2章 僕の国にもたらされた突然の災難
1.かつてないほど不機嫌な父
その日、父はすこぶる機嫌が悪かった。
父は普段、あまり顔の表情がはっきりと出るタイプではないから女中達には分かりにくいけど、僕には分かる。かれこれ十年と少し一緒に暮らしていれば、些細な変化も気付けるようになってくる。
たとえば、膝の上に置かれた手。拳を作ったその手は、皮膚の色が白くなるまで強く握られていた。
もうちょっと加減して握ればいいのに。絶対てのひら怪我してるよ。まあ、本人にとって今はそれどころじゃないんだろうけど。
「事情は分かった。おまえたちに言いたいことは山ほどあるが、今はいい」
続いて深いため息。本日何度目のため息だろうか。
「シェダル、だったか。おまえの息子の特徴を教えなさい」
「カミル国王! では……」
「とりあえず捜してやろう。居場所が分からないことには、こちらもどう動けばいいか判断もつかないからな。それに」
眉を寄せて、父は向かいに座っている客人の二人に深紅の目を向けて、少し細めた。いや、むしろ睨みつけたと言ったほうが正しいのかもしれない。
「おまえの息子も銀竜も奪われた今の状況では、手を貸してやるほかはどうしようもないだろう。分かったら、早く必要な情報を提供しろ」
正直な話、父――カミルが機嫌を損ねるのも無理からぬことだった。
本来僕達にとって待ちに待った客人であるはずの彼ら二人は、非常に厄介な問題をここノーザン王国に持ってきたからだ。
どんな問題を持ち込んだか。それを話す前に、まずは客人が誰なのか説明しよう。さっきカミルが名前を口にしていた気はするけど。
前日に手紙によるアポイントを取りつけていたから、彼らの訪問は想定内だった。
十年以上前からカミルが連絡を取っていた竜の研究者、ユークレースという名の
そう、あくまでも予定だった。
実際には血相を変えて城に駆けこんでいたのはユークレースとシェダルの二人だけだった。
彼らはだいぶ取り乱していた。特に妻のユークレースはひどい状態で、とても話せる状態ではなかった。
辛抱強く僕とカミルは落ち着くのを待ってから事情をよく聞いてみれば、ノーザンに入国する前に息子と銀竜が何者かによって連れ去られたと言うのだ。
よりにもよって、十歳になる息子と銀竜を。
「ねえ、カミル。手助けしてあげるの?」
客人の夫婦が退出してから、僕の隣で微動だにしない父に視線を向けて聞いてみた。
その問いかけには、もう助ける義理はないんじゃないかという本音も込めている。
だって、あのユークレースとかいう女。カミルが十年以上前に送った手紙を今まで放っておいたという話じゃないか。しかも彼女の息子がそれを見つけ出したことで発覚し、ようやく返事が届いたのが昨日。
そんな失礼な行為をする相手を助けてやるほど、お人好しじゃない。
だけど。
怒り心頭な僕の心とは裏腹に、カミルの返事はまったく逆だった。
「仕方ないだろう。銀竜がいないことにはどうしようもない」
「そりゃそうだけどさ」
「銀竜は私達にとっては必要なのはおまえも知っているだろう。時と運命を司る、あのいにしえの竜の力がなければ、イリスの目を治すことは不可能なんだ。あの二人に関しては私としても思うところはあるが、仕方ない」
視線を落として、カミルは自分の手のひらをゆっくり開いた。やっぱり少し傷になっていて血が滲んでいる。
ひとつ息を吐いて、小さく
「それに……」
「それに?」
言葉を切った後の間が不思議で首を傾げて聞き返せば、カミルは懐から封筒を取り出した。
まるで壊れ物を扱うようにそっと慎重そうに便箋を取り出して差し出される。
読め、ってことか。
無言で受け取り、僕は便箋を開いて読むことにした。
文面はお世辞にもきれいとは言い難い字だった。たぶん、これは子どもの字だ。あまり長くはない文章からしても、おそらく間違いはないだろう。
読み終わってから、僕ははっとしてカミルの顔を見る。彼は眉を寄せて
手紙には、こう書かれていた。
カミル=シャドール陛下へ
息子のアサギが代筆しております。
手紙の返信が遅くなってしまい申し訳ありません。
友人の銀竜が姫の助けになれることと思います。
ただちに銀竜とともに貴国へ向かいますので、もうしばらくご辛抱ください。
アサギ
「子どもに罪はない。こんな手紙を受け取ってしまっては、もう見て見ぬふりなどできぬよ。私は」
再び目を開いたカミルは真剣な面持ちで、僕にそう言った。
僕としては厄介事に父を巻き込みたくないところだったんだけど、これは時すでに遅しだな。仕方がない。
「わかった」
元の通りに便箋を封筒に仕舞ってから、手紙をカミルに返した。
息をひとつ吐き、彼に笑顔を向けて言った。
