3.偽善的正義感

 光莉はコンビニのビニール袋をぶら下げながら、ランドリーへと道反対に戻っていく。


 案の定、珍しいアイスがあった。チョコミントのカップアイスで、中に炭酸キャンディが入っているもの。口に入れるとパチパチと弾ける食感が嬉しい。

 コーンも好きだが、光莉はカップも好きだった。コーンなら全てを食べ尽くせるし、溶けたアイスとコーンを食べるのが好きだという人がいる。確かにそうだ。それに反論はない。しかし、カップアイスにはカップアイスにしかない、木の小さなへらで強くさしこんで掬う感触はカップにしかない。

 ネックは少々お高めなこと。けれど、光莉は思う。まあでも、洗濯機が壊れるなんて不幸があったんだ。埋め合わせとして、それに週末のご褒美として、遠慮なく食べようじゃないか。


 思わず出てしまいそうになるにやけ笑いを、屋外だからと噛み潰す。


 入口の扉の前に立ち、開くのを待つ。一瞬の間。その間で、分かったことがあった。


 片桐と名乗った男性は相変わらずワンカップを片手に、前傾姿勢でカウンターにいる。

 そのあい向かい、カウンターのテーブルを挟んだ反対に女性がいたのである。


 ターコイズブルーの半袖ニットTシャツ、黒のキャミソールワンピースを重ね、少し履き古しているオレンジのパンプスを身につけていた。微かに見える両手は、陽の攻撃の効かないぐらい、まるで白い何かで塗ったのではないかと思うくらい、色の綺麗な肌をしていた。

 シャープな顔の輪郭に似合う、細い丸眼鏡をかけている。髪は黒のショートヘア。前髪は少し長めで、少し俯くと目元が隠れてしまう。その隙間からちらりと見えるその童顔は可愛らしいと男女問わずに口にされるであろうと予想できた。

 さっきまではいなかったはずだ、と思うと同時に、光莉はその見た目から自身より歳下だと思った。そういった意味では、女性というよりは、女の子、という表現の方が適している気がしていた。


 遅れて、自動ドアが開く。


「じゃあさぁ、今度食べ行こうよ〜」


 途端、あの男性の声が聞こえた。話しかけるようなそんな言い方。


「あっ、おかえり」


 開閉音で気づいたのか、片桐は光莉の方へと顔を向けてきた。遅れて、その女の子も。


「お目当てのものはあった?」片桐はちらりと光莉の袋を一瞥して、そう言った。


「ええ、まあ」


「あらそう」片桐はそうとだけ反応すると、話の続きだったからか、またも女の子へと視線を向けた。「で、行こうよ。二人でさ」


「えぇっと……」伏し目な女の子は、迷っているよう。


「いいじゃんいいじゃん」


 それは、片桐がナンパして押し切ろうとしている様子にしか、光莉には見えなかった。


 この光景に、光莉は訝しげに眉をひそめた。確認の意味も込めて、また女の子へと視線をやる。目が合う。それで一瞬、彼女と目が合うも、下に逸れる。

 人見知りなことは重なった時になんとなく察したが、何より一瞬の眼差しに、光莉はさらにある事を読み取った。助けて欲しいのだと。

 もっと言えば、片桐という男にナンパされてることから助けて欲しい、ということに。


 今この場にいるのは、目の前の二人を除いて光莉だけ。つまり、光莉が帰ってくるまでは、二人っきりだったということだ。

 寂しかったろうに、心細かっただろうに、怖かったろうに……様々な感情が自然と浮かんでくる。


 偽善的な正義感、と揶揄されてもいい。今、助けられるのは自分だけ、しかいないんだ。だったら、なんであっても動くんだ。


 光莉は考えるよりも早く、女の子の前に身体を入れる。半ば無理矢理割って入る。そして、にこやかな表情で。


「まあまあ、この辺にしておきましょうよ〜」


 長い都会生活で身につけた世渡り術というやつ。いわゆる処世術。波風を立たせぬよう、逆撫でしないよう、やんわりと話と気を逸らそうと試みる。


 しかし、「いやいや、こういうのは、ちゃんと話を決めておかないとうやむやになっちゃうから。新鮮さが命だから」と、よく分からない理論を打ち出してくる。どうやら引く気配はないようである。


