妖厄神

「けっ、荊祟ケイスイ、様……⁉」


 アマリと襲いかかっていた番人から、少し離れた場所にいたもう一人の番人が、幻でも見たような間の抜けた声色で叫ぶ。

 その声に合わせるように、荊祟と呼ばれた青年らしき男は、首元に当てていた刃先を、今度は彼の額ぎりぎりのところに移動させ、そのまま追い立てるようにアマリから離れさせた。一呼吸する間の、ほんの一瞬の出来事だった。

 壁になっていたものが無くなり、ようやく開けたアマリの視界に、震え上がってへたり込んでいる番人の額に、日本刀らしき刀を突き付けている黒っぽい長い人影が映った。

 明らんできた暁の逆光でよく見えないが、濃灰の硬質な長めの前髪は非対称アシンメトリーに分けられ、短い方と襟足は後方に逆立てられている。ほのかな光に当たった部分は月白げっぱくに透け、銀糸のごとく煌めいていた。

 漆黒の羽織に藍鼠あいねず色の長着物の下は、しのび装束のような漆黒の履き物と草履。細身の腰には革紐がきつく巻かれ、刀の鞘と小ぶりの巾着袋、数珠玉じゅずだまがぶら下がっている。

 人族の世界だと、野武士か忍と判別するような出で立ちだが、耳はやはり笹のように尖っていた。顔下半分を被い隠した、黒地の布で表情は分からない。が、髪の隙間から見え隠れする、黄金こがね色に鋭く光る切れ長の眼を、より一層、印象的に魅せている。

 やはり人族とは違う異界の者なのだと、安堵から再び朦朧もうろうとし始めた脳で、アマリは思った。



「……おさ様、何故……こんな、早く……?」


 先程までとは別人のように狼狽うろたえ、刀を向けられた番人が、情けない声色で問いかけた。


黎玄れいげんを飛ばし、密かに様子を伺わせていた。……念のためだったが、賢明だったようだ」


 淡々とした抑揚のない物言いだったが、その声色は重く、静かな怒りが含まれているのがアマリにもわかった。威厳という冴えた圧を感じさせるのは、彼が一族の長だからだろうか。

 ギャア、と高らかな鳴き声を上げ、朱色の眼光を放つたかが、バサッ、と焦茶の翼を羽ばたかせ、布が厚く巻かれた彼の腕に止まる。

 「よくやった」と荊祟は呟き、懐に下げた袋から木の実のような物を左手で取り出し、指の空いた漆黒の手袋越しに渡す。以前、実家の屋敷に都の遣いで来られた鷹匠たかじょうの方みたい……とアマリは思った。

 彼の長く伸びた指先には、黎玄と呼ばれた鷹とさして変わらない、鋭く伸びた爪が光っている。


「……この女を喰うなり犯すなりすると、我ら一族の力が失墜するやも知れぬ。その事はお前達も知っているはず」


 眼光だけで斬られるのでは、と錯覚するような鋭利な黄金こがねの眼差しで、顔面蒼白の番人二人を交互に睨み付けた。一人には刀を突き付けたまま、じりじり、と詰める。


「長である俺に逆らってまで、珍しい女が欲しかったのか……? 反逆か?」

「……とんでもございませぬ!! 我々はそのような謀反むほんくわだてたのではございません!」


 赦しを乞おうと、刀を向けられた番人がまくし立て、慌てふためきながら弁解する。


「左様でございます! 人族とはいえ……女でございましょう? 折角の厄界にいない種……見栄えも悪くない。少しばかりをしても良いのではないかと伺いました」

如何いかにも。要は、契りを交わさなければ良いのですから…… 何なら荊祟ケイスイ様が楽しまれた後でも構いません」


 この言葉で、ざわり、と周囲に烈な殺気が満ち、荊祟の眉が吊り上がった。こめかみに青い血管が浮かび上がり、発した眼光が稲妻のそれに変わった。


「……貴様、俺を色狂いのけだものとでも思っているのか……?」

「い、いえ‼ 決してそのような事は……‼ 私共は、ただ……」


 完全に長の怒りを買ってしまった事を認識し、番人二人は急いで土下座しようとした。


「もうい。粛清しゅくせいする」


 チャキ、とつばを整える音が鳴る。と同時に、へたり込んでいる方の番人の首元に、再び刃を強く押し付けた。彼の汗ばんだ皮膚から、今度は一筋の赤い滴が流れる。


 ――私達と同じ、色……


 そんな至極緊迫した状況だったが、完全に茫然としていたアマリの脳は、そんな唐突な感想を浮かび出す。


「戻って仕置きを受けるか、この場で俺に斬られるか、とっとと選ぶが良い。どうする」


 残酷で容赦のない最終警告に、今では哀れに見える位に縮み込んだ番人が、涙声で答えた。


「――仕置きの程を……」

「……この女の処分は、俺が決める。早まった事はするな」


 ようやっと気が鎮まったらしい彼は、ゆらり、と刀を下げて鞘に収めた。そして、すっかり茫然自失状態、死んだ魚の目に変わった番人二人を、木船に備えていた縄で、そのまま易々やすやすと合わせ縛り上げた。



「……あ、ありがとう、ござい……ました。助け、て頂……」


 此処ここに現れてから、一度も自分の方を見ない彼に対し、反射的に呂律ろれつの回らぬ口で、アマリは礼の言葉を発していた。ようやく、荊祟は彼女の方を向いたが、冷ややかな眼差しでそんな様子を凝視している。

 次第に思考が曖昧になり、目の前が揺らいでふらつき出した。ゆるゆる、と力が抜けていくにつれ、彼女の身体はうつ伏せに倒れ込む。もう、限界だった。

 このまま眠り込んでしまったら、長である彼に殺されるかもしれない。とは言うもの、抵抗する力はもう無かった。どうせ全てばれている。今更、彼が自分を贄として一族に渡す事も、伴侶にする事もないだろう……と薄らぐ意識の中、アマリは考えた。

 尊巫女の責務は果たせないが、人族……女の尊厳だけは、どうにか守れたようだ。それだけでも幸いだったと思うしか、無い……

 自分の人生とは何だったのか……と、一瞬思ったが、次を考える間もなく、アマリの思考にはもやがかかり、視界には蓋がされ……やがて、意識は彼方に消えた。



 ――…………


 ふわり、ふわり、と身体が妙に軽い。どうやら宙に浮かび、飛んでいるらしい。心地好い風に流されているようだ。そんなおぼろな感覚が、彼女が最後に覚えていた事だった。


 ――嗚呼ああ……冥土めいどに向かっているのね……? どなたかお迎えにいらしたのかしら……


 そんな疑問がぼんやりとよぎったが、間もなく襲った突風と強烈な閃光により――消え失せた。

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