第二十七話

 筋肉を使って口角を持ち上げる、そんな笑い方をする母だった。


 他の人に向ける笑みと同じ顔で俺に笑いかける。そんな母のことが少し疎ましく、けれども嫌うにはエピソードが足りていなかった。


 小学生のころ、海で溺れた人を見た。

 海の恐ろしさを理解していなかった俺は飛び込んでその溺れている人を救出し……色んな大人に怒られた。


 馬鹿なことをするな、お前の身に何かあったらどうするんだ、大人を頼れと。

 幼い俺にも……それは俺がしたことを責めているのではなく、それ以上に俺の身を案じてくれていたのだと理解出来た。


 家に帰ったら、母には褒められた。


 ほんの少し、寂しく感じた。別に叱られたいわけではなく、むしろ褒められたいと思っていたのに。





 昔の夢を見て目を覚ますと、寝転んだまま俺を見ていたツナと目が合う。


「……おはよう。目が覚めてたなら、起こしてもよかったのに」

「んへへー、寝顔を見るのは隣で寝ている特権ですから」

「……見てて面白いもんでもないだろ」

「あれ、ご機嫌斜めです?」

「いや……悪い。少し嫌な夢を見た」


 軽くツナを抱きしめると彼女はぷはぁっと俺の腕から抜け出してジッと俺を見る。


「……平気ですか? ギュッてしてあげましょうか?」

「子供じゃないんだし……」


 と俺が言うも、ツナは自分の胸に俺の顔を埋めさせるようにベッドの上で俺の頭を抱きしめる。


 いい匂いがするとか、暖かくて心地がよいとか、寝起きで夢うつつだからとか、そんな理由で対抗する気が起きずにされるがままに抱きしめられる。


 自分よりも小さな子に抱きしめられているという気恥ずかしさに遅れて気がつくが、もう手遅れだろう。


「……ツナは、何でダンジョンマスターを引き受けた。普通、断るだろこんなの」

「ヨルと出会うためですよ」

「そういうのは今はいいから」


 ツナは少しむすっとして、それから「んー」と考えた様子を見せる。


「……やっぱり、ヨルと会いたかったからな気がします。もちろん、そのときにヨルのことは知らなかったです。出会ってからもしばらくは仲良く出来なかったです。でも、やっぱり、理屈ではなく、ヨルに会うためにダンジョンマスターになったように……私は思うのです」

