第10話
ギルバード侯爵家のメイドとして採用された事を報告しに、私はリデイン子爵邸を訪れていた。
「えぇ、そうでしたか。採用されましたか」
貴族家のメイドとしてのいろはを教えてくれた、私が一番に報告したかった相手のプシラ様のその反応は意外にも落ち着いたものだった。
もっと驚いて喜んでくれるものだと勝手に思い込んでいた私はちょっぴり拍子抜け。
「はい。お陰様で。これもプシラ様の御指導の賜物だと思っています。ありがとうございました。」
「いえ、わたくしは少しだけお手伝いをさせて頂いただけで、エミリア様ご自身の力の賜物です。もとよりわたくしはエミリア様ならば採用を勝ち取るだろうと、そう確信に近いものを持っておりましたけどね」
なるほど。だからプシラ様は私の報告に大した反応もしなかったのか。ただ、それはそれでプシラ様は私の事を買い被り過ぎなのではないだろうか。
プシラ様に報告した後はアリアにも報告する。
今、アリアと応接間にて長テーブルを挟んで向かい合う形で座っている。
「本当に侯爵家のメイドになっちゃうなんて、さすがお母さん! 本当にすごい事だよ!」
「私自身、大変驚いております。これも全て、アリア様がマルク様とご結婚された事による恩恵だと感謝の念に尽きません」
私はそう言ってアリアに頭を下げた。
いくら親子だからといって、今やアリアは次期子爵夫人。平民の私とは文字通り住む世界が違う。故に私がアリアに平伏すのは当然の事だ。
しかし、アリアからすると、このよそよそしい態度が嫌なのだろう。「すごい!」と最初嬉しそうに輝かせていた表情はみるみるうちに辛い表情へと変わっていった。
「……ねぇ、お母さん。 今みたいな2人だけの時くらいは、それ、やめない?」
今、応接間には私とアリアの2人だけ。
子爵様やマルク様が居る場なら仕方ないにせよ、今のように2人だけなら気兼ね無い、以前のような親子関係でいられないだろうか、それがアリアの言う提案だろう。
しかし私はアリアのその提案に首を振り、口を開く。
「それはいけません。貴族は体裁を重んじます。それに2人きりだと思っていても、いつ、どこで、誰が聞いているか分かりません。例えば、突然そこの扉が開いて、子爵様が入って来たとします。その時に私がアリア様に対して馴れ馴れしい態度をとっていたら子爵様は私の事をどう思うでしょうか?」
娘に対して敬語を使う事に全く抵抗感がないと言えば嘘になる。
しかし、貴族と平民とでは天と地ほどの格差があるのは確かな事であって、下手をすれば貴族へ対する不敬罪として罪に問われかねない。
「…………」
私の言葉に無言で眉を顰めるアリア。私は更に続ける。
「確かに寂しい気もします。ですが、それが貴族家へ嫁いだという事なのです。でも、そのお陰でアリア様も私も、苦しかったあの貧困から抜け出せたのです。アリア様は貴族となって、私は貴族家の使用人となれたのです」
「そうだけど……」
アリアは不満そうに肯定の言葉を一言だけ呟くが、その後は続いてこない。私は尚も話を続ける。
「それに、立場は変われど私とアリア様の関係性においてその本質はなんら変わりません。今も親子なのです。私達は。この事実は永遠に変わりませんし、アリア様の幸せが私にとっての一番の幸せ、これも変わりません」
そう言い終えると、アリアは、そっと、下げていた視線を上げ、私を見据え、哀愁と笑みを混じえたような表情で口を開いた。
「お母さん……。今、幸せ?」
私はにっこりと笑み浮かべる。
「はい。もちろんです。今もそうですし、アリア様と暮らしてたあの頃も、貧しいなりに私は幸せでした。アリア様は今、幸せなのですよね?」
ずっと気になっていた事だった。
アリアは心の底からここへ嫁いで良かったと、自分は今幸せだと、そう思えているのだろうか。……私はずっとそれが気掛かりだった。
だけれど、今、私が口にしたこの問い掛けは受け取りようによってはリデイン家へ対する侮辱にあたる。
