五人の魔女
ナナシマイ
一人目 人差し指の魔女
――二人だけの秘密だよ。
そんなお決まりの文句に、僕は、簡単に胸を高鳴らせた。
*
いつからだったろう。隣の家に住んでいる同い年の女の子を、名前で呼ばなくなったのは。
僕たちが生まれる前から親同士の付き合いがあり、幼稚園、小学校は勿論、中学と高校まで同じところに通っている。かれこれ十八年の仲だ。まぁ、この田舎では、そんなに珍しいことでもない。
そんな彼女とは、今まで大きな喧嘩は一度も経験したことがなく、かと言って四六時中一緒にいるわけでもない、ちょうど良い距離感を保っていた。こういうのを、家族のような存在、と言うのだろう。
家が隣だから、登校は毎朝一緒だ。下校は、テスト週間や部活、他の友人との約束がない日にたまに。
わざわざ一緒に帰ろうと言うわけでもなく、たまたま駐輪場で会ったから帰る。それが自然なことだった。
「
今日は、その“たまに”に該当する日だったらしい。
カシャンと自転車の鍵を開けた瞬間にかけられた声に、ぱっと振り向く。予想通り、そこに立っていたのは藤沢だ。そもそも、僕をそう呼ぶのは彼女しかいない。
考えてみれば、今日は一学期の最終日だ。時間が合ったのも偶然ではなく、必然だったのだろう。僕は軽く頷いた。
「あぁ、帰るか」
そのまま自転車を後ろ向きに動かして列から出し、サドルに跨がる。少しくらい走り出していても、すぐに彼女は追いつくはずだ。が――
「待って」
思わぬ後方へかかる力。藤沢が、僕の自転車の荷台を掴んで引き止めていた。
「ねぇ、今日時間ある? ちょっと寄りたいところがあるんだ」
「時間はあるけど、それ、僕も必要?」
「良かった。じゃ、自転車出してくるから、ちょっと待ってて」
僕の質問には答えず、「時間はある」というところだけに反応する藤沢。
そういうところは昔から変わらない。
いや、彼女は昔から、どこも変わっていないのだ。……見た目も、性格も、何もかもが。
自由で、明るくて、ゆらゆらしているのに、どこかブレない芯を持っている。
それはまるで、一人で変化していく僕を嘲笑っているかのようで。
「お待たせ」
藤沢はすぐに自転車を出してきて横に並んだ。あまり手入れをしていないのか、薄汚れた自転車。それでもオレンジ色のフレームがよく似合っている。
そんな彼女の先導で校門を出た。
「なぁ、どこに行くんだ?」
「着いてからのお楽しみ。って言っても、創くん途中で気づくと思うけど」
学校を囲む森を抜けると、じりりと太陽に皮膚を焼かれる。この辺りはずっと畑が広がっていて、日差しを遮るものはない。
すぐに汗ばみ始めた肌。
しかし、その不快感は一瞬で消える。ペダルを踏み込めば踏み込むほど、正面からの風が肌をなぞっていく。同時に汗も蒸発する。それが気持ち良かった。
そういえば、こうして毎日同じ距離を自転車で走っているというのに、藤沢の肌は僕のそれよりずっと白い。
やはり、女子らしく手入れでもしているのだろうか? 藤沢がそういうことに気を遣うところは、何とも想像しにくいけれど。
などと、どうでも良いことを考えながら、その白い肌を追っていく。
藤沢は、途中で家の方向から道を逸れ、遠くに山が見える道を進んだ。その先は確か――
「樫の木さまのところか?」
少し声を張り上げて訊ねると、大きく頷く藤沢。その反動で、ハンドルも大きく揺れる。
「あっぶなぁ!」
二度ほど左右に振れたところで何とか持ち直し、転倒は免れる。ほっと息をついていると、藤沢は少しだけ自転車の速度を緩めた。
自然、並走する形になる。
「気をつけろよ」
そんな僕の苦言は、勿論無視される。
「やっぱりバレちゃった。そ、樫の木さまのところ」
樫の木さま。
この街にひとつだけある神社を、近所の人たちはそう呼んでいた。節目のお参りも、夏祭りも、すべてここで行われる。馴染み深い場所だ。
そうは言っても、何もない日にわざわざ行くほどではない。それとも藤沢は今年、夏祭りの運営に関わっていたのだろうか?
