第一章 心を読む魔法

「セオドアです。入ってもよろしいでしょうか?」

 ノックの音に顔をあげれば、そう声がかかって。思いもよらない人物だったのでビクリとしてしまい、あやうくインクつぼたおすところだった。

「……構いません」

 どうようさとられないように、平静をよそおって返事をする。

 本当は全くもつて構わなくはないのだけれど。帰ってくる予定はまだ一ヶ月以上先のはずなのに、どうして彼がもうここにいるのかしら。

「エステル!」

 私のあいしようを呼びながら、その人は大輪の花がくようなみをかべて入ってきた。長年の付き合いからこのあとの流れが予測できて、部屋にいた官やじよを下がらせる。

「セオドア、久しぶりですね」

 セオドア・キエザ。キエザはくしやく家の次男であり──私のこんやく者である彼は、むかえに立ち上がった私にけ寄り、力強くきしめてきた。少し息苦しいくらいの熱いほうようにも、慣れから動揺しなくなってきたことがむなしい。

「もうパライバ領でのとうばつ任務が終わったのですか?」

「ええ。貴女あなたに早く会いたくて、急いで終わらせてきました」

「……そうですか」

 最低でも二ヶ月半はかかるはずだったじやりゆう討伐任務を、移動ふくめ一ヶ月で終わらせるだなんて規格外も良いところである。セオドアに会いたくないがために、極力日程が長くなるようえんせい予定を組んだ私の努力が水のあわだ。

 心の中でため息をついていると、ぎゅうぎゅうと抱きしめていたうでゆるめ、彼は私の顔をのぞき込み期待に満ちたひとみで問いかけてきた。

「エステル、このあとお時間ありますか?」

 時間は、ある……けれど。

 ちらりとドアの方に視線をやる。予想するまでもなく姿に、今度はため息が心の中だけでとどめられなくて、口からあふれ出てしまった。それをすようにせきばらいをして、セオドアに視線をもどす。

「実は、アンジェリカからお茶にさそわれていたのですが、明日までに終わらせなければならない仕事を思い出しまして。ですから貴方あなたが代わりに行ってくれたら助かりますし、アンジェリカも喜ぶと思います」

 仕事があるのはうそではない。可愛かわいい妹のアンジェリカとお茶する時間をとる為、今晩のすいみん時間をけずるつもりだっただけ。

 だから机の上にまった書類を見て、彼も一応なつとくはしたらしい。

「……そう、ですか。分かりました」

 あからさまにしゅんとしてしまったセオドアにしようしながら、しつに戻る為再びに座る。落ち込んだ様子を見せながらもすぐそばまで付いてきた彼本体とは逆に、いまだドアの前から動かずホッとした顔をしていた。

「エステル……いそがしいかとは思いますが、しばらくお会いできなかったので、いつしよに過ごす時間をいただけるとうれしいです」

「……貴方が、それを望むなら」

 ハッキリとしない返事をして、そろそろ出ていってほしいという空気を出す為書類仕事に取りかる。これもまた、いつもの流れだ。セオドアはあきらめたように息をき、「お誘いお待ちしております」と私に声をかけ、ドアへと向かった。

「僕は、いつだって貴女の傍に居たいと思っているんですよ」

 そんな言葉と共に投げかけられたさびしそうな笑顔も、私の心を虚しくさせるだけだ。

「……嘘つき」

 貴方の心はずっと、私をうとましいと思っているくせに。



 ここアカルディ王国の王家や貴族は、きんりん諸国では見られない女系けいしようである。それはアカルディが魔界に隣接しており、この大陸において魔物しんこうからの防衛線の役割をになっている為、男性は魔物討伐に忙しく、女性が政務を担うようになったから。……というのももちろん正しいが、王家にはもう一つ大きな理由がある。

 かつて勇者と共にしき魔王を打ち払い、魔物たちから土地を取り戻した初代女王アレッサ・アカルディ。神に愛されし聖女であった彼女は、すぐれた固有魔法をいくつも有しており、それが聖女たりる女性にのみ受けがれているのだ。

