先生を殺したのは私です!

沢藤南湘

第1話

十一月の初旬、私宛に矢田由美子という名の送り主から手紙が届いた。

「前略 事情あって、本名を名乗ることができませんことをお許しください。来る十一月二十八日出発の熊本大分二泊三日のツアー客にM大学の教授が女性を伴って参加するので、その行動を調査していただくことのお願いです。その調査報告書ができましたら、正式に名乗って調査費用をお支払いいたします。つきましては、そのツアーにご夫婦おふたりの名で予約し費用を支払っております。以上、あなた様のご都合も聞かずに仕事を依頼したことを申し訳ございません。何卒よろしくお願いします。早々」

 封筒の中にツアーの詳細を印刷したものが同封されていた。

 夫の南湘に手紙を見せた。

「M大学の教授って、一体誰なんだ。名前も書けない理由があるのだろうか?」

「その教授も私に探させようと、結局、私を疑っているのよ。HP見たら准教授と教授合わせたら百人ぐらいはいるわ。顔写真は掲載されていないから探し出すのは一苦労するかもしれないわ」

「偽名で参加するかもしれないね」

「手紙からすると、調査対象者は、このツアーに参加することは確かなんでしょうから、何とか探し出せるでしょう」

「そうだ。せっかく予約までしてくれたんだからいかない理由はないな」

「あなた、仕事は大丈夫なの?」

「もう冬休みだから問題ないよ」

 夫は旅行気分になっていた。

 私にとっては、探偵事務所開業してからの初仕事になった。


 私、藤沢雅子は三か月前に六十歳を迎え、警視庁を定年退職した。

 最終役職は、女としては、数少ない警部で、退職後はC警備保障の役員のポストを用意されたが、それを断わって探偵事務所を開いた。

 趣味は旅行で、その先々で写真を撮るのが楽しみだ。

 夫の南湘は五十九歳、T大学の日本建築史の准教授で、趣味で推理小説書き続けているが、未だ賞を取ったことがない。一眼レフカメラに凝っていて、建築物や歴史に関するものの写真を撮っており、仕事にも役立てているようだ。

 我が家は、小田急小田原線千歳船橋駅から十五分ほど歩いたところにある。

 猫の額ほどの庭を持つ3LDKの建売住宅で、子供のいない私たちには十分の広さだった。

 

 十一月二十八日、寒い朝だった。

 私たちは、羽田空港八時五分発、熊本空港十時時五分着のJAL625便に乗るために、朝五時に自宅を飛び出して駅まで早足で歩いた。

 スーツケースを持った夫は、私の後を一生懸命ついてきた。

「もう少し早く起きればよかった」

 夫は、いつもの後悔癖がでた。

「あと二分しかないわ。早く」

 予定の電車がホームに入ってきたのを見ながら、エスカレーターを下った。

 発車のベルが鳴り終わろうとした時に、滑り込んだ。

「何とか間に合った」

 夫が、息を切らせながら言った。

 空港に着くと、旅行会社カウンターでの手続きと搭乗手続きを済ませ、無事、予定の飛行機に乗ることができた。

 機内は、平日なのか意外と空いていた。

 予定時間になったので、離陸すると機内アナウンスが流れた。

 この二時間のフライトから、私たちの旅行が始まった。

 私は、久しぶりの飛行機だった。

「近くに座っている人たちは、私たちと同じ熊本大分二泊三日のツアーの人たちかな」

 通路側に座っていた夫が、周りを見回しながら、小声で言った。

「依頼のM大学の教授も乗っているかもしれないわね」

「写真ぐらい送ってくれたらよかったのに」

「名も実績もない私の事務所だから、きっと信用していないのでしょう」

 横の列で二つ席にひとり窓側に座って、缶酎ハイを飲んでいる男が目に入った。

「あの人は、一人旅かしら」

 夫は、私のいった方向に目を向けた。

「そうみたいだね。M大の教授ではないよ」

 私は頷いた。

 私は、夫に今日の予定を聞いた。

 今回の旅行では、夫は私のアシスタントだった。

「今日は、熊本空港から高千穂、草千里、大観峰、長者原ビジターを観光して、そして、湯布院で一泊の予定だ」

「神話の高千穂か、楽しみだわ」

「しっかり見ていこう」

「しかし、今日は、ハードスケジュールだわね」

「そうはいっても、すべて観光バスでまわるから大丈夫だよ」

「明日は、どこを観光するの」

「午前中湯布院で自由行動で、それから別府に移動して、まず別府ロープウエイで、鶴見岳の山上に行って別府湾を展望して、別府地獄めぐりをする予定だよ。ちょっと歩くけど」

「さすが、良く調べているわね。アシスタントとしては合格だわ」

「今回は、君の仕事で旅行ができるんだから、このぐらいのことは当然だよ」

 到着を告げるアナウンスが、流れた。

 熊本の地を踏むのは、高校の修学旅行以来だ。

「さあ、仕事の始まりだわ」

「頑張ろう!」

 空港の出口で、黄色地にKHSと黒字で染められた小旗を掲げている小柄な女性のもとに、十数人がすでに集まっていた。

「あそこだ」

 夫が、言った。

 私たちは、そこに行った。 

 遅れて、数人が話しながら、私たちの塊に加わった。

 小旗を掲げている女性は、身長が一メートル五十センチそこそこで、少女ぽい顔をしており、紺の制服が似合っていた。

 彼女は、集まった人たちの人数を数え終わってからKHSのツアーコンダクターの伊藤恵と自己紹介をした。

「本日は、KHSの熊本大分二泊三日にご参加いただき、誠にありがとうございました。このツアーには全員で二十二名の方が参加されています。楽しい二泊三日をお過ごしいただければと思います。では、バスまでご案内しますので、こちらへどうぞ」と言って、伊藤恵が駐車場で待機していた大型バスに案内した。

 ツアー客の二十二名は、私の見立てによると夫婦連れは私たちを入れて四組、家族三人は一組、一人参加は男女一名ずつで、後の九名は何らかの仲間のようで、男三名、女六名の人員であった。


 座席は、指定されていなかったので、各自自由に座った。

 私と夫は、運転手の後ろに座った。

 簡単な自己紹介があったので、客の顔を都度振り返って確認した。

 伊藤恵が、マイクを持った。

「本日は、KHSをご利用いただきありがとうございました。この度の熊本大分二泊三日のツアーにお供させていただきますツアコンダクターの伊藤恵です。よろしくお願いいたします。また、この観光バスの運転手は、山田直人です。安全運転に専念しますので、よろしくお願いいたします」

 丸顔でやさしそうな眼をつきの山田直人が立ち上がって、後ろに向かって頭を下げた。

 身長百七十五センチ前後で、がっちりした体型だった。

「では、皆様、これから最初の目的地、高千穂峡へ向かって出発します」

 バスが、動き始めた。

 しばらくして、伊藤恵が高千穂峡の説明を始めた。

「高千穂峡は、昔、阿蘇火山活動の噴出した火砕流が、五ヶ瀬川に沿って帯状に流れ出し、 急激に冷却されたために柱状節理のすばらしい懸崖となった峡谷です。この高千穂峡は、一昭和九年十一月十日、国の名勝・天然記念物に指定されています。付近には日本の滝百選にも選ばれた真名井の滝、槍飛橋などがあります。さらに神話に由縁のある’おのころ島’や’月形’’鬼八の力石’など、高千穂峡の遊歩道を散策するだけで、

高千穂の魅力を十分に感じることができるスポットです。川には、貸しボートがありますが、時間がありませんので、乗らないでください」と伝えて、伊藤恵は、マイクを置いた。

「あなた、後ろの人たち、賑やかね」

「うるさくて、伊藤さんの説明がよく聞こえなかったよ」

 後部座席に陣取った九名の集団が、バスに乗ってから今までずうっと騒ぎっぱなしで、静かに伊藤恵の説明を聞いていた他の客が、迷惑そうな顔をしていた。


「はい、皆さま、高千穂峡に到着しました。ここの出発時間は、十二時三十分です。只今の時刻は、十一時二十分です。くれぐれも遅れないようお願いします」

 皆が、小旗を持った伊藤恵の後に続いて歩いた。

 しばらく歩くと、彼女は立ち止まり、説明を始めた。

「皆様、後ろを向いてください。橋があるのがわかりますか。三つの橋がここから、一望できます。一つの峡谷の一か所に三つのアーチ橋を見ることができるのは全国でもここだけだと言われています」

「なるほど、言われてみないとわからないわね」と私が夫に言った。

「本当だ」

 伊藤恵が歩きながら、再び説明し始めた。

「あそこに見える石ですが、高千穂の伝説に残る鬼八が投げたという鬼八の力石です。高千穂は、神話と伝説のいわれある場所が数多くあります」

「鬼八伝説にはいろいろあるよ」

 夫が言った。

 私は、何気なく風景に人を入れてシャッタを切った。

 更に歩いて行くと切り立った断崖が、目に入った。

 伊藤恵が、立ち止まった。

「右手の滝は、真名井の滝と言います。日本の滝百選に指定されている名瀑です。およそ七メートルの高さから水面に落ちる様は、高千穂峡を象徴する風景です。 天孫降臨の際、この地に水がなかったので、 が水種を移したから湧き出る水が水源の滝と伝えられています。下では、何艘かボートが浮かんでいますね。残念ですが、時間がないので、皆さん、これからバスに戻ります」

 山本一が、伊藤恵に話しかけていた。

「もう少し早かったら、紅葉はもっと綺麗でしょうね」

「そうなんです。素晴らしいですよ」と山本一を見上げながら言った。

 それからしばらく、末永喜美子が加わって、和やかに話が弾んでいるようだった。

「山本さんは、M大学の先生なんですか。すごいですね」

 伊藤恵の顔に驚きと嫌悪感が一瞬浮かび上がったように見えた。

「将来は、学長になるかもしれないんです」

 末永喜美子が、付け加えた。

「それは、楽しみですね」

「そんな先のこと、分かりませんよ」

 山本一が、笑いながら言った。

「だって、あなたの奥さんの父親は、M大学の理事長なんでしょ」

「喜美子さん、余計なことを言うんじゃないよ」

 近くで彼らの話を聞いていた私は、驚いた。

(この男が、M大学の教授か。まさかこんなに早くわかるとは出だし好調だわ)

 一方、夫はその話に気づかずに、写真をひたすら撮り続けていた。

 私は、すぐに夫のそばに近づき小声で伝えた。

「あそこで伊藤さんともう一人の女の人と話している人が、M大学の教授だそうよ」

 夫は知らん顔をして、ファインダーの隅に三人を入れてシャッターを切った。

「名前は山本一さんで、女の人は、末永喜美子さんよ。M大学教授に山本一という人はいるわ。本名よ、おそらく依頼人が言ってきた人でしょう」

「写真、お撮りしましょうか」

 私と夫は驚いて、声の主の方に向き直った。

 梶山だった。

「すいません。お願いします」

 夫は、梶山にカメラを渡した。

「いいカメラですね。ご夫婦で来られたのですか。私も久しぶりに女房との旅行です。失礼しました、私は梶山と言います。よろしくお願いいたします」

 梶山敏夫は、七十一歳、妻の正代は七十三歳で、うちと同じ年上女房だ。

「私は藤沢と言います。こちらこそよろしくお願いします」

「ところで、旦那さん。このツアーいかがですか」

「いかがかと言いますと」

「バスの中が、やかましいとは思いませんか。特に、後部座席に座っているグループの人たちが、大声でおしゃべりをするので、うるさくて、ガイドさんの声が、聞きづらくてかないません」

「そうですか。私たちは、前の席なので、それほどではありませんが、マナーぐらいは大人ですから守ってほしいものですね」

「そうなんです、こんなやかましい旅行を三日も耐えられないと、ガイドさんにに言いましたら、注意するとは言ってましたが、どうですか」

 梶山夫妻は、かなり憤慨していた。

 バスの乗車口から数メートル離れた外で、伊藤恵は、運転手の山田直人と話をしていた。

 私は、梶山夫妻の後からバスのステップを上がった。

 後方の席は、まだ空席だった。

 その空席の前の左席に、先ほど不満を私に言った梶山夫妻が、腰をおろすところだった。

(あの席では、やはりうるさいだろう)

 私は、梶山夫妻に同情した。

 次々と皆が戻ってきて、席が埋まってきたが、出発時刻が過ぎても後部のSNSのグループの人たちは、まだ席に戻っていなかった。

 出発の時間を十分ほど過ぎて、苛ついていた伊藤恵を気にせずに、連中がしゃべりながら乗車してきた。

「全員揃いましたので、出発します」

 伊藤恵が、皆が席に着いたのを確認してから言った。

 その直後、

「遅刻だ。時間ぐらい守れよ。皆迷惑している」

 梶山の前に座っていた男が、立って後ろを向いてどなった。

 一人参加の田所正六十三歳だった。

 車中のざわめきが消えた。

 私は斜め後ろに座っていた山本一の方を窺った。

 山本一は、周りの出来事に関心を示さずに、末永喜美子といちゃついていた。

(彼に間違いないわ)

 私の思いに夫も頷いた。

 伊藤恵が、マイクを持った。

「皆さま、このツアーは団体旅行です。お互いに気を使いながら、旅行を楽しんでください。くれぐれもよろしくお願いします」

 拍手が、まばらに起きた。

「伊藤さんも、頭に来ているんだな」

「言わなければ、ならないでしょうね」

 私は、当然のことだと思った。

 何もなかったかのように、再び伊藤恵が、マイクを持って立ち上がった。

「次は、神話で有名なです。天照大神がお隠れになられた天岩戸を御神体としてお祀りしています。古事記・日本書紀に記される天岩戸神話を伝える神社です。古事記・日本書紀には、天照大神は、弟のの乱暴に怒り、天岩戸に籠もられた事が記してあり、そこは、その天岩戸を祀る神社と伝えられています。御神体である天岩戸は、西本宮から拝観することができます。そして、そこから岩戸川に沿って十五分ぐらい歩きますと、天照大神が岩戸にお隠れになったさい、天地暗黒となってしまったので、の神が、この河原に集まり神議されたと伝えられる大洞窟、にご案内します」

「いよいよあの有名な天岩戸か、楽しみだな」

 後部座席から佐川恒夫の声が聞こえた。

「あなた、生きている間に一度は行きたかったところです」

 私は、夫に言った。

「なんたって天照大神だからね」

 夫は、さらに何か言いたそうだったが、口をつぐんだ。

 バスは、大岩戸神社の駐車場に入った。

「皆様、到着しました」

 伊藤恵を先頭に、私たちは、これから見るのがどんなに楽しみか興味津々の顔をして列をなした。

 厳かな参道を歩いて、まず、天岩戸神社の西本宮を参拝して、一旦アスファルト道路に出てすぐにわき道を下って行った。

 天安河原の御祭神に近づいた。

 道の周りに多くの石が積まれている。

「お参りに来た人が、積んだんでしょうね」

「そうだね。石そのものは、昔から信仰対象だったし、積石をするのは、神を祀ることと、死者の追悼の二つの意味があると言われてるんだ。神を祀るには、村などに災厄や悪霊が入り込まないようにする道祖神の意味がある」

 夫が、説明をしてくれた。

「五輪塔も、死者への追悼なの」

「そうだよ、五輪塔は、供養とか墓として使われていたんだ」

「ご主人、よくご存じですね」

 若い夫婦の夫の足立隆のほうが、夫に声をかけてきた。

「本当に」

 妻の誉が、相槌を打った。

 夫は、ただ笑顔で答えるだけであった。

「そういえば、あのご主人どこかで見たことがあるわ」

 グループで参加の山中響子が、夫の近くに寄ってきて言った。

「それはそうだよ。T大学の先生ですよ」

 反田次郎が言った。

「そうです、この方は、T大学の藤沢南湘教授ですよ」

 川本正雄が言ったのには、夫も私も困ってしまった。

「そういえば、あの方、テレビに時々ゲストで、でているわよ」とだれかが言った。

 その一言で、そばにいた人たちの視線が、夫に注がれた。

 夫は、ただ笑顔で会釈するだけで、ひたすらカメラを構えて、石積み撮りに集中していた。

 その間、私は夫から離れて、山本一たちを撮っていた。

 伊藤恵の声が、聞こえてきたので、彼らは、夫から離れて行った。

「ここは、だいぶ前は、社だけがあって、信仰の対象となっていましたが、いつのまにか祈願を行う人たちの手によって石が積まれていくようになりました。皆さん、無数にある積まれた石によって、天安河原の神秘的かつ幻想的な雰囲気を感じませんか」

「感じます」と、誰かが答えた。

 社は、意外に小さかったのに驚いた。

 このようなところが、なぜ天照大神に関係するようになったのか、不思議だと夫に聞いた。

「この辺りには、鬼八伝説という伝説が一つだけでなくいくつかあるんだ。この地には、当然だけれど、昔は先住民がいた。その代表の鬼八と先住民たちは、強大な外部の勢力、私が考えているのは大和朝廷。鬼八たちはその侵攻に徹底的に抗戦したが、結局負けてしまった。戦の伝承というのは、勝ったほうが正義で負けたほうは賊になると昔から現在まで歴史が物語っている。賊は、古事記や日本書記では、鬼と称したんじゃないかな。正義は大和朝廷で天照大神と称して、現在まで神話として伝えられていると私は考えているけれど、諸説がいろいろあるんだ」

「そうか。神様と思い込んでいたけれど、大和朝廷だったのか。それなら、理解できるわ」

 歴史に疎い私は、夫の説明に納得した。

 そばで、夫の話を聞いていた伊藤恵は、驚いていた。

「よくご存じですね。その通りです」

 客たちは、いろいろな感想を言いながら、バスに戻った。

 

 伊藤恵が、マイクを持った。

「皆様、おなかすいていませんか。今日は、かなりタイトなスケジュールのため、ちょっと遅い昼食になりましたが、これから、バスの中でお弁当を食べていただきます。お茶と合わせて配りますが、次の観光の草千里まで一時間ほどかかりますので、ごゆっくり食べてください」

 伊藤恵は、朝、客が注文していた弁当を前の席から配り始めた。

「お茶配りましょうか?」

 夫が、伊藤に声をかけた。

「ありがとうございます」

 夫は、伊藤恵に承諾を得て、お茶配り始めた。

「藤沢教授にお茶を配ってもらえるなんて、申し訳ない」

 配る先々で客が夫に声をかけていた。

 私は、少しばかりばつが悪かった。

 しばらくの間、皆、食べるのに夢中でバスの中は静かだった。

 私は、注文していた牛ステーキと豚しゃぶ御膳の包みを開いた。

「これは豪勢だな」

「あなた、おいしいわよ」

「うまい」と夫が、嬉しそうに答えた。

 車窓からの景色は、阿蘇の雄大さを映し出していた。

 斜め後ろの席に座っていたアベックの声が耳に入ったので、私は振り向いた。

 山本一と末永喜美子だった。

「ここまで来て、弁当かよ」

「スケジュールがタイトだから仕方がないじゃありませんか」

 男は、バッグからワンカップを出した。

「君も飲むか」

「ええ、いただくわ」


「かなり親密のようだね」

 夫が声を落として言った。

 二十分ぐらい過ぎたころ、後部座席のグループの一人が大声を上げた。

「伊藤さん、お酒飲んでもいいですか」

 伊藤恵は、後ろを向いて立ち上がり答えた。

「はい、いいですよ」

 後部座席のグループの連中が、酒盛りを始めた。

 騒がしくなった。

「うるさい。静かにしろ!」

 再び、田所正が叫んだ。

「うるさいだけじゃなくて、お酒臭くてたまらないわ。ツアコンさん、何とかしてください」と続いて、私たちの列の中間ぐらいの位置から女性の声がした。

 一人参加の三浦幸子だった。

 伊藤恵は、運転手と相談してからマイクを持ち、三浦幸子に答えた。

「今、バスの中を機械換気をしますので、すみませんけれど、三浦さんしばらく我慢してください」

「伊藤さんも大変だね」と夫が、同情した。

 眠気が、私を襲ってきた。

「皆様、もうしばらくしたら、草千里に着きます。ここは、噴煙を上げる中岳を望み、絶好のロケーションを誇る場所です。浅い四角形の大草原で烏帽子岳の北麓にひろがり、中央の大きな池や放牧された馬など、牧歌的な風景を持っています。緑鮮やかな夏、白銀の幻想的な冬と四季の彩りもさることながら、乗馬に散策にと一年を通じて多くの人達に親しまれています。多くの歌人によってその広大は風景が歌われてきています。大阿蘇の千里が原のはなち馬雲にいななく夏は来にけり 𠮷井勇の歌です。ここでは、三十分の見学になります。十四時に出発しますので、それまでに乗車してください」

