審判、罪と罰

西川悠希

GT_before 審判、罪と罰

 灯りのともった暗がりのオフィス。

 ただ独り、私が見上げる天井に明かりはない。

 背もたれに深く背中をあずけた椅子のきしむ音。

 大きく息を吸い、そして胸にたまったものを少しづつ吐き出していく。

 誰もいない、今はただ私が独りだけ。

 口元から愉悦が漏れる。いまさら何をしに自分はここに戻って来たのだろうか。

 何もかも嫌なことから逃げ出して、自分の姓すらも変えて、それでお前は生まれ変わったつもりなのか?

 それは目の前にいる過去の自分からの問いかけ。

 忌々し気に睨みつけてきているのは過去のありし日の自分。


 お前をゆるさない。


 ……わかっている。私はゆるされようなんて思っていない。


 じゃあ、なんでお前はここにいる。


 成り行き。かつての私の居場所。問いかけに浮かぶ二つの言葉。

 少し背中をかがめ机に肘をつくと以前よりふくらんだお腹の肉と組んでいる足のモモ肉が接触した。

 太ったな、と思う。昔に戻りたい。そこは素直に過去の自分も同意してくれるだろう。

 同意を求めるように視線を上げると、さっきまで目の前にいた過去の自分はもういなかった。

 お腹をさする。

 それは今の自分が現在いまを生きている証。昔、履いていたパンツスーツも履けなくなっていて、あわててジャージで出社した。世間を騒がす新型コロナの影響で出社している人間なんて数えるほどしかいない。今更、知り合いに会うでもないし、咎める人間もいないだろう。

