冷たい太陽

烏乃

冷たい太陽



                    一



 今日は荒木大輔あらきだいすけが愛してやまない作家、月浜晄斗の新作小説の発売日である。平日ということもあって、仕事に追われる荒木だが、定時帰宅を待ち望み今日一日を生き抜いた。

 そして定時まであと数分というとき。

 無情にも近藤課長のデスクの電話が鳴り響いた。それは荒木にとっての敗北のゴングであった。



「こんなときに殺しなんて有り得ねぇ……犯人捕まえたらぶっ殺してやる」

「荒木さん……仮にも刑事が、ぶっ殺してやるなんて現場で言うものじゃありませんよ」

 肩を怒らせて吐き捨てた荒木を、後輩の一宮清いちみやきよが静かに制す。現場までの移動中、事の顛末を一部始終聞かされた清は、同情しながらも荒木の子供っぽさに内心呆れていた。

「なんで今日なんだよ、なんで今なんだよ。あとちょっとで帰れたのに……読めたのに!」

「それ、もうさっき聞きました。できるだけ早く終わらせましょう。私も協力しますから。それが一番良い方法ですよ」

 怒鳴り散らすよりは、と清が何度目かの諌めを入れたところで、鑑識作業が終わったと知らせが入った。

「被害者は井下裕人、三十二歳。ここ、天道の会の信者で、烈日れつじつと呼ばれる役職の幹部です。天道の会設立時からの信者で、真面目な信者だったと評があったそうです」

 清と同期の生野が捜査班の面々に報告を行う。

「鑑識の初見では、殺害されたのは十八時頃と見ています。鋭利な刃物で腹部をやられていますね。それが致命傷になるほど、深かったようです」

 生野に代わり、鑑識科の細野がクリップボードをめくりながら話す。彼は、細野という名前ながらにして、中年太りの中堅鑑識官である。

「では、現場へ行きましょうか」

 細野に促され、現場へと足を踏み入れる。

 さすがの荒木も、ここでは気を鎮めた。時間と共に怒りも収まってきていたのもそれを手伝った。

 現場は、少し広めの物置といったところだった。端の方に物がちらほらと置いてあり、部屋の中央に被害者が倒れていた。真っ白なローブのようなものを着ているせいか、腹部の辺りの出血が強調されて見える。

「なぁ、そう言えば天道の会って何なんだ?」

「……荒木さん、知らなかったんですか? ていうかそれ、今聞きます?」

「自分の勉強不足は自覚した。悪いが教えてくれ」

 清は一瞬面倒臭そうな表情を浮かべたものの、メモ帳に図解をしながら話し始めた。

「天道の会は、数年前から警察がマークしている宗教団体です。詐欺集団ではないかとの見立てがあります。それらの事実の確証が掴めていないので、立件には至っていませんけどね。そして天道の会の概要ですが、ざっくり言うと太陽信仰です。自然主義が売りだとか。崇めるものは太陽でここでの呼称は天道様、教祖は朝日上あさひのうえ、その下に三人の幹部がいます。それが、烈日、日輪にちりん白日はくじつです。これらは全て役職の名前で、太陽に関係する言葉が当てはめられています。そして、今回殺害されたのはその幹部の烈日です。烈日とは、司法のような役割を担うそうです。後程、話を聞きに行きますよね? この会の仕組みを覚えていてください」

「なるほど。そんなのがあったわけか。宗教関係はきなくせぇ事が多いからな。とりあえず助かったわ。ありがとよ」

 これからは勉強してください、と清は釘をさし、図解のメモを渡した。

「それより、御遺体を」

「あぁ、そうだった」

 ようやく本題に戻った二人は合掌し、改めて被害者の観察を再開した。

「なんですかこれ」

 しばらくして、少し離れたところを見ていた清が声を上げた。

 荒木も近づいてみると、分かりづらかったが赤黒く乾いた血で『↓』という矢印が書かれていた。それはちょうど被害者の力尽きた指の先に書かれていて、雑多に置かれた物の方を指していた。

「なにかあるんでしょうか?」

 清が棚やガラクタの中を漁るが、めぼしいものは出てこなかった。

「隣の部屋とかですかね」

「さぁな。だがその前に、事情聴取といこう」



「私が天道の会、教祖の朝日上でございます」

 会議室のような場所で朝日上こと椎名明実しいなあけみと、日輪の庚恵美かのええみが事情聴取のため呼ばれていた。どちらも四十代前後といった年齢だが、椎名明美の方は身長が高く一般的に美人と言える外見だった。