 私は、最後にバスを降りた。

「日本にもこんな雄大なところがあるなんて、すごい。あれ、あそこに馬の群れがいるよ」

 夫は、ファインダーを覗いて山本一たちを追っていた。

「藤沢さん、あの二人、車の中でも仲睦まじ過ぎて、目を覆いたくなります。ツアーでなく、個別に来ればよかったのに」と、一人参加の田所正がわざわざ私のそばに来て言った。

「そうですね」

 私は、生半可の返事をした。

 皆、時間より早く乗車した。


 三十分ほどで大観峰に到着した。

「あなた、いい景色ね。写真撮って」

 私は、大自然をバックに夫のファインダーに向かってポーズを取った。

 撮り終えると、私たちは、説明している伊藤恵の近くに行った。

「皆様、ここは、内牧温泉の北東方にある北外輪山の一峰です。かつて、遠見ヶ鼻と呼ばれていましたが、大正十一年内牧町長の要請により、文豪徳富蘇峰が大観峰と名づけました。三百六十度の大パノラマが楽しめる阿蘇随一のビュースポットです。阿蘇の街並みや阿蘇五岳、くじゅう連峰までが一望できます。あちらに見えるのは、阿蘇五岳ですが、分かりますか。お釈迦様の寝姿に似ているように見えませんか。運が良ければ、秋から冬にかけては神秘的な雲海に出合えることもあります。あちらの建物には、お土産店やレストランが入っています。ここの出発は、十五時十五分とあまり時間がないので、買い物する方は、短時間でお願いします」

「あと十分しかないじゃないの」と二、三人から不満が漏れた。

 皆、出発時間ギリギリにバスに乗車した。

 全員が揃ったことを確認し終えて、伊藤恵が、運転手に合図を送ったので、バスは動き始めた。

 伊藤恵が、マイクをオンにした。

「これから、今日最後の目的地の長者原ビジターセンターに向かいます。長者原ビジターセンターは、阿蘇くじゅう国立公園くじゅう地域の自然や文化を紹介している博物展示施設です。センター内では、くじゅうの四季を映像で楽しめるほか、阿蘇くじゅう地域の巨大衛星写真もあります。ラムサール条約正式名称は、特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約の登録湿地である、タデ原湿原と一体となった施設でもあり、タデ原の成り立ちや、野焼き、シーズンごとに見られる生きものについても紹介しています。あと、三十分ほどで到着します」

 車中が、再びグループの連中が騒ぎ始めた。

「いい加減に静かにしてください。いい大人が常識外れも甚だしい」

 と今度は梶山敏夫が、声を上げた。

 それに応えて、リーダー格の反田次郎が言った。

「皆さん、静かにしてください」

「タンジさんだって、春ちゃんと大声でしゃべっているくせに」と大山君子が、ハンドルネームのタンジの反田次郎に嫌味を言った。

「やな感じだね。せっかくの旅行が台無しだ」と夫がささやいた。

「これから、何も起こらないといいんですけど」

 私は、嫌な予感がした。

(昔からの悪い習慣だわ。折角の旅行なのに、いや大事な仕事を全うしなければ)

「長者原ビジターセンターに到着しました。ここでの見学は三十分です。十六時三十分までにバスにお戻りください」

 バスを降りた私は、思いっきり深呼吸した。

「気持ちがいい。こういう所、初めてだわ」

「俺もだ、日本にこんなところがあるなんて、日本も捨てたもんじゃないね」

 他の客も感動しているようだった。

「旦那さん、写真お願いできますか」

 家族三人連れで参加した佐川恒夫が、夫に言ってきた。

 気持ちよく受けた夫は、佐川のカメラのシャッターを二度ほど押した。

「藤沢さんも撮りましょうか」

 佐川が言ってきたので、私は夫と並んだ所を撮ってもらった。

「ありがとうございました。ご家族で旅行ですか。いいですね」

「はい、久しぶりに家族そろっての旅行です」

 私はレンズを望遠に交換して、山本一たちを撮った。

 仕事とはいえ、嫌悪感を覚えてきた。

 バスは、時間通りに、長者原ビジターセンターを出発した。

 ツアコンの伊藤恵が、立ち上がって、これから向かう湯布院についての説明を始めた。

「湯布院は昭和三十年に由布院町と湯平町が合併して誕生した地名です。 厳密にいうと、湯平町を含む場合は湯布院、含まない場合は由布院となります。 例えば、高速道路のゆふいんインターチェンジは湯布院、JRのゆふいん駅は由布院という具合に表記が異なるというわけです。由布市湯布院町は、北東端には豊後富士と称えられる標高千五百八十四メートルの秀峰由布岳がそびえています。温泉郷として知られる町には、由布院と湯平の二つの温泉地が国民保養温泉地に指定されており、湧出量は全国第二位を誇ってます。単純温泉で、自律神経不安定症、不眠症、うつ状態に効くと言われています。見学のご案内ですが、由布院駅から温泉街の方向に延びる通称由布見通りや、そこから紅葉がきれいなつに続く湯のには、しゃれた雑貨屋やレストランが並び、周辺には各種の美術館が点在します。明日は、十二時までごゆっくり見学して、昼食もお取りください。駐車場のバスに十二時三十分までにご乗車ください。また、ホテルのチェックアウトは十時までですので、よろしくお願いいたします」

 十七時を多少過ぎて、私たちが宿泊するホテルHに到着した。

 伊藤恵が、部屋の鍵をそれぞれの代表に渡してから、夕食の時間、場所そして、明日の集合時間等について説明をした。


 私は部屋に入ると夫とツアー参加者のリスト作成にさっそく取り掛かった。

 メモしていた客たちの顔及び特徴と自己紹介の氏名を一致させて、ノートに書き留めた。


 

 二列目は、私たち夫婦。

 三列目の客は、身長百八十センチ前後で、堀が深く野生的な目をした山本一と連れ合い 

   の身長百六十五センチ前後で、スタイルがよく面長で目鼻立ちがはっきりして末永 

   喜美子。

 四列目は、身長百七十センチ前後で目鼻立ちははっきりで、あっさり顔の佐川恒夫、

    身長百五十センチ後半で、日本人らしい平顔の妻の安子そして、百六十センチ前 

    後で、あっさりした顔立ちで目が細く、唇の薄い娘の知美の家族三人、

 五列目は、身長百七十五センチ前後で、色白であっさり顔で二重瞼、鼻高く唇薄い足立

    隆、身長百六十センチ前後で、顔立ちがきれいでやや堀が深く目が鋭い妻の誉の

    夫婦。

 六列目は、身長百六十センチ弱で、丸顔で目がぱっちりして、歳よりかなり若く見える

    三浦幸子。

 七列目は、身長百七十センチ強で、小顔で堀が深く癖のない顔立ちの田所正。

 八列目は、身長百六十センチ強で、でか顔で、目が大きく、鼻はあまり高くない梶山敏

    夫と身長百六十センチ前後で、あっさりした顔で、目鼻小さな妻の政代の夫婦、

 次からは、グループでの参加の九人

 九列目は、身長百七十センチ弱で、眉毛が濃く堀の深い吉田八重子、身長百六十センチ

    前後で、色白で、面長の美人の浜田好子、

 十列目は、身長百六十センチ弱で、目が大きく鼻も高い日本人離れした顔の大山君子、

    身長百七十センチ弱で、眉毛が濃く目の鋭い細面の川本正雄、、身長百五十五セ

    ンチ前後で、歳よりかなり若く見える目鼻立ちの宮本くみ、

 一一列目は、身長百六十センチ前後で、鼻筋の通ったやや冷たそうに見える渡辺美代子、

     身長百六十センチ前後で、鼻が大きく高い、唇厚く四角顔の平山和夫、

     身長百七十センチ前後で、日本人離れした何もかも濃い顔立ちの反田次郎、

     身長百六十センチ前後で、化粧が濃い派手なタイプの山中響子


「今日はこれで十分ね。あなた、食事に行きましょう」

 私は夫とホールに行った。

 バイキング形式で、ツアー客たちはそれぞれグループごとに伊藤恵によって、席順が決められていた。

 ただ、一人参加の田所正と三浦幸子の相席は、本人たちの了解を得て決められた。

 突然、グループの席から激しく口論する声が、私の耳に入ってきた。

「ヒラさんとみこちゃん、タンジさんと晴ちゃんの二組はできたんじゃないの。バスの中でいちゃいちゃして、見てられなかったわ」と大山君子が言うと、

「他のお客さんがいるのに、いい年して、本当に恥ずかしいわ」と吉田八重子が続いた。

 それらを聞いていた浜田好子が、急に怒り始めた。

「タンジさんうちのコミュの規則では、男女の関係を持たないこと、持ったら速やかに退会するようにとなっているのに、管理人がそれを守るどころか、破っているとは腹立たしいわ」と斜め前の一つ左に座っている反田に向かって声を荒げてた。

「ハマちゃん、私たちは共通点が多く、話が合うものだからただ話をしているだけで、決して男女の関係などというものではありませんよ」

「なに言ってんのよ、言い訳がましい。管理人がそんな疑いをもたれる行動をするなんて、論外よ」

「そんなにこの会が嫌なら、やめてください」

「はいはい、こんないい加減な会なんて今すぐに辞めます」と言って、浜田好子は、テーブルの上のスマホを手にして、退会のボタンを押した。

「私も退会するわ」と言って、吉田八重子と大山君子が続いた。

「雅子、グループの人たち何かもめているようだね」

 先ほどまで、周りの席を見回していた夫が言った。

「困ったものね。ここまで来て、もめるなんて」

 私は、そう言いながら、彼らとそれ以外の客たちを交互に観察した。

 梶山敏夫が、何か言いに行こうと席を立とうとすると、妻の政代が余計なことはするなとでも言うように敏夫の袖を引いた。

 佐川一家の人々たちは、うんざりした様子で彼らを見ていた。

「うるせえ、いい加減にしろ」と突然、足立隆が、ヒステリックな大声を上げた。

 レストランは静まり返り、人々の目が足立隆に集中した。

 彼の前に座っていた妻の誉が、にこにこしていたのには、私は彼女がどのような神経なのか分からなかった。

 夫は、私の不信そうな顔を見たのだろう。

「彼女は、彼のこのような行動を時々見ているんだよ。だから、また始まったぐらいしか思っていないんだ。エリートである彼を尊敬しているから、彼女は、彼のどんな行動に対しても認めてしまうんだろう」

「でも彼女も高学歴なのに、あんな下品な言い方を笑っているなんて信じられないわ」

 高学歴でエリートと言われた人間が関与した事件に、私は、今まで遭遇したことはなかったのだ。

「いろいろな人間がいるし、環境もいろいろあるんだ。心理学をやっている私だって、まだまだ分からないことがある。だから学問として成り立っているんだ」

 怒鳴り声を機に、ツアー客たちは一刻も早く食事を終えようと、会話も少なく食べるのに専念し始めていた。

 ただ、山本一と末永喜美子は、仲睦まじくビールを飲みながら談笑に耽っていた。

 私は、盾になった夫の横から彼らを撮影してから部屋に戻った。

「雅子、今回の初仕事は順調に進んでいるね」

「あなたのおかげで、証拠の写真はばっちりだわ」

「風呂に入りに行かないか」

 私たちは、三十分ほどで部屋に戻ってきた。

「いい温泉だな」

「本当、仕事でなければもっと良かったのに」

 夫が冷蔵庫から缶ビールを出して、テーブルの上に置いた。

「さあ、前祝だ」

「お疲れ様」

「あの二人は今頃何やっているんだろう?」

「いやね」

 同じツアーの人たちに会うたびに挨拶をしながら、食事処に行った。

「おはようございます。藤沢さんは、T大学の准教授ですってね」

 山本一が、夫に声をかけてきた。

 末永喜美子が笑みを浮かべて、山本一の後ろに立っていた。

「ええ、日本史を教えています」

 夫は気分を害した様子も見せずに答えた。

「どうりで詳しい訳だ」

「山本さんは何をなされているんですか?」

「藤沢さんと同業のようなことをやっています」

 私は会釈をして、席を探した。

 私の背に注がれていた山本一の視線が、私は妙に気になった。

 衝立で区切られていた私たちの席に腰をおろすと、女性が味噌汁とお櫃を運んできた。

 そして、干物を焼くために燃料に火をつけた。

 テーブルに載っているおかずは、海苔、茶碗蒸し、佃煮類だ。

 私は、旅行先では、いつもと違い食が進む。

「私、もう一杯いただこうかしら。あなたは、どう」

「俺はもう腹いっぱいだ」

 昨日の夕食とは違い、周りからは、笑い声が聞こえてきた。

「あの人は、M大学の山本一さんに間違いないわ、あなたのおかげよ」

 私は、声を落として言った。

「本名で来ていたんだな」


 私たちは、八時半過ぎに、フロントでチェックアウトを済ませてから、停車中のバスに荷物を置いて、金鱗湖へと歩いた。

 通り道の脇に生えている木々の紅葉は、残念ながら終わりかけていた。

「これが、金鱗湖なの」と私は言った。

「ここは、清水と温泉が流れ込んでいるらしく一年中水温が高いので、冬の寒い朝は湖面から湯気が立ち上るシルクスクリーンを見れるので有名なんだよ」

 夫は、がっかりした私を慰めるように説明してくれた。

「あなた、鴨がいるわ」

「後尾から血が出ているようだ」

「可哀そうに、野良猫にでも食べられそうになったのかもしれないわ」

 夫が近くの土産物屋に入って、怪我している鴨を保護するよう然るべく部署に連絡するよう、店員に頼みに行った。

 金鱗湖の見学を終えて、賑やかな湯の坪街道に出た。

「結構しゃれた店やレストランが立ち並んでいるね」

「ちょっとお土産屋さんを覗いてみようかしら」

 私は、店に入った。

 ロールケーキやせんべい類が、所狭しと積んで並んでいる。

 私は、目移りしながらもいろいろ選んでいった。

「これも買おうかしら」

「いいね」

 五種類の土産を持った夫と店を出ようとした時、ツアー客のひとりが入ってきた。

 私は、すれ違いざまに軽い会釈をした。

「彼女、だれだっけ」

「一人参加の三浦幸子さんよ」

「相変わらず雅子は、記憶力がいいね」

 私には、一度覚えたら忘れることがないという自負がある。

 ある人は、記憶という能力には、限界があるので、大事で無いことは忘れる必要があるというが、私には全く関係がなかった。

 店をのぞきながら歩いて行くと、饅頭屋の暖簾が見えた。

 甘いものに目のない私は、夫を誘った

「ここで、休憩して行かない」

 店の扉が開くと、反田次郎と山中響子が相対して饅頭を食べているのが目に入った。

「あなた、別の店にしない」

「そうだね」

 夫もツアー客のグループの人間だと気づき、私たちは店に入らずに背を向けた。

 坂道を下っていく途中の脇道で何か争っているような声が聞こえた。

「彼らは、我々のツアーの人たちだ」

「そうね。山本一さんと一緒に来ている末永喜美子さんと一人参加の田所正さんだわ。何かもめているようよ」

「行ってみようか」

 三人がいい争っている所に行った。

 夫が口をはさんだ。

「どうされましたか」

「なんでもありません」と山本一が、答えた。

 しかし、依然、三人は険しい顔をしていた。

「あなた方には、関係ありません」と言って、田所正がその場を立ち去った。

 私は、夫のシャツの横腹部分を引っ張った。

 私は山本一たちに軽く頭を下げて、駐車場に向かった。

「山本一さんと田所さん一体何があったのかしら?」

「山本一の不倫と何か関係があるのかな」

 バスは定刻通りに出発して、別府に向かった。

 伊藤恵が、マイクを持った。

「別府ロープウエイに乗り、標高千三百メートルにある鶴見山上駅で降ります。駅前には、鶴見山上権現一の宮があります。山上遊歩道沿い各所にも、様々な神様が祀られ、札所めぐりや七福神めぐりをお楽しみいただけます。また、各展望所では、紅葉の絶景を見ることができます」

 十三時半近くに、私たちは、ロープウエイに乗った。

 青い空、赤黄色に色づいた木々そして、遠くに別府湾の海面がキラキラと輝いていた。

 ロープウエイを降りて、しばらく歩いて展望台に上った。

「きれいだわ」

「晴れててよかった」

 眼下の別府と別府湾がはっきりと見えた。

 そして、案内に沿って七福神を巡った。

「なぜ、このようなところに、七福神があるの」

「俺もよくわからないよ」

 結局、時間の都合で、二福神をのこして、ロープウエイで下山した。

 予定通り、十四時半にバスは出発した。

 車中は驚くほど静かだった。

 静けさを破って、伊藤恵が、次の行き先の別府地獄について、地獄めぐり記念スタンプ帳という冊子を配ってから、説明し始めた。

「次に行きます・亀川の地獄地帯は、千年以上も昔より熱泥、熱湯などが噴出していたことが豊後風土記に書かれており、また近寄ることもできない忌み嫌われた土地であったといわれています。そんなところから、人々より、地獄と呼ばれるようになりました。今も鉄輪では温泉噴出口を地獄とよんでいます。海地獄、血の池地獄、龍巻地獄、白池地獄の四つは、国の名勝に指定されています。別府の地獄のなかでも最大の海地獄は、コバルトブルーの色をしていて、地獄というのがふさわしくないほどの美しさです。池の青色は、温泉中の成分である硫酸鉄が溶解しているためです。園内では、温泉熱を利用してアマゾン地方原産のオオオニバスや熱帯性睡蓮を栽培しており、オオオニバスや熱帯性スイレンの開花期は、五月上旬~十一月下旬で、朝方が見ごろです。血の池地獄は日本で一番古い天然の地獄で、赤い熱泥の池です。 地下の高温、高圧下で自然に化学反応を起こし生じた酸化鉄、酸化マグネシウム等を含んだ赤い熱泥が地層から噴出、堆積するため池一面が赤く染まります。別府市の天然記念物にも指定されています龍巻地獄で、豪快に噴き出した熱水は、屋根で止められているが約三十メートルほど噴き出す力があります。落ち着いた雰囲気の和風庭園にある白池地獄は、青みを帯びた白色をしています。これは、噴出時は透明な湯が、池に落ちた際、温度と圧力の低下により青白く変化するためです。さらに白池には、熱帯魚館、県指定重要文化財の向原石幢、国東塔、郷土美術が展示されている二豊南画堂があります。明治以降坊主地獄として観光施設の名所になっていましたが、一度閉鎖され新たに鬼石坊主地獄としてオープンしました。灰色の熱泥が沸騰する様子が坊主頭に似ている事から鬼石坊主地獄と呼ばれる様になったそうです。場所は、海地獄の隣にあり、施設内には、足湯がありますので、時間のある方は、お試しください。鬼山地獄は、別名ワニ地獄とも呼ばれ、大正年間に日本で初めて温泉熱を利用し、ワニ飼育を開始しました。現在、約八十頭のワニを飼育しています。別府地獄めぐりのひとつかまど地獄は、泉温九十八度の温泉が噴気とともに湧出。古来より氏神の竈門八幡宮の大祭に、地獄の噴気で御供飯を炊いていたことがその名の由来と言われています。かまど地獄は一丁目~六丁目までさまざまな湯の池があります。また、この近くに、漫画の滅の刃で有名になった八幡竈神社があります。これからは、私が地獄めぐりを案内します。先ほどお渡しした地獄めぐり記念スタンプ帳の地図を見てください。これからバスは、龍巻地獄の駐車場に到着します。皆さんが下車しましたら、龍巻地獄と血の池地獄を観光して、再びこのバスに乗って、鬼山地獄へと行きます。そこから、白池地獄、かまど地獄、鬼石坊主地獄そして、海地獄へとご案内します。単独行動をするようなことがあれば、海地獄の駐車場でこのバスが皆様をお待ちしてますので、十六時半までに乗車ください。そして、今日宿泊先のUホテルに向かいますので、お間違えせずに十六時半までに必ず乗車してください」

 伊藤恵が、地図を皆に見せるようにして、海地獄の近くの駐車場を示した。

「伊藤さん」と後部席の反田次郎が、声を上げた。

「反田さん、なにか」

「地図に載っていない八幡竈神社にはどのように行ったらいいですか」

 伊藤恵は、血の池地獄のそばを指さして、

「血の池地獄から二キロありますので、三十分ほど歩いたところにあります。今回は時間の都合上、そこにはご案内しませんが、もし行かれる場合は、くれぐれもバスに間に合うようにお願いします」

 バスが、駐車場に入った。

 皆、言葉少なく各自案内のパンフレットを手に持ち、伊藤恵の後に続き、最初に噴射の時間が、間近な龍巻地獄を見学した。

 噴射近くの階段上の席に、私と夫は腰かけた。

 夫はカメラを構えて、シャッターチャンスを狙っていた。

 私は、ツアー客たちがどうしているか何気なく見回した。

 昨日の夕食時にグループで問題になった二組の反田次郎と山中響子、そして平山和夫と渡辺美代子はそれぞれ、仲睦まじく楽しそうに座っていた。

 私は、高校三年の修学旅行を思い出した。

(純粋な恋愛で、誰にも迷惑をかけなければいいんだけれど)

