であることを告げている人物。会社に言っていないのだとすれば、候補とすれば、ご家族や親しいご友人の辺りでしょう」


「ちなみにだけど」片桐は組んでいた膝を解いて、前のめりになった。「関係性が深かったりすれば、識別ができたりとかするの?」


「いえ、残念ながら関係はありません。ですが、弐瓶さんが自身が患っていることについて打ち明けている、という可能性は大いに考えられます。だから猫背ではない普通の、ありのままの自分をさらけ出すことが出来た」


 これらは全て推論の域を出ない話ではあるのだが、光莉はどこか納得がいっていた。


「んで、これからどうする?」片桐が問いただす。その双眼は、光莉の方に真っ直ぐ向いていた。


「どうする、とは?」


「この事、エトっちゃんの知り合いには話すの?」


 光莉は思わず口をつぐみ、息をのむ。


「まあ、話していいか、悩むわな」表情から気持ちを汲んだ片桐が代弁する。


「少なくとも、絶対に相貌失認であるという、明確な証拠も確証もあるわけではないですもんね」


 そう続いた、美波の視線は少し自信を失ったように落ちていた。


「老婆心か、はたまた有難迷惑か。いずれにしろ、弐瓶さんの望んでいない形かもしれないね。確かに、ここで留めておいた方が良いことなのかもしれない。でも」


 片桐は笑みを浮かべる。それは酔っ払いのぼぅっとしたのではなく、優しさに溢れたものであった。


「そういうのがあるって知ることは大事な気がする。もしかしたら、猫背を治すことだって出来るかもしれない。なにせこの世に蔓延るいざこざは、殆どが思いやりの欠如のせいだから。ま、その知り合いにも、試しに言ってみれば?」


「けど、大丈夫でしょうか?」不安げに眉をひそめる美波。


「まあ……うん、問題ない気が、僕はしてるんだよねぇ」


 光莉を静かに見つめている片桐。その呟きには、確信めいた何かが見え隠れしていた。


「ま、言うのはエトっちゃんなんだから、その辺は本人の意思に任せるが」


「……分かりました」


 光莉は頷き交じりにそう答えた。

 反応が少し遅れたのは、言うのが嫌だというわけではなかったことに、年の功からか、片桐は気づいていた。

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