003「喫茶あんとれいす」

 回想終了。時は現在に戻る。


 店内に大熊が原稿をめくるぺらりという軽い音が断続的に響く。その音は古池に蛙が飛び込む水の音のごとく、店内の静寂をより際だたせていた。


 この店、「喫茶あんとれいす」は大変に奇妙な店であった。その奇妙さは筆舌に尽くしがたい。この私をして尽くしがたいのであるから、相当なものであることは、賢明な諸君ならそろそろご理解いただけるだろう。


 日曜日の昼下がりという、喫茶店におけるゴールデンタイムであるにも関わらず、我々以外の客が一人もいない。というか、数年前に大熊に紹介されて以来、この店に客がいるところをみたことがない。


 原因は山のようにあるのだが、まずその立地が筆頭にあげられる。駅から徒歩45分というアクセスの悪さ、Googleマップが匙を投げる複雑な経路、人工衛星にフェイントをかけるかのごとき方向転換などを経てようやくたどりつけるという、おおよそ客商売をするような場所ではないところに「あんとれいす」はあった。何度か来ている私でさえも、迷わず到着したことは一度としてなく、今日こうしてたどり着けたことも奇跡といって差し支えない。


 問題はそれだけでない。この「喫茶あんとれいす」の外観は大変みすぼらしかった。ぼろぼろの屋根にツタまみれの外壁、かすれて読めない看板等々、アンティークやビンテージといった言葉の範疇をはるかに超越した惨状は、日本中の廃屋のロールモデルに相応しい有様であった。


「ここ、最近見つけたんだ。穴場なんだよ」


 初めて大熊につれてこられた時、そうぬかした奴に対して「墓場のまちがいだろ」と言い返しそうになったのもいたしかたないだろう。本当に墓場だったら呪われそうなので言い返さなかったのも賢明な判断だと思う。この「あんとれいす」がどうして経済的にも物理的にもつぶれないのか、私には不思議でしかたがない。


 かようにして、「喫茶あんとれいす」はまるで「できるだけ客が来ないように」意図して作られているかのような場所であった。価格競争やらクーポン配布やらガツガツと顧客獲得に躍起になるチェーン店とくらべればその泰然自若とした態度は一種の潔さを感じられるが、そんなに客にきてほしくないならとっとと店を閉めればいいのにと思わなくもない。


 しかし、その内装は外観に比してまともであり、育ちのよい令嬢がまとうようなごく自然な気品が漂っていた。サロンエプロンに身を包む、シブい店主が出すコーヒーの味も無類であった。


 その居心地のよさと人の寄りつかなさから、いつからか私は大熊に新作原稿を読ませる際はこの店を利用するようになっていた。



「なるほどねぇ」


 読み始めてから約二時間。大熊は最後のページをめくり終えると、原稿をテーブルの上にそっと置いた。その「なるほど」には多義的な響きが含まれており、「なるほどこいつは天才だ」という嘆息にも「なるほどこいつはもうだめだ」という諦念にも受け取ることができた。


 作品を完成させたばかりの作家の繊細さはガラス細工といい勝負である。自身の作品への自信と不安がぎりぎりの攻防を繰り広げている最中、こんな玉虫色の反応をされてはたまらない。


「おい、大熊」

「なに?」


 そんな私の心中を知ってか知らずか、この男は大きくのびをしながら大口をあけてあくびをしている。その様子はひどくマヌケで、水辺ののんきなカバを想起させた。


「なに?ではない! 小説を読み終え、目の前に作者がいるんだぞ! 言うべきことがあるだろが!」

「え?なんのこと?」

「とぼけるな! 感想を聞かせろ感想を!」

「ああ、感想、感想ね」


 大熊は腕を組み「うーん」と唸りながらじっとテーブルの上の原稿を見つめた。その表情はいつもの人のよさそうな柔らかさはなく、じっと何かを分析するような冷静さがあった。普段と違うその様子に、心臓が汗をかくような緊張が走る。


 そして、しばしの沈黙の後、


「うん。いいんじゃない? 僕は好きだよ」


 大熊はいつもの赤ん坊のような柔らかな表情でそう言った。


「お前……毎回それしか言わないじゃないか!」


 そう憎まれ口をたたきつつも、自分の身体からこわばりがほどけていくのを感じる。この瞬間、自分の作品が最初に他人に読まれる瞬間の吐きそうになる緊張感は、何度やっても慣れることはなかった。そんな私の様子を見て、大熊はケラケラと笑っている。