 山本一と末永喜美子の二人は、田所正を避けるようにかなり離れた距離に座って話が弾んでいるようだった。

 佐川一家は、娘の知美が構えたカメラに笑顔で両親が応えていた。

 噴射が、始まり、皆そこに集中した。

 私、気づかれないように、山本一たちに向かってシャッターを切った。

 夫は、噴射に焦点を当ててシャッターを何度も切っていた。

「屋根で止めらなければ、迫力があるのに残念だな」

「周りの家々に迷惑がかかるから仕方がないわね」


 次に、血の池地獄を観光して、再びバスに乗って、鬼山地獄に向かった。

 そして、白池地獄、かまど地獄、鬼石坊主地獄そして、海地獄を見学した。

 いつの間にか、伊藤恵の後を歩いている人の数が減っていた。

「あなた、六人ほど減ったみたいよ」

「竈神社にでも行ったのかな」

 伊藤恵は、海地獄の駐車場に止まっているバスまで私たちを連れて行った。

「十六時半まで、まだ多少時間がありますので、おトイレや買い物をしてきてもいいです」

 私は、夫がトイレから帰ってくるのを待って、乗車して、バスの出発を待った。

 運転席の上にある時計が、十六時半を指した時には、まだ、山本一、末永喜美子そして、田所正の三名が席についていなかった。

「山本一さんたちに何かあったのかな」

 夫が、心配そうに言った。

 伊藤恵が、運転手の山田直人に話しかけていた。

「ガイドさん、いつまで待つんですか」と足立隆が、声を上げた。

「申し訳ありません。もうしばらくお待ちください」

 十分ほど過ぎて、厳しい顔をした三人が、息を切らして、ステップを上がった。

 三人に視線が、集中した。

 それに応えてか、頭を下げながらそれぞれ席に着いた。

「あの人たちに、一体何があったんだろう」

 夫が、声を落として言った。

「何も起こらなければいいんだけれど」

 私の頭に不吉な予感が、横切った。

 伊藤恵の合図で、バスが動き始めた。


 宿泊のUホテルでの夕食は、昨日と同じバイキングだった。

 昨日と違って、どのテーブルも静かだった。

「今日は、皆さんおとなしいな、疲れているのかな」

 グラス一杯のビールを飲んで赤ら顔になった夫が、空になった私のグラスにビールを注ぎながら言った。

「地獄湯めぐりで結構歩いたから、私も疲れたわ」

「俺も疲れた」

 食事を終えて、部屋に戻ると私たちは布団に寝そべった。

 夫は、そのまま寝入ってしまった。


 夫が、私の顔色が悪いと心配した。

「昨日飲み過ぎたみたい」

「夕食の時はそんなに飲んでいなかったのに」

「あなたが寝てしまってから飲んでいたのよ」

「起こしてくれれば付き合ったのに」

「熟睡してたので、起こさなかったわ。食事に行きましょう」

 私たちが、朝食を済ませて、バスに乗り込んだのは、八時五十分だった。

 出発予定時間の九時になった。

「おはようございます。皆さん、昨日はよく眠れましたか」と伊藤恵が、我々のほうに向かって挨拶をしてから、今日の予定について、説明し始めた。

「あなた、まだ山本一さんと末永喜美子さんの二人が、来ていないわ」

「ほんとうだ。寝坊しているんだろうか?」

「今日は、これから青の洞門、耶馬渓羅漢寺、そして、宇佐神宮をまわって、大分空港に皆様をお届けします。皆様の普段の行いのたまものか、本日も天気に恵まれました」

 伊藤恵は、人数を数え終えてから運転手に何か話しかけていた。

 話終えた伊藤恵は、マイクを持ち、我々の方に向き直った。

「二人の方が、遅れていますので、まだ全員が揃っていません。二人が来るまでしばらくお待ちください」

 伊藤恵が運転手に

「ちょっと見てきます」といって、バスを降りて、早足でホテルに入って行った。

 車中が、騒がしくなってきた。

「あの二人か、いつまで寝ているんだ」

「団体行動してもらわないと困る」

「いや、何かあったんじゃないの」

「雅子、何かあったのかな」

 夫が、私に言った。

「ガイドさんが、見に行っているから、帰ってきたら何かわかるわ」

 嫌な予感がした。

 十五分ぐらい過ぎて、伊藤恵が息を切らして戻ってきた。

 運転手に二言三言話してから、マイクを持って話し始めた。

「フロントに頼んで、部屋に電話したり、館内放送で呼びかけしてもらいましたが、連絡が付きませんでした。二人が戻ってきたら、私へ連絡するようにフロントに頼んできましたので、ご安心ください。出発時間もだいぶ過ぎてしまいましたので、最初の観光地の青の洞門に向かって出発いたします」

「あなたのいうように、何かあったのかもしれないわ。伊藤さんたちよく探さなくていいのかしら」

「団体行動だから仕方がないよ。伊藤恵さんだって、みんなに迷惑をかけることはできないんじゃない。遠くまで散歩でもして、途中道に迷ったのかもしれないよ」と夫が、答えた。

 青の洞門の説明が始まった。

「江戸時代のことです。が造られたことによって山国川の水がせき止められ、樋田・青地区では川の水位が上がりました。そのため通行人はの高い岩壁に作られ鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通っていました。諸国巡礼の旅の途中にへ立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保二十年、千七百三十五年から自力で岩壁を掘り始めました。禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、三十年余り経った明和元年、千七百肋十四年に、とうとう全長三百四十二メートル、そのうちトンネル部分は百四十四メートルの洞門を完成させました。寛延三年、千七百五十年には第一期工事落成記念の大供養が行われ、以降は人は四文、牛馬は八文の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。残念ながら、青の洞門は、明治三十九年から翌四十年に一年かけて行われた大改修で、当初の原型はかなり失われてしまいました。現在の青の洞門には、トンネル内の一部や明かり採り窓などに、当時の面影を残す手掘り部分が、多少残っていますので、の無いようによく見て来てください」

 説明を終えてからしばらくすると、青の洞門の駐車場に到着した。

「朝早いせいか、まだ我々以外の観光客は来てないようだな」

「そうね、静かでいいわ」と私は答えながらも、山本一と末永喜美子からまだ連絡がないのを不審に思っていた。

「雅子、二人の事か」

 夫が、私が山本一たちを気にかけていることに気づいたようだ。

「あなた、何か悪いことが起こったんだわ」

「どちらにしても、そのうちに伊藤恵さんの所に連絡が入ると思うよ」

 伊藤恵の説明通り、洞門の当時の面影は、注意して見ないとわからなかった。

 皆、拍子抜けたような面持ちで、出発時間よりかなり早くバスに戻ってきた。

 伊藤恵が、マイクを持った。

「では、皆様揃ったので、耶馬渓羅漢寺を目指して出発します。十分ほどで到着いたします。これから向かう耶馬渓羅漢寺は、耶馬渓の荒々しい羅漢山の中腹に位置します。今から千三百年以上前の大化元年、六百四十五年にインドの僧侶・法道仙人がこの地で修行したことが羅漢寺の始まりとされています。岩山に埋め込まれるように建てられた寺の岩壁には多くの洞窟があり、洞窟の境内にあると呼ばれるところには、さまざまな表情をもつ日本最古の石造の五百羅漢が安置されています。その他にも、室町時代にという高僧の作といわれる千体地蔵など、三千七百七十体もの石仏が安置されており、平成二十六年に、国の重要文化財に指定されました。そこを見学しますが、往復、リフトを利用します。見学を終えて、降りてきましたら、だるま食堂で昼食にしますのでよろしくお願いします」

「伊藤さん、羅漢寺まで歩くとどのくらいかかるんですか」と三浦幸子が、手を上げて聞いた。

「そうですね、休まないで登ると三十分ぐらいかかります。かなり急坂で足場も悪いところがあります」

 三浦幸子は、分かったと答えて、礼を言った。

「そうこうしているうちに、到着しました」

 伊藤恵は、全員が降車したのを確認して、旗を掲げて皆をリフト乗り場へと引率した。

 ここも、観光客が、少なく閑散としていた。

「皆さん、ここからリフトに乗りますので、気を付けて乗ってください」

 伊藤恵が、まず最初に乗った。

 リフト乗り場の従業員は、都度、乗ろうとする客に乗り方の簡単に説明をした。

 私は、スキーの経験があったのでスムーズに乗ることができたが、続いて乗った夫は、ぎこちない所作だった。

 後から乗った人たちも人それぞれであったが、特に女性は夫同様ぎこちなかった。

 伊藤恵は、全員がリフトから降りたのを確認してから、歩き始めた。

「伊藤さんが言うようにリフトを使わないで登って来るのは大変そうだ」

「修行するにはいいけど」

 私は、登り路を覗いて言った。

 私たちは、洞窟の境内の無漏洞に入った。

 石像の五百羅漢が、目に映った。

 皆が、驚きの声を上げた。

「よくもこんなに造ったもんだ」

「こんなところにあるなんてすごい」

「あなた、川越にもあるけど、五百羅漢てなに」と私は、夫に聞いた。

「一説によると、釈迦入滅後の第一回の経典、および第四回結集のときに集まったという五百人の悟りをひらいた高僧をいうらしい」

「旦那さん、本当によくご存じですね」とそばにいた梶山敏夫が、感心した。

「いいえ」

 夫が、照れ笑いした。

 リフトで降りて、だるま食堂で牛丼と味噌汁の昼食を私たちがとっていた時に、伊藤恵が携帯を取り出し、店の外に出て行った。

 しばらくして、電話を終えた伊藤恵が、険しい顔をして戻ってきて、食事中の運転手の山田直人に数分ほど話しかけた。

「雅子のいうように、やはり何かあったのかな」

「良からぬことのようだわ」と答えた私は、脳裏に山本一たちの顔が頭に浮かんだ。

 食事を終えて、バスに乗り込むと、早速伊藤恵がマイクを持ち、話し始めた。

「皆さん、大変なことになりました。私たちのツアーの山本一さんと末永喜美子さんが、亡くなったそうです。事件性があるとのことで、警察から至急Uホテルに戻るように連絡を受けました。これから予定を変更して、ホテルに戻りますので、ご了承ください」

 車中のあちらこちらの席から、驚きの声が聞こえてきた。

「まさか、殺人事件じゃないだろうね」

「殺人だったら、誰が二人を殺したんだろう」

「いや、心中かもしれないわ」

「あの山本という男と連れの女性は不倫の関係で、この世を儚んで心中したんじゃないか」

「雅子、今日の便に乗れるかな」

 夫は、帰りの心配をした。

「何ともいえないけれど、殺人事件だったら、足止めされるわよ」

 ホテルに戻ると、ホールで大分県警の刑事二人が私たちを待っていた。

 刑事から話を聞いた伊藤恵は、私たちに言った。

「これから刑事さんからお話がありますので、皆さんを部屋にご案内します」

 私たちツアー客は大広間に案内された。

 大広間に用意された椅子に腰をおろすと、前に立っていた刑事たちが名のった。

「大分県警の安田です」

「同じく久米です」

 安田刑事が、山本一と末永喜美子の件について話を始めた。

「今朝十時頃、このUホテルの裏庭で山本一さんと末永喜美子さんの死体が発見されました。死因は、司法解剖に回されていますが、山本一は、絞殺で末永喜美子は、後頭部殴打によるものと推量されていますが、まだ死因は確定できません。死亡推定時刻は昨夜十時から日をまたいでの一時の三時間の間に殺害されたものと思われます。本件、殺人事件として、捜査を進めます。これから皆さんに事情聴取させていただきますので、ご協力をお願いします」

「ちょっと待ってくれよ、私たちは、今日の夕方の便で、東京に帰る予定になっているんだ。その飛行機に間に合うようにしてくれるんでしょうね。明日は、朝から委員会があるので、今日中に東京に帰らなければならないんだ」と現役官僚の足立隆が、不満げに言った。

「間に合わなかった場合は、ホテル代や飛行機の代金も当然警察が払ってくれるんだろうな」田所正が、要求した。

「損害賠償問題だ。まだツアーは宇佐神宮を残しているのよ。一体、どうしてくれるの」大山君子が、不満をぶちまけた。

「そうだ、なんとかしろよ」

「我々の中に犯人がいるってことかよ」

 大広間は、誰が何を言っているのかわからないほど騒がしくなった。

「皆さん、静かにしてください。皆さんの帰りの飛行機には間に合わせます。あと二時間しか時間がないので、すぐに始めます。ご協力よろしくお願いします。まず、別室で、一人、一人に簡単な事情聴取をさせていただきます」といって、バスの席順そして、バスの運転手の山田直人、ツアコンダクターの伊藤恵とすると付け加えた。

 まず私が、呼び出された。

「お名前、年齢、職業、住所、電話番号そして、昨夜十時から一時ごろまでの間どうされていたかを教えてください。このことは皆様すべての方にお聞きしますので、ご協力をお願いします」と安田が聞いてきた。

 安田は、伊藤恵から手に入れた客のリストを手にして質問し、久米がメモを取った。

「藤沢雅子、六十歳。探偵事務所経営」と答えると、安田が現役の時の職業を教えてくれと聞いてきたので、三か月前まで警視庁に勤めていたと答えた。

 安田が驚いて、私を見つめた。

 久米のメモっている手の動きが止まり、私の顔を注視した。

 ふたりとも疑っている様子だった。

「警視庁のOBの方でしたか。失礼いたしました。今回の旅行は旦那様とお二人ですか」

「ええ、夫は藤沢南湘五十九歳で、T大学の准教授です」

 久米が部屋を出て、しばらくして戻ってきた。

 そして、安田に耳打ちした。

「藤沢元警部殿でしたか、失礼しました。ところで、山本一さんと末永喜美子さんについて何かご存じありませんか」

「ある人からM大学の教授がこのツアーに参加するので、その行動を探ってほしいという依頼が私の事務所にありました。その人が私たちの手続きしてくれ、この旅行中の山本一さんと末永喜美子さんの行動をウオッチングしていました」

「不倫の調査をやられていたんですか」

 安田は動揺した。

(この人が白だと断定はできないが、しばらくは協力してもらい様子を見ることにするか)

「次は、旦那様の聴取をさせていただきますので、お伝えください。以上です、お疲れさまでした」と安田は頭を下げ、久米はドアーを開けた。

 私が、部屋を出ようとした時、

「藤沢元警部殿、ちょっと待ってください。これからツアー客の聞き取りを始めますが、立ち会っていただけませんか」と、安田が言った。

「それは、ちょっと」と私は断ろうとした。

「そうですね。まだ警察の肩書がありませんから、ツアー客たちに何を言われるか分かりませんね。では、隣の部屋で聞き取りを聞いてもらえませんか。携帯を通話状態にしておきますので、電話番号を教えていただけませんか」 

 ここまで頼まれてしまったら、断れなかった。

「安田さん、これからは私のことを元警部殿といわないでください。もう退職して一般の国民になっているので、よろしくお願いします」

 部屋を出て、夫に詳細を伝え、形だけの聞き取りのために、部屋に入るようにと伝えた。

 私は、誰にも気づかれずに隣の部屋に入った。

 夫に続いて、佐川恒夫が部屋に入り、安田が質問し始めた。

「佐川恒夫さんですね。お歳と職業を教えていただけませんか」

「六十六歳、無職です」

「それ以前は、どちらにお勤めでしたか」

「六十歳まで、T自動車のエンジニアでした」

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行ではどんなでしたか。些細なことでも結構ですので、何かありませんか」

「そうですね。気づいたことといえば、最初ふたりは夫婦かと思いました。しかし、お互いに言葉使いがよそよそしかったし、また写真を一切撮らないよう意識していたように見えたので、もしかしたら、人にいえないお付き合いかと妻とも話していました。まさか、二人が、殺されるとは、驚きました」

「この旅行中、他のお客ともめた様子は、ありませんでしたか」

「気が付きませんでした」

「あなたは、山本一さんが、M大学の教授だとご存じでしたか」

「えっ、M大学の先生だったんですか、そんなに偉い方が殺されるとは。相手の女の人も先生ですか」

「いや、まだ分かっていません。ところで、あなたは、昨夜の十時時から一時までの間、どちらにいましたか」

「部屋で、十時にはすでに床に入って、寝ていました」

「奥様や娘さんは、どうされていましたか」

「皆、床に入っていました」

「それを証明する人は、誰かいますか」

「アリバイですか」

「一応皆さんにお聞きしますので」

「妻と娘です。肉親ではダメでしたっけ」

「わかりました。ありがとうございました。次は、奥様に来られるようお伝え下さい」

 佐川恒夫は、不機嫌そうな顔して部屋を出て行った。

 続いて、佐川安子が、部屋に入った。

 安田は、佐川恒夫と同じ質問を繰り返した。

「佐川安子さんですね。お歳と職業を教えていただけませんか」

「六十一歳、無職です。夫と結婚してから、今に至るまで専業主婦です」

「結婚前は、何かお仕事を」

「銀行に勤めていました」

「どちらの」

「MT銀行です」

「どのようなお仕事でしたか」

「窓口業務です」

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行ではどんな様子でしたか。些細な事で結構ですので、教えてください」

「二人とも仲が良さそうでした。私たち客とはほとんどしゃべらなかったですが、ガイドさんとは時々おしゃべりしていました」

「どんなことを話していましたか」

「どんなことといっても、遠くから見ていただけで、話の内容まで知りませんよ」

「他のお客さんともめていたようなことは、ありませんでしたか」

「別に気づきませんでした」

「あなたは、山本一さんがM大学の教授だったことはご存じでしたか」

「いや、今、刑事さんから聞いたのが初めてです」

「最後に、あなたは昨夜の十時から次の日の一時までの三時間の間、どちらにいましたか」

「もうとっくに部屋で寝ていました」

「それを証明するものはありますか」

「主人と娘です」

「他には」

「いません」

「わかりました。どうもお疲れの所ありがとうございました。次に娘さんが来るようお伝えください」

 すぐに、佐川知美が入ってきた。

「佐川知美さんですね。お歳と職業を教えていただけませんか」

「三十三歳、東京都職員です」

「どのような業務をやられていますか」

「都市計画関係に携わっています」

「学校での専門を生かされているのですか」

「大学は、法学部でしたので、ちょっと畑違いになります」

「ところで、亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行ではどんな様子でしたか。些細なことでも結構ですので、教えていただけませんか」

「山本先生が、このツアーに参加しているのには驚きました。それも、奥さんではない女の人と一緒だとは。私の前の席で、ふたりは、お酒を飲んだり、いちゃいちゃしたりで、耐えられませんでした」

「どうして、あなたは、山本一さんが、M大の教授だったことをご存じなのですか」

「ええ、私はM大学の卒業生なので、学部時代は、山本先生の講義を受講したことが何度かありました。先生は私を知る由もありませんが」

「そうですか。学校で山本さんを恨むような人はいなかったですか」

「知りません」

「ところで、先ほどあなたは、山本さんたちがいちゃついたりしているのを見て、耐えられなかったといってましたが、どうしたんですか」

「時々、父と席を代えてもらいました」

「あなたは、昨日の夜十時から今朝の一時までの三時間の間、何をしていましたか」

「私含めて、家族三人すでに寝ていました。アリバイですか、証明できるものなんてありませんよ」

「分かりました。どうもありがとうございました」

 佐川知美が、出て行ったあと、久米は、部屋を出て行き、次の番の足立隆を連れて来た。

「足立隆さんですね。年齢と職業を教えてください」

「二十九歳、国家公務員」

「どちらの省ですか」

「経産省」

「どのような業務をされているんですか」

「高圧ガス関係」

 安田の質問に対して、足立隆は終始ぶっきらぼうに答えていた。

「ところで、亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行ではどんな様子でしたか。どんな些細なことでも結構ですので教えていただけませんか」

「別にないな」

「あなたは、山本一さんがM大学の教授だったことを知っていましたか」

「ええ、何度か講義を聞いたことがありますよ」

「あなたも、M大学の卒業生でしたか」

「あなたもって、どういう意味なの」

「いや、別に意味はありません。山本さんは、大学で何か恨まれるようなことはなかったか、ご存じありませんか」

 足立隆は、答えずにただ首を横に振った。

「ところで、あなたは、昨夜十時から一時までの三時間、何をされていましたか」

「妻と部屋にいましたよ。アリバイを証明するものはないけどね」

「分かりました、どうもありがとうございました。奥様に代わって頂けるようお伝え願いませんか」

 足立隆は、返事もせずに部屋を出て行った。

 足立隆の妻の誉が、部屋に入った。

「足立誉さんですね、年齢と職業を教えてください」

「二十八歳、M大学病院の研修医です」

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんについて、お聞きしたいのですが、この旅行で彼らはどんな様子でしたか、些細なことでも結構ですので、教えていただけませんか」