 やることをやらねば、聞く耳はもたないみたいだ。光莉は決意したように、小さく小さく頷く。そして、心の中で、よし、と声を上げた。


 光莉は眉間に皺を寄せて、見つめ直した。「片桐さん、でしたっけ」


「え?」声色を落としたことに驚いた様子。


「大の大人が女の子にナンパとか、何考えてるんですか。彼女、怖がってるじゃないですか」


「ナ、ナンパ?」


 片桐は両眉を上げる驚きの顔を浮かべると、意図に気付いたのか、姿勢が自然と起こされた。


「あっ、いやいや、確かに怪しげに見えるかもしれないけど、こう見えて、仲良いだけだから。ミナっち、って呼んじゃうぐらいの関係性だから、こう見えて」


 こう見えて、と何故に強調するように繰り返す片桐に対し、光莉は怒りの形相で睨みつけ、「すっとぼけないで下さい」と続けた。「今度二人きりで食べに行こうとか、誘ってたじゃないですか」


「違う。あっいや、まあそうだけど、誘ったのは仲が良いからであって……」


「はぁ?」光莉は不機嫌そうに口を開き、眉間に皺を寄せる。「このごに及んで、言い訳する気ですか」


「違うよ違う。本当に違う」


「まあいいです。全てはこの子に聞けば自ずと分かることですから」光莉は振り返る。びくりと肩を動かす女の子。「ナンパされてたんだよね」


「え?」


「いいんだよ、正直に言って」


「え、えっと……」女の子は目を泳がせた。


「大丈夫、何があってもアタシが全力で助けるから」


 女の子は光莉の言葉に、少し顔を上げた。それにより、また目が合った。けど、すぐに逸らす。口籠るように、唇を内側に巻いて濡らした。


 流れる沈黙。まるで言いくるめられているような気がしてならなかった。


「沈黙は正解、ってね」光莉は振り返る。「これ以上、この子にちょっかい出せば、出るとこ出ますよ」


「出るとこ?」


「皆まで言わせます? 例えば、そうですね、警察とか」


 片桐の目つきが変わる。「け、警察?」


 女の子も動揺したのか、慌て出す。


「なんですか、やましいことでもあるんですか」


「やましくは、ないけども、警察はちょっと……ね?」


 この人、もしかして前科でもあるんじゃ……だから、こんな反応なのではないか。


 光莉は眼光鋭く見つめ、「じゃあ、尚更、行きましょうよ」と、距離とともに詰めていく。


「何故!?」片桐は大きな動揺の反応を見せる。「なおさら、なんで行く!?」


 叫び声は聞かない。聞いても変な弁明をされるだけで、意味はない。光莉は片桐の服の裾を引っ張って、無理矢理に連れていく。

 勢いのせいで、アイスの入ったコンビニの袋が一度離れて、手元にぶつかった。


「すぐそこに、ほら、交番ありますから、詳しい話はそこで……」


「あっ、あのっ」


 女の子は声を張り上げた。慣れていない様子は声色からうかがえた。


「ほ、本当に違うんです。片桐さんとはその、ここのコインランドリーで、その、本きっかけで仲良くなって……」


「え? 本?」


「そう。小説」片桐が続ける。


 そういえば、と、光莉は視線を落とした。最初片桐のことを見た時に、カウンターに無造作に文庫本が置いてあったことを思い出したからだ。現に今も、傍らに置いてある。


 仕事以外でファッション雑誌か週刊漫画雑誌ぐらいしか活字に触れることのない光莉であっても、何度も長く読んでいるのが分かるくらい表紙がよれていることぐらいは分かっていた。


