六 逐鹿

「お、お」

 船を洛水のほとりに見いだして、一行は感嘆した。

「大事なかったか」

 人士が、舫縄もやいなわを握り座り込む人影を呼ばう。影は船を用意すると誓った洛陽の義人某だと思われた。が、答えない。

「答えよ」

 近づき見れば、喉笛を一条の矢が貫いていた。

 ぐわりと揺れかしぎ、地へ伏した亡骸に青ざめる間もなく

「船が」

 亡骸を、握る舫縄ごと引きずって、船が流れ行かんとす。

 飛び出したのは宦官であった。船縁をつかみ、足を川岸に踏ん張れば、船は留まった。

「よくやった」

 ある人士が誉め、

「近づけよ。腰を曲げよ。あらためる」

 宦官の背を踏み台代わりに船へ渡ると、船中を見渡す。

「誰もおりませぬ、主上」

「許せ」

 詫びる帝の御心を慈悲深く思い励まされ、宦官は満身の力をもって玉体を支えた。

「耐えよ、宦官」

 また一人、船に渡ろうとした人士を、ひょうと矢が射る。

 どうと倒れる人士の向こうから、

「久方ぶりですな、豫章王よしょうおう

 場にそぐわぬ涼やかな声が帝を呼んだ。

 帝を帝と呼ばぬ。豫章王と、日嗣ひつぎであったときの位で呼びつける。それ即ち胡人であると、みな一同に理解した。

 胡人は冠弁をかぶり衣を右衽に着て、端正な漢語で、至尊たる帝を同輩であるかのように呼んだ。馬上のまま矢を放ったばかりの弓を下げ、ただ田猟でんりょうで再会したような気軽さで、

劉玄明りゅうげんめいです」

 礼儀正しく氏とあざなを名乗り

王武子おうぶし殿の屋敷で詩吟し、皇堂こうどうで射術を競いあったのをお忘れですか」

 胡人の言葉に帝は船上に立ちあがり、睥睨へいげいした。蒼白たる顔ばせに眼光は耿々こうこうとし、怒髪どはつ逆巻く容体である。

「よくも、よくも」

 帝の指弾しだん

「世の習い、戦の習いではありませぬか」

 胡人は事もなげに返す。

「されたことを、したまでです。そも我らともに中原の鹿をい、いま貴君の天命は尽きました。しかれば帝王の慣例にならい、貴君を冊封さくほう宗廟そうびょうを継がせ、臣として迎え入れるために来たのです」

「黙れ」

 帝は忿怒ふんどに震えながら胡人を大喝し

「貴様のようなえびすどもの酋長おさが、どうして我らと比肩ひけん逐鹿ちくろくの英雄であろうか! ましてや中華を統べし帝王たらんや!」

 胡人は閉口し、また口を開くや

「やれ」

 ぞんざいに命じた。

 胡人の後方に侍した軍から、火矢が撃たれる。燃え上がった船から帝は躊躇なく宦官を踏みつけのがる。宦官はたまらず崩れ、水中に落ちた。逃げそこなった人士は悪態をつき、次いで火に燃え移られて悲鳴を上げると、水へ飛び込んだ。

 宦官は水中にあって、洛水の岸辺へ手を伸ばす。手は空を掻く。衣服は宦官の痩せ衰え傷つけられた四肢へまとわりつき、水底へ沈めんとす。


 宦官はもう一度手を伸ばした。手を取る者はなかった。

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