「そういえば、湯布院の湯の坪街道の脇道で、彼らと田所さん、そうそう藤沢さんたちが言い争っていたのを見かけたわ」

「言い争いの内容は、ご存じありませんか」

「遠くで見ていただけだから」

「他には何かありませんか」

「ないわ」

「ところで、山本一さんがM大学の教授だったのをご存じでしたか」

「知りません」

「昨日の夜十時から翌日一時までの三時間ですが、あなたはどこにいましたか」

「部屋に、隆といました」

「分かりました、どうもありがとうございました」

 足立誉を見送って、久米は、三浦幸子を部屋に案内した。

「三浦幸子さんですね。年齢と職業を教えてください」

「五十歳、Yスーパーマーケットへの派遣社員です」

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行でどんな様子だったか、些細なことでも結構ですので、何かありましたら教えてください」

「ふたりが夫婦ではないとは気づきましたが、今時よくあることなので、別段気にはしていませんでした」

「他のお客とは、何かもめているようなことはありませんでしたか」

「私は、何も気づきませんでしたが」

「山本一さんが、M大学の教授だったことを知っていましたか」

「そうなんですか、偉い人だったんですね」

「ところで、昨日晩の十時から翌日一時までの三時間は何をされてましたか」

「部屋で寝ていました」

「何か証明する人は、いますか」

「あるわけないでしょう、一人なんだから」

「分かりました。ありがとうございました」

 続いて、久米は、田所正を部屋に連れて来た。

「田所正さんですね。年齢と職業を教えてください」

「はい、田所正、六十三歳、現在アルバイトでガードマンをしています」

「それ以前は、どちらにお勤めでしたか」

「一年前まで、M大学の構内にある生活協同組合で働いていました」

「山本一さんが、M大学の教授だったことを、当然あなたは、知っていましたよね」

「ええ、知ってました」

「山本一さんが、末永喜美子さんと一緒に参加していた事については、どう思われましたか」

「他人のプライベートには興味がないので、別になんとも思いませんでした」

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行中はどんな様子でしたか。どんなに些細なことでもいいので、教えてください」

「別に気づいたことはありません」

「あなたは、湯布院の湯の坪街道の脇道で山本一さんたちともめていたようですが、何かあったのですか」

「大したことではありません、ただバスの中での二人の行動を注意しただけです。そういえば、その時、藤沢さん夫婦が来られて、どうしたのかと聞かれたので、なんでもないと答えたことを覚えています」

「ところで、あなたは、昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、どこで何をしていましたか」

「刑事さん、私を疑っているのですか」

「いや、皆さんにお聞きしています」

「部屋で寝ています」

「それを証明する人はいますか」

「いるわけないでしょ」

「分かりました。どうもありがとうございました」

 続いて、梶山敏夫の聞き取りが始まった。

「梶山敏夫さんですね。年齢と職業を教えてください」

「七十歳、無職です」

「退職前に勤めていた会社を教えてくれませんか」

「六十歳まで、SK化学に勤務していました」

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行ではどんな様子だったか、些細なことでもいいので、気づいたことを教えてくれませんか」

「バスの中で、弁当の時に、最初に酒を飲んでいました。それに続いて、後部座席のグループの人たちが酒盛りを始めたので、車中が酒臭いと苦情が出たことを覚えています。あとは、山本さんは、なぜか写真を撮られるのを嫌っていました」

「あなたは、山本一さんが、M大学の教授だったことをご存じでしたか」

「ええ、どこかでガイドさんと彼が話しているときに、連れの末永さんが、山本一さんがM大学の教授だとガイドさんに自慢そうに言っていたのを聞きました」

「それ以前は、ご存じではなかった?」

「はい」

「ところで、昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、どちらで何をしていましたか」

「私のアリバイですか」

「皆さんにお聞きしています」

「部屋で寝ていました。妻が知っていますけど、身内は証人になりませんね、刑事さん」

「分かりました。お疲れのところありがとうございました」

 続いて、梶山敏夫の妻の政代が、部屋に入ってきた。

「梶山政代さんですね」

「はい」

「年齢と職業を教えてください」

「七十三歳、無職です」

「何処かの会社に勤務されたことはありませんか」

「学校を卒業して、すぐに結婚したので、会社勤めの経験は、一度もありません」

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行中で何か様子が変わったようなことに気づかれませんでしたか」

 梶山政代は、しばらく考えてからいった。

「山本さんがM大学の教授だと連れの末永さんが、ツアコンダクターの伊藤さんにいった時の伊藤さんの驚いた顔は、普通ではなかったような気がしました」

「そうですか、山本さんたちが他の客ともめたようなことはなかったですか」

「あの方たちは、私たちとはほとんど話はしなかったと思います」

「あなたは、山本さんが、M大学の教授と知ったのは、先ほどの件で初めてでしたか」

「はい」

「ところで、あなたは、昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、どこで何をしてましたか」

「刑事さん、私を疑っているの」

「そういうわけではなく、皆さんに一通り聞いているのです」

「九時ごろには、部屋で寝てました」

「分かりました。お疲れのところどうもありがとうございました」


 そして、グループ九人の聞き取りが始まった。

 まず、吉田八重子が部屋の椅子に腰かけた。

 安田が、年齢と職業を聞いた。

「六十五歳、N運送会社の事務をしています」

「何年ぐらい務めていますか」

「四十年ぐらいになりますか」

「ところで、亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行中に何か変わった様子は見受けられませんでしたか。些細なことでも結構ですので、教えてください」

「気が付きませんでしたわ」

「そうですか、他の客たちともめたようなことはありませんでしたか」

「そういえば、湯布院に泊まった翌朝、土産を買いにうろうろしていたら山本さんたちと田所さんが、何かいい合いをしているようなところを見たわ」

「話の内容は、ご存じですか」

「遠くからでしたので、そこまでは」

「ところで、あなたは山本さんが、M大学の教授だと知っていましたか」

「あんな格好のいい人が、先生なんですか。知りませんでした」

「あなたは、昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、どこで何をしていましたか」

「九時三十分ごろには、寝てしまいました」

「それを証明する人はいますか」

「一緒の部屋の浜田さんや大山さんに聞いてみてください」

「分かりました。お疲れのところ、ありがとうございました」

続いて、浜田好子、大山君子と続いたが、安田の質問に対しての返答は吉田八重子とほとんど同じであった。

 そして、川本正雄が、安田の前に座った。

「川本正雄さんですね。年齢と職業を教えてください」

「七十歳、無職です」

「退職前まではどちらにお勤めでしたか」

「M中学校の教師でした」

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行でどんな様子でしたか、些細なことでも結構ですので、何かあれば教えて下さい」

「ほとんど目立たなかったです。たまに、ツアコンの伊藤さんと山本さんが話をしているのを見かけたことぐらいですかね」

「山本さんが、M大学の教授だったことをご存じですか」

「いいえ、そうでしたか。かっこいい男だと思っていましたが、教授ですか」

「ところで、川本さんは、昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、どこで何をしていましたか」

「十一時くらいまで、同室の平山さんとふたりで部屋で飲んでいました。それから、寝ました。刑事さん、疑うならば、平山さんに確認してください」

「反田さんも、一緒の部屋ではありませんか」

「反田さんが部屋に戻ってきたのが何時か、寝てしまっていたので知りません」

「分かりました。お疲れの所、ありがとうございました」

 続いて、宮本くみが部屋に入った。

「宮本くみさんですね。年齢と職業を教えてください」

「七十一歳、無職です」

「お勤めしたことはありますか」

「ええ、六十歳までW病院で看護師をしていました」

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行でどんな様子でしたか、また他のお客とのトラブルは何か見ませんでしたか」

「別に何もなかったかと思います」

「あなたは、山本一さんがM大学の教授だったことをご存じでしたか」

「へえ、あんなにかっこがいい人が大学の先生でしたか」

「そうなんです。ところで、あなたは昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、どちらで何をされてましたか」

「部屋で、十時半ごろまで同室の渡辺さんと話していました。それから寝ましたが、あら、刑事さん、私を疑っているんですか」

「そういうわけではありません。同室の山中響子さんは、ご一緒ではなかったんですか」

「彼女、私たちが寝るまで部屋に戻ってきませんでした」

「どこに行ったか、ご存じありませんか」

「どこに行ったやら」幾分妬んでいるようだった。

 続いての渡辺美代子の話は、あらかた宮本くみと同じであった。

 そして、平山和夫が、安田の前の席に座った。

「平山和夫さんですね。年齢と職業を教えてください」

「平山和夫、六十三歳、無職です。三年前に三十五年勤めたK鉄道を退職しました」

「ありがとうございます。ところで、先日亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行でどんな様子でしたか、また他の客ともめたようなことなど些細なことでも結構ですので、教えてくれませんか」

「私たちはグループで参加していましたので、ほとんど他の客については、私はほとんど意識をしていませんでした。亡くなった山本一さんや末永喜美子さんの顔すら思い出せません」

「山本一さんが、M大学の教授だったことをご存じでしたか」

「全く知りませんでした」

「では、昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、あなたはどちらで何をされていましたか」

「刑事さん、私のアリバイですか。その時間は、部屋で川本さんと飲んでいましたので、彼に確認してください」

「分かりました。お疲れの所、ありがとうございました」

 久米が、平山を送り出して、反田次郎を部屋に連れてきた。

「反田次郎さんですね。年齢と職業を教えてください」

「反田次郎六十六歳、無職です。六十歳までM大学の事務職員で働いていました」

 安田は、一瞬、次の質問をためらった。

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんをご存じでしたか」

「山本一先生の学生時代から准教授までの間は、知っていますが、大学をやめてからこの六年間の彼については、知りません。まさかこのツアーでお会いするとは驚きました。ただ、連れの方は知りません」

「あなたは、この旅行中山本さんと何かお話しされましたか」

「あいさつ程度ぐらいでした。山本先生は、私を避けるようなそぶりをしていましたので、私も積極的には話しかけませんでした」

「反田さん、あなたがM大学に勤められていた頃、他人から山本先生が恨みをかうようなことがあったかどうか、何かご存じありませんか」

「別にそんな話は聞いたことがありません。当時の先生は、研究に忙殺されていたはずです」

「ところで、あなたは昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、どこで何をされてましたか」

「言わなければいけませんか」

「強要するものではありませんが、今回の事件の容疑に関係すると判断して、捜査を進めるようになるかもしれません」

「そうですか、刑事さんこれからいうことは、皆には言わないでください」

「内容によりますが」

「実は、グループの山中響子さんと食事を終えてから町に出て、十二時頃までスナック楓という店で、飲んだり歌ったりしていました」

「分かりました。スナック楓ですね」

 安田は、久米のほうに目を向けてから、反田に再び向き直った。

「反田さん、お疲れの所、ありがとうございました」

 反田が部屋を出て行ったのを見届けた久米は、携帯をポケットから出して他の刑事にスナック楓に行って反田と山中響子が来たか確認するよう依頼した。

 電話を終えると、部屋を出て、山中響子を伴って戻ってきた。

「山中響子さんですね。遅くなり申し訳ございません。年齢と職業を教えてください」

「はい。六十七歳、美容師です」

「美容院をやられているんですか」

「ええ、四十年ぐらい東久留米でやっています」

「本題に入りますが、亡くなった山本一さんや末永喜美子さんが、この旅行中何か変わった様子や他の客ともめたようなことがなかったか何かご存じありませんか。些細なことでも結構です」

「山本一さんや末永喜美子さんだけでなく、私はグループ以外のどなたともお話ししていませんし、お名前すら記憶にございません」

「そうですか、ところで、あなたは昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、どこで何をされていましたか」

「刑事さん、私を疑っているんですか」

「いや、ただ皆さんにお聞きしているだけです」

「反田さんと十二時頃までスナックでお酒を飲んでいました。反田さんに確認してください」

「スナックを出てから、どうされました」

「ホテルの部屋に戻って、寝ました」

「それを証明する人、いますか」

「同室の宮本さんや渡辺さんは、寝てたので、誰も証明する人はいません」

「分かりました。お疲れの所、ご協力ありがとうございました」

 引き続き、ツアコンダクターの伊藤恵の聞き取りに入った。

「伊藤恵さんですね。年齢と職歴を教えてください」

「はい、三十六歳、KHSに勤めて十六年になります」

「亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行中に何か変わった様子や他の客たちともめたようなこと、些細なことでも結構ですので、教えてください」

「特段、変わった様子はありませんし、もめごともなかったと思います」

「山本一さんが、M大学の教授だったことをご存じでしたか」

「はい、お連れの末永喜美子さんからお聞きしました」

「ところで、あなたは昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、どちらで何をされていましたか」

「食事を終えてから、部屋で明日の予定の確認等をして、お風呂に入って、確か九時三十分ごろには寝てしまったと思います」

「それを証明する人はいますか」

 伊藤恵は、少し考えこんでから言った。

「誰もいません」

「分かりました。どうもお疲れのところ、ありがとうございました」

 伊藤恵が部屋から出て行った後、久米が、山田直人を部屋に案内した。

「山田直人さんですね。年齢と職歴を教えてください」

「はい、山田直人、五十歳。KHSに入って二十年経ちました。その前は、別府タクシードライバーでした」

「ところで、亡くなった山本一さんや末永喜美子さんは、この旅行中何か変わった様子に気づきませんでしたか。また、彼らは、他の客とのトラブルを起こしませんでしたか。どんなに些細なことでも結構ですので、教えてください」

「おふたりに変わった様子は、見受けられませんでした。トラブルですか。何回かグループの方同士でもめていたことはありましたが、山本一さんや末永喜美子さんが、ほかのお客さんともめていたようなことは、少なくとも車中ではありませんでした」

「ところで、山本一さんがM大学の教授だったことをあなたはごぞんじでしたか」

「えっ、あの山本一さんが、大学の先生ですって、全く存じていません」

「そうですか。昨夜の十時から翌日一時までの三時間の間、あなたは、どこで何をしていましたか」

 山田は、多少時間をおいて

「大分市内の自宅に帰っていました」

「何時ごろの電車に乗りましたか」

「車中内の掃除をし終えて、十九時五十一分湯布院発の電車に乗って、帰りました」

「それを証明する人はいますか」

「アリバイの証明ですか。それはありません」

「お疲れのところ、ありがとうございました」

 久米が山田を送り出した。

 一時間四十分ほどで、安田たちは聞き取りを終えた。

 私は、隣の部屋から出て、安田たちの所へ行った。

 安田は、部屋の片隅に行って、電話をかけ始めた。

 五分ほどで、話が終えて、私に言った。

「藤沢さん、先ほど上司に連絡したところ、藤沢さんに是非本件について、協力してもらうように話してくれとの指示がありました。協力と言っても、警察の立場でご協力をお願いしたいのですが、いかがですか」

「もう定年退職した身ですから、お断りします」

 私が夫の顔を見ると、彼は頷いて答えた。

「そうですか。ではご協力いただくにはどうしたらよいでしょうか?」

「今の職業の探偵という身分でなら、協力させていただきますが?」

「しばらくお待ちください。上司と相談してきます」

「あなた、これならいいでしょ」

「おまえが納得するなら、俺は何も言わないよ」

 安田が戻ってきて言った。

「藤沢さんのいわれる通り探偵の立場でご協力お願いします。人件費や経費については、嘱託扱いでいかがですか?」

「それで結構です。では、まず何をしましょうか」

「私のほうから、今まで分かったことと、藤沢さんもお聞きになられたはいますが、今回の聞き取りの結果を説明させていただきます」と、久米がパソコンの画面を見ながらいって、まず、殺害された山本一と末永喜美子について、説明し始めた。

「山本一、四十五歳。M大学法学部教授で、住所は文京区のSマンションとバッグの中の身分証明書と免許証から分かっています。また、末永喜美子、四十歳で住所は、町田市のKアパートです。これは、免許証からです。職業は、分かりません。事件の概要ですが、先ほど皆さんに説明した通り、このホテルの裏庭で、昨夜十時ごろから今朝一時頃の間に、ふたりは、殺害されたと思われます。山本一は絞殺痕がありますが、末永喜美子のほうは、頭骨陥没骨折も確認されています。今、ふたりとも司法解剖に回されています。また、目撃者がいないか、近辺をあたっています」

 そして、久米がツアー客たちへの聞き取りの結果を簡単にまとめたものをアウトプットして、私に渡した。

 よくにている

氏名     年齢       職業              住所

山田直人   五十      KHS(株)観光バス運転手       大分市

伊藤恵    三十六     KHS(株)ツアーコンダクター     大分市  

佐川恒夫   六十六     無職、元T自動車メーカー      横浜市

安子   六十一     無職

知美   三十三     東京都職員、M大学卒

足立隆    二十九     経産省課長補佐、M大学卒      新宿区

誉    二十八     T大学病院の研修医

三浦幸子   五十      派遣社員              藤沢市

田所正    六十三     ガードマン、元M大学生協勤務    江東区

梶山敏夫   七十      無職、元SK化学社員        練馬区

政代   七十三     無職

吉田八重子  六十五     N運送事務員            江戸川区

浜田好子   六十五     Sスーパー パート         大田区

大山君子   六十五     介護福祉士             青梅市

川本正雄   七十      無職、元L中学校教師        横浜市

宮本くみ   七十一     無職                川崎市

渡辺美代子  六十五     看護師               小金井市

平山和夫   六十三     無職、元JR東日本          豊島区

反田次郎   六十六     無職、元M大学事務職員       三鷹市

山中響子   六十七     M小学校栄養士           東久留米市         


「皆さんの住所の詳細及び電話等の連絡先は、後日連絡します。話が長くなりましたが、藤沢さんには、予定の便で、東京に戻られて、山本一と末永喜美子について、調べていただけませんか。世田谷署の捜査一課に話をつけてますので、まず、世田谷署に行って下さい」

 この短い時間に、世田谷署まで連絡を取ったとは、私は、安田という男の仕事の早さに舌を巻いた。

「ところで安田さん、私たちへの嫌疑は?」

 私の質問に安田は黙った。

「そうですか、分かりました」

「藤沢さん、ここにいる久米刑事を世田谷署に我々との連絡役として、明後日に派遣しますので、よろしくお願いいたします」

 大分県警の捜査一課に来て一年ほどしか過ぎていないという三十二歳の若手刑事の久米が丁重な挨拶をした。

 今まで黙って聞いていた夫が、

「妻をよろしく頼みます」

 と言って、頭を下げた。

 私たちツアー客は、伊藤恵に見送られて大分空港発羽田行ANA2496便に乗った。

「雅子、今回の旅行は大変だったね。余計な仕事まで抱え込んでしまった」

「そうね、仕方がないわ。でもあなたも最後の観光予定の宇佐神宮に行けなくなて、残念だったんじゃないかしら」

「仕方がないよ、殺人事件があったんだから。雅子も帰ってから大変だ」

「ところで、宇佐神宮っていう所は、どういう所なの」

「宇佐神宮八幡は、全国約十一万の神社のうち、八幡さまが最も多く、四万六百社あまりのおがあるんだ。宇佐神宮は、四万社あまりある八幡さまの総本宮で、御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、欽明天皇の時代五百七十一年に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれている。応神天皇は、大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをした方で、七百二十五年、現在の地に御殿を造立し、八幡神を祭ったのが宇佐神宮の創建だ。宇佐の地は、畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋に降臨したと日本書紀に記されている。比売大神様は、八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきた。八幡神が祀られた八年後の七百三十三年に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神を祀った。三之御殿は神託により、八百二十三年に建立された。応神天皇の御母、神功皇后を祀っている。神功皇后は、母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされていると伝えられている。八幡大神の御神徳は、強く顕現し、三殿一徳の神威は、奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで特に有名だ。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、勅祭社十六社に列されている。雅子、八幡信仰って知っているか?それは、応神天皇のご聖徳を八幡神としてたたえるとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられているんだよ。その長い信仰の歴史は、宇佐神宮の神事や祭会、うるわしい建造物、宝物などに今も見ることができ、千古斧を入れない深緑の杜に映える美しい本殿は国宝に指定されている。一度見たことがあるんだが、もう一度見たかった」

「わたしも見たかったわ」

「また来るか」

「近いうちにまたね」

 私たちの飛行機は、予定通り羽田空港に十八時三十五分に到着した。


 自宅に戻った私は、夕食のため簡単な料理を作った。

「お疲れ」

 夫が、ビールを私のグラスに入れて言った。

 夕食を終えると、夫は風呂に入り、すぐにベッドに滑り込んで行った。

 私は、今回の調査をノートに書き留めようと、椅子に腰かけたが、昔のことが次々と思いだされてきた。。

 私は、高校三年の時、M大学を受験したが、落ちて浪人生活を予備校で過ごした。その間、同じ予備校に通っていた髪の長い目のぱっちりした面長の顔の男子に恋をしてしまった。