 この世界においていつぱん的に魔法といえば火・風・水・かみなりの四属性で、それを出現させるものである。その形やりよくを調整すれば、日常生活にも戦いにも使えるのだ。あつかえる属性の数や魔力量、強さに差はあれど、赤んぼうから老人まで人間だれもが最低でも四属性のうち一つを使うことができる。

 しかし聖女の固有魔法はそれらと全く異なり、であったり予知であったりとにわたり、私自身も治癒、転移、変身、読心の四つの魔法を有している。中でも第一王女だけが十歳前後で必ず習得する、他人の心の内を知ることができる読心魔法は、内政外交問わず政治の頂点に立つ者として大きなアドバンテージになることは想像にかたくない。魔界の反対側に位置するていこくがかつてしんりやく主義であったこともあり、国を守る為には欠かせない力で、ゆえに女王制となったのだろう。……まぁ、勇者が脳筋鹿だったから王にはなり得なかった──という説もまことしやかに流れているが、いささか不敬なのでここではなかったことにする。

 アカルディ王国第一王女にして王位継承権第一位の私、エステリーゼ・アレッサ・アカルディも、十二の時に読心魔法を習得した。簡単に心が読める、と言ってもただ心の声が聞こえるだけではない。それは──。

「ちょっとお姉様!」

 とつじよ、バァンと乱暴にドアを開けてやってきたのは第二王女のアンジェリカ。十七歳の私より五つ年下の彼女は、目に入れても痛くない可愛い顔をぷくっとふくらませ、ズンズンと私の前までやって来た。

「アンジェリカ、いくら家族とはいえノックくらいしてちようだい

「しましたわ。ノックでドアを開けただけです。そんなことよりどうしてセオドア兄様をじやけんになさるの? お可哀かわいそうで私見ていられませんわ!」

 執務机の前に王女らしからぬおう立ちでじんるアンジェリカだが、これでもまんしている方なのだろう。彼女のかたから机へぴょんと飛び降りてきた、手のひらほどの小さなアンジェリカの心の姿が文句を言いながらゴロゴロ転がっている。

『セオドア兄様、顔には出さないようにしていたけどすごく落ち込んでいたわ。それなのにこの姉は! 可愛げの欠片かけらも! ない! この国……いえ、この大陸一のじようにあんなに愛されているのに、ど───してそうなるのよ!! まだ王女の今からそんなに仕事人間でどうするのかしら!? けつこんしたあと王城内別居でもするつもり!?』

 そう、心が読めると言っても単純に心の声が聞こえるだけではない。その人が手のひらほどのサイズになった、まるで童話に出てくる小人やようせいのような三頭身の姿が、心の内の声をしやべると共に本来とりたい動きをするのだ。私たちはこの心の姿のことを、古代語で心の意味を持つ『コル』と呼んでいる。

 つまりアンジェリカは文句を言いながら思いっきりだんみたいところだが、王女であるから我慢しているのだ。まぁ、ドアをたたき開けたり仁王立ちをしたりと、すでに王女らしからぬいが多々見受けられてはいるのだけれど。

 可愛い妹のコルがぎゃあぎゃあ言いながらのたうち回る姿はおもしろくもあるが、彼女は至って真面目まじめおこっている訳で。ましてやアンジェリカはこの魔法の存在も知らないのだから、悟られてはいけない。この魔法の存在を知るのはそれを得た本人と、王配だけである。何とか笑いをこらえて咳払いで誤魔化した。

「邪険になどしていないわ。遠征から戻ってきたばかりでつかれているだろうから、かたぶつの私より明るい貴女といた方がセオドアの心も休まるだろうと思ったのよ」

 そう答えればアンジェリカがジトッとした目でこちらを見てくる。コルも同じようにしており、だまっていることはあれど裏表は全くない彼女のじゆんすいな所がまた可愛らしい。

『絶対嘘。ぜぇええったい嘘だけど、お姉様をこれ以上問いめてもきっとはぐらかすだけよね。……そうだわ! お茶会のあなめをするようたのんで、そこにセオドア兄様も呼べばいいのよ!』

「ねぇお姉様──」

「ここ最近ものが増えてがいが多く、忙しいのも事実なの。だから今日は行けなくてごめんなさいね。おびと言ってはなんだし、大分先になってしまうかもしれないけれど……今度は私から招待するわ」