「私は朝日上の補佐をしております。庚です」

 朝日上に続き、庚が名乗った。双方とも、被害者と同じような白いローブを纏っている。これが制服の役割をしているのだろう。が、教祖ということもあるのか、朝日上だけはところどころに金の刺繍が入った、きらびやかなものだった。

「この度亡くなられた烈日の井下さんについて、お聞きしてもよろしいですか?」

 すると朝日上が悲しげに目を伏せた。老いているわけではないが、その憂いを蓄えたような表情にはある種、奥深さがあり、只者ではないと荒木は直感的に感じた。

「とても、敬虔な信者でした。烈日として、天道の会の風紀を守り、共に布教に努めてきた同志でしたのに……」

 隣に座る庚も、悲痛といった表情を浮かべて朝日上に同調を示していた。

 その後簡単に現場不在証明を行ったが、これといった収穫はなかった。

 続いて呼ばれたのは、白日の座に就く江本要。白日とは、会の財政を担う役職だという。

「正直、信じられません。天道の会において、天道様の御場所で、殺人事件が発生するなど……」

 そう話す江本にも、先刻同様悲痛な表情が伺えた。

 江本のアリバイも特になく、容疑者を絞りこむには至らなかった。

 一旦現場に戻ることにした二人は、廊下を進んでいた。

 天道の会の本部は長方形で二階建て。その二階部分は寮になっている。寮には、朝日上と三人の幹部、それと新参の入信者が住んでいるという。

「中々洒落た造りの建物だな。財政の裏を探りたくなる感じだ」

「そこは私たちの仕事じゃありませんよ。二課に任せておいてください。それにしても、しょっちゅう出てきますね、この……シンボル?」

 と、清はちらちらと壁に目をやる。

 壁には等間隔に、円が重なった太陽のような紋章が描かれている。しかし太陽と言いきれないような複雑さも含まれているため、結局のところ、詳細は不明である。

 とそこへ、朝日上が現れた。ちょうど廊下脇の部屋から出てきたところで、なぜか笑みを浮かべていた。

「あの、すいません。少しお聞きしてもよろしいですか?」

「はい? なんでしょう?」

 朝日上は笑顔をしまい、少し驚くように目を見開いた。

「この紋章には、何か意味はありますか?」

 荒木が指を差したのは壁に連なる紋章。朝日上の表情は、その質問によって輝きを増した。

「ええ、もちろん。これは私たちの主、天道様がいる場所を指しています。これに真意を見出だすことこそが、祭祀を行う目的でもあるのです」



「荒木さん、さっきの矢印のことなんですけど……」

「あぁ、隣だろ? 行ってきてもいいぞ」

 荒木さんは? と言いたげに清は軽く眉を寄せたが、そのまま現場の隣の部屋へ入っていった。一方、残った荒木は再び現場へと入った。すでに遺体は運び出されており、その輪郭だけが床に記されている。矢印のダイイング・メッセージと思われるものも証拠として残されていた。

「荒木さん!」

 数分とかからず、清が戻ってきた。しかし、なにか慌てた様子であった。

「ちょっと来てください」

 有無を言わさず、清は荒木を引っ張るようにして隣の部屋へ連れていった。

「何だよ」

「これ……私の見立てでは爆弾といえるものなんですけど」

 なぜか小声の清は床に放置されている箱を指差している。

 一見、お菓子の空箱のゴミようだ。

 荒木はそれを開ける。

 すると、中にはリズムよく点滅するライトと、ありがちな十本ほどのコードが入っていた。

「これは、俺が見てもそう見える……専門家のお前じゃなくてもな。矢印の先はこれか……」

「しかもこれ、タイムリミットつきです。あと約三百秒……つまり五分?」

「五分? ヤバイじゃねぇか。おい専門家、これ解除できないのか?」

 静かに慌てる荒木が、一宮清巡査部長改め爆薬専門家に詰め寄る。事実、清は大学での専攻が火薬関係だったため、一部専門家もしくは警察よりも知識はある。なので、こういう局面にたったとき、矢面に立たされるのは毎回と言っていいほど清である。

「これは個人が作ったものです。見たことがありません。が、火力は中々高いものでしょう。しかもコードがA~Jまで、だからといって十分の一の確率とも限りませんし……下手なことはできません」

