第14話 きっかけ

 翌日、雨は止んだが、空気はまだ湿気を帯びていた。私は学校に到着し、今日も一日授業を始めるべく、職員室に向かった。


 先輩はすでにそこで、書類の山に頭を埋めていた。私が入ってくいくと、彼は顔を上げ、小さな笑みを浮かべた。


「おはよう、佐藤先生」


 その声は柔らかく、優しかった。


「おはようございます、橋本先生」


 と私は答え、彼の笑顔に返した。不謹慎だとは思いつつも、彼の姿に思わず胸がときめいた。私たちは同僚であり、私は自分の仕事をするためにここにいるのだ。


 私は自分のデスクに向かい、自分の書類を整理して、目の前の仕事に集中しようとした。しかし、頭の中は前日の出来事のことで一杯だった。


 先輩が傘を忘れたのは、知佳さんと一緒に過ごすためにわざとだったのだろうか。私は傘の貸し借りに積極的すぎたのだろうか、麻衣さんが出てきたあのタイミングは偶然だったのか。


 いろいろな感情が頭の中でごちゃごちゃになって、不思議な気分だった。先輩に惹かれている自分に罪悪感を感じたり、知佳さんや麻衣さんへの思いに戸惑ったり、私たちの関係がよくわからなくなったりした。


 その日、俺は自分の考えに没頭し、授業にほとんど注意を払わずにいた。傘の一件で何かが変わったようなことはないはずだが。


 昼休み、俺は校内を散歩することにした。頭の中を整理し、新鮮な空気を吸いたかったのだ。そのとき、佐藤先生がベンチに座って木々を眺めているのを見つけた。


 俺は一瞬、話しかけようかどうか迷った。しかし、俺が決断する前に、佐藤先生は顔を上げ、俺の目をとらえた。彼は何も言わずに、ベンチの隣のスペースを叩いて、俺を誘った。


 俺は彼女の体の温もりを感じながら、席に着いた。俺たちはしばらく黙って座り、校庭の静けさを楽しんでいた。


 そして、佐藤先生が口を開いた。


「あのですね、橋本先生、前から、ずっと考えていたんです」


 俺は、次に何を言われるのかと思い、緊張した。まさか、永遠の愛を告白されるとか、そんなことはないだろう。


「教師の在り方についてです」


 俺は安堵の波が押し寄せてくるのを感じた。そんな大それたことを言った覚えはないが。なんかそれっぽい会話をしただろうか。


「自分らしくしていいんだと言ってくれて嬉しかったです」


 俺たちはまた黙って座っていたが、俺はその静けさに不思議な心地よさを感じていた。


「先輩、ちょっと聞いてもいいですか?」


「なんだ?」


「"先生 "としてのプレッシャーにどう対処していますか?時々、自分はダメなんじゃないか、生徒を裏切っているんじゃないかと思うことがあるんです。」


 俺は、目尻に小さなシワを寄せてほんの少し少し笑った。


「誰しもがそう思うことがある。俺なんていつも思ってる。教師は大変な仕事だし、何もかもうまくいかないと感じる日もある。でも、俺はなぜ教師になったのか、その理由を思い出すようにしている」


「なぜ教師になったのかの理由ですか?」


「あぁ、教師になるきっかけや動機というのは今の自分をかたどっているものだ。一度自分の原点に立ち返って、そのことを思い返すことで自分の意識というのは少しは変わるものだ」


「そうなんですね。ちなみに先輩はなんで教師になろうと思ったんです?」


「……秘密だ」


「え~何でですか?教えてくださいよ」


「いやだ。これは秘密だ」


 俺が教師になろうとしたきっかけとなる出来事は、俺が当時高校1年生のことなのだ。もちろん佐藤と会っていないし、知佳とは俺が引越しをして高校は別になったタイミングだ。だからあの二人はこれに関しては関係はない。ともかくきっかけとなることを佐藤にはまだ教えられない。俺の心の整理がついたらいつか話そうと思う。


「分かりましたよ。でもいつかは教えてくださいね」


 ”ありがとうございます、先輩”と佐藤は加えてそういった。


 俺たちはしばらくの間、沈黙を守っていた。


 昼休憩の終了を告げる鐘が鳴ると、佐藤先生は立ち上がり、ズボンの裾を払った。


「職員室に戻りましょうか」。


 俺は頷き、安らぎを感じた。


 その日一日は、あっという間に過ぎていった。授業に集中し、生徒たちとの関わりを深めていった。終業のベルが鳴り、俺は自分の荷物をまとめて学校を出た。


 その日、私は先輩のことをこれまでよりもっとよく観察し、理解しようとした。先輩はとても静かで控えめな印象だったが、私にはない強さと優しさがあった。


 先輩は私に対して同じような感情を抱いているのだろうか、自分の感情や欲望と葛藤しているのだろうかと思った。しかし、もし自分の考えが間違っていたらと思うと、聞く気にはなれなかった。


 その代わり、私は自分の仕事に集中し、最高の教師であろうとした。生徒の数学の問題を手伝い、彼らの話や悩みに耳を傾け、彼らの人生に変化をもたらすためにベストを尽くした。


 そして、一日が終わろうとするとき、私は、それが重要なことなのかもしれないと思いました。誰が傘を貸したか、誰が傘を忘れたか、そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。大切なのは、私たちが築いたつながりであり、理解し、共感した瞬間なのかもしれない。


 荷物をまとめて帰ろうとしたとき、私は先輩と目が合い、微笑んだ。先輩もそれに気まずそうにしながら応え、私は胸に小さな希望が灯るのを感じた。

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