 めんどうな話をされる前に少々早口で先手を打てば、ぐぬっと一歩後ずさり、うなれたアンジェリカのコルが彼女本体の肩に戻った。

『お姉様から招待されるんじゃ、セオドア兄様を連れて行けないじゃないの! もう。……でも義兄あにになるのはセオドア兄様がいいから、絶対二人の仲を取り持ってやるわ!』

「分かりました。でも諦めませんから!」

 我が妹ながら大変健気けなげである。

 誰にでもやさしくおんこうとくじつひとがらに加え、けんじゆつに魔法とそのどちらも国内で三本の指に入る実力者で、さらにはこの国一の美しさと名高い容姿……と、非の打ちどころが無くかんぺきという言葉が過大評価にならないセオドア。おそらく次期女王である私の婚約者でなければ、血で血を洗ううばい合いの女のたたかいが巻き起こっていたことだろう。そんな年頃のれいじようだけにとどまらず、世代関係なくみなが認めあこがれる彼は、妹からの好感度もかなり高いようだ。

『どう見たっておたがおもいあっているのに、なんでお姉様はあんななのかしら』

 ただし、部屋を去りながら心の中で姉をあんな呼ばわりしたアンジェリカは知らない。


 ──僕は、いつだって貴女あなたの傍に居たいと思っているんですよ。


 その顔を向けられれば、誰もが自分に気があると思うだろう強くこいがれたような表情も、言葉すべてにいとしさがけているような甘い声も、あくまで表の話でしかないことを。


 ──息が詰まる……早くこの場を去りたい。


 そう言ってずっとドアからはなれなかった、彼のコルを。



「お初にお目にかかります、エステリーゼ第一王女殿でん

 セオドアに初めて会ったのは私が八歳、彼が十歳の時。

 その魔法を知る人間がごく少数であるが故に知られていないことだが、長女だけが得る読心魔法こそが次期女王の資格であるアカルディでは、継承権の順位などあってないようなもので、第一王女の私が次期女王となることは生まれたそのしゆんかんからほぼ確定である。そんな私の婚約者はつまり次期王配となるのだから、婚約者選びもかなりしんちようだった。貴重な力を持つ女王の守護者たる王配は、家柄より容姿より性格より何よりも女王を守る強さを必要とする為、本来なら十六歳の成人のが済む頃に決まるはずだったのだけれど。

貴方あなたがキエザ家のセオドアきようなのですね」

「はい。このたびは私のような者を王女殿下の婚約者にお選びいただけたこと、至極光栄でございます」

 しかしまぁこのセオドア・キエザという少年……いや、神童は。わずか十歳にして同年代はおろか一回りはちがう大人までふくめて、これ以上優れた相手はこの先現れないだろうと言わしめた。その結果、ほかの令嬢と婚約される前にと異例の早さで婚約が決まったのである。

「そんな堅苦しい喋り方をしないでください。私の方が年下ですし……それに、婚約者なのですから。エステルでいいですよ」

「……ありがとうございます、エステルですね。僕のこともどうかセオドアとお呼びください」

 ホッとしたように微笑ほほえんだ彼には悪いが、歩み寄るような言葉をかけた私の内心は複雑だった。

 雲間から差す光を連想するれいな白金のかみと、パライバトルマリンをめ込んだかのようにきらめく青緑色のひとみ。神が長きにわたり調整に調整を重ねたに違いない完璧な顔の造形。天使をえがいたへきから飛び出してきたのかと思うほどの美少年を前に、思わずいだいてしまったのはときめきよりもれつとう感だったのだから。

 まんだった母上ゆずりの赤紫色クラレツトの髪も、父上譲りのペリドットに似た瞳も、美しい両親のいいとこ取りをしたはずの顔立ちさえ彼の前ではおとりしてしまい、女王および次期女王はフェイスベールを着けて顔をかくす風習があって良かったなと思った。

 フェイスベールは女王直々に魔力を込めて作られており、自分からは何も着けていないかのようにクリアな視界だが、はたから見るとうっすらとさえ中を見ることができず、風にかれることもなければ他人が無理めくることもできないというすぐれものだ。──ちなみに顔を隠す訳は、表向きは女王及び次期女王は神聖な存在であるからとされているが、実際はコルの動きを目で追ってもバレないためという意味合いが強い。口元は護衛等にどくしんさせられる方が良い場合もある為、ベールの長さは鼻の下までである。