いくら娘とはいえ嫁へ行った以上、アリアはもうリデイン家の人間だ。
ずっと気になっていた事とはいえ、口に出してはダメだと思いながらも抑えが効かず、結局はこうして零してしまっていた。
ハッと我に帰り、焦る私をよそにアリアはパッと表情を明るくした。
「うん!幸せよ。とっても。 お母さんとふたりで暮らしてた、あの頃と同じくらいにね!」
そう答えるアリアの表情から、リデイン家でアリアがどれ程大事にされているのかが窺い知れた気がする。
私の中でずっと抱えていた胸のつかえが下りた。
「そうですか。その言葉と、その笑顔が見られて私は安心しました」
私はそう言ってアリアに微笑みを向ける。するとアリアは温和な表情のまま目を細め、私の顔を見つめた。
「お母さん……本当、綺麗になったね」
「え?」
ふと思った事がそのまま口から出てしまったかのように言ったアリアの言葉に、私は驚いて目を丸くする。
「最近のお母さん、表情がもの凄く明るくなって、前よりもっと優しい顔つきになった」
「え?そうですか?」
私はそう言いながら自分の顔を確認するかのようにぺたぺたと触る。
確かに最近、年齢より若く見られたり『美人』と言われたりする事が多くなった気がする。
もしかすると貧困から抜け出した事で心にゆとりができて、それが見た目に現れているのかもしれない。と、まるでプシラ様が言いそうな事を思ってみる。
「プシラがね、お母さんの事を『素晴らしい女性』だって、わたしによく言うの。美しいだけでなく他人に優しく、でも自分には厳しい。自分の夢の為とはいえ学ぶ努力を惜しまない姿勢には感銘を受けたって」
表情を明るくしたアリアが嬉しそうにそう言う。
「プシラ様がそんな事を」
まるでベタ褒めだ。
そう思いながら思わず苦笑する。
「だからわたしも言ったの。『素晴らしいに決まってるじゃない!だって、わたしの自慢のお母さんなんだから』ってね」
アリアはそう言って私に屈託のない笑顔を見せる。
そんなアリアを思わず抱き締めたくなったが、それは今となっては出来ない事。――無性に寂しさが込み上げてくる。
「私には身に余るお言葉ですね。それはそうと、アリア様――」
ジャリ……
私はテーブル上に花の刺繍が施された赤い巾着袋を乗せてそれを滑らすようにアリアの方へと差し出した。
「これは?」
巾着袋から私へ視線を移し、不思議そうな表情をするアリア。
「アリア様が嫁がれる際にリデイン家から贈られた結婚支度金です」
「え?何で?」
アリアは表情を険しくして少し睨むように私を見つめた。
平民にとっての貴族との結婚とは、もはや御伽話。夢に描く者すら珍しいだろう。でも、いざそれが現実になった時、喜びよりも先に来るのは不安や動揺といった負の感情だろう。
貴族の世界は平民の世界とは比べものにならない程に華やかだが、同時に良くない噂も聞く。貴族の世界を恐いと感じる者も少なくない。
生まれてこの方平民として生きてきて、いきなり貴族の世界へ飛び込む事になったアリアにとっても不安や恐怖心はきっとあっただろう。
貴族側からの申し出を平民が断る事は出来ない。でも仮に断る事が出来たとしても、おそらくアリアはこの結婚を受け入れていただろう。休み無く、寝る間も無く働き詰めだった私を助ける為に。
それなのに私は『リデイン領へ移り住まないか?』という、即ちリデイン家からの生活援助の申し出を断り、更には私の為に金額の吊り上げ交渉までしたであろう『結婚支度金』をも返されては、自分は一体何の為に馴染みの無い貴族の世界へ嫁いだのか分からないと言ったような、そんなアリアの怒りを含んだ感情が表情に滲み出ている。
「――このお金のお陰で私は侯爵家のメイドになれました」
「え?」
私の唐突な言葉にアリアの表情が緩む。