「………そうか。ツナ」


 ツナは俺の方を見つめる。


「俺はツナと出会うためにダンジョンの方についたわけじゃない。……けど、ツナのために生きるよ」

「えへへ、嬉しいですけど、一緒に幸せになりましょうね」

「ああ……でも、あんまりひとりで企むのは辞めてくれよ。アメさんにも引き込んだ責任はあるし……付き合うとか結婚は別としても」


 ツナはコクリと頷く。

 ……正直なところ、ツナとアメを両方納得させる落とし所なんてないだろう。


 アメは感性が独特で二股をさほど気にしていないという様子だが、ツナはむしろそういう規範意識は強い。


 というか……嫌がる嫌がらないを別にしても、ちゃんと断らないといけないところだろう。


 いやでも、ツナが仕組んだことだとしたら、アメにあまりにも申し訳ないし……。ボリボリと頭を掻いていると、トントンとノックの音が聞こえる。


「あ、おはようございます。物音が聞こえたので起きてると思ったんですけど、大丈夫でした?」

「ああ、目は覚めてる。どうかしたか?」

「いえ、その、朝ごはんを用意したいと思ったんですけど、キッチンや冷蔵庫にある物を使ってもいいかと」

「ああ……気を遣わなくていいのに。もちろん好きに使っていい。けど、俺が用意しようか?」

「いえ、ヨルさんの胃袋を掴みたいので!」


 アメはそう言って扉の前から離れていく。……アピールが強い。


 隣にいるツナはきゅっと俺の腕を掴み、首を横に振る。


「お、思っていたよりもぐいぐいくる人です。敬語キャラなのに、押しが強いです」

「敬語キャラなのに押しが強いのはツナもだけどな?」

「ともかく、アメさんとも話をしないとですね」


 ……ああ、やっぱりそこは避けられないよな……。ツナのことなのでそんなに強く糾弾したりはしないと思うが……これはいわゆる修羅場というやつなのではないだろうか。


 朝から胃がキリキリとしてしまう。


 ツナが着替えられるように先に廊下に出て、顔を洗って歯を磨く。

 着替えて出てきたツナと入れ替わりで寝室に戻って服を着替え、それからリビングに行くとツナとアメが向き合って座っていた。


「おほん、では、昨日は疲れて出来なかった、真面目な話をしましょう」

「い、いや……朝早くからするような話題じゃないんじゃないか?」

「ヘタレ……」

「もっと明るい話をしよう……! ペンギン、ペンギンの話とか……!」

「ペンギンの話はしません」


 ツナはポンポンと自分の隣を叩き俺に座らせる。


 まるで処刑台に乗せられるような気持ちで座ると、彼女はニコリと俺に笑いかける。


「大丈夫。ここはダンジョンの中です」

「えっ、最悪刺されるの? 俺」


 ダンジョン内だと死なないけど、最悪刺される可能性あるの? 何も安心出来ないんだけど。


「よし、では……まず、おふたりには正直に答えてもらいます。浮気……しましたね」

「えっ、えっと……その、僕は好きと言いましたけど、ヨルさんからは……なので、僕は悪いですけどヨルさんは……」

「いやアメさんは知らなかったわけだから仕方ない。俺が……」


 と、言おうとしたところでツナがいつのまにか手に持っていたハリセンで俺を叩く。


「しゃらっぷ! 庇い合うのはなんか腹立つのでやめなさいっ!」

「い、いや、庇いあってるのではなく、純粋に俺が悪いという……」

「ヨル、3ミリです」

「何が!? 3ミリって何!? 怖いんだけど!? 俺は3ミリ何をされるの!?」


 ツナはぐにーっと俺の頬を引っ張り、それから息を吐く。


「そもそも、論理的な正しさの話はしてないのです。仲良くするためにどうしようという話です」

「そうは言ってもな……。昨日のルールで納得出来ないか?」

「いや、だって絶対まだヨルのこと狙ってるじゃないですか」

「……そんなことないよな」


 俺が恐る恐るアメの方に尋ねると、アメはこくんと頷く。


「もちろん、狙ってます!」

「爽やかに言えば全て許されると思ってます……? ヨル、6ミリです」

「だから何が6ミリなんだ」

「ヨルの全身の皮を剥ぐときの厚みです」

「3ミリの時点で死ぬだろ。それ」


 逃げようとするもツナは俺の手を握って離さない。くっ……。


「ダメですからね、ヨルは私のです」

「……ヨルさん、あんなにいっぱいえっちなものを集めているような人ですけど……締め付けて我慢させられると思うんですか?」

「む……ぐぐ……」


 ……俺ってそこまで性欲強いと思われてるの……?


「あんなにもたくさん集めてるんですよ!?」

「そ、それは……その……そうですけど……」

「……いや、ツナ、しないからな。安心してくれ」

「……9ミリ……」

「何で!? そこまでか!? そこまで信用出来ないか!?」

「いや……その……信用出来る要素が」


 …………それはそう。


「…………一応言っておくが、俺が持ってるのは……一般的な男性よりもむしろ少ないぐらいだ」

「それは絶対嘘です。むう……とにかく、アメさんはヨルを誘惑するのをやめてください」


 ツナがそう言うと、アメは立ち上がってツナの手を引いて廊下に行き、俺に聞こえないようにヒソヒソとツナに話す。


 廊下からはツナの声だけが聞こえてくる。


「……むう、それはまぁそうです」「えっ……た、確かに、いやでも」「そこを譲っていただけるなら」「むむぅ……メリットはありますが……」「なるほど、でもバレるとまずいです」「あ、ならこうしたら」「最悪、ヨルを削れば……」「ノートとペンにそんな使い道が!? さ、流石に残酷では?」


 …………えっ、何の話をしてるの? 怖い。


「ふむ……ありですね」


 と言いながらツナが戻ってくる。


「えっ、何、何の話してたの?」

「ヨルには言えないことです。でも……誠に、誠に不本意ながら、今回の件は不問にします」


 いや、それは余計に怖い。何、何があったらツナを説得出来るの?


「お昼から三人で組合長のところにいくので、装備とか整えてくださいね」

「えっ、終わりなの? いや、終わりなら終わりでいいんだけど……」


 何なんだ。ノートとペンで俺は何をされるんだ。怖い。

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