第4話

 掛け布団を剥ぎ取ると、隠れていたジョンの身体の全部が露わになり、そこに先程から感じていた『鼻を刺す臭い』の正体があった。

 露わになったジョンの下半身は糞尿にまみれ、ズボンとその周辺のベッド上は茶色く変色していた。


 掛け布団で隠していた己のあられもない姿。それを私に対して晒す今のこの現状にジョンは呆然とした様子。

 そしてその後は私から顔を背けるようにそっぽを向き、目をきつく閉じた。目の前の現実から逃げる様にして。


 私は無言のままジョンのズボンを下ろそうと手を掛ける。


「な、何を……!!」


 ズボンを下ろそうとした私の手をジョンは慌てて掴む。が、そんなジョンに私は辛辣な口調で語り掛ける。


「いつまでこの状態でいるつもりなの? それとも何? 愛しのメアリー様がちょうど今から来るところだった、とか? それなら私は今すぐにでも帰るけど?」

 

「……いや。 メアリーは、来ない……」


 ジョンは物憂げに視線を伏せ、小さくそう答えた。


「でしょうね。 だったら、おとなしくしててちょうだい」


「…………」


 ジョンは観念したように掴んでいた私の手を力無く離すと、私はジョンの汚れた身体や衣服、ベッド上を清潔にする為の作業を始めた。

 

「――――」


 私が無言で作業をする中、


「……すまなかった」


 ジョンの絞り出すかのようなか細い声が響く。


「気にしないで。人間誰しも行う生理現象なんだから」


「いや、この事もそうなんだが……それよりも、僕は君とアリアの事を……」


 ジョンが何に対して謝っているのかは分かっていた。しかし、謝られたからといってこの胸のモヤモヤ感は消えない。今更謝られても困る。

 私はジョンが言わんとするその先を遮るように声を上げた。


「――それ以上言わないで、謝らないで。反応に困るのよ。今更謝られても。私の中でのあなたは最低な人間としてしか存在してないの。とはいえ、あなたはアリアの血の繋がった父親。そして私としても、あなたと結婚した事で今私はアリアの母親としていられている。その事実がある限り私はあなたの事を放っておけなかった。ただそれだけの事。言ってみれば義務みたいなものよ。でもこれだけは知っておいてちょうだい。私はあなたの事は一生許さないから。何があっても、何を言われても、この事は絶対に変わる事はないわ」