 受験勉強は、そっちのけで彼が読んでいる藤村、白秋、実篤そして、漱石に傾倒した。

 翌年は、案の定M大学への受験をあきらめざるを得なく、T大学を受験してなんとか合格した。

 大学時代は、合気道部に入り、毎日練習に明け暮れ、練習の後は、授業料を稼ぐために家庭教師を掛け持ちした。

 四年生になって、周りの友人は有名一流会社に就職が決まったが、私は、社会に出て働くということに何か抵抗があり、大学院の修士課程に進んだ。

 建築意匠についての研究を選んだが、二年間で挫折をして、就職の道を選んだ。

 が、この年は、景気が悪く民間の求人募集は、非常に少なかった。

 いろいろ受験した中で、東京都の警察官試験に合格した。

 警視庁に入ってから、一階級を上がるためには都度試験に合格しなければならない。

 私のような警察官は、国家公務員上級試験に合格して入ってきたキャリア人間とは違い、警部になるのが精一杯であることを知った。

 特に、女性は、さらに厳しかった。

 巡査、巡査部長、警部補そして、警部に数年前になることができたのは、運がいいほうだと思っている。

 キャリアはキャリアで出世競争に敗れた者は、多くその末路は寂しいもので、民間では考えられないようである。

 出世競争に勝ったものも、それで安泰というものではなく、政治家や世論からの風当たりも時には強く、心安らかではない日を送ることもあるようだ。

 私が警部になれたのは、夫の南湘の支援があったからこそで、夫には感謝している。 

 

 旅の疲れによる睡魔に負けて、いつの間にか机の上に臥せってしまったところ、夫に起こされた。

 すでに日をまたいでいた。

 朝食を取ってから、紺のスーツをクローゼットから出して着替えた。

「警察とコワークすることになるなんて、想像もつかなかったわ」

「本当だ。雅子、殺人事件だ。くれぐれも気を付けてくれよ」

「はい、分かりました」

 夫に見送られて、JR新宿駅から徒歩で十五分ほど離れた五階建てビルの誤解にある私の事務所に寄って郵便物と留守電を確認してから、世田谷署をたずねた。

「藤沢元警部、ご苦労様です」

 すでに大分県警から連絡を受けていた捜査一課の麻生係長が、笑顔で迎えてくれた。

「麻生係長、元警部はよしてくれませんか。今は、私は一介の探偵です」

「分かりました、藤沢さんはこちらの机と席を使ってください」

「先ほど言いましたように、今は一般の国民ですし、今回の事件での容疑はまだ

晴れていません。署内に席を設けていただくことは不要です。ただお邪魔することがあるかもしれませんので、皆さんにご挨拶だけはさせていただきます」

 私は、腰かけずに、周りにいる人たちへ挨拶をした。

 現役の時に顔見知りになっている刑事が、数人いた。

 挨拶を終えた私は事務所に戻って、昨日書き付けたノートをカバンから出して机の上に置き、最初のページから読み直し、さらに追記した。


 翌日、十三時過ぎに大分県警の久米が、世田谷署に入ったとの知らせを事務所で受けた私は、すぐに世田谷署に向かった。

 久米は、麻生係長に挨拶して、熊本の土産で有名な菓子の誉の陣太鼓を手渡した。

「これはご丁寧に、遠慮なくいただくよ。藤沢さんと組めるなんて、久米君も運がいいよ。がんばって、早く星を上げてください」

 世田谷署についた私は、会議室に案内された。

 しばらくして、麻生が久米を連れて部屋に入てえ来た。

 久米が、大分県警の捜査状況について説明した。

 久米の説明が終えるのを待って、私は大分県警がどのように考えているかを確認した。

「犯罪場所は、Uホテルの裏庭で間違いないですか」

「裏庭で殺害されたとの見解です」

「共犯の可能性をどうみていますか」

「二人を殺害していますので、単独犯ではないと考えています。犯人は、ツアー客にいるとはまだ断定していません。ホテル内の客だけでなく、近隣の住民らにも聞き取り調査を行っています」

「物盗り、痴情、怨恨等、動機はどのように推測していますか」

「山本一と末永喜美子の部屋の荷物からも盗まれた形跡はありませんので、怨恨の方面から捜査しています」

「犯行方法は、推定できましたか」

「死体の位置から考えますと、山本一の死因ですが、頭蓋骨骨折とロープのようなもので絞殺されたか痕跡がありましたが、直接の死因は、どちらだかまだ分かりません。司法解剖の結果待ちです。末永喜美子の場合は、後頭部を石か金属バットのような硬いもので殴打され頭蓋骨骨折と鑑識から報告がありました」

「大分県警の今後の捜査方針は?」

「犯罪場所に基づいて、犯人関係を洗い出す予定です。次に、被害者の性向、交友関係それに生活状況についての調査です、これは藤沢さんにお願いしたいのですが。もちろん、私が主担当になります」

「分かりまた、明日から山本一と末永喜美子の交友関係から調べることにしましよう」

「何か手伝うことがあれば何でも言ってください」

 麻生が言った。

「ありがとうございます」

 久米が答えた。

「ところで、久米さん、ホテルは決まっていますか」

 麻生が続けた。

「はい、ちょっと離れているのですが、溝の口駅前のDホテルに予約入れてます」

「分かりました」

「溝の口ならJR南武線や田園都市線、大井町線もきているから便がいいですよ」

 久米は、私の言っていることを理解できなかった。

 私たちは、お互いの電話番号を登録した。

「久米さん、今日は、疲れているだろうから、帰って休んだらどうですか」

 麻生が言った。

「明日から頑張りましょう」

「分かりました。また明日もよろしくお願いします。では、失礼します」

 

 翌日、私と久米は、山本一の自宅を目指した。

 山本一には奥さんがいるはずで、奥さんが山本一をどう思っているか非常に興味があった。

 久米は、時々立ち止まって、電車や道順をスマホで確認しながら道を急いだ。

(若い人は、スマホの扱い方が上手だわ)

 私は、感心しながら久米の後に続いて行った。

 丸ノ内線の大塚一丁目で降りて、まずは文京区千石三丁目の山本一の家を探し歩いたところ、千石西保育園の近くのマンションにたどり着いた。

「藤沢さん、このマンションのようです」

 エントランスに入って、山本一と書かれた郵便受けを久米が見つけた。

「藤沢さん、参りましょう」と言って、エレベーターに乗り込み4階のボタンを押した。

 山本家の玄関前に立ち、久米が、インターフォンを押した。

「どちら様ですか」

 女の声の応答があった。

「警察の者ですが、奥様に亡くなられたご主人山本一さんのことについて、お聞きしたいのですが」

「分かりました」

 しばらくして、玄関の扉が開いた。

 久米が、警察手帳を見せた。

「大分県警の久米です」

 私は、ただ藤沢とだけ言った。

「どうぞ、お入りください」

 私たちは、整理整頓された居間に案内され、ソファーに腰をおろした。

 四十過ぎの清楚な奥さんだ。

 私たちに茶を入れた。

「この度は、御主人がお亡くなりご愁傷様です。かような時で申し訳ありませんが」と久米が口火を切り、山本一についての性向、交友関係それに生活状況について次々と聞いた。

「結婚して十五年になります。学問一筋のまじめな夫が、まさか女の方と旅行に行っていたなんて今でも信じられません」と奥さんが、いまにも声を上げて泣きそうになっていた。

 有名大学教授の奥さんにしては、素直な性格を持ち合わせているようだった。

「今度のように、ご自宅を空けることは、過去ありませんでしたか」

 私が聞いた。

「帰ってこないときは、学会やセミナーの時でしたが、今回も大分での学会に行ってくるといってました」

「何か、今まで何かご主人に変わったようなことはありませんでしたか」

「そういえば、昨年の夏頃でしたか、一時期ふさぎ込んでいた時がありました。どうしたのか聞いてみたのですが、なんでもないの一点張りでした」

「失礼ですが、お子さんは」

 久米が口をはさんだ。

「いいえ、いません」と言って、俯いた。

 一時間ほどで、山本宅を後にした。

「大学教授ともなると夏休みや春休みやらであまり学校には行かないのかと思っていたら、山本一は土日以外はほとんど学校に行っていたそうだけど、本当かどうか。久米さん、これからM大学に行きましょう」

「はい、すぐに学校に連絡してみます」

 三十分ほど歩いて、M大学の事務室に入った。

 山村という男の事務長が、私たちを迎え、会議室に案内した。

「お忙しいところ恐縮です。先日亡くなられた山本一さんについて、お聞きしたいのですが、彼はどのような人でしたか」と私は、腰かけるや否や聞いてみた。 

「まあ、頭のいい先生でした。それに、マスクがいいから、女子学生に人気がありましたよ。ただ、本人は熱情的な性格からか、すぐ本気になり一線を越えることがあったという噂が何度かありました」

「昨年の夏ごろですが、山本一さんに何かあったようなんですが、何かご存じありませんか」

 久米が続いて聞いた。

「実は、昨年の夏休みも終わろうかというときに、山本先生の所に勤めていた助手の方が亡くなりました。それが自殺だったんですよ。山本先生は、しばらくの間、自分に落ち度はなかったか自分を責めていました」

「亡くなられた方の名前は」

「久保志保さんという方で、生きていれば、今年三十三歳になるはずです」

「自殺の原因は、わかったのですか」

「研究上でのノイローゼではないかといわれています」

 私たちは、山村にまた来るかもしれないと言って大学を後にした。

「明日は、末永喜美子の交友関係について調べましょう」

 私はすっかり捜査の主導権を握ってしまった。

 私は久米を事務所に案内した。

「ここが有名な新宿ですか」

「いろいろな事件が多いところです」

 私は、久米にコーヒーを入れてから、聞き取り調査のスケジュールについて打ち合わせた。

「まずは、末永喜美子のアパートに行きましょうか」

「そうですね、それからは、それ以外の客を順番に当たってみましょう」

「全部で、十四組になります」

「なんとか、この四日間で一巡したいですね。二十三区、東京の市、そして、神奈川県の横浜、川崎、藤沢としましょう。その順に相手方にアポイントを取ってくれませんか?」

「承知しました」

 私は、久米が連絡している間、山本一の性格を分析していた。

「藤沢さん、全員にアポイントが取れました」

「ご苦労様、自殺した久保志保ですけど、何か引っかかるものがありますが、久米さんはどう思います?」

「はい、久保志保のことも詳しく調べる必要があると思います」


 末永喜美子が、住んでいた町田のKアパートを訪ねた。

 彼女の名前が書かれていた郵便受けを見つけた。

「彼女、独身ですね」

「部屋の中を調べさせてもらいましょうか」

 アパートの管理人に鍵を開けてもらった。

 ワンDKのバストイレ付きだった。

 部屋は散らかっていた。

「あまり整理整頓が得意でないみたいですね」と久米が言った。

「仕事関係のものを探してくれませんか」

「はい」

「藤沢さん、会社の身分証明書がありました」

 久米が私に見せに来た。

「大塚一丁目の駅前にあったS書店に勤めていたんですね」

「行ってみましょう」

「今からですか」

 私は、久米の言葉を背で聞いて、末永喜美子のアパートを出た。

 S書店の棚には、近くにM大学があるせいか各分野の専門書が多く収められていた。

 久米が、店員を探した。

 女子店員が、数メートル先にいた。

「すみません」

「なにか」

「警察の者ですが、ここで働いていた末永喜美子さんについてお聞きしたいのですが」

 久米が警察手帳を提示した。

「ちょっとお待ちください、店長に聞いてきますから」

 しばらくして、女子店員が頭髪の薄い五十代前半と思われる男を連れてきた。

「店長の川井です。末永さんのことですね。どうぞ、こちらへ」

 私たちは、裏の一角の小部屋に案内された。

 川井が、女子店員に顔を向けた。

「末永さんは二、三か月前から以前と違い明るくふるまうようになったので、私、何かいいことあったのと聞いたら、彼氏ができたと嬉しそうにいってました」

「その彼氏の名前か何かわかりますか」

「彼氏については、少しも話してくれませんでした。まさかM大学の教授だとは驚きました」

 川井が、口をはさんだ。

「そういえば、二週間前に旅行に行くので二日ほど休みたいといってきました。それがこんなことになるなんて」

 二人ともすでに新聞を読んでいたので、末永喜美子と山本一が、殺害されたことを知っていたのだ。。

二、三ほど質問をして、S書店を後にした。

「末永は、山本が既婚だったことを知っていたんでしょうか」

「知っていたと思う。それでも付き合うということは、いつか結婚したい、できると考えていたかもしれないわ」

「今の奥さんと別れてくれると思っていたんでしょうか」

「そう願っていたでしょうね」

「山本一は、どう対応していたんでしょうか」

「男っていうのは、一時の浮気心が、本気になるかもしれない。それが男と女かもしれないわ」

「藤沢さんは、そのようなことを経験したことがあるんですか」

「あるもんですか」

 久米はしまったという顔をした。


 ツアー客たちの聞き取りには、予定の四日より一日多くの五日かかってしまった。

 事務所で、私と久米は今までの聞き取りの話をもとに議論した。

「M大学の関係者が、五人います。足立隆が経済学部、妻の誉は医学部で、佐川知美が文学部を卒業しています。また、反田次郎は事務職員を務めていましたし、田所正はM大学内の生協で働いていました。二十人ほどのうちこれだけM大学の関係者がいるとは、偶然でしょうか。何か腑に落ちませんが、この中に犯人らしき人間が見当たりません。あえていうなら、田所正ぐらいではありませんか」

 久米の話を聞いて、私は戸惑いを隠すために久米に聞いた。

「田所正が犯人だったら共犯者は誰だと思う」

「そうですね」と言ってから、久米は黙り込んでしまった。

「久米さん、もう一度M大学に行って、自殺した久保志保さんについて、調べてみませんか?」

「そうですね。山本一教授の研究室に関係していた人たちにも会ってみましょう」

「そうですね、M大学の事務長に連絡してもらえますか」

 久米が携帯を取り、連絡を取った。

「藤沢さん、研究室の都合を聞いてから連絡してくれるそうです」

 しばらくして、久米に事務長から連絡が入った。

「藤沢さん、明日の十時なら准教授の方が都合がいいそうです」


 翌日、私と久米は、再びM大学の門をくぐった。

 直接、元山本教授の研究室の扉を叩き、約束の警察の者と名のった。

「どうぞ、中にお入りください」と部屋の中から男の声がした。

 四十前後の男が席を立って、私たちを迎え入れた。

「こちらへどうぞ」

 私たちは、打ち合わせスペースに案内された。

「お忙しいところ申し訳ございません」と久米は言ってから、名のった。

 男は、准教授の木所と名のってから、私に向かって、

「女の刑事さんですか」といって、私をじろじろ見た。

 困惑しそうになった私を久米がかばってくれた。

「嘱託としてお願いしている藤沢です」

 納得した顔つきの木所が座ったのを見て、私たちも腰をおろした。

「久保志保さんについてお聞きしたいとのことですね。山本教授の事件と関係があるのですか?」

 木所は久米に向かって言った。

「いいえ、まだ分かりませんが、久保さんの自殺について、詳細を教えていただきたいと思いまして、うかがった次第です。事務長の話では、自殺の原因は研究上の行き詰まりとのことですが、彼女はどのような研究をされていたのですか?」

「久保さんは、山本教授の直接の指導により国際法と憲法というテーマについて研究してました」

「何かそれで行き詰って、自殺に至るようなことがあったんですか」

「細かいことは私にはよくわかりませんが、何かに悩んでいた様子は見受けられました。助手の美山さんが知っているかもしれないので、呼びましょうか?」

「お願いします」

「美山さん、ちょっと来てくれませんか」

 美山が、すぐにやってきて、挨拶をお互いに交わした後に、木所が、美山に久保志保のことで知っていることがあれば私たちにいうように促した。

「亡くなった山本先生の名誉にもかかわりますが、これからいいますのは、たんなる噂として聞いてください。久保さんと山本先生は下世話ないい方になりますが、できているんじゃないかとか、久保さんのアパート近くで山本先生を見かけたとかいう学生がいました」

「久保さんは、どちらに住んでいたんですか?」

「確か人形町のほうだったと思います。住所、必要ですか」

「あとで、教えていただければ結構です。久保さんの出身地はどちらかご存じですか?」

「大分県です」

「大分県のどちらかわかりますか」と久米は、メモの手を休めて言った。

 調べてくると言って、美山は席を立ってからメモを手にもって戻ってきた。

「久保さんの東京の住所は、中央区日本橋人形町三丁目二のレジデンス日本橋で、大分の住所は、大分県大分市宮崎八百の五です」

「ありがとうございました」久米は、美山が差し出したメモを受け取り、さらに、美山に写真を頼んだ。

「もう一つお願いがあるのですが、山本先生と久保さんの写真がありましたら見せていただけませんか」

「ゼミで高尾山にハイキングに行った時の写真がありますわ。ちょっとお待ちください」

 しばらくして、美山がアルバムを持ってきて、山本と久保を示した。

 了解をもらって、久米がスマホを出して写真を撮った。

「今日はお忙しいところありがとうございました、またお伺いすることもあろうかと思いますが、よろしくお願いいたします」

 久米と私は研究室を後にした。

「藤沢さん、久保志保さんの実家ですけど、誰かの住所に似ていませんか」

「観光バスの運転手の山田直人さんと同じですよ」

「えっ」

「久米さん、安田刑事に久保志保さんの写真と彼女の大分の住所を送って、山田直人さんとの関係を調べてもらうよう頼んでくれませんか」

「承知しました」と久米は言って、すぐに携帯を出して操作し始めた。

 事務所に戻って、私のパソコンに久米から送ってもらった久保志保の写真を、しばらくの間見ていた。

 誰かに似ているような気がした。

 なかなか思いつかずに、私は自宅に帰って、夕食をすますと居間で、印刷機からアウトプットした久保志保の写真を再び眺めていた。

 夫が、そばに来て写真をのぞき込んだ。

「この人、ガイドの伊藤恵さんに似ていない」

「そうか、あなたありがとう」

 ちょっと待って、といってからパソコンを持ってきてテーブルの上において、先日のツアーで撮った写真を画面に映し出した。

「これ、伊藤恵さんとあなたのツーショットよ。見て、伊藤恵さんとこの方の目もとあたりがそっくりじゃない」

「本当によく似ている。姉妹かもしれないね」

 私の脳が、活発に動いた。


 翌日、私は、事務所に来た久米に久保志保が伊藤恵に目元辺りがよく似ていると話した。

 久米は、夫の撮った伊藤恵の写真を見ながら、

「藤沢さん、本当に似ていますね。安田さんにさっそく連絡します」

 私たちは、久保志保が住んでいた人形町三丁目二のレジデンス日本橋に向かった。

 周辺の店やアパートの住民に手あたり次第、山本一と久保志保の写真を見せて、見かけたことはないか聞きまわった。

 その結果、アパートの隣の住民と近くのスーパーマーケットのレジ係の女性から、一、二年ほど前に見かけたとの証言を得た。

「やはり、二人はいい仲だったんですね」

「そのようですね」

「藤沢さん、腹がすきました。近くでご飯でも食べませんか?」

 私たちは、道路沿いにあった蕎麦屋に入った。

 トイレに行ってから席についた私に、久米が安田から今連絡あったと言った。

「山田直人は、久保志保と伊藤恵の二人の養父だそうです。伊藤恵は旧姓久保恵で、藤沢さんの推測通り、恵と志保は姉妹です。恵が、姉です。今後の捜査方針を決めるので、藤沢さんと私は、大分に戻れとのことですが、藤沢さんご都合はいかがですか」

「大分に絞ったのかな。私なら大丈夫ですよ」

 私は、ほっと一息ついた。

 久米はホテルに精算と荷を取りに戻り、私は、自宅に出張の支度に帰った。

 そして、羽田空港十五時五十五分発大分空港行きANA797便に乗り、大分空港には十八時に着いた。

 機中では、久米は事件のことを考えているようで、私はこれからの身の振り方について、悩んでいたため、お互いに話をせずにいた。

 ゲートを出ると、安田が待っていた。

「お疲れさまです」

 駐車場まで歩きながら話をした。

「食事はまだでしょ」

「はい」

「途中で食べて行きましょう」

 助手席に座った久米に、安田が聞いた。

「藤沢さんの宿は予約したか」

「はい、本部に近いUホテルを予約しておきました」

「久米さん、ありがとう」私は、久米の段取りの良さ感謝した。

 数分で、品の良い和風の外観の小料理屋に着いた。

「いらっしゃい、安田さんいつもの奥座敷を用意してます」

 女将が、迎え出た。

「女将、いつもありがとう」

 小ぎれいな和室に案内された。

 女が、注文を取りに部屋に入って来た。

 安田が私にビールでよいか聞いてきたので、私は頷いて返事をした。

「ビール二本、焼き鳥盛り合わせ三人前、刺身盛り合わせ三人前、それからりゅうきゅうも三人前をお願いします」

 女が、部屋を出たのを見届けてから、安田が私たちに捜査状況を説明し始めた。

「藤沢さんのおかげで、捜査に明かりが見えてきました。私は今回の事件、伊藤恵と山田直人の二人によるものではないかと、確信しています。彼らの動機は、久保志保さんの自殺に起因するのではないかと思うのです」と安田が、いった。