「あれ、そうだっけ?」


「そうだ! 短編だろうが長編だろうが、純文学だろうがライトノベルだろうが、お前に読ませると毎回『僕は好き』とかいう、褒めてんだか貶してんだかわからん半端な感想しか残さないではないか! 他に何か言うことはないのか!」


「え、的を射た批評とかした方がいいの?」


「……そんなことしたらお前とは絶交だ」


「絶交て。小学生じゃないんだから」


「うるさい。完成直後の作家は繊細なのだ。最初の読者に酷評などされようものなら、親の葬式くらい声上げて泣く自信がある」


「絶対やめてね……じゃあ何を言えばいいのさ」


「褒めろ! お前の持つ語彙のすべてを総動員して褒めろ!! テンプレートな褒め方は許さんぞ。オリジナリティと意匠を凝らした褒め言葉で私をもてなせ! 『そんなに褒めるなよ』と私が遠慮しても構わず褒め続けろ!」


「めんどくさ過ぎるなぁ」


 大熊が呆れたように肩をすくめる。

 うるさい。作家とはそういう生き物だ。


「というかね。僕にとって『僕は好き』って評価は、結構高評価なんだよ。僕が責任を持てるのは、僕の感想だけだからね」


「……そのセリフはもう聞き飽きた」


 とは言いつつも、そんな風に言われたら私も悪い気はしなかった。


「で、今回もネットに上げるの?」

「ああ、もう少し推敲してからだが」

「よくやるねぇ。大して読まれもしないのに」


 大熊はケタケタと愉快気に笑った。その笑い声に自分の眉間に青筋が浮かび上がるのが分かる。この男が幼気な子供ような顔でなければ、迷わず握りしめた拳をまっすぐぶつけていたことだろう。


「どの口がいうんだ。元はと言えばお前が言い始めたことだろうに……」


 私がウェブ上に小説を投稿するようになったのも、この男の勧めがきっかけであった。「もしかしたら書籍化とかできるかもよ」という大熊の甘い言葉にのせられたのである。


 当時の私は、私ほどの文才を持つ作家を世界が放っておくはずがないと考えていた。


 文芸サークルでは日の目を見なかった私ではあるが、不特定多数の目につくところに作品を置いておけば、即座に誰かが私の稀有な才能を見抜くだろう。そして数か月もあれば様々な出版社から書籍化のオファーが殺到、すぐさま漫画化、映像化の話に発展。そこからはとんとん拍子に人気がでて、インゼーザクザク、チャンネーワラワラ。毎日テレビに雑誌に引っ張りだこ。そしてドラマの撮影をきっかけに、今をときめくあの大女優と結婚。日本中のファンから熱い嫉妬の視線を向けられるだろうが、それも致し方ない。彼女と一姫二太郎の円満な家庭を作り、作品で築き上げた莫大な資産で優雅な余生を過ごす……。


 そんな輝かしい未来が待っていると、当時の私は半ば本気で信じていた。もちろん、私は押しも押されぬ天才作家であるから、今でもその未来を信じていないわけではないが、「寝言は寝て言え」と叱責する自分の内なる声に気づきつつあるのも事実であった。


「まあ、そこまでの成功はないにしても、もう少し読まれても良いんじゃないかな、と僕も思うよ。普通に面白いし」

「普通に、とはなんだ。圧倒的に、と言い直せ」

「ちゃんと宣伝とかしてるの?」


 私の苦言を完全に無視して大熊が問いかける。それは問い詰めるというよりは純粋な疑問、もしくは単純な確認というニュアンスだった。しかし、それは私にとってかなり痛いところをついた言葉であった。