 とりあえずの対策で荒木は課長である近藤に連絡をいれた。残り時間は少ないが、爆弾処理班を要請してもらうことにした。

「……あ、でもこの造りならコード一本の原動力で動きます。だからやっぱり十分の一です。前言撤回します」

 爆弾をさらにじっくりと調べていた清がすみません、と手短に謝った。

「一本っていったって、どう探すんだ」

「なんか……暗号でもあれば。ここ宗教団体ですよ、なんかありそうじゃないですか?」

「そんな小説みたいなこと言ってもな……」

 小説、という禁句のような単語を発してしまったことで、荒木の目に怒りの炎が再熱した。

「そうだ、ここは宗教団体だ。それっぽいものを探して、とっとと帰るぞ」

 爆弾のタイムリミットまで、あと百秒となった頃。

 軽く息を切らした荒木と清が箱を見下ろしていた。

「矢印の方向や遺体の周辺、被害者の部屋を探しましたが、なにもありませんでした」

 清は落胆気味に報告したが、その目は爆弾を凝視し、どこかに隙がないかを見張っていた。

「そうか。俺は、この紋章が気になった。さっき朝日上は、天道のいる場所を示していると言っていた。どうせこれの暗号も太陽関係だろ」

 荒木は、どこから持ってきたのか、天道の会のシンボルを手の上で広げる。

「場所……そうです……それですよ!」

 その時、清が閃いたというように、声を張った。

「暗号の鍵は、太陽の位置とアルファベット。スペクトル型ですよ!」

「……スペクトル型?」

 興奮で顔を赤らめる清と対照的に、荒木はピンとこないらしく、微妙な表情を浮かべている。

「ざっくり言うと、恒星を温度や大きさで分類した表のことです。ほら、高校の地学でやったはずです」

「いや覚えがねぇな。理系とは決別したんでね」

「あぁもうそんなことより、あと何秒かしかありません! 早くGを切ってください!」

 残り六十秒を切った。

「Gなのか? Gでいいんだな? 間違ったら爆発とか……」

「いいから早く!」

 清に急かされるまま、荒木はペンチでGのコードを切った。念のためにと、たまたま見つけたペンチを持ってきていたのだ。

「……止まった?」

 手で顔を覆っていた清が、恐る恐ると言った様子で指の間から覗いた。電光の数字は22で止まっている。

「……あぁ。正解だったみたいだな」

 すると清は全身の空気が抜けたように床に座り込んだ。タイムリミットの瀬戸際での閃きに、全神経を使ったのだろう。

「よく閃くよな、ほんと」

 荒木は苦笑しつつ、清に手を貸した。


            *


「――ということで、爆弾は解除できました。一宮のおかげです」

 閃きの反動でぼんやりしている清の隣で、荒木は近藤に報告をしていた。清が温かい珈琲を持ったまま動かないのを横目に、荒木は苦笑した。

「今日はもう帰っていいっすかね? 一宮が地蔵みたくなってるんで」

『地蔵? そりゃ大変だ。夜も遅いから、一宮送ってやれ』

「了解です。さすが近藤課長、ありがとうございます」

 最後に近藤へのヨイショを残すと電話を切った。

 時刻は二十二時を回った。今から開いている本屋を探して向かってもいいが、明日からの捜査の事を考えると賢い選択とは言い難かった。しかも荒木の中には、興覚めといえる感情さえ居座っていた。

