第8話教訓
父の腰痛はさほど酷いものではなかった。湿布でも貼っておけば治るものだろう。そう診断した私は、思いつきで行動しないでください、と苦言を呈した。
「そんなことを言ってもだな。俺が書いたのはお前の友人のことを聞いたからだ」
龍馬のことを聞いて?
私の微妙な反応と対照的に、龍馬は「どういうことですきに?」と興味深そうに訊ねる。
父は「お前が坂本殿を連れてくるのは、なんとなく分かっていた」とまるで神官の宣託のように言う。
「勝殿はお勤めで忙しいお方だ。おそらく今も城にて会議でもしているのだろう。律儀なお前は勝殿の屋敷に泊まることはしない。ならば坂本殿を連れて、きっとここに来ることは予想できる」
おそらくとかきっととか。曖昧な文言が含まれるのは気にかかったが、それでも当たっているので何も言えない。
父が得意そうな顔をしているので、龍馬は「へえ。凄いお方じゃ」と見事に騙されてしまった。
私は、父が予想を外すのを何度も見ているので、これは十回に一回がたまたま当たっただけだと気づいていた。
「だから俺は、坂本殿に書を書いて渡そうとしたのだ」
疑わしいことを言う父に、どんなことを書いたのですか、と私は訊ねた。
飲んだくれでも腕のいい医師である父。教養も私よりあるので気になった。
龍馬も身を乗り出して「是非見せてほしいぜよ」と頼み込む。
「ふっふっふ。いいだろう。俺が書いたのはこれだ。おーい、持ってきてくれ!」
父が大声で呼ぶ。当然、腰に響いて父が悶絶しているところに、母がやってきた。
既に乾いているのだろう。丁寧に巻いてある紙を母は父の代わりに広げた。
そこには、『
「一期一会か。意味は分かりますが、どうしてこれを?」
確かご縁を大事にせよ、という意味だった気がする。
私もどうして父がこれを書いたのか判然としない。
すると父は腰を撫でつつ「今は動乱の世だ」と至極真剣な顔で言う。
「元々は茶道の言葉らしい。人との縁を大事にする、という意味だけではない。人は一度限りしか会えないと思い、その一度を大切にせよという意味もある。だからこそ、坂本殿や梅太郎に必要な言葉だ」
そう聞いても得心した気分にならない。
龍馬も同様らしく「詳しく教えてください」と不思議そうに言う。
「医師である俺が言うのは、あまり相応しいとは思えないが、人はあっさりと死ぬぞ」
医師である父から出た壮絶な言葉に、私も龍馬も息を飲んで何も言えなかった。
父は続けて「人は病や寿命以外でも死ぬ」と言う。
「斬られても死ぬ。殴られても死ぬ。矢や鉄砲で撃ち抜かれても死ぬ。そんな弱くて儚い人間がこの世を差配している。ならば動乱の世では、要人はあっさりと殺されてしまうだろう」
私や龍馬を脅かすつもりではなく、ただ事実であるように淡々という父。
いつになく真剣な眼差しだった。しらふでもこうはならない。
「だからこそ、友人として出会った縁を大事にせよ。特に坂本殿は肝に銘じたほうがいい。自分が見込んだ男が亡くなることを恐れよ。それ以上に人との出会いを大事にするんだ。この『一期一会』の意味を噛み締めて、これから行動したほうがいい」
「はい。才谷殿のおっしゃるどおりですきに」
年長者からの教訓と受け取ったのか、龍馬は深く頷いた。
私は父からいろいろな話を聞いてきた。それは説教だったり、与太話だったり。
だけど龍馬と一緒にいたこの場での話は、今までの話よりも深く感じ入った。
そして父は不敵に笑った。
「坂本殿。梅太郎と友人でいてくれてありがとうよ」
いきなりの感謝の礼に、どうしたんですか父上、と私は首を傾げた。
父は笑いながら続けた。
「俺は今までいろんな人間を医師として診てきた。だから人間の大きさがある程度分かる。だから坂本殿は大きな人間になるぞ。間違いない、この俺が言っているのだから」
この段階では龍馬は何も成していない。
それどころか脱藩の罪で終われている罪人である。
そんな彼を父は高く評価した。酔いが覚めているのかどうか、私には分からなかった。
「いやあ。そないなこと言われたら照れるじゃが」
父の言葉を龍馬は素直に受け取った。
だけど今、この文を綴っている身としては、少しだけ悲しい気分になる。
私は龍馬が大人物であることを認める。
維新の三傑を超える大英雄だってことも認めよう。
しかし、私は。
ほんの少しで良かったから。
龍馬が長生きしてくれたらと思っている。
◆◇◆◇
そのまま龍馬は私の実家に泊まった。
そして朝食を二人で食べた後、少し散歩でも行こうかとどちらとも誘うでも無しに出かけた。
他愛のない会話をしていると「おおい、坂本殿!」と呼びかける声がした。
正面からの呼びかけだった。その男は四角い角ばった顔をしていた。目はぎらぎらと鋭く、全身が虎のように鍛え上げられているのが、武芸を習わぬ私にも伝わった。やけに口の大きくて着ている着物は少し古びれていた。
「うん? ああ、おんしか。久しぶりじゃのう。元気にしよったか?」
「ええ。元気にしておりました。まあ道場は相変わらずですが」
知り合いなのか? と私は龍馬に訊ねる。
「ああ。梅太郎は知らんでもおかしくないの。だけど、こん方の剣術は凄まじいぜよ」
「
その男は肩をぐるりと回して「名乗らせてください」と丁寧に言う。
「
天然理心流? 失礼ですが、どちらの流派ですか?
「あはは。田舎剣術ですから知らなくても無理はありません」
「じゃがさっきも言うたが、まっこと腕の立つ御仁ぜよ」
私はどうもよく分からなかったので、はあ、そうですか、としか言えなかった。
しかし私はこの近藤勇と深く関わりを持つことになる。
それはこの江戸ではなく、京の都でのことだった。
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