5.ゾーンという名の

「どうかしたか、って思ってるよね」


 意識していない方からかけられた声に、光莉はぎょっと肩を動かした。そこには、ぶら下げるようにしてワンカップの飲み口辺りを持った片桐が立っていた。


「あぁ、ごめんごめん」片桐は顔の前で手を動かす。「驚かしちゃったね」


 洗濯機は回ってはいるけれど、語る声はわりかし周囲に響いているはず。だが、女の子は反応を示さない。聞こえるのに無視をしている、のではなく、集中するあまり耳に届いていても脳まで届いていない、といった様子であった。


「別に変な子じゃないんだ。こういうことがあると、ゾーンに入っちゃうだけで、むしろ良い子さ」


 片桐は、「隣いい?」と声をかける。「あっどうぞ」と光莉はゴミを袋にまとめながら、席を譲る。「ではでは失礼」と隣に腰かけた。


 何故かどこか嬉しそうな片桐へ、気になるワードについて問いかける光莉。


「それで、ゾーン……というのは?」


 片桐は少し顔を寄せてきた。「彼女ね、本人が言ってたからそう表現するけど、癖があるんだ」


「ラジオを聞くことが、ですか?」


「ううん。そうだな……」表現に悩んでいる片桐は目線だけ右上に上げる。そして、少し自信なさげに「謎を解くってことが、と言えば通じるかな?」と口にした。


「は、はい?」予想だにしなかった返答に、光莉の顔はきょとん顔の気抜けしていた。


 片桐はカップ酒を小一口呑んで、一つ大きく息を吐いた。大きな仕事を成し遂げた、と言わんばかりに、何故か満足げな表情を浮かべている。


「す、すみません。仰っている意味がよく分からないんですけど……」


 光莉からの更なる問いかけに、片桐は女の子へと身体ごと動かして、視線を向ける。


「彼女、本が好きだって言ったのはもう知っていると思うんだけどさ、そのきっかけってのがあって。それが、シャーロック・ホームズなんだ」


 そう言うと、片桐は「あっ」と短い声を出し、光莉を見た。「ホームズは知ってる?」


「あっ、はい。確か、頭の良い探偵かなにかでしたっけ?」


 光莉も名前だけは知っていた。自発的に読んだことはなかったが、小学五年生の時に、隣の席の男の子が読んでいたのを、ふと思い出した。


「だから、古今東西の色々な本を読んでいるんだけど、やはり原体験ってのは強いみたいでさ、彼女、物事を必要以上に詳しく読み解いちゃうんだって」


「だってということは、本人が?」


「そう。本人曰く、考え過ぎちゃう癖があるんです、んだってさ。僕はそれを分かりやすく、ゾーン、って表現してるってだけなんだけど。彼女、集中するあまり、意識がどっか行っちゃって、何も聞こえなくなるんだ。それこそ、パラレルワールドにいっちゃったみたいに。ま、導き出せると、戻るんだけどね。それまではもう集中モード全開」