 私は、久米に目を移した。

「私もそう思います。おそらく、山本一と久保志保は男女の関係になっていたんですが、山本一は、何らかの理由で、久保志保をそでにし、久保志保はそれに絶望して自害したのではないかと思います」

「久米さんは、若いのによく袖にするなんて言葉を知っているのね。安田さん、久米さん、まだ、犯人を伊藤恵と山田直人の二人に絞るのは早すぎかと思います。もっと裏付けを取った方がよいかと思いますが?」

 戸襖の向こうから、

「料理を持ってきました」と女の声がした。

「どうぞ」安田が返事をした。

 テーブルの上に酒と料理を並べ、女たちは部屋を出て行った。

「藤沢さん、いろいろありがとうございます」と安田がビールを向けたので、私は、グラスを傾けて差し出した。

「まだまだこれからです」と言って、私は、安田のグラスにノンアルコールビールを注いだ。

 そして、ビール瓶に持ち替え、久米に向けた。

 皆にいきわたると、安田が、乾杯と言って、グラスを上げた。

「これが、りゅうきゅうというんですか」と私は、安田に聞いた。

「はい、りゅうきゅうという料理は、大分の郷土料理です。旬の鯖の切り身を醤油ダレに漬け込み、薬味をかけて食べます。もともと、漁師たちが船の上でまかない飯として食べていたもので、名前の由来は、琉球の漁師から調理法が伝えられたという説や、ごま料理のえから名づけられたなどの説があるそうです。おいしですよ」

 私は、鯖を口に入れた。

「本当に、おいしいです」

 安田と久米が、満足げに笑みをこぼした。

 しばらくの間、飲み食いにいそしみ、落ち着いてきたころを見計らって、安田が事件の話に戻した。

「伊藤恵と山田直人の容疑は、間違いないと思うのですが、残念ながら今の所、物的証拠が見当たりません」

「そうですか、先ほどいいましたが、ふたりに断定せずにもうしばらく、その周辺も洗ったらと思うのですが、いかがです」

「鑑識や科捜研は、なにも見つけられなかったのですか」と久米が、安田に確認した。

「残念だが、そうなんだ」

「安田さん、明日にでも伊藤恵さんに会って話をしたいのですが」と私は、安田に依頼した。

「承知しました。私と久米も同伴していいですか」

「もちろん、お願いします」

「藤沢さん、お酒のほうはいかがですか」

「もう十分いただきました」

「では、軽く食事にしませんか。やはり、こちらの名物にごまだしうどんと手延べだんご汁が、あるんですが、藤沢さんは、どちらがいいですか」

 私は、ごまだしうどんを頼み、安田と久米はだんご汁を選んだ。


 翌日、私たちは、約束の十時に伊藤恵の自宅を訪れた。

 恵の夫は、仕事で不在であった。

 広いリビングに案内された。

 伊藤恵が、キッチンに向かおうとしたので、安田が制止した。

「お構いなく」

「はい」と言いながら、私たちに茶を出してくれた。

「藤沢さんも警察の方だったんですね」と伊藤恵が、何か裏切られたようないい方をした。

「昨年、警視庁を定年退職して、そのお祝いということで、夫が先日のツアーに申し込んでくれたんです。今回の事件にたまたま遭遇したものですから、大分県警から協力するよう頼まれて、捜査のお手伝いをしています」

「そうですか、それは大変ですね」

 私は、伊藤恵の目を見つめながら、話し始めた。

「早速ですが、伊藤さん、あなたにはM大学に在学していた久保志保さんという妹さんがいましたね」

 伊藤恵は俯いた。

 私は黙って、彼女の返事を待った。

 嘘はつけないと観念したのか、顔を上げて言った。

「はい、久保志保は、確かに私の妹です」

 私は、その返事を得て、今まで東京でいろいろ調べた結果から、久保志保の自殺の原因は、山本一と関係があるのではないかと続けた。

「妹は、山本一先生と結婚を前提で付き合っていました。しかし、付き合って半年ほど過ぎて、山本一先生から現在の奥さんと別れるつもりはないといわれたそうです。それを承知なら付き合ってやってもいいと開き直られたといってました。妹は、それでは約束が違うと詰め寄ったところ、山本一先生が、そんなこと言うなら別れようといって、妹を相手にしなくなったそうです。妹は、山本一先生に何度も思い直してくれるように頼みこんだのですが、それとは反対に山本一先生は、露骨に妹を遠ざけるようにしたようです。妹は、とうとうノイローゼになって自害したのです。私は、妹に何もしてあげられなかった」伊藤恵の目から涙がこぼれ、うめき声に変わった。

「あなたは、山本一さんを憎んだでしょうね?」

 私は、同情しているかのように言った。

「もちろんです」

「今回のツアー客に、山本一さんが、奥さん以外の女性同伴だったのには、驚いたでしょう」

 伊藤恵は、俯き両手を握りしめていた。

 私は、安田に向かって、帰ろうと目で合図を送った。

「伊藤さん、今日はこれで帰ります」といって、私は、席を立ち玄関に向かった。

 最後に私が玄関を出ようとしたとき、私の背に向かって、

「藤沢さん~」と伊藤恵の悲痛な声が発せられた。

 驚いて振り向いた。

「私が、山本一先生を殺しました」と言って、伊藤恵は、床にがっくりとしゃがみ込んだ。

「本当ですか」

 私は、信じられなかった。

 立ち止まって振り返っていた安田は、私に中に戻るよう合図した。

 安田と久米が、伊藤恵の所に行った。

「伊藤恵さん、署で詳しく話していただけませんか」

 安田は、恵に任意の同行を求めた。

 久米に抱きかかえられるようにして、署に連行された。

 久米による伊藤恵の取調が始まった。

 安田は記録係として入った。

 私は不安な気持ちを抑えながら、部屋の外から透視鏡越しにのぞいた。

「伊藤恵さん、これから取り調べに入りますが、言いたくないことは言わなくていいです。黙秘権が、行使できます」と久米が言った。

「分かりました」

 伊藤恵は、だいぶ落ち着いてきたようだったが、声はか細かった。

「あなたは、山本一さんを殺したと言われましたが、いつどこでどのように殺害しましたか?」

「十二月三日夜十時ごろ、Uホテルの裏庭で山本一先生を繩で首を絞めて殺しました」

「あなたは、どのようにして山本さんを裏庭に呼び出したのですか?」

「ホテルの山本さんの部屋に電話しました。話したいことがあるので、十時にホテルの裏庭に一人で来てくださいと言いました」

「そして、どうされたのですか?」

 伊藤恵と山本一とのやり取りは次のようだった。

「伊藤さん、こんな夜遅く話とは何ですか」

「山本先生は、久保志保さんという方をご存じですか」

「ええ、よく知ってますよ。私の助手でしたから」

「彼女、自殺したんですね」

「彼女には気の毒なことをしました。研究に行き詰ってノイローゼになっていたことを知らなかったんです。私に相談してくれれば死なずに済んだのに。私の責任です」

「先生、今更噓をつくのはやめてください」

「なにを言ってるんですか」

「久保志保は、私の妹です」

「なんだって」

「妹の自殺は、あなたが結婚前提で付き合おうと言って、妹をだまし続けていた。そして、身ごもった妹が、結婚を迫ると奥さんとは離婚できないから、別れようと言い出したんだ。妹は、人がいいからなかなか騙されたと思わずに、あなたに研究室でも付きまとっていた。しかし、あなたは無視したんです。妹は、おなかの赤ちゃんをおろすことも生むことも選ぶことができずに、自らの命を絶つことを選んだんです。ノイローゼなんかじゃない。どんなに妹が苦しんだことか、あなたはわかっていない」

「そんなの嘘だ」

「謝ってください、妹が浮かばれません」

「ばかばかしい、帰る」と山本先生が言って、背中を見せた時に、私は持ってきたロープを先生の首に巻き付け絞め殺したんですと、伊藤恵はよどみなく犯行の状況を話し終わり、ほっとした様子を見せた。

「そうですか、では末永喜美子さんは、どうしたんですか?」と久米はさらに質問を続けた。

「ホテルのほうへ向かって逃げようとする彼女の後ろから用意していた金属バットで殴打しました」

「末永さんは、その場所にいたんですか」

 伊藤恵が、考え込んだ。

「私が、山本先生を殺した後に来ました」

「末永さんは、山本さんの死体を見て、何も言わずに逃げようとしたんですか」

「よく覚えていません」

「そうですか」

「私が、二人を殺したんです」

と言って、伊藤恵は泣き伏せてしまった。

「分かりました。今日はこちらに泊まって頂きます」

 伊藤恵が、取調室を出て行ったのを見届けてから、私は、久米と安田がいる取調室に入って行った。

「藤沢さん、伊藤恵の証言どう思われますか。彼女が二人を凶器を代えて、次々と殺害することができるでしょうか。どう思いますか。末永喜美子さんの死因は、頭蓋骨骨折による脳挫傷です。石や金属バットなど硬いものによって、相当の力で殴打されたものではないかと鑑識の見立てです。また、山本さんの死因は、絞殺によるものか、末永さんと同様に殴打によるものかは、司法解剖の結果待ちになります。伊藤恵は、縄で絞殺したといってますが、まだ断定できません」と安田が言った。

「身長の低い伊藤恵が、百八十センチ近い山本さんの首を絞めたり、バットで末永さんを強打することができるでしょうか。もしかして、真犯人をかばっているのかもしれません」と私は、今まで不審に思っていることを言った。

「そうですね、まだ凶器は見つかっていませんし、犯人の遺留物や足跡なども鑑識たちが調べ続けています。あすも伊藤恵を取り調べましょう」と久米が、安田に向かっていった。


 翌日も、久米が取り調べを行った。

「伊藤さん、昨日は眠れましたか」

「全く眠れませんでした」

「そうですか。昨日の続きですが、あなたが凶器に使った繩と金属バットはどうしましたか」

 伊藤恵は、黙ってしまった。

「話を変えます。殺害時のあなたの服装と履物について教えてください」

「自宅にあります」

「後ほど、お宅に行きますので、その時、教えてください」

「もう一度、山本さんの殺害について、詳しく教えてください。あなたが、山本さんに謝ってくださいと言ったら、山本さんはばかばかしい、帰ると言ってホテルのほうに向きなおった時、あなたは、繩を拾いそれで山本さんの首を後ろから絞めたと言われましたが、間違いないですか」

「はい、その通りです」

「それが、不思議なんです。伊藤さん、百八十センチもある山本さんの首に百五十センチちょっとのあなたが、山本さんの首に縄を巻き付け、絞め殺すことができるのか理解できないんです。物理的に無理だと我々は、思っているんですよ」

 伊藤恵は、黙ってしまった。

「伊藤さん、実は山本さんの直接の死因は、頭蓋骨陥没による脳挫傷なんです。繩による絞殺が、死因ではないんです。たとえ、あなたが、金属バットで山本さんの後頭部を殴打したとしても、あなたの力ではおそらく山本さんは、死に至ることはないと我々は考えています。伊藤さん、いい加減に正直に話してもらえませんか」

 伊藤恵は、依然口を開こうとはしなかった。

「あなたは、どなたかをかばっていますね」

「だれもかばってなんかいません。私が二人をやりました」

 久米は、安田の所に行って、伊藤恵の自宅に行くことへの了解を取りつけた。

「これから、あなたの自宅に行きます」

 

 伊藤恵と私たち三人は彼女の家に行った。

 鍵がかかっていたので、伊藤恵がバッグから鍵を出して扉を開けた。

 奥から男の声がした。

「だれ」

「私よ、あなた」

「恵、大丈夫か」夫の保が、泣きそうな顔で出てきた。

「あなた、すみません」恵が泣き出した。

 しばらくして、保は冷静さを取り戻し、私たちを中に入れた。

 恵はクローゼットから服と靴を探して、手袋をしていた久米に渡した。

 恵と私たちが、玄関を出るとき、保が深々と頭を下げた。

「よろしくお願いいたします」

 保の目からこぼれた涙が、床のフローリングに落ちた。


 本部に戻り看守に伊藤恵を預けて、私たちが課に入ると、安田の上司の原係長が待っていた。

「安田、山田直人さんが、君たちを第一応接で待ってるぞ」

「えっ、分かりました」驚いた安田は、久米と私を促して応接に向かった。

 安田がノックして部屋に入ると、山田直人が立ち上がって、私たちに頭を下げた。

「刑事さん、実は、私が山本一さんと末永喜美子さんを殺害しました。伊藤恵さんは、殺害には全く関係ありません」

「ちょっと待ってください。山田さん、ゆっくり話を聞かせてください」

 安田は、山田直人を取調室に連れて行った。

 山田の取り調べは、安田が、書記は久米が担当し、私は、部屋の外から見守った。

「山田さん、事件の日の事をお話しください」

「私は、伊藤さんが、山本さんを電話で呼び出しているのを聞いてしまいました。彼女が山本さんに何をするか、逆に、山本さんが、伊藤さんに何をするかと心配になりました。彼女に万が一のことがあってはならないと、私は、バスに置いてある金属バットとロープを持って、十時ちょっと前、部屋から出て行く彼女の後をつけていきました。伊藤さんは、志保さんの件で山本さんに正直に話してもらい、謝るよう要求しましたが、山本さんはしらばくれて、彼女を無視して、ホテルに戻ろうとしたのです。私は、伊藤さんのいたたまれない気持ちを思うと、彼に対して怒りがこみあがってきました。平常心を失い、いつの間にか彼の後ろからロープで力いっぱい首を絞めていました。その時、後ろで、悲鳴が聞こえました。振り向くと末永さんが、ホテルのほうに向かって逃げようとしていたので、とっさに置いていた金属バットに持ち替えて、彼女を追いかけ、バットで殴打しました。呆然と立ちすくんでいた伊藤さんに、早く部屋に戻りなさいと何回も言い続けました。私一人の犯行です」と言って、山田は安田に向かって頭を下げた。

「犯行に使った凶器のロープと金属バットは、どうしましたか」

「海に捨てました」

「明日、どのあたりか教えてください。山田さん、今日はここに泊まってください」

 山田直人は頷いた。

 山田直人を部屋から出した後、安田が、私を手招きして部屋に誘った。

「藤沢さん、山田直人をどう思いますか」

「そうですね、まず、山本さんの体の向きなんですが、山田直人と伊藤恵の話は、違っています。また、末永さんを殺害するには、時間的にちょっと無理があるように思いますが」と私は答えた。

「大体、凶器をわざわざ当事者でないのに持ってくるのもおかしいし、ましてや、二種類の凶器を持ってくるなんてありえませんよ」と久米が、真顔で言った。

「私も久米さんのいう通りだと思います」

「凶器は金属バットとロープか。本当にそうだとしたら、バスの中に血痕が残っているかもしれない。久米、バス会社に行ってバスを調べて来い」

 久米がはいと返事をして、部屋を出ようとしたときに、

「ちょっと待て。鑑識にも行ってもらえ」と、再び安田がいった。

「藤沢さん、この事件、どう考えたらいいんでしょうか」

「難しいですね。例えばですが、伊藤恵は、一人も殺害していないと仮定するとしましょう。そうすると山田直人が、二人を殺したことになります。山田に追いかけられた末永ですが、大声を出して助けを求めるのではないかと思うのですが、そのような声を聞いた人は一人もいないようですね」

「確かに、宿泊客や従業員、近所の人たちに聞いたのですが、十時前後に叫び声や悲鳴などを聞いた人は、誰もいませんでした」

「とすると、末永喜美子が、叫び声や悲鳴を上げる前に殺害されたと思うのが自然ではないでしょうか」

「藤沢さんは、もうひとり共犯者がいると考えているんですか」

「はい、共犯者かどうかわかりませんが、伊藤恵や山田直人の証言は、信憑性にかけています。真実を知っている人間が他にいるはずです」

「一体、誰が」

「再度、M大学の関係者をまずあたってみましょう」

「関係者というと」安田は、捜査ファイルの一つを取り出し、、ツアー客の名簿を確認した。

「M大学の関係者は、四人います。その中で、大学を卒業した者は二人、佐川知美三十三歳で十年前に卒業、それから足立隆二十九歳で六年前に卒業しています。二人とも法学部ですが、ゼミは、二人とも山本教授のゼミではありません。佐川知美は、久保志保と入学が同じのはずです。それから、卒業生ではありませんが、田所正六十三歳が、大学構内の生協に昨年まで勤務してました。他に、反田次郎六十六歳は、六年前まで大学の事務職員を勤めていました」

「安田さん、この四人からまず佐川知美と田所正を調べてみますか」

「そうですね」

 安田は気のない返事をした。

 夕方六時ごろに、久米が、戻ってきた。

「バスの中に、血痕などの痕跡は、見つかりませんでした」

「分かった。久米、明日また藤沢さんと一緒に東京に行ってくれないか、佐川知美と田所正を再度調べてくれ」と安田は言ってから、今まで私たちが推理したことについて丁寧に久米に説明した。

 また、安田は、証拠不十分のため、伊藤恵と山田直人のふたりを釈放すると言った。


 私と久米は東京に戻って、早速、都庁に佐川知美を訪ねた。

「すみません、お仕事中にお伺いして」と久米が言って、私たちは頭を下げた。

「忙しいので、手短にお願いします」

「あなたは久保志保さんをご存じですか?」と久米が口火を切った。

「はい、同級生で同じ法学部でした。一年生の時は、同じクラスでしたが、そんなに親しくはありませんでした」

「彼女が自殺したのを知っていましたか」

「旅行中、田所さんから聞いて驚きました」

「久保志保さんと山本教授との関係については知っていましたか」

「それも田所さんから聞きました」

「あなたは、田所さんをよくご存じですか」

「生協でお会いするぐらいでした。ツアーでお会いした時には、お互いに驚きましたよ」

 佐川知美が時計を見て、そわそわし始めたので、私たちは二三の質問をしてから、都庁を後にした。

「藤沢さん、佐川知美は白ですね」

「白に間違いないでしょう」

「田所正は、明日十時に自宅で待っているとのことです」

 久米が、すでに田所にアポイントを取っていた。


 十時に、東京メトロの豊洲駅から十五分ほど歩いて、田所正のマンションに私と久米は入った。

「たびたび、ご苦労様です」田所正が、扉を開けていって、リビングに私たちを通した。

「あなたは、久保志保さんをご存じですか」と久米が単刀直入に聞いた。

「ええ、よく知ってますよ」

「亡くなられたことも」

「はい」

「久保志保さんとあなたの関係ですが、どのような関係でしたか」

「彼女が、M大学に合格して、大分から上京してきたんです。生協で、彼女が困ったようなそぶりをしたときに、声をかけてからの付き合いになりました。変な付き合いではありませんよ、刑事さん。当然ですが、彼女は、都会のことを全然知らなかったので、それからというもの、よく相談にのってあげました」

「ところで、あなたは久保さんが亡くなった原因をご存知ですか」

「彼女は、山本先生の子を宿したんです。それなのに・・・。そのことを知った先生は、それからというもの、彼女を冷たくあしらい、袖にしたんです。彼女は、生きる気力を失い、私が何をいっても聞く耳を持たずに、とうとう死を選んでしまいました」

「以前、お聞きしたと思いますが、あなたは、山本さんが、殺害された時、どこにいましたか」

 田所正は、しばらく考え込んでから、意を決した表情で話し始めた。

「伊藤恵さんから十時にホテルの裏庭で山本先生と話をすると連絡を受けていたので、その時間に裏庭の木立の陰で二人の会話を聞いていました」田所は、これ以上話したほうが良いか躊躇しているようだった。

「田所さん、あなたが真実を語ることで、きっと他の人の苦しみを開放することになると思いますよ」

 田所正が、ゆっくりと慎重にと答え始めた。

「山本先生が、ばかばかしい帰ると言って話を切り上げ、ホテルに戻ろうとした時、運転手の山田さんが、後ろから先生の首をしめたんです」

「あなたは、山田直人さんが、山本一さんの首を絞めているところを見ていたんですね」

「はい」

「それからどうされましたか」

「その時、いつの間にか、末永喜美子さんが、私の近くに来ていて、先生のほうを呆然と見て立ちすくんでいました。驚きました。彼女は、私に気づき振り返ったところ、山田さんが、金属バッタを持って末永さんの所に走り寄り、後ろから彼女の頭を・・」