「ふ、ふん。宣伝に力を入れている暇があるのなら、作品の質を向上させるのが作家というものだろう。広告活動に躍起になるようでは本末転倒だ」

「でも、どんなにいい作品でも知られなかったら読んでももらえないよ?」

「うぐ……」


 指摘が鋭く胸を刺す。私の反応を見て、大熊はじとっとした目つきになった。


「まさかとは思うけど、『空魚』のことまだ引きずってるの?」

「その名前は口に出すな」

「随分昔の話じゃない。大人になりなよ」


 「空魚」とは、私と大熊が「まほろば」脱退後に立ち上げた文芸サークルである。生産性の低いぬるま湯集団である「まほろば」と決別した我々は、勇ましく活動した。


 そしてその全ては歴史的な失敗に終わった。いっそ黒歴史的といってもよい。


 詳細は語るに忍びないのでここでは割愛するが、この「空魚」での活動が、私の創作観を凝り固まらせた。


 人物の知名度や人間性で作品が評価されることがあってはならない。

 作品の内容よりも宣伝力・アピール力が重視されることがあってはならない。

 作品は著者から独立したものとして語られるべきである。


 そんな青臭い妄念を、私は大学4年間をかけて熟成させた。

 早い話が、色々こじらせたのである。


「そもそもな、私の小説はこちらからお願いして読んでもらうものではない! 読者の方から『読ませてくださいお願いします』と頭を垂れるのが正しい姿だ! それぐらいの手間と労力を私は自分の作品に注いでいる!」


「え、もしかして僕に対してもそう思ってる?」


 心外だ、とばかりに大熊が顔をしかめる。


「当たりまえだ。古い友人のよしみで咎めずにいるが、本来は私の作品を一番に読む事ができる栄誉に打ち震えて、貢物の一つでも持ってくるのが筋だろう」


「それはおかしな話だな。読書の主人公はいつだって読者の方だよ。本当は君の方が僕に頭を下げるべきだ。『どうか読んでください』ってね」


「図に乗るな! そんなことするくらいなら、読まれずとも……」


 私が勢いに任せて言おうとした言葉を、大熊が遮る。


「そんなことを冗談でも言えてしまうってことは、多分ヨースケはまだ本気で何かを書いたことがないんだと思うよ」


 視線がまっすぐ私を捉えている。つぶらな瞳に柔らかな表情といつも通りの大熊の顔だったが、その言葉には強い芯があり、私は思わず口をつぐんだ。


 この男は、時々こうして何かを見透かしたようなことを言うことがあった。


 しばし、気持ちの悪い沈黙が我々の間に流れる。


「……ま、いいや。そろそろ帰ろっか。明日も仕事だし」


 そう言って、大熊は立ち上がった。テーブルに置かれたままだった原稿を手に取って、私にそっと差し出す。窓の外からは赤い夕陽の光が差し込んで白い紙を染め上げている。どうやら長居しすぎてしまったようだ。


「……ああ。そうだな」


 私は原稿を受け取って、鞄にしまった。会計を済ませ、軽く店主にあいさつして店を出る。店主は小さく、しかしよく通る声で「またのお越しを」と見送ってくれた。



「ねえ、ヨースケ。君は自分の小説、いろんな人に読んで欲しい?」


 最寄り駅までの道中、日が段々と落ちていく中、大熊が不意につぶやいた。少し面食らったが、すぐに返事をした。


「……当たり前だ。書いた以上は多くの人の目に触れて欲しいのは作家として当然だ」

「それってさ、小説を使って有名になりたいの? それとも純粋に作品を読んでもらいたいの?」

「……? なぜそんなことを……」

「いいから、どっち?」


 いつになく真剣な口調である。茶化せない雰囲気だった。私はしばし考えて、


「後者、だな。今はともかく自分の作品読んでもらいたい」と答えた。


 名声を得たいとか、承認欲求を満たしたいとか、そういう感覚がないと言ったら嘘になる。それでも、今は単純に自分の作った作品をいろんな人に読んでもらいたい、それは紛れもなく私のない本心であった。


「そっか。ならよかった」


 大熊はそう言うと、にんまりといつも通りの人の好さそうな笑顔を浮かべて「じゃあ、僕こっちだから」と細い路地に消えて行った。


「なんだ、あいつ……」


 私のつぶやきはすっかり日の暮れた町の空気に溶け込んでいった。一瞬浮かんだ大熊の言葉への違和感も同じく闇の中に消え、駅に着くころにはもう忘れてしまっていた。



 スエザキと名乗る編集者からメールが来たのは、その一週間後である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る