軍靴のサンドリヨン
紫苑
第1話
降り積もった雪は全て溶け、早咲きのバラが蕾をつけ始めた頃。数多の軍人を輩出してきたヴァルティエラ公爵家ではメイド達が忙しく邸宅の中を動き回っていた。
それもそのはず、数日前、この邸宅の主人であるヴァルティエラ公爵の子の一人より帰宅する、という手紙が届いたからだ。半年間、公爵の子の部屋は清潔に保ってきた。部屋の主人がいなくとも、丁寧に丁寧に。しかし何かあっては、とメイド達はその部屋をもう一度掃除をする。その部屋の主人は塵が落ちていたくらいでは怒るような方ではないと、出来た方であると公爵家に仕える者ならば誰しもが理解している。だからこそ、その部屋の主人には完璧な部屋で過ごしていただきたいのだ。人望ゆえである。
それにしても、と一人のメイドは箒をかけながら思案する。何もなければ既に帰宅してもおかしくない日数が経っている。それなのに帰宅する気配がない。
「何かあったのかしら……って、あら?」
メイドは箒を動かす手を止めてふと庭を見た。そして邸宅と外を隔てる塀に咲くつるバラが乱れている事に気づく。あとで庭師に綺麗にしてもらわないと、と思いながらメイドは箒を再び動かし始めた。
にゃおん、と猫の鳴き声が一つ。今し方鳴いたその猫の喉元を優しい手が撫でていく。猫はごろごろと喉を鳴らしながらその手に擦り寄る。
しかしさく、と土を踏み締める音がした途端、猫は体を起こしその場から走り去った。
猫と戯れていた者はじとり、と猫が去った原因である男を睨め付けた。
「お兄様、リリーが逃げてしまったではないですか」
お兄様と呼ばれた男は長いため息をついて、自分を非難した者に呆れた目を向けた。
「シエル、帰ってきたなら言いなさい。……そもそも誰にも何も言わず一目散に庭に来るのはどうなんだ」
「リリーに早く会いたかったんですよ」
「だからと言って従者を皆置いて塀を登って直接中庭に来るのはやめなさい」
「……女だからはしたないと?」
「それ以前に人としてもその行動はどうなんだ。それから女性だから、と君に求める事はもう諦めた」
はあ、とまたため息をついた男に女──シエルは苦笑して、ごめんなさい、と素直に謝った。
「確かに非常識だし公爵家の人間とは思えない振る舞いでした。家の者につかまっていたらリリーの元へなかなか行けないと思って、つい」
「君は半年ぶりに帰ってきたんだ、家の者が歓迎するのも無理はない。その気持ちも、分かってやりなさい」
「ちゃんと分かってますよ。ただ、みんないつもなかなか離してくれないから」
「それだけ君は愛されているんだよ、シエル。……改めて、おかえり、シエル」
そう言って穏やかな笑みを浮かべた兄に応えるように、シエルも笑みを浮かべる。
「ただいま、お兄様」
シエルは軍人だ。半年もの間邸宅を不在にしていたのも、とある任務を遂行していたからだ。
そして任務を終え、軍部まで迎えにきていたヴァルティエラ家の従者を伴って帰宅するはずが、シエルだけ抜け出し玄関ではなく塀をよじ登って中庭へと向かったというわけだ。
その後シエルは帰宅した事をメイド長に伝え、まさか帰ってるとは思わなかったメイド達にもみくちゃにされた。それをなんとか抜け出し、兄──ヴィンセントの私室へと足を向ける。
ヴィンセントの私室の前でノックをし、入室の許可を得たシエルは私室へ通じる扉を開けた。
「お兄様、きましたよ」
「ああ、シエル。そこに座って」
ヴィンセントに指された備え付けのソファへと腰を下ろし、部屋の中を見渡すシエル。ヴィンセントの部屋には本が五万とあり、相変わらず本の虫か、とシエルは思った。
ヴィンセントは昔から暇さえあれば本を読む。それもあってか博識で、シエルが幼い頃にはなんでも教えてくれた。幼いシエルにとってはなんでも知ってるすごい兄だった。今だって、尊敬すると言うことに変わりはないけれど。
「すまない、帰ってきたばかりで疲れているだろうに呼び出して」
「いえ、大丈夫ですよ。そんなに疲れていませんし。それで、話とは?」
ヴィンセントに話がある、と呼び出されたシエルは早速本題へと入った。ヴィンセントの雰囲気からして何か真剣な話なのだろうな、とシエルは思う。
「明日、お前にある任務の命が下るだろう」
「ある任務、ですか?」
「──王家の護衛任務だ」
王家の護衛。
シエルの住まう国は、王族の護衛は軍属の人間の仕事である。他国には専用の騎士団もあるが、この国では軍人が全てを担う。
軍人であれば王族の護衛任務は避けられない。しかしシエルはこの任務にあまりいい感情を抱けない理由があった。
きっと兄はこの任務を当てがわれるシエル自身を案じて事前に教えてくれたのだろう、とシエルはその思いに心が暖かくなった。
シエルがこの任務にいい感情を抱けない理由──それは彼女の出生に関わる事だった。
しかしシエルは軍人であり、上の命令は絶対だ。逆らう事など許されはしない。だからこそシエルはにこりと笑って「大丈夫ですよ、お兄様」と言った。
「……詳しくは明日直属の上司から聞く事になるだろう。無理はしないでくれ、シエル」
「もう、お兄様ったら心配性なんだから。それよりも久しぶりの兄妹水入らずですよ? お茶で飲みましょう?」
「……そうだね」
控えていたメイドにお茶の用意を言いつけるシエルを見るヴィンセントの目には、心配の色が浮かんでいた。
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