企画の予告編のようなもの。

苦楽良 罅器

契約の時は来た

アラームが鳴る。24時間設定されていたアラームが騒がしく。

小さな黒いあの子が部屋全体の影に融けた。葉っぱから落ちた雫が水たまりに落ちるように表面は静かになっていて、黒いあの子はこの場からいなくなっていた。

風に吹かれて不気味に音を立てる。パタリ、机の上に立ててあった一冊の本が倒れる。遠目で分かるそれは道徳の教科書。

嫌な予感、というのか。異様に静かなこの時間が怖くなって逃げ出そうとする。立ち上がって、走り抜こうとする。外へと。ひたすらに外へと。

だがダメだ。もうダメなんだ。契約通りの時間、十八時三十七分となったのだから。

『死神』はここに来た。


なにかに足を掴まれて顥は逃げ出せない。逃げ出そうと体を前に前にとしていた顥は受け身も取れず無防備に床へと突っ伏しゴン、と大きな音を鳴らす。その拍子に鼻血が出てしまうほどには勢いよくぶつけた。

床に手をついて顥は自分のこけた原因である足を見る。そこにあったそれを見て彼女はきっと絶句した。ピタリと足にくっついた黒い影からガシリと足を掴む黒い手があった。こんなもの信じることはできない。こんなもの信じるのは余程のバカだと賢い子供はすぐに理解する。オカルティックな趣味の悪い黒い手を。

「なにこれ。夢?」

その疑問に答えるように強引に手は彼女に有無を言わさずに用意しておいた場所に引っ張る。痛みのせいで叫び声すら上げられずギチギチと歯を鳴らす。

「夢ではない、これから逝くのだ」と。無慈悲にも流れ出す痛みと恐怖は物語っていた。

「痛い痛い痛い‼やめて、待って‼」

抵抗しようと暴れてもなんの意味もない。上半身を起こして足についた黒い手を剥がそうとしても、そもそもそれに触ることができない。

「なんで?どうして?待ってやめてよ!離してよ!」

がむしゃらに拳を握り黒い手を殴りつける。だが一発目から殴りつけたのは自分の細い足。ぶつかりあった手と足には鋭い痛みが走り、痛くなるのはいやだから殴るのはやめた。そんなもの気にもとめない黒い手に顥はズルズルとひきずられる。必死に黒い手をはごうと足に

顥が逃げ出そうと暴れていた間にも影はせこせこと動いていた。顥は突然の事態にテンパっててそれに気づいてなかっただけ。だからその死場所を見た時空いた口が塞がらなかったんだろう。

縄からできた子供の頭くらいならすっぽり入るほどの絶妙なサイズの、顥のための自殺用の輪。その輪は今の顥の目にはあまりに大きく、あまりに禍々しく見えてしまう。これからこの輪に首を吊るすと理解できれば怖くもなる。ならずにはいられない。黒い手が軽い顥を持ち上げる。その細い腕のような部分からは考えられないほどの力。バタバタ全身を動かしても疲れが溜まるだけなのに彼女はそれをし続ける。左右に首を振って黒い手の行動を否定する。生きていたい、と。

「いや、いやぁ。」

暗い部屋に悲痛な声がじっとり染み渡る。出てくる涙は体温を帯びている。

「ヤダ、まだ死にたくない。」

もう遅い、もうダメだ、返すことはもうできない。影達は縄に顥の頭を入れて。手はその体を離す。

顥のか細い首は縄へと括り付けられた。

「ひぅ!」

顥は声を上げる。望みもしていない苦痛からくる声を口から無造作に吐き出される唾と一緒に。

ぶら下がった縄はギリッと小さく軋む音を鳴らす。そんな音を鳴らそうと決して切れないし天井からも取れはしない。子供一人の体重では支えも壊れることはない。

「マ、ママぁ。あぐ、ぅ。ぁあ、助けてママ………」

か細く口にするのは心の叫び。数少ない頼れる人に小さくて頼りのない希望を乗せて縋り付く。何度も。何度も。今家に自分しかいないのはわかっている。いつも通りなら九時くらいまで帰ってこない。それでも。それでも。今は死ぬほど怖い。だから───。

目を瞑る。雫が途切れて更に小さな龍水となり頬を伝う。少しでも怖くなくなるように。少しでも痛くなくならないように。死んでしまう感覚に苛まれないように。

だけど助からないかとその手は首を手繰り、ローブを引っ掻く。首から血が出てしまっても、爪に柔らかい肉がこびりついても、ひたすらに抵抗した。次第に酸素が枯渇していって手の力も抜けていく。弱く、血に濡れた爪と手は、ロープを掴んでもがいた手は、ぶらりと死体と同じように垂れ下がる。


黒い手、『死神』は消える。顥の、『お客様』の命を黄泉へと誘って。

誰も触れていないパソコンが起動し、四つの文字が映し出される。無機質で死んだようなその文字はただこう告げる。

『契約完了』と。

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