かさぶた
@hinamene
第1話
ぼくの毎日は『香河』から始まる。
人口は約二万八千人、一番高いビルは五十数メートル。
海と山に挟まれた窮屈で、でも空は異常に広いこの町。
暮らす人々はのんびり。でも、せっかちなこの町。
ぼくの隣人ともいうべき人たちと、ごく当たり前な日常が今日も始まるのだろう。
車で三十分。町の端から端へ行ける『香河』の東の端が、ぼくの住む地区。
山にも近いから真冬の朝は車のフロントガラスが凍りつく。
二十歳までこの地で暮らし、
二十一歳に実家から県で一番の町『高末』へと出て行った。
三十歳を過ぎるまで気ままな一人暮らしをしたけれど、母と姉だけになった実家が傷んでいたのを気に、自分史上、最高額の買い物になるであろう新築の購入に踏み切った。
以来そこで母と姉、姉の息子と娘の五人生活をしている。
ぼくが小学生の時、母は離婚した。
当時、四つ上の姉とを引き連れて香河にある母の実家へと移り住む。
以来、そこがぼくの一番長く住んでいる故郷となった。
まさか自分が実家を建て替えるなんて思ってもなかったけれど、
散々すねをかじった母を、古くなった実家を気にしていた母を無視することは出来なかった。
父親のいない長男坊ということもあり、女手一つぼくら二人を育ててくれた母。
言わば、生きる力を借りた恩を少しでも返せればいいと思ったけれど、
後悔したことも無い訳ではない。
十二年間、『高末』で一人暮らした自分にとって、
再度家族と暮らすことは少なからずストレスになることがわかった。
母はぼくと似た性格で、気を使い過ぎるところがある。
多額の住宅ローンを背負ったぼくに痛いほどの気を使ってくれる。
仕事で遅くなった日も自分の食事のために、わざわざ寝床から起きて出来立ての料理を作ってくれた。
洗濯も履くパンツがなくなる前にきちんと畳まれ部屋の前に置かれていた。
あったかい料理は感謝してるけど仕事の帰りが遅いときは作り置きしてていいよ、と言った。
母は、もうすこし遅かったら作って置いておこうと思ってたところ、と、フフと笑って流す。
五人分の食事や洗濯が大変かは、一人暮らしをしてきた自分にもわかる。
かといって、母に甘えるだけで特に何もしないぼくにも罪悪感はあった。
姉はというと、ぼくと同じで母親に甘えてばかりだ。
パチンコ店のスタッフとして働き、けっして多くない給料から高校二年の娘を育てている。
姉も八年前に離婚し実家に戻っていたが、ぼくが言うのもなんだが、家事は母に任せきりだった。
一緒に住み始めて二年あまり、子供を本気で叱りつけている姿さえ見たことがない。
一週間も彼氏を泊まらせる姉が夜遅くまで彼氏を連れ込む娘を叱ったりすることもなかった。
確かに自分がしていることを、ダメと娘に言えるはずもない。
そんな暮らしの中で母に感謝と罪悪感を、姉には無頓着さの苛立ちを感じ、
口にも出さない自分にも腹を立てながら、
ぼくの毎日は水量の少ない川のように静かに何処リ流れていくことになる。
「おはよう。車の窓ガラス凍ってるわよ」今年六十歳になる母は、少しパサついた髪を丁寧に縛り昨晩の洗い物をしながら言ってきた。
オープンキッチンからモウモウと立つ湯気が今朝の冷え込みを教えてくれる。
お湯かけるから大丈夫と、そっけなく応えると空いたペットボトルを探しにキッチンへと進む。
「今日は一段と寒いわね」最後のお皿を洗いながら母が言う。
母の隣に立ち、ペットボトルにお湯を注いだ。
ボトルのしずくを手で拭いながら行ってくるとだけそっけなく言う。
「いってらっしゃい」母の顔は見ない。
ぼくは普段、母に限らず人の顔を見て話すのが苦手だった。
というより、母とはほとんど口もきかない。愛想さえもおっくうになる時がある。
逆に、365日、話す事の絶えない家族の方が不思議とさえ思っている。
もちろん仕事上の人とは顔を見て話すし、それなりに愛想も振りまく。女友達のメイクや髪型の変化にも目ざとく気を配ったりもする。
家を建てはしたが、ぼくのこの家での態度は母にとっては仇ではないのか、
時々そう思ったりもした。
冷えた革靴を履きながら、今日遅くなるからとキッチンの母に届くように少し大きな声で言った。
「そう、じゃあ晩ご飯いらないんだね」
いらない、とだけ答える。
一日分の母との会話は、これで終了だ。
車の窓にボトル一杯の湯をかける儀式をすますと、エンジンをかけ片道二十六キロの仕事場へ。
アクセルを、いつもと同じ力で踏んだ。
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