波間に揺れる恋心 ⑦
ポセイドンを置き去りにして、柔らかな砂浜の広がる小島にやって来ると、アムピトリーテはようやく気がほぐれて溜息をついた。
賢く忠実なイルカたちは、海岸を取り巻いて周囲の警戒に余念がない。
浜辺に足を伸ばしてのびのびと腰を下ろすと、アムピトリーテは腕に抱えたままのアザラシに向かって話しかける。
「アザラシのおじいちゃん、お名前は?」
「ははっ、プロテウスと申しますです、アムピトリーテさま」
「あたしのこと知ってるの?」
「それはもう。坊ちゃまの想い人、いずれはお妃さまとなられる方ですから」
「……あたしはそんな気、全然ないんだけどなぁ」
言葉通り気のない風に言いながら、腕の中でかしこまるアザラシの様子に、アムピトリーテの内にいたずら心がわいてくる。
アムピトリーテはそっと、プロテウスのむっちりとした体に手を這わせてみた。
「ふふ、おじいちゃんの毛並み、触り心地いいなぁ。
おなかがひんやりしてて、抱き枕にしたら気持ちよさそう」
「ふおおっ!?
ご勘弁くだされ。
そのようなことをされますと、爺は坊ちゃまに袋だたきにされてしまいます!」
アムピトリーテの手がなでる下で、プロテウスの体がびちびちとはねた。
抗議の声には耳を貸さずに、アムピトリーテはアザラシのおなかを両手でなで回しながら、ポセイドンの傲慢な態度を思い出して溜息をついた。
「あの暴れん坊のお供をするのも大変そうね。同情するわ」
「はあ、痛み入りまする。
しかしながら、近頃は坊ちゃまのお供につくこともあまりなく。
坊ちゃまの周りには威勢のいい若者たちがそろっておりますので、爺のような年寄りはとてもついて行かれませんで」
プロテウスはしょぼしょぼと髭をそよがせる。
「坊ちゃまのような元気のいい方にとっては、爺のように会えば小言ばかり言う年寄りなど煙たくて仕様がないのでしょう。
わかってはおりましても、坊ちゃまのご幼少のみぎりよりお側に仕えた身としては、ついつい口やかましくなってしまうのも致し方ないこと。
いつまでも子供扱いするものではないと、わかってはいましてもこればっかりは、長年の習慣といいますか、性分といいましょうか。
いかに煙たがれようとも、坊ちゃまのために苦言を呈することこそ爺の役目でござりますれば」
聞きもしないのにプロテウスはそう言う。
長々とした愚痴めいた言い分に、アムピトリーテは小さく苦笑をもらした。
プロテウスの両頬をもんで、そのもちもちした感触を楽しみながら、
「……何か、わかるわー。
あたしも、姉さんたちから子供扱いされて、いつも周りがうるさいから。
ポセイドンにも同情するわ」
女神の言葉に、プロテウスはじっとその水色の瞳を見つめながらおもむろに言う。
「坊ちゃまはあれでなかなかよい男でございますよ」
「なあに? それ、売り込みのつもり?」
「そういうつもりでは……ですが、坊ちゃまについて誤解されてしまっていたら、爺は悲しいですから。
坊ちゃまはあのようなお方ゆえ、口さがない者たちがいろいろと申しているのは爺の耳にも入ってきます。
それでも、坊ちゃまにもいいところはたくさんあるのです。
たとえ、人の話をろくに聞かず、思いつきで考えなしに行動して、短気でガサツでとにかく威張りん坊で、年中騒がしいお方であるとしても――」
「今の話からじゃ、全然いいところなしに聞こえるけど?」
「いえいえ!
つまり何が言いたいのかと申しますと、そんなお方ですが、爺はポセイドンさまのことを好いております。
好いているお方が、他人様から嫌われるのは悲しいことです。
それが、あなたさまのようなすばらしい女神さまともなれば、なおさら」
「…………」
黙り込んで、アムピトリーテは海原の方へと目をそらす。
その横顔を、真っ直ぐに見つめながらプロテウスは尋ねた。
「アムピトリーテさまは、ポセイドンさまのことがお嫌いですか?」
「別に――」
言いかけて、アムピトリーテはぐっと唇をかんだ。
無垢な動物の他意のない質問に、うっかり出かかった言葉を慌てて飲み込む。
アムピトリーテは砂の上にプロテウスを下ろすと、
「遊んでくれてありがと、おじいちゃん。
あの暴れん坊より、あたしの抱き枕になった方がいいって思ったら、いつでも来てくれていいからね」
そう言いおいて、アムピトリーテは後も見ずに海へと駆け出す。
軽やかにかけるその勢いのまま、海原のイルカの背に飛び乗った。
白く水しぶきを上げながら、イルカの群れはアムピトリーテを乗せて、海の向こうへとたちまちの内に遠ざかる。
浜辺に一人残されて、プロテウスはアムピトリーテの去って行った後を見つめながら思う。
ゼウスがそういえば言っていた。
ポセイドンが本気で彼女に嫌われる前に、とかなんとか。
これは意外と。
もしかすると?
プロテウスは独りごちる。
「実は脈ありだったりするのですかな?」
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