イジメを完全に無くすことは可能か不可能か

エテルナ(旧おむすびころりん丸)

イジメを完全に無くすことは可能か不可能か

イジメは善いか悪いかと問われて、大半の方はイジメは悪いことだと答えるはずです。

しかしイジメを完全に撲滅できるかと問われた際には、ゼロにすることは不可能と答える割合が激増します。

理由は様々ですが、全てを述べるとあまりにも膨大な為、今回は心理学的要因から下記の二つを事例に挙げます。


①人間は見下すことに快感を覚える。

②人は自分に甘く他人に厳しい。



【①人間は見下すことに快感を覚える】

人の不幸は蜜の味、幸災樂禍、シャーデンフロイデなどなど、ネットスラングではメシウマが該当するでしょうか。

例え己に関わりのない人間であっても、人は社会的優劣を少なからず比較しています。そして自分より下がいることに安心するのです。

あまり心地よい感情ではないですが、生きる為には必要な能力だったことでしょう。『競争心がなく、己が最低でも構わない』このような崇高な考えのできる人は、自然界であれ経済であれ、弱肉強食の世界では勝ち残れず、子孫を残すことができません。

またいわゆる『ざまぁ』コンテンツが隆盛している点を見れば、人の失敗や没落を見る喜びが根絶やし難いことは容易に分かります。

これは悪人の没落に限らず、金持ちやナルシスト、果ては成功者やちょっと鼻に突く程度の人の落ちぶれまで、とても犯罪者とは呼べない人にまでも抱いてしまう感情です。


【②人は自分に甘く他人に厳しい】

人間は自分に身に起きたことを外部からの原因とする『外的帰属』、他人の身に起きたことを内面の原因とする『内的帰属』と考える傾向にあります。

分かり易く言えば、例えば仕事でミスをした際に――


・自分のミス

「上司の説明不足」「仕事の量が多すぎる」「同僚が話かけてきたせい」

・他人のミス

「おっちょこちょい」「確認不足」「能力が低い」


己に非がある場合でも人は他人のせいにし、他人の場合は過失であっても人格を叩きます。

後者は特にSNSを見ると分かり易いですが、不倫に脱税に失言に、起こった事柄に関連する事実に言及するより、およそ連想される人格を証拠もなく批判する方が圧倒的多数です。

つまり人は身に起きたことを外部が要因のイジメと感じやすく、かつ他人の行為は発端・行程・状況を考慮に入れず、本人の人格のみに起因すると断定する、イジメやすい性質を内包しているということです。


①と②の性質は人によっての多寡はあれど、誰しも少なからず持ってます。そしてその性質を根絶させることは絶対にできません。

なぜなら古い時代ならば、①・②の性質を持つ人間こそ生き残りやすく、また新しい時代ならば、いかなる人間でも生きられる社会となり、野性に見るような自然淘汰が行われません。

仮に①・②の性質の薄い人間が増えたとしても、彼らは①・②の性質が濃い人間を阻害したり、否定したり、下に見ることもなく差別もしませんから、①・②の性質が強い人間たちは我が物顔で生きられる世界となり、延々と系譜は続きます。