「この事件が終わってからにするか……」

 そしてため息交じりに、車のキーを取り出した。



       二



 翌朝。

 事態が急変した。

 白日の江本要が何者かに襲われ、緊急搬送されたのだ。

 頭部を鈍器なようなもので殴られ倒れているところを、現場保存のため残っていた警官に発見されたという。

「朝、何も異常がないか一応建物内を見回ったんです。それで二階を通ったときに、江本さんが、廊下と部屋をまたぐような感じで倒れていました」

 現場に立ち会った警官はそう語った。

 搬送された江本は一命を取り留めてはいるが、意識不明の重体に変わりはないという。

 犯行現場は江本の部屋で、凶器は見つかっていない。

「幹部が二人狙われた……てことは、四日目には全滅するんじゃねぇのか、これ」

 予定時刻より早く招集された荒木が、軽く不機嫌に言った。

「縁起でもないこと言わないでください。それを止めるのが私たちの仕事でしょう」

「荒木君、一宮さんの言う通りだ。さて、犯行に使われたのは淵が尖った鈍器。きっと血液も付着しているはずだから、もしそれっぽいものを見つけたら知らせてくれ」

 鑑識の細野が後ろからやってきた。

「もちろんです。が、これから椎名明美と庚恵美に話を聞きに行くので、本格的な探索は生野にお願いします」

 荒木がそう言うと、引き合いに出された生野が声に出さずにげんなりとしていた。


         *


「刑事さん……江本さんまで襲われたと聞きました。一体何が起こっているのですか」

 昨日と変わらない様子で現れた椎名明美だが、内心は不安で一杯のようだった。

「こちらとしても調査中です。椎名さん、あなたの部屋は江本さんの二つ隣でしたよね? 昨夜に異変は感じませんでしたか?」

「いえ……特には。昨日は疲れていたのか、かなり深く眠っていたようで」

 だから血色がいいのか、と内心納得した。荒木の経験上、身近な人が殺されたその日に熟睡できる精神力を持った人間に巡り合ったことはない。その中で、椎名明美は新しい人種のようだった。恐怖より疲れが上回ったということだ。

「犯人に心当たりはありませんか?」

「天道様の元に集った同志のことを疑いたくはありませんし、何よりそのような人がいるなんて……」

 椎名明美はそれ以上言わなかった。その代わりに、荒木の目を困ったように見つめた。

「ところで、この建物での喫煙は大丈夫ですか?」

「それは、全館では許可しておりません。喫煙所は設置してありますが」

 なぜか、と言った表情を浮かべたが、荒木はそれ以上説明することはなかった。

 椎名明美と入れ替わりで呼ばれた庚恵美は、恰好こそ清潔感があるものの、不安の表情が全面に出ていた。朝日上とは打って変わり、目の下に薄く黒いものが下りている。

「井下さん、江本さんが襲われて……次は私なんじゃないかと、怖くて眠れなかったんです」

 体調面を聞くと、庚恵美は俯きがちに答えた。こちらは精神的に影響を受けやすいようだった。

「彼らが襲われるような理由に心当たりはありませんでしたか?」

「烈日の江本さんは、役職の権限を行使するにあたり厳しい面がある人でしたが、天道様に誠実で立派な方でした。白日の江本さんの担当は財政で、上手く会を回してくれていました。お金絡みの問題も発生していなかったはずです」

「この会の立ち上げは、椎名さんが?」

「はい。朝日上が私を誘ってくださり、天道の会発足の補助をさせていただきました。現在では、百人前後の同志がおります」

 と懐かしむように、庚恵美は表情を緩めた。

「この建物も立派ですよね。設立時に建てられたんですか?」

「ええ、やはりこの建物があっての天道の会ですから。朝日上の理想通りです」

 最後には庚恵美の顔色が少し良くなっていた。

 聴取を終えた荒木は、喫煙室を見つけ、入った。

 喫煙と読書こそ生きがいと感じている荒木である。わざわざ外へ出ずに煙草が吸えるのは心強かった。

 祭祀以外は自由時間なのか、喫煙所には数人の信者がいた。

「あんた、刑事さんか」

 荒木が落ち着くなり、白いローブの男性が声をかけてきた。

「そうですよ。信者さん、質問してもいいかい?」

「今回の事件の事だろ? 答えられる範囲でいいなら力になる。江本さんのことかい? 仕事を手伝ったことはあるが」

「いや、ちょっと違う。ここには、朝日上や幹部たちは来るのか?」

 男性は首を振ると、煙を吐いた。

「いらっしゃらない。朝日上は特に、贅を抜き天道様を崇拝していらっしゃる。庚さんもきっとそうだ」

「きっと?」

「朝日上と庚さんは祭祀以外でお見かけしたことがない。井下さんと江本さんはご自分の仕事で忙しくしておられるが、そのお二方は何をしていらっしゃるのか、俺たちは知らない。庚さんは朝日上の補佐だからな……」

 男性は短くなった煙草をもみ消すと、やるせない表情を浮かべた。

「江本さんはお優しい方だった……戻ってきてくれることを願っている」


       *


「荒木さんに言われて色々調べました」

 昼。荒木が車内で休憩をとっていると、清が乗り込んできた。

「おう」

「色々煩雑でしたが、できる限りやらせていただきましたよ。まず入信の件ですが、入会時に二十万円かかります。その後も祭祀用の教本一万円から始まり、細かいものを揃えると二十数万円かかり、入信後一年間はここに住み込むので、生活費として初めに十二万納入します。総合すると、四十万前後必要になります。しかし、実際はそこまで原価のかからないものですし、現金として会に入るので儲け放題ですね」