「私たちはくわしい話をするから、二人で庭園にでも行ってなさい」

「はい。セオドア、案内しますわ」

 さて、そんなこの世のものとは思えないほどの美少年が、更には婚約をおおはばに早めるほどの天才だというから、こんな相手と並んで生きていくという事実に八歳の私はプレッシャーを感じていた。

 私は女王陛下の長女に生まれたというだけで、次期女王になることが決まっている。どれだけ頭が悪かろうと性格が悪かろうとカリスマ性がなかろうと──女王の適性がなかろうとも。だからこそ良き女王になりたいと思うのだが、残念ながら私はあまりゆうしゆうな方ではない。は良くても応用がてんでなタイプで、アクシデントに弱いのだ。問題に対する解決方法に百点満点で点数を付けるとしたら、私はいつも六十点くらいの方法しか思いつかない。

 そんな不出来な私だからこそ、出来の良い婚約者を得られたことを有りがたく思うべきなのに。どう考えたってり合いが取れないことがずかしく、なおに喜ぶことはできなかった。

 ──けれど。

「あれ? えーと……ちょっと待ってくださいね」

 二人で庭園をしばらく歩いたあと、ベンチできゆうけい中セオドアが思い立ったようにはなかんむりを作り始めた。私を喜ばせようと最近キエザはくしやくから習ったというが、その手つきは遠い昔のかすんだおくり起こすかのようにたどたどしく、耳がほんのり赤くなっているのが二歳年上にもかかわらずなんだか可愛かわいらしいと思った。

「すみません、かつこうで……」

 恥ずかしそうにそう言いながらもどうやら完成したらしいそれは、お世辞にも上手とは言えないものであったが──私には、とてもかけがえのないものに思えた。

うれしいです。つけてくれますか?」

 作ったは良いものの、渡すことを躊躇ためらっている様子の彼にそう声をかければ、おずおずとうなずいてくれる。

「こんなもので良ければ、ですが……」

 神童と名高い優秀な彼は、きっとなんでもできるものだと勝手に思っていたが、存外手先が不器用でくきや葉の処理もおおざつと、十歳の男の子らしい一面が見られて、私はひどく安心したのだ。

 頭にそっとせられた花冠に、思わず笑みがこぼれる。

「ふふ、ありがとうございます。……あら?」

 ふと彼の手に視線をやると、花をむ際葉で切ったのだろうか、指先に血がにじんでいた。

 この頃読心魔法はまだ使えなかったものの、魔法はすでに習得していたので、傷を治してあげようと思い彼の手をとった。

「……はい、これでよしと。痛くはありませんか?」

「エステルはすごいですね。ありがとうございます」

 手をかざして治るように念じれば、小さな傷はあっという間にふさがっていく。そうして何の気なしに彼の手をじっと見つめていると、もう私の治癒ほうでは時間がちすぎていて治せないような古い傷がたくさんあった。豆ができていたり、かたくなっていたり……美しくもまだ幼い顔立ちからはとうてい想像できないような、そんなボロボロの手をしていて。

「あっ! すみません。きたない手をさわらせてしまって……」

 私の沈黙に気づいたセオドアがそう言ってあわてて引っ込めようとした手を、とつにギュッとにぎってとどめる。

「汚くなんか、ないです」

「え……?」

 確かに彼の美しい見た目は生まれ持ったものだろう。けれど、神童だとか天才だとか、まるでけんや魔法の才まで全てが生まれ持ったものだと思い込んで、勝手にプレッシャーを感じて。

「ごめんなさい、私……セオドアの話を聞いた時、きっと貴方は天才で、努力とはえんの人なんだって決めつけていました」

 恥ずかしい。この手を見れば、どれほど彼が努力を重ねてきたのか一目で分かる。……自分はこんなにボロボロになるまで何かを努力したことがないくせに、劣等感を覚えるだなんてがましい話だ。

「セオドアは凄く、すっごく努力をしてきたんですね。汚くなんかない、かっこいい手です」

「エステル……」

 才能溢れるこんやく者と比べられるのが苦痛だ……なんて考えていた自分を引っぱたきたい。私にできるのは恥じることではなく、彼に並んでも恥じないよう努力することだというのに。