「それなら、僕も協力する。力になるよ」
「ありがとう、ノア。おまえのことは頼りにしている」
当たり前だよ。なんといっても、カミルは自慢の父親なんだから。彼のためなら、僕はなんでも協力するつもりなんだ。
「それで、居場所は分かった?」
「ああ。魔法で特定しようにも、肝心の本人に私は会ったことがないからどうしたものかと思ったが。ひとまず精霊に尋ねてみたところ、大体の場所は分かった。捕らえられている場所には魔力を遮断する結界が張ってあるらしく、詳細までは分からなかったが」
「へぇ、さすがだね。それにしても結界か……。相手はどこかの貴族なのかな」
結界が張られているとなると、捕らえられている場所は立派な屋敷のはずだ。だとすると、大きな屋敷を所有している貴族くらいの身分を持った者の犯行と断言できるだろう。
「いや、そうではない」
首を横に降り、カミルは腕を組んだ。
また眉を寄せて、深紅の両目を細める。
「アサギという子どもと銀竜をさらったのは、国王だ」
「え、国王!? 一体、どこの国の王だよ。そんなことするのは」
「セントラルの国王だ。おそらく二人は、セントラルの王城に捕らわれている」
うそだろ。そう思ったけど、カミルの目は確信に満ちていたから、たぶん本当のことだ。普段から真面目な性分の彼が、この局面で冗談を言うはずもない。
信じられない。いくら自国の民ではないとはいえ、竜ばかりか十歳に満たない
「セントラルって、海の向こうの国だよね。たしか帝国の隣の……」
「ああ、そうだ」
僕達の国ノーザンがあるのが西大陸。そして海の向こうにあるのが東大陸だ。
東大陸はほとんどイージス帝国の領土に侵されているものの、まだいくつか小さな国が残っている。カミルが言うセントラルは東大陸の中でも最西端に位置する小さな国だ。
「
東大陸のわずかな領土といくつかの島、それがセントラルの所有する領土だったはずだ。今のところ、距離が遠すぎるし接点がないのもあって、ウチとは国交がない国だけど。
「無属の子どもと銀竜をさらったりして、何をするつもりなのかな」
「さてな。幼い子どもをさらうような輩だ。ロクでもないことを考えているに違いない」
眉間に皺を寄せたカミルは、吐き捨てるようにそう言った。彼もまだ怒り冷めやまぬといったところか。まったく、子どもが絡むと昔からカミルは感情的になるんだから。それが彼のいいところだけど。
それにしても、無属の子どもか。
シェダルの口から教えられたアサギという子どもは、
そもそも、
それでも本人に関する詳しい情報なしでは、たいていの者から見てその子は普通の
セントラルの国王が犯行に及んだ主な目的が銀竜だったのなら、一緒にいたアサギという子どもは単なる人質だったのではないだろうか。
「ねえ、カミル。アサギが無属の子どもだってこと、向こうが気付いてない可能性があるんじゃないかなって今考えていたんだけど」
「……そうか」
腕を組んだまま黙り込むこと数刻。父は、固い表情のまま再び口を開いた。
「仮にそうだったとしても、銀竜の口から情報を割らせるかもしれん。だとすれば、こちらから子どもの誘拐を理由に打診しても、王として無属の子どもを保護していると言い逃げされてしまうだろうな」
「そっか」
なんかややこしい事態だな。セントラルの国王が子どもと銀竜を拉致したのなら、僕達は国を相手取って二人を奪還しなくちゃいけないのか。
しかも近隣の国ではなく、海の向こうにある国が相手なんだ。
「ノア?」
憂鬱になってきた気持ちを振り払うためにひとつため息をついて、僕は無言で立ち上がった。
父にとっては、いきなり席を立ったように感じられたのだろう。カミルは顔を上げて、どこか心配そうに僕を見ていた。
「とにかく、僕の方でセントラルについて調べてみるよ。交渉するにしろ、直接乗り込んで奪還しに行くにしろ、情報がないことにはどうしようもないしね」
大陸が別で、帝国ほど有名ではない国だ。僕はセントラルがどういう国なのか、知らなさすぎる。
「詳細が分かったらちゃんと報告する。だから、カミルはあんまり思いつめたらだめだよ」
にっこりと笑うと、カミルは再び押し黙ってしまった。僕は手をひらひらと振って応接間を後にした。
だってこうでも言わなきゃ、きっと彼はまた暴走する。子どもが絡むとなおさらだ。ノーザンの前王を弑した時のようにセントラルの国王を燃やされてはたまらない。
まさか、と自分でも思う。だけど、カミルならやりかねないことを、僕はこれまでの経験を通して知っている。
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