「…………」


 私はジョンの顔を見ず、ひたすら手を動かしながら淡々とした口調で彼に対する正直な思いを言い放った。


 返せる言葉が見つからないのか、それとも返す気がそもそも無いのかは分からないが、ジョンは私から受けた辛辣な言葉に黙って表情を歪めているだけだった。


 そうこうしているうちに一通りの作業が終わった。


「あなたがベッドの上で動けない以上は完全では無いけれど、出来る限りの事はしたわ。だいぶキレイにはなったと思う」


「……いや、充分だ。ありがとう。助かったよ」


 衣服はなんとか替えられたが、ベッド上の汚れは拭き取るだけが限界だった。


 だから、お尻の下に重ねた布を押し込んで、この後の排泄物が漏れ出ないようにしておいた。おそらく一日くらいはもつだろう。


 私は額の汗を拭いながら中腰の姿勢から背筋を伸ばし、踵を返すと玄関へと向かう。


「待ってて。食事を待ってくるから」


「……え?」


 ジョンの驚いたような声が聞こえた。まさか、食事まで面倒をみてくれるとは思って無かったらしい。

 私は玄関へ向かおうとしていた足を止め、口を開いた。


「大の大人が一日に食べる食料が芋一個でいいわけないじゃない。……とはいえ、ウチも余裕があるわけじゃないから沢山はあげられないけどね」


 『余裕があるわけじゃない』のところで後ろ向きにジョンを睨む。

 私達親子が今、余裕がないのは一体誰のせいなのか、それをジョンに問い掛けるように。


「……す、すまない……」


 後ろめたさからか、ジョンは私から顔を背け、申し訳なさそうに謝罪を口にした。

 その様子を見た私はハッと我に返り、そして自分を咎めた。


 今後働けないかもしれないジョンに、金銭的な事で威圧をかけるのはさすがにやりすぎたと、自然と反省の念が湧き上がる。


 私は体ごとジョンに向き直ると、ここへ来て初めて表情を和らげた。


「少し意地悪が過ぎたわね。ごめんなさい、気にしないで。最近はね、アリアがご飯を作ってくれているのよ。娘の手料理、楽しみに待ってて」


「あぁ。ありがとう」


 私がそう言うと、ジョンは申し訳なさそうに、感謝を口にした。


 急ぎ足で我が家へと戻った私は、アリアが作った夕食の1人分を受け取って、再びジョンの家へと向かった。


 さらっと言ったようだけど、私からここまでの経緯を聞いたアリアを説得するのにどれだけ苦労した事か。


 『どうして?』『なんで?』『お母さんは優しすぎ!』『どうしてお父さんあんな人の為にわざわざもう一人分作らなきゃならないの?』等々……。

 よほどアリアはジョンの事を嫌悪しているらしい。……まぁ、当たり前か。

 

「はい、これ。アリアが焼いたパンよ」


 ジョンの所へと戻った私はジョンの手の届く位置にパンを2つを置いた。


「ありがとう」


「野菜スープもあるけど……自分じゃ、飲めそうにないわね」


 私はダイニングテーブルから椅子をひとつ抜き取り、それをジョンの顔の近くに置くとそこへ腰掛けた。

 そして野菜スープが入ったお椀と匙を手に取った私は、匙で野菜スープを掬い、それをジョンの口へと運ぶ。


「……うまい」


 ジョンはスープの味を噛み締めるように目を閉じ、しみじみとそう呟いた。


「パンは? 自分で食べれそう?」


「あぁ。食べられる」


「そう」


 今のやり取りで、今日のところはこれでいいだろうと区切りを付けた私は椅子から立ち上がった。


 身勝手な理由で一方的に別れを告げられた、いや、捨てられたと言うべきだろう。そんなジョンの事を心配する義理などもはやないのかもしれないが、糞尿にまみれたあのままの状態を放っていればいずれ感染病に侵され、最悪、ジョンは死んでいただろう。

 死ぬかもしれないと分かっておきながら、後からその結果だけ聞くのはやはり気持ちが悪い。そう思いたくない自分の為だと、そう自分に言い聞かせる。


「じゃ、私は帰るわ。また明日来るから」


 用が済んだら長居は無用だ。私は帰ろうとジョンに背を向けると、


「あ……」


 私へ向けてジョンが何か言いたそうに手を伸ばしていた。


「――何?」


「いや……」


 言うか言わないか、そんな感じで口籠るジョン。


「だから、何?」


 再度問い掛けると、ジョンは重そうに口を開いた。


「君は嫌がるかもしれないが、せめて謝罪だけはさせて欲しい。 本当にすまなかった。許して欲しいとは言わない。ただ……改めて君の優しさに触れて……」


「後悔してるとでも?」


「……あぁ」


 私は表情を和らげた。


「あなたのその気持ちは受け取っておくわ。でも……」


 そして再び表情を険しく引き締め、


「――私は絶対にあなたの事は許さない」


 それだけを言い残し、私は足早に部屋をあとにした。




 この日からしばらく、ジョンの身の回りのお世話を続けていた私だが「あんた一人にだけ負担はかけられない」と、次第に村人達のサポートの手が増えてきた。

 だが、そもそもこれが本来の形だ。貧困層の多い村社会はこういった助け合い精神で成り立っている。

 とはいえ、義務ではない。だから村人達の反感を買っては、ジョンみたいにその恩恵を受けられない場合もあるのだ。


 


 それから一年が経ち、ジョンは運良く元の歩けるような体へと戻った。

 そして、私はジョンから復縁を迫られるようになった。もちろん私にジョンのその申し出を受けるつもりは一切無く、

 では、せめてもと、ジョンは金銭的な援助(養育費)を申し出てきた。が、それも断った。今更、ジョンに助けられるつもりは毛頭ない。


 唯一、私から彼にお願いした事。


「お願いだから、私に構わないでちょうだい」


 と、そうお願いをした事で私はようやくジョンとの関わり合いを完全に断ち切る事が出来たのだった。

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