「どのジャンルが好きだとか、どんな新作小説が面白いかとかで意気投合してね」


 目を開く光莉。「ほ、本当……ですか?」


 静かに女の子に顔を向けると、「……はい」と、二言だけ答えが返ってくる。


 流れる沈黙。聞こえるのは、垂れ流しのラジオでの話し声。


「あっ」女の子はスマホを取り出すと、なにやら操作し始める。「あの、証拠になるか分からないですけど」


 画面を光莉に向けた。そこには、一枚の写真が。どこかは分からないが、夜、片桐とのツーショット。女の子もにこやかに腕を組んでいる。女の子の方から組んでいるところを見ると、強制的に撮らされたとかではなさそうであった。


「ああそれか。やだぁな、懐かしいし、恥ずいなぁ」両手を前で小さく振る片桐。


「あぁ……えぇっと」


 光莉はここにきて一つ、女の子が今、何も持っていないということに、気づいた。

 ここはコインランドリー、衣類を洗うために足を運ぶ場所だ。何も持っていないということは、もう既に洗っていることがない限り、普通は起こりえない。

 さっきまで気づかなかったが、左奥の洗濯機が一台、回っている。窓から、中で洗剤と水が混ざり合っているのが遠目に見える。洗濯機の上には、少し横幅のある茶色い紙袋が置いてあった。

 この状況はつまり、洗濯物とお金を入れて洗ってから、袋を上に置いてきてから、わざわざ彼女の意思でここに戻って来た、ということだ。


「あのー、その」光莉はきっちりと身体の側面に手をつける。「大変っ失礼いたしましたっ」


 光莉は大きく腰を曲げた。


 逃げ出したかった、穴があったら入りたかった。これほどまでにそう思うことは今まで一度もなかった。


 余計なお世話であったことに、いい得もしない小っ恥ずかしさが身体をぐるぐると駆け巡る。思わず心臓の鼓動が少し早くなって、両耳が赤くなっていくのを感じていた。もういっそ洗濯機口という穴に入り、ぐるんぐるんに回して欲しかった。それで、恥という汚れを落とせるのならば、本望であった。


 けれど、光莉よりも先に衣類を洗い始めている以上、回収する必要がある。立ち去ることはできない。仮に今去ることができたとしても、洗濯が終わる前後で戻ってこなくてはいけない。まるで見えない糸で繋がれているような気分がしてならない光莉であった。


「いやはや、面白いね君」片桐は、けたけたと笑っていた。「なんか気に入った」

 失礼だな君は、どこのどいつだ、とばかりに怒られることを想像していて、なおかつそうなることは至極当然だと思っていた光莉にとって、それは予想だにしない反応であった。


「その、初対面で関係性なんて分かってないのに、なんか勝手に想像して先走っちゃって……ほんと申し訳ありませんでした」


 二人に向けて、ここぞとばかりに頭を下げる光莉。


「いえ。別に私は」と、女の子は少し身を引くようにして、答えた。


「まあ、見えなくはないからね。いいよ、全然。別に気にしてないし、ひっそりと警察を呼ばれたりしなかっただけ、マシさ」


 とは言われても、光莉の脳裏によぎったのは、もうこのランドリーは使えそうにない、ということ。


「ミナっちが良ければ、僕はそれで」


「わ、私も……です」


「ありがとうございます」光莉は改めて深く一礼した。


 自ずと流れる沈黙。


 光莉はいたたまれなくなり、自身が回している洗濯機の前のベンチへと足早に去った。アイスの袋が大きく揺れる。


 見ると残り時間は十五分。乾燥はいい。脱水まではしてくれるのだから、後は家で干して乾かせばいい。それに、持ち帰るのは別に要らないエコバッグ。


 ただこの上なく居辛さを感じるこの空間を抜け出せれば、多少濡れたとしても、一向に構わなかった。


 頼む。とにかく早く、早くこの時間が過ぎてくれ。光莉は心からそう願っていた。

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