ならばイジメに抗うのは無意味なのか?当然、そんなことはありません。



イジメをゼロにできなくても、和らげる努力はしなければなりません。

イジメ0を目標に掲げること自体も悪くはありません。目指すべき理想は高い方が良いはずです。

しかし『するな』と言われるとしたくなる心理効果、カリギュラ効果もあるので、イジメは絶対ダメと頭ごなしに言い続けるだけでは対策としては不足です。

では、我々はどういった行動をしていかなければならないのか――


【”超”大局的に考えた場合、イジメを和らげる方法は二つあります】

一つ目は豊かな生活です。皆が豊かになれば、イジメ以外の楽しみに割く時間が増えることで、相対的にイジメに費やす時間が少なくなるということ。

また豊かな生活が心の余裕を生むことで、イジメに繋がる言動が僅かながら改善されることが期待できます。

しかしこれは景気に頼るものであり、狙ってできるような運動ではありません。

加えてこのケースは根本的な解決になっておらず、困窮に陥れば再びイジメは増加します。


二つ目は教育です。イジメそのものについてを学ぶ、という面の教育ももちろん必要でしょう。

しかし今回筆者が紹介するのは、授業の中身というより、教育自体の方法論です。それはつまり――


【欧米的な教育方法を取り入れる】


ということ。もう少し具体的に言えば、詰め込み型の教育ではなく、考えさせる教育を混ぜるということです。


考えさせる教育の代表例としてディベートがあります。欧米ではごく一般的であり、既に日本でもディベートは取り入れられはじめています。

しかしまだまだ欧米と違い、授業空間の括りを抜け出せておらず、個々人への浸透度は低いと言えるでしょう。


そもそも米国の考えさせる教育は学校教育以前の段階、親の教育から既に始まっています。

子供が間違いを犯した際には頭ごなしに叱ったりせず、『なぜそうしたのか』『何が悪いのか』を子供自身に考えさせます。

その際には子供と一旦離れ、『タイムアウト』という一人で考えさせる時間を設けることもあります。

そして子供が理解を示し、正しい行動ができるようになれば、親は思い切り褒めてあげます。親と共に答えを導き出すといってもいいでしょう。


反して詰め込み型の教育は、とにかく暗記させることに重きを置きます。

それは親の教育の段階でも然り、『走っちゃ駄目!』『騒いじゃ駄目!』というように、駄目だから駄目だと、なぜの部分を深く言及することなく刷り込みます。


(※ちなみに米国において日本人感覚で、「コラッ!」などと子供を怒鳴りつけた場合、虐待として通報されかねません。たとえそんなつもりが無くとも、米国の民衆や警察やマスコミも含め、虐待であると当然のように見なしてくるのでご注意ください)


では考えさせる教育が、どのようにイジメ対策に影響するかというと、こちらも二つのパターンが考えられます。


①異なる意見を聞くことに慣れる

②己の考えを発信できる



【①異なる意見を聞くことに慣れる】

これはイジメる側、イジメられる側の両方への効果を期待できます。


ディベートを開くと必然的に己の意見は反論されます。立場を決めて話すのだから当然です。

そして自分と違う意見を聞くことに幼い内から慣れておくと、いわゆる煽り耐性というものが身に付きます。

そもそもイジメは、受ける方がイジメと感じればイジメになります。いじられるのが好きな人もいれば、苦痛な人もいるようにです。

そして反論慣れしていない日本人は、己の意見を否定されただけでも、まるで自己否定されたかのように大きなダメージを受けてしまいがちです。

受け手を鍛える発想はイジメられる側としては不本意かもしれませんが、しかし先程も申したように、イジメは受ける方がイジメと感じればイジメになる。

イジメを減らすには欠かすことができない事柄です。


また、イジメる側には寛容さが身に付きます。

これはイジメられる側の説明と同様に、他人の意見を聞くことに慣れるがゆえの作用です。

従来の詰め込み型の教育の弊害として、答えが一つに限られてしまうという点があります。

戦争を例にすれば、Aの場合の戦争は駄目だけどBの場合の戦争は仕方がない。またCの場合の戦争はどうだろうと、多種の考えがあっても良さそうなものです。

しかし詰め込み型の場合は『戦争はダメ、絶対!』なので、仕方がないとか疑問を持つような発言をしようものなら、頭がおかしいやら人間としてクズやら、徹底的に叩きのめしてしまいます。