「貴方に比べ私はまだまだ至らないことだらけですが、この手で守られるにあたいするよう……貴方のとなりにいて恥ずかしくないよう、私もセオドアに負けないくらいがんります。支えてくれますか?」

 そうちかえば、セオドアは目を見開いたあと、それまでされるがままだった手でそっと私の手を握って。

もちろんです。……エステルの婚約者になれて、本当に良かった」

 飛び切りの笑みをかべた彼に、私はころりとこいに落ちたのだった。



 それからというもの、セオドアとはおたがいの休日が重なれば必ず共に過ごすようになった。いつしよに本を読んだり、他愛たわいない話をしたり、時にはや弱音をこぼしたりして。

 そんな日々を重ねるにつれ、セオドアへの思いも強くなっていった。これは所謂いわゆる政略結婚ではあったが、れんあい結婚なのだと言い張ってしまいたいくらい彼のことを好きになったし、セオドアも私のことを好いてくれていると自負していた。少なくとも、自意識じようではないとハッキリ分かるほど、宝物のように大事に大切にしてくれていたから。

 ──ちっとも、ほんの指先ほども、きらわれているという可能性を考えていなかったの。



 読心魔法に目覚めた十二歳のある日から、それをさとられないような立ちいの訓練の為、セオドアに会えない日々が一ヶ月ほど続いた。最初は他人の心の声にこんわくしたし、意思とは関係なく常時発動する魔法であるがゆえに、時には聞きたくない声につらくもなったが、次期女王たるあかしなのだからとなんとか自分を律した。

 そうしてやっと母上から合格をいただき、彼に会えるようになった日。キエザはくしやく家のていたくへ向かう私は、セオドアの心の内を知ることに何の不安も抱いていなかった。いつもやさしくて誠実な彼は、きっと裏表なんかなくて、心そのままを表現していると思っていたから。

 だから。

「セオドア! 久しぶり……というほどではないかしら?」

「久しぶりですよ。婚約してからこんなにはなれていたのは初めてだったので……エステルに会いたいと、そればかり考えていました」

 そんな甘い言葉をかけてくれる彼にけ寄ろうとして、ピタリと足を止めた。


『このまま暫く会わずに済めば楽だったんだけど……。はぁ……めんどうだな』


 ──……今のは聞きちがい、だろうか? どうか、聞き間違いであってほしい。

「エステル? どうかしましたか?」

「……あっ、いえ……」

『今日はいつまで居座るつもりなんだろうか。早く帰ってくれないかな』

 そんな願いもむなしく、聞こえてくるのは私をうとましく思っている言葉ばかり。おそる恐る彼のコルを見れば、けんかんをあらわにした冷たい目で私を見ていた。セオドアをそのまま小さくしたような姿であるが、別人のコルなのではないかと疑ってしまうほど、これまで一度たりとも見たことのない表情だった。

「エステル?」

「……えっと……その……いそがしくしていたから、ちょっと体調が……」

だいじようですか? 医師を呼んで来ます。良かったらここにかけて──」

「う、ううん、いいの。ごめんなさい、今日はもう帰るわ」

 そうですかと残念そうな表情を浮かべるセオドアに対して、良かったとホッとしている様子のコル。

 どんな声を聞いても、どんな姿を見ても、どうようしないこと。表に出さないこと──。ここひと月そうやって訓練していたはずなのに、すべてを忘れ私はこつ狼狽うろたえてしまった。

「エステル、またすぐ会えますか?」

「……そうね、また来るわ」

 フェイスベールがあって良かった。今にもなみだが零れそうな目元を見られずに済んだから。どれだけ彼に弱音をき愚痴を零しても、涙だけは誰にも見せないと決めていたから。

 ああ、ずかしい。好かれているだなんて、かんちがいだったんだ。セオドアにとっては大人たちが勝手に決めた婚約で、逆らえなくて、仕方なく付き合っていただけで……。

 恥ずかしい……でも。


 もっと恥ずかしいのは──それでもまだ彼を好きだという気持ちが消えない、おろかな自分の心だった。

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