 ただ昔の自分ならありえなかった。こんなだらしないお腹なんて絶対に許さなかった。

 だから過去の自分は、今の自分の体たらくにあきれて消えてしまったのだろう。

 お腹のものを全部吐き出してお腹が引っ込んでくれれば、どんなにか楽だろうかと思う。

 だが現実はそんなに甘くはない。今朝口にしたものは既に吐き出せるだけ吐き出してしまった後。なのにからっぽのふくれたお腹からは喉元までこじ開けるような突き上げ。

 口元を手で押さえ、再び天井を見上げる。

 下を向いていると、また吐いてしまいそうだ。せめて上を向いて、どうにか楽になりたかった。息苦しさに手をどけて、大きく息を吸って、……吐き出す。

 横目で棚の上に置かれたデジタル表記の時計で時間を確認する。

 オフィスの始業の時間は近い。

 しかし私の時間は三年前に止まったままだった。


 私の犯した罪。私はそれをゆるしてなんかほしくない。

 私は誰かに自分を裁いてほしかった。逃げだした自分を愚か者と罵ってほしかった。つかめたはずの未来を捨てた自分を卑怯者と糾弾してほしかった。

 今の私が欲しいのは、優しく温かいほどこしなんかじゃなく、厳しく冷たい罰。

 だから、私は再びここに訪れた。


 もうすぐ彼がやってくる。

 私は瞳を閉じ、彼が訪れるその時をただじっと待つ。

 椅子に座り足を組めば、嫌でも逃げられない。天井を見上げて目を閉じていれば、いきなり顔を合わせることもない。

 1秒1秒がこんなに長く感じるのはきっと生まれて初めてだ。刑の執行を待つ囚人というのはこういう心情なのだろうか。

 審判の時は近い。

 私はただ、じっと待ち続けた。


「お待たせしました、センパイ!」


 言葉とともに飛び込んできた彼は、全く変わっていなかった。

 私は椅子から立つことができず、ただ座ったまま挨拶を返す事しかできない。

 立ってしまったら、きっと私は胸からこみ上げるものを抑えきれない。

 眼鏡を持ってこなかったことを後悔した。せめて眼鏡越しであれば、まだ平静をよそおえただろうに。

 私は懸命にこらえながら、椅子に座ったままただ平静を努める。視線は彼ではなく、彼の向こうの壁の部屋の明かりのスイッチ。

 彼の前でだけは、私は以前の私のままでいたかった。


「今の僕は、ハイパー・ショウです!!」


 だが彼は、そんな私の垣根をおかまいなしに飛び越えてくる。私はこみ上げてくるものを抑えることができなかった。


 * * *


 何も変わらない彼は、何もかも以前のままだった。

 きっと私は彼に色々話さなければならない事がある。

 けど今は、以前のように変わらず私と接してくれる彼が嬉しかった。

 かわす言葉、仕草の一つ一つが私には嬉しかった、喜ばしかった。だから私は心のままに彼との再会を楽しめた。自分でも驚くほどに。

 世の中には決して変わらないものがある。今なら、それが信じられそうだった。


「んなわけないでしょ。これでも会社来なくなったとき心配してたんですよ、何があったのかと思って。お元気そうでよかったですよ、ほんとに」


 突然ぶつけられた彼のその言葉に、私の思考は停止した。

 どういう会話の流れで、その発言が出てきたのかはもはや記憶にない。

 彼は私に対して怒っていた。だが発言はそれとは真逆。心配していたということは怒っていないということではないのか。

 なんでそんな顔でそんな事を言われるのかわからなかった、理解ができなかった。

 ボクサーは倒されたとき、自分が受けたパンチを覚えていないそうだ。

 気づいたら意識を失って、目が覚めたらリングの上で仰向けに倒れている。

 まさに今の私がそれだった。

 わからない。理解ができない。私の思考はただ真っ白のまま。

 その言葉の真意が何なのか、彼に訊くことはできない。……訊けるわけがない。

 自分がどうすればいいのかもわからない。……私に一体何をしろというのか。

 そして、季節だけが過ぎていき、私は何もできないまま、春から夏、そして秋へと移り変わろうとしていた。


 * * *


 ある休日の昼下がり、テーブルに座って天井を見上げている自分の手を引っ張る小さな手。

 心配そうに見上げている、息子の顔。

 私が笑うと、息子も笑う。

 嬉しくて笑っているのではない。私が笑ったから、息子も笑ってくれたのだ。

 今の私は独りじゃない。あの人もいるし、この子もいる。

 ふと、お腹がなった。

 そういえばいつの頃からだろう。お腹が空くようになったのは。

 ちょっと前までの私は手が空けば何かを口にしていた。口にせずにはいられなかった。自分でもまずいな、食べ過ぎたと思ったときは、食べたものを吐き出していた。お腹が空くまでなんか待っていられなかった。

 ……お腹が空けば、お腹が鳴るという事実すら忘却の彼方だった。

 確かめながらお腹をさすると以前よりだいぶスリムになっている。もう少しで履けなかったパンツスーツも履けるようになりそうだ。

 気づけば、最後に吐いた日も食べ物を詰め込んでいた日も、それがいつだったのか思い出せなくなるほど過去の事になっていた。

 お腹が空けば、お腹が教えてくれるし、ご飯を食べればお腹がふくれて満足できる。

 私はその日、息子と二人で冷蔵庫の残り物とご飯でおにぎりを握って、夕食にした。

 あの人は私の手料理と聞いて一瞬顔色を変えたが、冷蔵庫の残り物のおにぎりと聞いて、胸をなでおろした。……おい。

 その日食べたご飯の味は冷蔵庫の残り物と余っていたご飯で作った、冷めたおにぎり。あの人と息子、そして私の三人で食べたそれは、何の変哲もないけれど、とてもおいしい食事だった。


 * * *


 ボクサーが一発で意識を失うパンチはカウンターパンチというらしかった。向かってくる相手を恐れず、真正面から全力で打ち込むパンチ。

 彼が私にぶつけた言葉はまさに強烈なカウンターとなって私に突き刺さった。

 私は笑う。こんなことができるのはきっと彼が男だからなのだろう。男女うんぬんの話はしたくないが、きっと女にはあんなに真っ直ぐに自分の気持ちをぶつけることはできない。どうしても相手の気持ちをおもんばかって優しい言葉をかけてしまう。相手を傷つけないといえば聞こえはいいが、結局は自分が傷つきたくない、嫌われたくないだけなのだ。

 彼の行為は例えるならば、あたかも死に瀕している人間をぶんなぐって蘇らせるようなもの。

 そんなことができる女性がこの世にいるのならば、ぜひお目にかかってみたいものだ。


 夏が終わるころ、心配してくれていたという彼の言葉を、私は素直に受け止められるようになっていた。けれど、私は彼に心配される価値などなかった。

 私は自分の事しか考えていなかった。誰も自分の事を気にかけてくれているなんて思いもしていなかった。身勝手で傲慢で、誰かに思いやられる価値などない人間だった。

 私は自分の愚かさにどうしようもなくなった。だがどんなに悔やんでも、もう過ぎた時間は戻ることはない。

 謝ることも、悔いることも、そして昔の自分を否定することも許されない。そんなことは彼が望んでいない。彼の審判は私にとってとても優しく、それでいてこのうえなく残酷なものだった。


「まま、おしごと、がんばってね」


 私は鏡に映った自分の顔を見る。ひどい顔だと思う。あの人にもつきあってもらって、お酒の力で無理矢理、吐き出したのだから無理もない。

 今思えば、なんでこんな苦しくて面倒な事をお酒の力も借りずにやっていたのだろうか。バカでアホでどうしようもないと思う。

 鏡に映る私は、過去の私ではない。

 呑み過ぎて、ガンガンする頭痛に苦しむ、青い顔をした私なのだ。

 二日酔いで吐いても何が変わるわけでもない。それでも何かを吐き出さずにはいられなかった。

 呑み過ぎたのは、あなたのせい。

 私は都合の悪い事、自分のだらしなさに目をそむけて、今の自分の無様さを人のせいにした。

 彼はきっとなんだかんだ笑って許してくれるのだろう。

 だから私も鏡の前で自分の笑う顔を確かめて、オフィスに向かった。


 * * *


 ……私は、独りではなかった。

 私はそれを認めたくなかった。さんざん泣き喚いて、勝手に決めつけて、ただ自分の思い通りにならなかったというだけで、いじけていただけだった。

 自分の弱さを認めたくないから、自分は誰にも理解されない独りぼっちの人間なんだと都合のいい偶像を作り出していた。


 私は罪を犯した。

 それは自分で自分をゆるすことができないという罪。


 そして、私は罰を受けなければいけない。

 それは自分で自分をゆるさなければいけないという罰。


 その罰は私には受け入れがたい。だがそれは拒否するということは彼への、そしてあの人とあの子への裏切りになる。そんなことは絶対に私には耐えられない。

 だから私は、私が私であることを受け入れる、受け入れなければならない。

 それが私のつぐないであり、そして、それはきっとこの先、終わることなくずっとついて廻り続けるのだろう。

 ――私はもう、独りぼっちではないのだから。

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審判、罪と罰 西川悠希 @yuki_nishikawa

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