「このお金の存在があったから、私はギルバード侯爵家のメイドの採用試験を受ける事が出来たのです。そもそも、貴族において無知な私はそれらについて学ぶ必要がありました。学ぶ時間を確保する為には当然仕事を辞めねばなりません。そこまでして不採用だった時、その先には想像すらしたくない程の悲惨な現実が待っている事は想像するに容易い事でしょう。つまり、ギルバード侯爵家のメイドになるにはそれ相応の覚悟が必要なのです。ましてや超が付くほどの難関職種。かつてアリア様から勧められた時がありましたが、その時の私は興味を持ちつつも、結局は尻込みして挑戦を断念しました。しかし、何もせずとも数年暮らせるだけのこのお金の存在が私の背中を押してくれました。もしも不採用だった場合でも、最悪このお金でしばらくは暮らせる。そう思えたから今の私があるのです。仮に不採用だったとして、このお金をこうして差し出す事は無かったでしょう。更に言えば既に一部使わせていただきました。ここにあるのはその残りの額です。これから先は自ら稼いだお金で暮らしていきたいと、そう思っています」
「もう要らなくなったから、だから返すの?」
アリアはどこか寂しそうな顔で、そう私に問い掛けた。
アリアにとってのこの結婚の象徴とも言える『私へ充てられた金』。それを『返すの?』と言うアリアの言葉に胸を締め付けられる思いがする。
だが、そうではない。『返す』つもりで差し出してはいない。
「これは嫁へ行く娘に、親が持たせる『結婚持参金』として受け取って欲しいのです」
親は子を守る為に在る。それなのに娘に助けられてばかりの自分を情け無く感じていた。
嫁ぐ娘へ何もしてやれない無力な自分が嫌だった。娘に心配され続けるような母親で在りたくなかったから、だから私は侯爵家の使用人を目指す事にした。
侯爵家の使用人になれればその後の生活は安泰だ。そうなれば子爵家から貰った『結婚支度金』を『結婚持参金』として娘に持たせてやれる。何とか親としての体裁を保てると、そう思った。
つまるところ、親としてのプライドを守る為に侯爵家の使用人になったのだ。
私は続ける。
「本来なら結婚前に渡すべきもので、結局は貰ったお金を返すのと同じ事。自分でもくだらない意地だと思います。ですが形だけでも結婚する娘に親らしい事をしたい。私の親としての最後のわがまま、どうか受け取って頂きたく存じます」
『私の事は大丈夫。自分の足で立って自分の力でちゃんと生きていけるから、だから安心して幸せになりなさい』と、そういった私の本音がアリアに伝わって欲しい。そう思った時だった。
「ふふ、やっぱりお母さんは凄いね!」
アリアが吹き出すように笑ったと思ったその直後、スッと表情のトーンを落とした。
「わたしね。結婚して自分が貴族になってからすごくお母さんの事を心配するようになってたの……」
アリアは言葉の途中で「うん」と一回頷き、止まった後、勇気を振り絞るかのように言葉を紡いでいく。
「――わたしね、心の何処かでお母さんの事を侮っていたのかもしれないの。勝手にお母さんの事を弱者だと思って、わたしがお母さんを守らなきゃって、そう思うようになってたの。ごめんね、お母さん」
涙を溜めながら私に頭を下げるアリア。私はアリアの側まで歩み寄り、俯くアリアをそっと抱き寄せた。
「馬鹿な事を言う子だね、まったく。アリアに助けられたのは事実なのよ?アリアのお陰で私は貧困を抜け出せたの。それに未来も明るくなった。ありがとうね、アリア。あなたは私の誇りであり恩人でもあるの。だから謝ったりなんかしないで?」
私の言葉を聞いて驚いたように顔を上げたアリアはその直後、溢れ出る涙で顔をぐちゃぐちゃにし、そのまま勢いよく私に抱きついた。
「ぉ母ざぁあーん! ゔぇーん」
貴族と平民という上下の関係になってからよそよそしい会話しか出来なくなって、アリアからするときっと寂しかったはずだ。私も同じで寂しかった。久しぶりにアリアの温もりを感じながら私の目頭も熱くなる。
「よしよし。私の可愛い可愛い娘。私の自慢の娘。よしよし」
私はそう言いながら、アリアの頭を優しく撫で続けるのだった。
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