「へぇ……」光莉は口を少し前に出し、小さく頷いた。


「あのー、片桐さん」


 光莉はまたもぎょっと肩を動かした。見ると、二人のそばにいつのまにか、女の子が近づいていた。

 片桐は慣れているのか、さもこれが普通であるかのように「ほいほい」と上半身を向けた。


 光莉に見られているせいか、「えっと、あ」と、反面こちらは慣れていない様子で、明らかに萎縮している。先程の光莉による気まずさも影響していることに違いない。


 自分で撒き散らかした種。少しでも片すべく、光莉は立ち上がった。「遅くなりました。アタシ、衛藤光莉って言います」


浜音はまおと美波みなみと申します」


「よろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願い致します」


 互いに軽い会釈での一礼を交わす。


 あまりこういったところでは普通しないことではあるが、「そっか、自己紹介まだだったね」と片桐はにこやかに言った。


 会話が開いてしまったことに、光莉は「どうぞ続きを」と促す。


 女の子こと美波も、「すみません」と軽く会釈して、片桐を見る。


「恥ずかしながら、私、スマホを忘れてきちゃったみたいでして。もしよろしければ、片桐さんのをお貸しいただければと」


「おうよ」片桐は両膝を軽く打って、重い腰を上げる。置きっぱなしにしていたカウンターへと戻っていく。「向こうだからちょいっとお待ちよ〜」


 距離が開くほど言葉を届けようと、片桐は声を大きくしていく。


「お手数おかけします」つられて、美波の声も大きくなる。


「あの」光莉は、会話が途切れた隙を見て、美波に声をかける。「さっきは先走ってしまったというか、なりふり構わずにしてしまったというか、なんというか……ホントすみませんでした」


 頭を下げる光莉。


「いえ」身体の前で両手を振る美波。「その、お気になさらないで下さい。それも……これも」


 これも、というのが今している、しようとしている推論であることを察した光莉。片桐に声をかけた時の表情もどこか、見られてしまった、というような、隠し事がバレてしまった、といった顔つきであった気がしていた。


「ああ、片桐……さん?、にお聞きしました。ミステリー小説が好きだとか」


「はい。小さい頃からホームズが好きで、い、色々と読んでて。今でも図書館で、か、借りたり、本屋さんで、か、買ったりしてます」


「そーなんですねぇ」頷きまじりに反応する光莉。


「はい」美波からは二言だけの返事。


 まもなく流れそうな沈黙に耐えられそうにないことが容易に想像できた光莉は、咄嗟に「アタシもこういう、謎解きっていうんですかね。好きなので」と、良い意味でも悪い意味でも、社会人になってから身につけさせられた相手に合わせる、という発言をした。


「え? そうなんですか??」途端、美波の顔がパァッと明るくなった。良かった、という言葉が顔に滲み出ていた。


「で、では、さっきのラジオ投稿で、な、何か気づいたことはございましたか?」


「い、いや」急に生き生きとし始める美波に、光莉は言葉に詰まらせる。「ごめんなさい、好きなんですけど、得意というわけではなくて……へへ」


 予防線を張りつつ、光莉は頭を掻いて躱す。


「も、もし何かお気づきになられましたら」


「ああ、その時は伝えます。はい」


 光莉がこれまでの人生でそうあることのない台詞を聞いていると、一方の片桐がサンダルを引き摺りながら戻ってきていた。


「ほい、どうぞ」


「ありがとうございます」ぺこっと小さい頭を下げて、受け取る。


 インターネットに接続し、両手打ちでフリック入力をする。時折、頷きまじりに満足げな顔をするのは、一応確認、という発言からも読み取れる通り、自身が予想した答えが正解していたことからくる反応だろう。


 美波は両目を左から右に、上から下に、素早く動かし続ける。

 光莉にはその動作がコップに注ぐように情報をなみなみと蓄えていっているように見えてならなかった。


「片桐さん」


「ん?」


「動画を見てもよろしいですか」


「えぇっ!?」酷く驚く片桐。


 美波は口を開くと、顎をぐらぐらと動かす。「あっ、すみません。やめておき……」


「嘘だよ、冗談」言いかけで、片桐は笑って返す。「見ていいよ」


「あ、ありがとうございます」


 美波はまたも素早ぐ画面にタッチすると、スマホを横持ちにした。


「長い付き合いなのにまだ慣れないらしい」と、眉を上げた片桐は光莉を見る。光莉は、そうなんですね、と言わんばかりに、数回小さく頷いた。


 かと思うと、また縦に戻した。少しすると、横に変える。縦横を繰り返す。


 不意に画面に目を凝らす。猫背を悪化させ、じぃっと見つめる。


「やっぱり」


 美波は目を離し、背を起こす。自然と笑みの浮かんでいるその表情には、満足、の二文字が書いてあるよう。


「その感じ、分かった?」


 片眉を上げて尋ねる片桐に、美波はスマホから完全に目を離し、二人を見ると、こくりと頷いた。


「おそらくは」

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