 田所正は、俯いた。

「彼女の後ろから、後頭部を殴打したんですね」

「はい、その通りです」

 久米は、話を続けるよう促した。

「山田さんと伊藤さんが、私に気づいてそばまでやってきて、私に頭を下げました。そして、山田さんが、二人を殺したのは私だと言いました」

「死体を遺棄することは考えなかったんですか」

「私は、気が動転してそのようなことは思いつきませんでした」

「それから、どうしました」

「山田さんが、私と伊藤さんにホテルに戻るように執拗にいってきたので、山田さんのいう通りに部屋に戻りました。それ以降のことはわかりません」

「そうですか」

 私たちは、聞き取りを終わりにして田所正のマンションを後にした。

 エントランスを出た所で、久米は、安田への報告を終え、そして麻生係長へ電話した。

「久米さん、田所の話、どう思います?」

「何か、わざとらしいところがあるように感じたのですが」

「そうですか」

「藤沢さん、明日、大分に帰って来いと安田がいってますので、私は戻ります。藤沢さんも是非同伴お願いしたいのですが、いいですか」

「分かりました。いいですよ」


 午後の便で、私たちは、大分に戻った。

 空港の出口で、安田が、私と久米を待ち受けていた。

 安田が私の所に駆け付けてきた。

「藤沢さん、たびたびご苦労様です」

「安田さん、何か進展はありましたか」

 本部についてからという答えが戻ってきた。

 私たちは、県警本部でこれからの捜査方針について、打ち合わせをした。

 安田から、司法解剖の結果とその考察について、説明を受けた。 

「山本一の解剖結果から呼吸気道の閉塞が認められなかったことや、首周りに吉川線(被害者が紐を除こうとして、あるいは,締め付けをゆるめようとして,頸に爪を立てれば表皮剝脱が生じる)がなかったことで、直接の死因は金属バット等の殴打による脳挫傷と結論付けられました」

「とすると、山本一さんは、亡くなった後から首を絞められたことになるかもしれませんね」と私は言った。

「そう考えるのが、必然かと思います」

「なにがなんだかわからなくなりました」久米が、頭を抱える真似をした。

「待てよ。それが事実なら、田所正が、山田直人が山本さんの首を絞めているのを見たというのは、おかしくないか」

「田所のいうことが本当なら、絞殺してから金属バットで殴打しなければなりません。司法解剖の結果は、その逆になります。田所は、嘘をついているんです」

「なぜ、嘘をついているんでしょうか。なぜ、死んだ人間を後からロープで首を絞めたりするんでしょうか。伊藤恵も山田直人も絞殺したといってます。これも噓をついていることになります。一体、犯人は、誰なんでしょうか」安田が私に問いかけてきた。

「安田さん、当初、あなたは、山本さんの死因が、絞殺によるものと考えられるとツアー客に説明されました。それを聞いて信じた者とそれを利用したもの、どちらにしても伊藤恵、山田直人そして、田所正の三人は、嘘をついているんです。バットで殴打して、山本さんと末永さんを殺害した人間と、その後、山本さんの死体にロープをかけた人間は、別人のはずです」

「なるほど、分かりました。明日から伊藤恵と山田直人の取り調べを再度行います」

 明日からの伊藤恵と山田直人の取り調べの策を打ち合わせして、私は本部を後にして、久米が予約してくれた近くのビジネスホテルへ入った。

 

 久米は、アパートの近くの行きつけの中華料理屋に入って、チャーハンと餃子そして、生ビールを頼んだ。

(田所正が、噓をついているとすると、山本一を金属バットで殺害した事のカムフラージュになる。伊藤恵と山田直人は、ロープで絞殺したと自白しているが、伊藤恵が絞殺することは不可能。そうすると、ロープで山田直人が、すで山本一をに死んでいた山本一の首をロープで絞めつけたか。なんでそのようなことをしなければならなかった。その様子を田所正が見ていた。金属バットは、山田直人がロープと一緒にもってきていたのか。それとも、山田直人が来る前に、すでに、伊藤恵が、金属バットで二人を殺害していた。小柄でひ弱な伊藤恵が、続けて二人を金属バットで殴打できるだろうか。特に、百八十センチの背の高い山本一を百五十センチそこそこの伊藤恵が、一打で殺害するのは、いやソフトボールなどの経験があれば、いやあの体格ではありえないとすると、田所か、山田に容疑者は絞られるだろう)

 餃子とビールそして、チャーハンがテーブルに置かれたので、食べることに専念した。


 再び、伊藤恵の取り調べが、朝九時から十二時まで行われた。

 私は、取調室の外から、伊藤恵の一部始終を観察した。

 今回は、安田が、伊藤恵の前に座った。

 久米が、供述調書の作成を担当した。

 安田の取り調べが始まった。

「伊藤恵さん、この度の山本一さんおよび末永喜美子さんの殺害容疑について、取り調べを始めます。先日も言いましたがが、憲法三十八条一項及び刑事訴訟法第三十一条一項により、あなたには、黙秘する権利があります。よろしいですね」

「はい」

「あなたに久保志保さんという妹さんがいたことを、先日聞きしましたが、ご両親とかほかの身内の方は、今どうされていますか」

「志保以外には、姉妹や兄弟はいません。両親は、私が中学生の時に、交通事故で亡くなりました」

「そうですか。どのような事故だったんですか」

「ダンプの運転手が、居眠り運転で対向車線を乗り越えて、父の運転する車に正面衝突したんです。父も母も即死でした」

「それは、辛かったでしょう」安田が、声を落とした。

 しばらくの間、重い空気が、部屋をおおった。

「その後、あなた方は、どうされたんですか」

「刑事さんもご存じの観光バスの運転手の山田直人さんに、私と志保は、引き取られました」

「山田さんとはどのような関係だったんですか」

「母の弟です」

「山田さんは、あなたと志保さんの親代わりだったんですね」

「はい、志保を東京の大学まで行かせてくれましたし、私の就職の世話もしてくれました。山田さんは、私たちの恩人です」

「伊藤さん、今のお仕事はどうです」

「どうといいますと」

「仕事に不満などありませんか。うるさいお客さんやいやらしい客がいたり、仕事のわりに給料が安いとかで、辞めたいと思うことなどありませんか」

「辞めたいなんて、とんでもない。叔父の顔をつぶすようなことなんかできません」

「そうですか。ところで、山本一さんと末永喜美子さんの殺害の件ですが、先日話してくれたことを確認させてください」

「刑事さん、私が、ふたりを殺したんです。信用してください」

「まあそう言わずに、聞いてください。あなたは、山本一さんの部屋に電話して、話したいことがあるので、十時にホテルの裏庭に一人で来てくれといって、彼を裏庭に呼び出したんですね」

「そのとおりです」

「話したいことって、なんでしたか」

「妹の久保志保が、自殺した事に対して、素直に責任を認めて謝罪してもらうことでした」

「もし、山本一さんがそれを認めなかったらどうするつもりでしたか」

「殺すつもりでした」

「どうやってですか」

「金属バットで」

「山本一さんを呼び出したことを、他のだれかに話しましたか」

「いいえ」

「電話は、どこでしましたか」

「私の部屋の電話からしました」

「山本一さんの部屋に電話したら、末永喜美子さんに聞かれてしまうと思わなかったのですか」

「ええ」という返事だけであった。

「末永喜美子さんに知られて、彼女も来ると思わなかったのですか」

「来るかもしれないと思いました」

「そう思うでしょうね。彼女も一緒に来たらどうするつもりでしたか」

「別に彼女に聞かれても問題ないと思っていましたので、私は、山本一さんに先ほど言ったことを言うだけでした。ただ、彼に謝罪してほしかっただけなのです」

「それなのに、なぜ彼女を殺害したのですか」

 伊藤恵は、うつむいてしまった。

「話を変えます。あなたは、裏庭には何時から何時までいましたか」

「十時から・・」

「十時ジャストですか」

「たぶんそうです」

「山本一さんは、来てましたか」

 伊藤恵は、しばらく考えてから言った。

「はい」

「その時、末永喜美子さんは、いましたか」

「ええ、いました」

「それから、あなたはどうしましたか」

「お話ししたように、山本一さんが妹の自殺の原因であることを認めて、謝罪してもらうように言いました」

「その時、末永喜美子さんは、どうしていましたか」

 伊藤恵は、黙ってしまった。

 安田は、腕時計を見た。

「伊藤さん、今日はこれで終わりにしますが、明日また九時から始めます」

 久米が、伊藤恵の前に供述調書を差し出した。

「内容ご確認のうえ、署名捺印をお願いします」

「拇印で結構です」


 伊藤恵が、取調室を出て行ったのを見届けてから、私は部屋に入った。

「ご苦労様でした」

「藤沢さん、伊藤恵の供述、どう思われますか」と安田が、聞いてきた。

「話につじつまの合わないようなところがあります。まだ、本当のことは言っていないのではないでしょうか」

「私もそう思います。久米、明日は、二人を殺害した状況について、追及してくれ」

 続いて、昼をはさんで、山田直人の取り調べが、午後二時から始まった。

 取り調べは、久米が行い、安田が供述調書の作成にまわった。

「山田直人さん、この度の山本一さんおよび末永喜美子さんの殺害容疑について、取り調べを始めます。先日も言いましたがが、憲法三十八条一項及び刑事訴訟法第三十一条一項により、あなたには、都合の悪いことには、黙秘する権利があります。よろしいですね」

「はい、承知致しました」

「あなたは、今の自分の仕事について、どう思っていますか」

「私は、運転が大好きなので、合っていると思っています」

「不満はないのですか」

「刑事さんだって、多少はあるでしょう。私だって多少はありますよ」

「伊藤恵さんと久保志保さんが、ご両親を交通事故で亡くした後、あなたは二人を引き取り育てられたそうですね」

「はい。二人の母親が私の姉でした。姉には小さいころから面倒を見てもらっていましたので、恩返しのつもりで」

「そうですか。あなたの奥さんは、ふたりを引き取ることについては、どういわれましたか」

「私たちには、子供がいませんでしたので、いっぺんに二人もできるともろ手を挙げて賛成してくれました」

「でも、他人の子供二人を育てるには、いろいろご苦労されたんでしょう」

「今、思えば、たいしたことではありません。志保が、自殺などしなければ」

「伊藤恵さんと久保志保さんは、どのような性格でしたか」

「恵は、志保の勉強をよく見てました。面倒見のいいやさしい子でした。彼女は、中学も高校も成績が優秀で、全校生のなかでいつも十番以内でした。高校の先生もQ大学を受験するよう勧めてくれたのですが、本人は固辞しました。私と家内は、お金のことなら心配ないから受験しろと勧めたたのですが、受けませんでした。私たちに気を使ったのでしょう。ただ、恵は、志保には、自分ができなかったことをさせたいと思っていたようです。恵は、高校を卒業して、働きたいというので、私の勤めていたKHSに推薦入社しました。彼女は、無駄遣いを一切せずに、いや、それどころか、衣服やバッグなど擦り切れるまで使ってました。志保の学費のために、給料のほとんどを貯金にまわしていました。志保が、M大学に合格した時は、飛び上がって喜んでました」

「志保さんの性格はどうですか」と久米は、山田直人が一呼吸置いたのを見ていった。

「志保は、多少気の弱いところがありました。恵と同じで、いやそれ以上に優秀でしたので、受験相談では、M大学の合格ラインに入っているから受けてみろと言われました。私は、あの超難関のM大学を受けられることに、さすがに驚きました。受かった時は、将来検事になるんだと言ってました。彼女は、頭は良かったのですが、一途な性格が、あのようなことに」

 山田は、話すのをやめた。

「ところで、あなたは、伊藤さんが、山本一さんに電話をしているのを聞いたと言われてましたが、どこで聞いてましたか」

 山田直人は、答えなかった。

「山田さん、どうされました。答えたくないようですので、次に行きます。伊藤さんが、山田さんを呼び出して、彼女が何をすると思いましたか」

「志保の恨みを晴らすために、彼を殺すのではないかと」

「なぜ、バスに置いてあった金属バットとロープを持って行ったのですか」

「恵一人では、山田さんを殺すことはできないと、それどころか、彼に返り討ちにされてしまうのではないかと、心配になり金属バットとロープを持っていきました」

「現場の裏庭には、何時に着きましたか」

「十時十分ごろだと思います」

「なぜ、十時十分になったのですか」

「十時前には着こうと思っていたんですけど、出かける前にちょうど会社から電話がかかってきたものですから、遅くなってしまいました」

「おかしいですね。先日、あなたは、十時ちょっと前に伊藤さんが部屋を出ていくのを見て後をつけて行ったと言われました。山田さん、どちらが正しいのですか」

 山田直人は、俯いて黙ってしまった。

「今日は、これで終わりにします」久米が、時計を見ながら言った。

 安田が、山田の前に供述調書を置いた。

「内容を確認して、間違いがなければ署名捺印してください」


 山田直人が、部屋を出て行ったのを確認して、私は部屋に入った。

「藤沢さん、山田の言っていることに一貫性がありません」

「そうですね。まず、伊藤恵が、山本一に会う時間と場所をどうして、山田が知ったのか、十分遅れたのが事実としたら、まず、KHSに当日夜十時前に山田に電話を入れた社員がいるか確認する必要があります」

「久米、すぐKHSに電話して、確認してくれ」

「はい」といって、部屋の外に出て、久米は電話をして、十分もたたないうち部屋に戻ってきた。

「やはり、十時前に電話をした社員がいました。通信記録を確認してもらったら十時十分に終わったと言ってました」

「そうすると、山田は、伊藤恵の後をつけたのではなく、一人で裏庭に遅れて行ったのか」

 安田が言った。

「伊藤恵は、十時丁度に裏庭に着いたと言ってましたね。この十分間、ふたりに一体何があったんでしょうか」私はふたりに疑問を投げかけた。

「そういえば、伊藤恵は、山本一のほうが先に来ていたと言ってました」と久米。

「山本一と末永喜美子も一緒だったとも言っていました」と安田は、思い出したように言った。

「裏庭に着いた早い順は、まず山本一と末永喜美子が十時前に。次に、伊藤恵が十時ジャスト。そして、山田直人が、十時十分後ですか」と私は、言ってから

「山本一と末永喜美子は、何時ごろ来ていたんでしょうか」と付け加えた。

「それが、まだ分からないんです」

「しかし、伊藤恵と山田直人の二人からは、田所正がいたという話は一切出てこなかったのは、おかしくありませんか」と久米が、いった。

「田所もどうして、十時に裏庭の事を知ったんだろう」と安田が、頭を傾けた。

「伊藤恵が、山田と田所に事前に連絡していたんじゃないかしら」と私は、思いつきで言った。

「藤沢さん、その可能性はありますよ。山田と田所には、妹の志保が世話になっていましたし、当然、二人は、山本一を憎んでいたでしょう」と久米が、いった。

「そうすると、田所は、伊藤恵よりも早く来ていたと考えられます。伊藤恵が、来る前に、田所は、山本一に会っていたと考えられます」

「その時、何が、あったんでしょうか。今後は、十時前と、十時からの十分直後の間に何が起こったかを中心に、伊藤恵と山田直人を取り調べましょう」と安田が、吹っ切れた様子でいった。


 次の日も伊藤恵の取り調べが、昨日に引き続き、朝九時から十二時まで行われた。

 安田が、話し始めた。

「よく眠れました」

「なかなか眠れませんでした」

「そうですか。食事はどうですか」

「もっとまずいかと思っていましたが、まあまあでした」

「ご主人のお仕事は」

「Fスーパーマーケットに勤めています」

「やさしそうな旦那さんですね」

「まあ」

「伊藤さんもこのような状態をいつまでも続けるのは、耐えられないでしょうから、事件当日のことを正直にありのままを言ってください」

「伊藤さんは、十時に裏庭に着いてから、どのくらいそこにいましたか」

「二十分ぐらいです」

「その間に、山本一さんや末永喜美子さん以外にどなたか見かけませんでしたか」

「誰も見ませんでした。どうしてですか」

「実は、あの田所さんと山田直人もその時間にあなたに会っていると言っているんです」

「そんなはずありません」

「どうしてですか」

 伊藤恵は、覚悟を決めたようだった。

「実は、私が裏庭に着いたときに、山本一さんと末永喜美子さんが、数メートルほど離れて、倒れていました。近寄ってみるとすでに息が途絶えていました。死んでいると思い、怖くてホテルの中へ駆け込みました」

「二人は、死んでいるとあなたは、思ったんですね。殺されたとは思いませんでしたか」

「はい、誰かに殺されたと思いました。二人とも頭から血を流していました」

「犯人は、誰だと思いましたか」

「私が、裏庭に山本一さんを呼び出すことを知っていたのは、田所さんと山田さんの二人だけなので、どちらかだと思いました」

「本当は、どちらだと思いましたか」

「山田さんだと思いました」

「だから、山田さんをかばおうとあなたが殺害したと証言したんですね」

 伊藤恵が、頷いた。

「分かりました。今日はこれで終わります」と安田が、言ってから、久米のほうに合図をした。

 久米は、先日同様に供述調書を伊藤恵の前に置いた。

 伊藤恵は、今回に限って、丹念に目を通してから署名捺印した。


 伊藤恵が、部屋を出て行ったのを見届けた私は、安田と久米のいる取調室に入った。

「藤沢さん、今回の伊藤恵の供述は、どう思われますか」と安田が、聞いてきた。

「信憑性はかなりあると思います」

「私も本当のことを言っていると思いました」

「久米、午後の山田直人の取り調べ、頼むぞ」

「はい。伊藤恵が、言っていたことを山田に突き付けてみます」 

 昨日と同じように、昼をはさんで、山田直人の取り調べが、午後二時から十七時まで行われた。

 久米も、雑談から入った。

「良く寝れましたか」

「寝れるわけないでしょう」

「そうですよね、正直に話していただいて、早く取り調べを終えませんか。伊藤恵さんは、先ほど正直にすべてを話してくれました」

 山田は、驚いた。

「どんなことを言ったんですか」

「彼女は、呼び出した場所に十時きっかりに着いたそうです。着いた時には、山本一さんも末永喜美子さんも頭から血を流して倒れていたと、それを見て、怖くてすぐにホテルに駆け込んだそうです」

「えっ、そうすると恵は、ふたりとも殺してはいないのですね」

 山田の顔に安堵の色が見えた。

「そうです。だからあなたも正直に本当のことを言ってもらえませんか」

「分かりました」といって、話し始めた。

「私が着いた時は、おそらく十時十分ぐらいだと思います。山本一さんが、頭から血を流して倒れていました。それを見て、きっと恵が、彼を殺したととっさに思いました。恵が殺人犯で捕まらないように、私は、持ってきたロープで山本一さんの首を絞めました」

「あなたは、恵さんの身代わりになろうとしたんですね」

「はい」

「ところで、末永喜美子さんのことはどうされたんですか」

「末永喜美子さんが、殺されているのには気づきませんでしたので、何もしてません」

「恵さんから聞いたのですが、恵さんが山本一さんに会うということをあなたと田所さんに事前に連絡していたと」

「はい、私には、一時間前ぐらいに電話連絡してきました」

「そうですか」

「それを聞いて、どう思いましたか」

「恵一人では、かなう相手ではないと思い、バスに常備されている非常時用のロープを持っていきました」 

「恵さんに何かあったら、山本一さんを殺すつもりで」

「そうです。志保を自殺まで追い込んだ憎き男です」

「ロープは、どうしましたか」

「自宅の物置に隠しました」

「明日、立ち会ってください」

「はい」

 久米が、安田を見た。

 安田は、頷いた。

「今日は、これで終わります」

 しばらくして、安田は、席を立って、供述調書を山田直人の前に置いて、署名捺印を求めた。

 山田直人は、ほっとした面持ちで、取調室を出て行った。

「藤沢さん、これで田所正で間違いないですね」と安田が、取調室に入ってきたばかりの私にいった。

「はい」

 安田は笑みを浮かべて私の顔を窺った。

 二時間後、麻生係長から久米に電話が入った。

「世田谷署の麻生です。久米刑事、田所正が、自宅にいないんだ。逃走したかもしれないので、緊急配備して捜査中だ」

 私と安田もまさかと驚いた。

 私と久米は、大分空港発七時四十五分発JAL662便に乗った。

 羽田までの一時間三十分のフライトは、私にとって長かった。

 羽田でタクシーに乗った。

 世田谷署では、麻生係長が、私たちを待っていた。

「久米刑事、藤沢さん。申し訳ない」

「とんでもない、係長のせいではありません。田所は、一体どこに逃げたんだろうか」

「昨日、久米刑事から電話を受けてすぐに刑事二人を田所のマンションに行かせたんだが、田所はすでにいなかった。部屋の中に入って、昨日から何か手掛かりになるようなものがないか捜査している」