鳥居の手前にある駐輪場に自転車を停める。
鍵を閉めて鳥居の方へ向かおうとすると、こっちこっちと手招きする藤沢。
彼女が示した道は、山へ入る道だ。
「もしかして、忘れちゃった? ……秘密基地のこと」
*
境内からさほど離れていない森の中、僕たちは低い木が密集している下を、腰を屈めながら進んでいた。
前を歩く藤沢をなるべく見ないように、左右に顔を向ける。
折り込んでいないのであろう、彼女の膝丈のスカートも、この体勢では太ももの辺りまでずり上がっているのだ。
親しい友人というのは、友人だ。あくまでも友人。そして、そんな友人に気軽な態度で指摘できるような精神を、僕はあいにく持ち合わせていない。
僕にできるのは、見て見ぬふりをすることだけだ。いや、そもそも目に入らないようにすることだ。
「暑いねぇ」
背後の葛藤に気づく様子のない藤沢がそう呟く。まあ、同感だ。直射日光は届かないが、湿気が酷い。自転車を漕いでいる時の方が涼しかったんじゃないかとさえ思う。
「日本の夏だからな」
「創くん、日本じゃない夏を知ってるの?」
「……いや」
言い訳をしても暑いだけだと思い、そこで終わらせ――
「ぉわっ!」
いきなり立ち止まった藤沢の尻に頭突きをしそうになって、慌てて止まる。
「もうっ! よそ見厳禁」
振り向き、口を尖らせた藤沢をようやくこの目で捉えると、その背景には、奥行きのある空間が広がっていた。
こういうの有名なアニメ映画にもあったよな、と思いつつ、それだけが懐かしさの原因ではないことにはすぐに気がつく。
「……ここか」
「もう……」
呆れた様子の彼女に並ぶと、
樫の木さまの周辺にある森は、小学校低学年くらいまでの子どもたちにとって、恰好の遊び場だ。それなりに広い森ではあるから、自然、仲良しグループによって行きつけの空間は異なる。
僕と藤沢の場合は、二人で、
「ここ、じゃなくて、秘密基地!」
「わかってるって」
心を読んでいるのだろうか、と疑うレベルのツッコミに、思わず苦笑いをする。
秘密基地と口にするのは、まだ僕にとって気恥ずかしいことなのだ。
小さな頃の思い出を、少し前までは同じように恥ずかしく思っていたはずなのに、彼女はいつの間にその時期を抜けたのだろう。
女子の方が精神年齢が高いというのは聞いたことがあるが、こんなところでそれを実感させられるとは、思ってもいなかった。
「わかってるなら、じゃあ、どうしてここに来たかわかる?」
「わかるわけないだ――」
「なんでっ!」
いや当然のことだろう。そんな食い気味に言われても困る。
同じ事実でも、当事者の記憶と他人の心情は大違いだ。それを混同するなんて、藤沢もまだ子どもなのだ。
「もう、本当、なんにも覚えてないのね!」
ぷくりと膨らませた彼女の頬は、やっぱり子どもらしかった。
「覚えてない? 何を?」
一応、話を進めてやろうと質問すると、更に膨らんだ頬。
つついてやろうかと一瞬考え、勿論やめる。
藤沢は、はあぁ、と盛大な溜め息をついた。
そして、バン、と両肩に置かれた手。情けなくも、ビクッとする。
「秘密の話は秘密基地でっ!」
「……っ!?」
いきなりの大声に驚くが、肩をしっかりと掴まれていて、仰け反ることができない。
「私っ、卒業したら、海が近い大学に行くからっ! この街、出るからっ!」
「う、海が近いって、どこだよ? 日本海か太平洋かもわかんねぇよ」
我ながら、酷い返しだ。
「それは秘密っ!」
しかし、藤沢の返しはもっと酷い。
頭がこんがらがって、色々なことが、わからなかった。
「……秘密って、秘密の話をここでするんじゃなかったのかよ」
「覚えてるじゃん」
「思い出したんだよ」
「嘘だぁ」
……半分は本当だ。ここでたくさん秘密の話をしたこと自体は、覚えている。しかし、その内容までは覚えていないから。
と、そんな話をしたいわけではない。
「はぁ。で、どういうことだよ」
「……秘密の話はしてるよ。街を出る話は、創くん以外、まだ誰にも言ってない」
「まだ、なんだろ?」
彼女の言葉に安堵している自分がおかしくて、思わずぶっきらぼうな口調になった。それを気にした様子もない表情に、僕はまた安堵してしまう。
だがそれは、都合の悪いことを無視する表情でもあった。
「じゃあもうひとつ、今度はちゃんと、二人だけの秘密だよ」
二人だけの秘密。
そんな安っぽい台詞に、一体どこの男がときめくというのだろうか。
幼なじみ。
唇に当てられた、白い人差し指。
思い出の秘密基地。
二人きり。
……簡単に高鳴ってしまう自分の心臓が、本当に恨めしい。
肩に置かれた手にぐうっと押され、されるがままにしゃがみ込む。
彼女の手はいつの間にか離れていて、自身の口元にメガホンを作っていた。それは自然に、僕の左耳に当てられて。
「――――」
決して短くはない、けれども、これから迎える別れにしては、あまりにもぞんざいな言葉。
ただの友人とはいえ、十八年の仲なのに。
「……それは、今から有効なのか?」
僕の質問に、彼女は考え込む仕草を見せる。わざとなのか、本気なのか、見ただけではわからなかった。
「うん、有効にしよう! でも、恥ずかしいから次まで取っておいて」
「それ有効って言わないだろう?」
無視されるとわかっていながらも、聞いてしまう。
大学生になるまでまだ半年もあるのに、なんだ、これは。思わず掴もうとしてしまった、会話の糸口。
「魔女になりたかったから、嬉しいなぁ」
予想通り、糸はどこかへ飛んでいく。
僕は、ゆらゆらしはじめた彼女の笑顔を、少しも見逃すまいと、見つめ続けた。
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