唯一の答えに反した者は、絶対悪となるのです。


子供に考えさせる教育を施せば、唯一無二の答えが無くなる為、マイノリティの発言がリンチに遭うケースを緩和できます。


【②己の考えを発信できる】

定められた答えをまま口にする詰め込み型の教育と違い、考えさせる教育では己の考えを言語化し発信しなければなりません。


この力が身に付き、己の意見を発信することのハードルが下がれば、イジメられていることを打ち明けられる子が育ちやすくなります。

しかもただの告白ではなく、親や教師を納得させられる自己表現もできるので、問題がおざなりになるケースを減らすこともできるでしょう。


またイジメる側にしても、己の行動を見返す癖付けが期待できます。

イジメる理由が『楽しいから』とか、『周りがイジメてるから同調した』などのように、安直な理由を考えなしに受け止めるのではなく――

『なぜ楽しいと感じるのだろう』『なぜ同調しているのだろう』などのように、己の言動を見返し考察する癖が、否応なしに身に付きます。

イジメを止めた方がいいと気付ける機会が増えることは、イジメの深刻化を防ぐことに大きな役割を果たすでしょう。

そして更に、この力が真の威力を発揮するのは――


【教育が一周回ったその時です!】


つまり考えさせる教育を受けた親や教師が増えた時、既存のシステムや慣習に抗い、告発できる大人が増えるということです。


幾ら勉強させたところで、やはり子供のイジメは発生します。良くも悪くも感情に左右されやすい年頃だからです。

ゆえに冷静な大人の介入は、イジメの解決に必要不可欠です。

しかし冷静がゆえに、ことを大きくしたくないだとか、身の保身だとかを考慮に入れてしまいます。

冷静でありつつも、しっかり己の意見を発信できる。そんな大人が増えればイジメの黙殺を封じ、見えないイジメを可視化することができるようになります。


以上のように、子供に考えさせる教育を行うことで、イジメを緩和する効果を期待できます。しかし——


【メリットの裏には、必ずデメリットが存在します!】


ここまで言っておきながら、筆者は『なんでもかんでも欧米を見習うべきだ!』みたいな欧米信者ではないので、強烈なデメリットがある点にも触れておきます。

まず欧米の考えさせる教育は、そもそも子供の自由な思考を奪うべきではない、という思想から出たものです。

銃社会ということもあり、外出に関しては日本より厳しい面もありますが、子供の自由は最大限尊重するべきだという思考が根底にあります。

ゆえに、子供には食べたいものをいっぱい食べさせます。嫌いなものを無理に食べさせたり、食事制限をすることは虐待と見なされます。そしてその結果は――


成人の肥満率アメリカ:31.8% 肥満偏差値60.3

世界平均:18.9% 肥満偏差値50.0

日本:4.5% 肥満偏差値38.5


ま、好きなようにさせたら当然、こういう人間に育ちますよね。

日本人が細すぎて逆に不健康とも言われますが、しかし平均寿命は依然として日本が1位です。(アメリカは40位前半)


この他にもデメリットは多数存在します。

ルールや慣習を考えなしにとにかく守れという詰め込み型ならば、従うことがお利口さんであり、人に迷惑を掛けてはいけないだとか廊下は走っちゃいけないだとかのルールやモラルを律義に守ります。

守らない者は猛烈に弾かれるのが日本の文化です。

しかし欧米の考えさせる教育は、自主性が養われる反面、協調性が損なわれてしまいます。


列に並ぶ習慣も道端やトイレが綺麗な国柄も、落とした財布が届けられる国民性も無くなることでしょう。

そして駄目だから駄目という考えを脱し、屈折した考えを正当化する者が増えてしまった場合——


【イジメは減るが犯罪は激増する】(イジメも犯罪だと言われそうですが、ここでは一応区別させてください)


もちろん、屈折した考えの人間がイジメに走ることでイジメも増えるという見方もできます。しかし同時に告発できる人も増えているので早期発見、深刻化する前に叩けます。

しかし犯罪行為は既に起きた結果ですので、発見してから改善、深刻化を防ぐことはできません。ただただ件数だけが伸びるのみです。


教育だけが要因ではないですが、下記は人口10万人あたりの殺人件数を比較したものです。


世界平均:8.7件 偏差値50.0

アメリカ:5.4件 偏差値47.2

日本:0.4件 偏差値43.0


日本は194ヵ国中193位と驚異の治安の良さ。米国も偏差値以下ですが、はっきりいって上位の途上国たちが異常に平均を引き上げているだけであり、先進国で考えれば異様な高さです。


ならば詰め込み型と考えさせる教育、どちらを取るかという話になりますが、別にどちらかを取らなければならないということはありません。

詰め込みでありつつ考えさせもする。保守的でありながら革新的でもある。

一見すると相反するものを両軸で進めるのは難しいように思えますし、現にとても難しいだろうと予測します。

しかしこの認知的不協和のせめぎあいが新たな道を開くきっかけになります。

アメリカが自由と平等とのせめぎあいで、ここ数百年で奴隷制や人種差別等が劇的に変化しつつあるように。

新たな価値観の創出は、既存制度の完全摸倣だけでは成し得ないのです。

この辺りはユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を見ると理解が深まると思います。


以上が筆者が考えるイジメ対策ですが、ではここでやっとタイトルの、イジメは完全に無くすことができるのか。

それはきっと無理でしょう。なぜならこれまでに述べたよう本能に根差しているのですから、軽減や緩和は出来ても根絶することはできません。

真にイジメが無くなる時、それは人類が滅び去り、イジメという言葉や概念自体が消滅した時でしょう。


――なんて、そんな屁理屈ではなく、実は筆者はイジメの撲滅は可能派です。

それは本当に幸せかどうかは抜きにした、SFチックな予想です。

ちょっと文章が長くなり過ぎたので――

『イジメが完全に消滅した世界』という題で次の記事に回します。

読了有難うございました。

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