「私も、これから田所のマンションに行ってきます。藤沢さんもいきませんか?」

「はい」

 私と久米は、休むことなく麻生係長が手配してくれた車に乗って、田所の住んでいた豊洲のマンションに向かった。

「藤沢さん、田所は逃げたんでしょうか」

「そうとしか考えられません。他になにか」

「いえ、別になんでもありません」

 私と久米が会話を交わしている間に、車は、田所のマンションに着いた。

 部屋に入った。

 刑事と鑑識たち数人が、所狭しと、いろいろ調べまわっていた。

「ご苦労様です」と久米は彼らに挨拶して、刑事の一人に何か見つかったかと聞いたが、めぼしいものは見つかっていないとの返事だった。

 私が部屋の中を捜査し始めてから、三十分ぐらい過ぎたころ、田所の手帳数冊を見つけた。

 私は、手帳をめくった。

「久米さん、これを見てください」私は、久米に久保志保が自殺した年の手帳に書かれていたページを見せた。

「藤沢さん、M大学の山村事務長が危ないです」

 先ほど、車でここまで送ってくれた刑事に理由を話して、緊急でM大学へ走ってもらった。

 M大学の事務棟の前で降ろしてもらい、その刑事も伴って、事務室に入った。

 事務の女性が、カウンター前に出てきて、

「先日の刑事さん、何か御用ですか」と久米に訊ねた。

「山村さんは、いませんか」

「先ほど、以前、生協に勤めていた田所さんが来て、二人で事務室を出て行きました」

「どこに行ったか分かりませんか」

「さあ・・。そういえば、田所さんが、静かなところへ行きませんかと言ってましたので、校内では、学びの森ぐらいかしら」

「その学びの森って、どこですか」久米の声が、室内に響いた。

 女性は、すぐに校内地図を持ってきて、赤ペンで印をつけた。

 私たち三人は、彼女に礼を言って、学びの森へと走った。

「藤沢さん、山村さんが・・」久米が、山村が倒れているのを見つけた。

「遅かったですか」私は、腹部から出血して倒れている山村の脈を取った。

「まだ息もあります。荒井刑事、至急、救急車を呼んでくれませんか」

「はい」

「久米さん、理事長が危ない。荒井さん、後を頼みます」と言って、私と久米は走って、校内の道路に出た。

 久米が通りがかりの学生に理事長室の場所を聞いて、A棟の五階へと向かった。

 さすがに、私より久米のほうが早い。

「久米さん、私にかまわず急いでください」

 久米の後、理事長室の扉前にたどり着いた。

 室内からなんの音も聞こえない。

 私は、身構えながらゆっくりと扉を開けた。

「久米さん、大丈夫ですか」

 久米は、安心した様子で私を見た。

「藤沢さん、田所正を現行犯逮捕しました」

 久米は、すでに田所に手錠をかけていた。

 田所の背広には、血が飛び散っていた。

「藤沢さん、理事長を見てやってください」

 うずくまって右腕を抑えている郷原のそばで、女性の秘書が、立ちすくんだいた。

 私は、郷原のネクタイを外して、郷原の右腕に強く巻き付けた。

 そして、秘書に救急車を呼ぶようにと言った。

 久米は、麻生係長に田所正を現行犯逮捕したと連絡していた。


 翌日、羽田発八時五分JAL66一便にて、私と久米そして、荒井の応援を得て、田所正を大分へ連行した。

 空港ロビーには、安田たち大分県警本部から数人の刑事たちが、田所正の到着を待っていた。

「藤沢さん、荒井さん、久米。ご苦労様でした」と安田が私たちを労った。


 翌日の朝九時から、田所正の取り調べが始まった。

 久米は、供述調書を作成する席に腰をおろし、安田が、田所正の前に座った。

「田所さん、昨日は寝れましたか」

「いや」

「田所さん、これから取り調べする際に、あなたには憲法三十八条一項及び刑事訴訟法第三十一条一項により、都合の悪い時には黙秘する権利があります。承知ください」

「分かりました」

「あなたには、山村事務長および郷原理事長の殺人未遂と山本一さんと末永喜美子さんの殺人の容疑がかけられています。これからは、正直に真実を話してください。まず、山本一さんと末永喜美子さん殺害事件についてですが、あなたは十時にホテルの裏庭で伊藤恵さんが、山本一さんに会うことをどうして知りましたか」

「伊藤さんから直接聞きました」

「いつ、聞きましたか」

「一時間前ぐらい、伊藤さんから電話をもらいました」

「なぜ、伊藤さんは、あなたに連絡したんでしょうか」

「伊藤さんの妹の志保さんが自殺した時に、私が伊藤さんにそのことを連絡したという経緯があったからではないかと思います」

「あなたは、伊藤さんにその自殺について、詳細に話されましたか」

「ええ、私は、志保さんから聞いた話をすべて伝えました」

「具体的には、どのようなことですか」

「この間、一泊で水上温泉に山本さんと遊びに行ってきたと嬉しそうに言ってたり、山本一さんとは、奥さんと別れてから結婚すると約束したとか、そして、内緒だけれどと言って、山本さんの赤ちゃんができたと喜んでいたこと、しかし、赤ちゃんができたと彼に言ったら、急に冷たくなって、結婚の話はなかったことにしようと別れ話を持ち掛けてきたと私に泣いて、彼を許せないと訴えていました。そのようなことを伊藤恵さんに電話で伝えました」

「そうですか。ところで、先日、あなたは、山本さんが殺害された時、伊藤恵さんから山本先生と話を十時時にホテルの裏庭ですると連絡を受けていたので、裏庭の木立の陰で二人の会話を聞いていたと言われていましたが、あなたは、裏庭には何時にきていましたか」

「十時ちょっと前ぐらいでした」

「伊藤さんは、十時ジャストに来たらすでに山本一さんと末永喜美子さんは、頭から血を流して倒れていたのを見たと証言しています。ふたりを殺害したのはあなたですね」

 田所は、黙り込んでしまった。

「十時前、あなたと山本一さんと一体何があったんですか」

 安田が、久米の所に行った。

 そして、二言三言交わしてから安田は、席に戻った。

「田所さん、これで終わりにしますが、また午後二時から再開します」と久米が言った。

 久米が供述調書を田所の前において、確認の上、署名捺印をするよう求めた。


 私は田所が去った取調室に入って、久米と安田と三人で打ち合わせた。

「彼が口を割るのは、時間の問題ですね」と安田が、言った。

「そうですね。彼の動機は、何だたんでしょう」と私は、二人に疑問を投げかけた。

「もちろん、久保志保を自殺に追い込んだ山本一への恨みからですよ」とすぐに久米が答えた。

「それだけでしょうか」と私は再び問うた。

「藤沢さん、それ以外に何があると考えているんですか」と安田が言った。

「例えば、久保志保の自殺の件で、脅していたとかは考えられませんか」

「金を得る目的の恐喝ですか」と久米が唸った。

「午後からの取り調べは、怨恨と恐喝の両面から攻めてみます」と安田が、言った。

「そうしよう。藤沢さん、食事に行きませんか」

 私たち三人は、昼食を取りに取調室をでた。


 午後二時からの再び、安田による取り調べが始まった。

「田所さん、昼めしはどうでしたか」

「まあまあでした」

「田所さん、あなたの出身はどちらですか」

「生まれは、九州の熊本です」

「東京にはいつごろ来たんですか」

「大学に入ってからです」

「どちらの大学ですか」

「M大学です、ただ、卒業はしていません、中退しました」

「どうして中退したのですか」

「研究室の女性助教授に恋をしてしまったんです。私は、彼女の才能を認めていました。私との関係を続けることは、彼女の将来にとって良くないと思い学校をやめました。それからいろいろ会社を転々として、M大学の生協に勤めることになったんです」

「その助教授は、数年後、T大学の教授になりましたが、すぐに病で亡くなったそうです」

「そうでしたか。あなたは、今まで結婚の経験はありましたか」

「一度もありません」

「ところで、久保さんが、山本一のことで何もかもあなたに話をしたのはなぜでしょうか。他人に、普通はなかなかそこまで話すことは、考えられないのです」

「この間もお話ししたように、大分の田舎から大都会に来て、頼る人もいなかったので、いつの間にか私を頼るようになったのではないかと思います。私も独り身でしたので、気楽に彼女をマンションに呼んで、食事をごちそうしたりよくしました。刑事さん、変な関係はありませんよ。私も熊本からこの東京に一人で来た身ですので、寂しさという孤独を痛いほど経験していますので、彼女の気持ちが、痛いほどよくわかるんです。私にとって、彼女は、妹いや、娘みたいな人だったんです」 

「分かりました」

「事件の話に戻ります。少なくとも十時ちょうどと、十時十分以降は、裏庭にあなたを見かけなかったと伊藤さんと山田さんが言っています。そして、十時ちょうどには、山本一さんと末永喜美子さんは、殺害されていた。伊藤さんが山本一さんを、裏庭に十時に呼び出したことを知っていたのは、あなたと山田さんの二人だけです。山田さんが、十時十分過ぎに裏庭に着いたことは確認されています。それ以降の行動も本人から聞き取っています。彼のいうことは、まず間違いはないと考えています。十時前に一体何があったんですか、田所さん」

 また、田所は、黙ってしまった。

「田所さん、久保志保さんの恨みを晴らしたんですから、もう正直にすべてを話したらどうですか。お姉さんの伊藤恵さんも親代わりの山田さんも、本当のことを知りたがっていますよ。皆さん、久保志保さんが好きだったんですから」

 田所正が、話始めた。

「山本一さんに偶然このバスツアー出会ったのには、驚きました。それだけでなく、志保さんの姉の伊藤恵さんや親代わりの山田さんにも会うなんて本当に偶然というのは恐ろしいものです。その出会いによって、私の山本一さんへの憎しみが、再燃しました。いや、以前より増しました。山本一さんが、女性を連れていたので、不倫と志保さんの自殺を公にしてやると脅しました。それは、湯布院の土産物の売っている通りの脇道でした。その時、藤沢さん夫婦がやってきて、どうしたのかと訊ねられたのです。その時、私は、彼に真実を明らかにしろといい寄っていたんです。ところが、彼は知らぬ存ぜずで私を無視しようとしました。その態度に、今まで以上に憤りを覚えました。そのようなとき、二泊目のUホテルの部屋に入ると、すぐに恵さんから電話がありました。十時にホテルの裏庭に山本一さんを呼び出し、志保の件で謝罪させるということでした」

 田所は、息を継いだ。

 しばらくして、安田が、先を促した。

「そしてどうしましたか」

「身体のでかい山本一さんが、恵さんに手荒なことをしたらと思い、街に出て、短めの金属バットを購入しました」

「そして、あなたは、十時前にホテルの裏庭の木の陰で待っていたんですね」

「そうです。十時二十分前ごろですか。そうしたら、すぐに山本一さんが、きょろきょろ辺りを見回しながらやってきました。事前に、現地を調べるために早く来たんだと思いました。そして、彼を呼び止めました」

 田所が、その時のやり取りについて話した。

「山本一さん、久保志保さんの自殺の件で、彼女の姉さんの伊藤恵さんに会ったら謝罪してください。謝罪しなければ、あなたのことを週刊誌に暴露しますよ。といったら、山本さんは、ばかばかしい帰ると言って話を切り上げ、ホテルに戻ろうとしたので、怒り浸透した私は持ってきたバットで彼の頭を思い切り殴りつけました。しばらくして、末永喜美子さんがやってきました。これはまずいと思い、彼女の後ろに回り込み、バットで彼女を殺害しました。そして、私はすぐに部屋に戻って、浴場に出かけました」といって、田所正は、俯いた。

「彼女の後ろから、後頭部を殴打したんですね」

「はい」

「あなたは、山田直人が、ロープで山本一さんを殺害したと証言しましたが、それも嘘ですか」

「ええ。山田さんには、本当に申しわかなかったです。刑事さんたちの目を山田さんに向けさせて、その間に山村事務長と郷原理事長に志保さんの自殺の真実を公にするように直談判するつもりでした」

「あなたは、その事務長の山村さんを殺害しようとしましたが、なぜですか」

「殺害しようとは思っていませんでした。山村事務長は、理事長の郷原からお金をもらって、山本一さんを不問にしようと画策したのですが、今でも遅くないから、真実を明らかにして、公にするよう迫ったんです。しかし、それには答えず、お金で解決しようと言ってきたので、かっとなって彼を刺してしまいました」

「あなたは、理事長の郷原さんを殺害しようとしましたね」

「いや、殺すつもりはありませんでした。郷原さんには、久保志保さんの件で、謝罪してもらうようお願いしました。ところが、そのようなことは、知らぬ存ぜぬの一点張りで取り付く島もなかったので、脅しで、ナイフをつけ付けたら、彼が抵抗したので刺してしまいました」

 田所の体は、震えがさらに激しくなった。

 しばらく、沈黙の時間を取った。

 安田は、田所正が落ち着きを戻したのを見て言った。

「田所さん、まだ何か言い足りないことがあれば、話してください」

「実は、私には、良一という一人息子がいました。息子は、M大学に一浪して入りました。現役の志保さんとは、同じ入学です。一浪しているから、志保さんより、一歳年上でした。いつの間にか、良一が、志保さんを家に連れてきました」

「ちょっと待ってください。あなたは、独身で、志保さんの相談相手になっていたといいましたよ」

「すいません、結婚も一度しています。嘘をついていました」

「いいから、続けなさい」

「良一は、志保さんに恋をしているようでした。家に来ても、二人で勉強したりゲームをしたりして楽しそうでした。私も、良一に彼女ができて、明るくなったので嬉しかった。それが、四年になり、ゼミが別々になると志保さんが家に来なくなったのです。良一は、以前に戻って、私に話をしなくなりました。何度も私は、志保さんと喧嘩でもしたのかとか、別れたのかと聞いたのですが、彼は何も答えてくれませんでした」

 田所は、苦し気な顔をした。

「休憩にしますか」

「いや、続けさせてください」

「分かりました」

 田所は、息を吐いた。

「しばらくして、志保さんが、山本一さんと付き合っていることを息子から聞き出しました。山本一さんは、将来教授になり、きっと志保さんを幸せにするだろうから、志保さんをすっぱりとあきらめるように何度も息子に言い聞かせました。私たちは、山本一さんは独身だと思っていたのですが、ところが、彼は、すでに結婚していたのです。しかし、それを知ったところで、私はどうすることもできませんでした。どのくらい日が過ぎたのでしょうか、息子が、就職してから、彼女に街で偶然会ったそうです。彼女は、憔悴しきったようで、息子が声を掛けたら逃げるように去って行ったと言ってました。その後、友人から彼女が自殺したことを聞いて、息子は愕然としていました。息子は、いろいろ彼女の自殺の原因を調べていました。その結果、山本一さんが原因だと突き止めました。もちろん、良一は、山本一さんを許せないと私にも訴えていました。そして、良一は、学びの森で、彼を呼び出して真相を聞き出そうとしたようですが、相手にされなかった。このようになると思っていた良一は、用意していたナイフで彼を刺したんです。山本一さんは、逃げ回って、軽傷で済みましたが、良一は、殺人未遂で逮捕されました。そして数日後いや十日後、留置場で首をつって死にました」

 一呼吸して、さらに続けた。

「山本はこの事件を良一の学生時代の成績が、悪かったのを山本のせいにした逆恨みによるものだと、嘘をマスコミに広めたんです。山本一が、やりたい放題していられるのは、彼の奥さんの父親が、M大学の理事長をしているからなんです。志保さんの自殺についても、校内で調査委員会を作って調べることに教授会で決定したんですが、それを理事長の郷原宏は、あの手この手で、決定を覆して、志保さんの自殺の真相を明らかにする機会を潰してしまったんです」

 田所正は、無念そうに安田の顔を見た。


 後日、田所正の証言から、殺害に使った金属バットは、すぐに近くの空き地から発見され、付着していた血痕は、山本一と末永喜美子のものと一致した。

 また、近くのスポーツ用具店で、そのバットを買ったのが田所正だったことも確認された。


 一連の事件が、田所正によるものだと久米から聞いて知った伊藤恵は、

「私が、二人に山本一さんを呼び出すことを教えなければ、こんなことにならなかったのに」と申し訳なかったと泣き続けていた。


 一件落着したことに安堵した私は、久米が空港まで送ってくれた。

 車は、出発の四十分前に大分空港に着いた。

「久米さん、いろいろお世話になりました。安田さんにもよろしくお伝えください」

 久米と別れて、私は荷物検査で並んでいた時、

「藤沢さん、申し訳ありませんがちょっと本部に戻ってもらえませんか」

 安田が私を大声で呼んだ。

 私は、胸騒ぎで息が詰まりそうになった。

 安田の運転で、私は大分県警に向かった。

 安田も久米も何も言わなかった。

 私は、覚悟を決めていた。

 

 取調室に入ると、久米は調書を取る席に座り、安田は私の前に腰をおろした。

「実は、亡くなった山本一さんが握っていた毛糸くずが、あなたの着ていたセーターのものによく似ていることが分かりました」

 覚悟していたとはいえ、私の動悸が激しく打ち始めた。

「藤沢雅子さん、詳しい話をお伺いしたいのですが?」

「私が山本一さんを殺害しました。今まで隠しておいて申し訳ありませんでした」

「どうしてですか」

「私が探偵で山本さんの調査を行っていることを、山本一さんが気づいたのが事の発端です。よくよく考えてみますと、彼は、この旅行の前から私が探偵で彼の調査をすることを知っていたようでした。それだけでなく、私の過去まで詳しく知っていましたから間違いなく私を陥れようと考えていたに違いありません」

「彼とはどのようなことがあったのですか?」

「私が山本を撮影したことに対して、肖像権の侵害として法的措置に訴えると、それがいやだったら百万円よこせと言ってきました。返事はこのツアーが終わる羽田までにするよう求められました。どうすればよいかと悩んでいたら、たまたまあの日酔いを醒まそうと裏庭に出たら、血を流して倒れていた山本一さんが立ち上がろうとした時に、彼は私に気づいて、おまえかと言って私に掴みかかってきました。私は必死になって彼の手を振りほどいたら、彼は倒れてしまいました。すぐに確認したのですが、心臓も脈も止まっていました」

「どうして、そのことを私たちに話してくれなかったんですか?」

「私は疑われたくなかったんです。どうかしていたんですね。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「先ほど、あなたを陥れようとしたと言われましたが、だれがどのような理由でそのようなことをたくらんだのでしょうか?」

 私に思い当たることはあの手紙しかなかった。

(それを確かめることはもう私にはできない)

「思い当たるところがあるのですか?」

(今更言ってもどうにもならないことだわ)

「特にありません」

 それから数日間、私だけでなく、夫も取り調べられた。


 夫が、面会に来た。

「雅子」

「あなた、こんなことになってすみません。あなたの人生にまで傷つけてしまって、どんなに謝っても済むことじゃないわね。元警察官が探偵をやるなんて、本当にバカだったわ」

「雅子、そんなに自分を責めるじゃないよ。正当防衛で弁護士が君を無罪にすると断言している」

 

 私は正当防衛ということで、無罪放免された。

 久しぶりに、自宅の帰った。

「雅子、良かったな」

 夫は喜んで私を迎えてくれた。

 久しぶりのビールはたまらなく美味しかった。

「あなた、警察にも話したんですが、山本一はこの旅行の前から私が探偵で彼の調査をすることを知っていたようなの。それだけでなく、私の過去まで詳しく知っていたわ。これはだれかが、私のことを事前に山本一に教えていたに違いないと思うの。きっと誰かが私を陥れようと考えていたに違いありません」

「そんなことするなんて一体誰なんだろう?」

「山本一を調査してくれと言ってきた手紙の主かもしれない」

「手紙の主か」

「そうか」

「どうした雅子?」

「きっと伊藤恵だわ、間違いない」

 夫は何が何だか分からない様子だった。

「彼女は自分の手を汚さないで、誰かに山本一を殺害させようとしたのよ。彼女なら私の事も事前に調べられるし、その情報を山本にも流すことができるわ。また、田所正を誘導したのも彼女よ」

「なるほど。伊藤恵は、したたかな女なんだな。雅子に調査費を払うつもりは最初からなかったのかな」

「したたかで役者だったわ」

「頭もいいしね」

「そうね」

 私は依頼の手紙を読み直そうと、机の引き出しから封書を取り出した。

 封書の切手に押されていた消印に気づいた。

「なぜ気が付かなかったのかしら」

 私は夫に封書を手渡した。

 封書を受け取った夫も頷いた。


 それから二週間後、伊藤恵から手紙が届いた。

「前略 この度のツアーでは大変お世話になりました。

 山本一氏の不倫の調査を依頼しました矢田由美子は、私伊藤恵です。大変失礼いたしました。また、今回殺人事件にまで及ぶとは想像もつきませんで、藤沢様にも大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。この度の調査相手の山本一氏が亡くなったため、調査報告書は不要ですが、調査費用はお支払いますので、請求書と振込先をご送付ください。最後になりましたが、藤沢様が洞察力の優れたお方だと感服しています。今後のご活躍を祈念しています。早々」

 彼女の作ったシナリオには、ツアーコンダクターの職を利用して、山本一教授及び彼の所属するM大学の関係者をツアー客として招待して、彼らのだれかに山本一の殺害させるように組み立てられていたのか、事実を確かめるすべもなく、私の初仕事は終わった。 

 

                                了

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先生を殺したのは私です! 沢藤南湘 @ssos0402

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