「ほぉ、詐欺っぽさが出てきたな」

「そしてその現金ですが、調べた結果、朝日上や幹部の口座にはありません。そのままで、どこかに保管されています。どおりで足がつかないわけです」

「というと?」

「この建物のどこかにあります」

 すると荒木は満足そうに口角を上げた。

「もしかすると、だ」

 そして飲みかけの珈琲をドリンクホルダーに置くとネクタイを締め直す。

「一気にいけるかもしれない」

 荒木はその足で、爆弾のあった部屋へ向かった。

「なんでまたここに?」

 付いて来たはいいが、清はまだきょとんとしている。

「昨日の矢印覚えてるか?」

「あぁ、ダイイング・メッセージの」

「恐らく、その方向にこの事件の鍵があるんだろう。ここは一階だが、あの方向には朝日上と幹部たちの部屋がある」

「まさかその部屋にあると? そんな簡単に事が進みますか?」

「あるかもしれないし、進むかもしれない。もしあるとして、大金を部下の部屋に置くか? 誰かが見つける危険性のある場所に置くか? 置かねぇだろうな。想像だが、井下は不当な大金集めに気付いて殺されたんだろう。で、江本も同様。だが二回目は犯人がしくじった。江本の意識が回復してくれれば、確実なウラが取れるんだが……」

「江本さんは、まだ集中治療室です。この数時間が山場だとか」

「荒木さん! 見つけました!」

 廊下に出たところで、生野が小走りに近づいて来た。

 これです、と生野が見せた袋の中には四角い形をした灰皿が入っていた。灰皿は一見、そうとはわからないデザインである。

「すぐ傍を流れる川の中にありました。めっちゃ寒かったっす」

「お疲れさん、お手柄だな。細野さんには?」

「これから照合してもらいます。先にお知らせしようと思って」

 今度暖かいもの奢ってくださいね、と残し生野は去っていった。

「いい手応えだ。庚恵美と椎名明美の部屋を調べることにしよう。信者からの興味深い話も教えてやる」

       *


 庚恵美の部屋は殺風景なものだった。ベッドや机など最低限の家具はあるが、女性の部屋にしては寂しさが漂う。

「ここに住んでいるとは思えませんね……」

「いや、住んでる。ほら、いいものがあった」

 清が振り向くと、荒木はゴミ箱に手を突っ込んでいた。

「荒木さん、何を……!」

 その行為に清は顔を引きつらせ、固まる。

「煙草の吸殻」

 荒木が掌に載せたのは、持てなくなるギリギリまで使用された吸殻だった。

「庚恵美は喫煙者だ。他にもいくつか捨ててある。だが、灰皿がねぇ」

「確かに……」

 清が部屋を見回すが、それらしきものは見当たらなかった。

「でも、なんで喫煙者だとわかったんですか?」

「正直、勘だ。凶器の灰皿が見つかった時点で、信者による犯行の可能性は排除された。館内は禁煙で、喫煙所がある。そこで好きなだけ吸えるからな。でも信者の話じゃ、幹部らと朝日上は喫煙所には行かない。吸うなら自室で、となる」

「なるほど……で、庚恵美は結果的に吸っていた。そして灰皿がない。つまり――」

「川の底で発見されたあの灰皿だ。さらに言うと、今日、庚恵美は目の下に隈を作っていた。江本をいつ襲おうか張っていたとしたら、寝不足になるのも当たり前だ」

「でも、これらを裏付ける証拠が欲しいところじゃないですか……?」

「続きは隣、椎名明美の部屋でな」

 椎名明美の部屋は、庚恵美とは反対に生活感があり物も多かった。その分、教祖ということもあるのか部屋が広く造られていた。

「教祖だというのに、それ関係の物が少ないですね。一応、本やら図解はありますけど……」

 清が部屋の端にある本棚を見て言った。二段ほどしかない簡素な本棚で、収められた本には埃が被っている。

「これか? お前が言ってたスペクトル型とかいうやつは」

「そうです、これです」

 荒木が見ていたのは、さりげなく壁に張られたスペクトル型のポスター。たいして大きくはないが、太陽関係の物が希薄なこの空間においては違和感を与えるものだった。

「でもこれ……なんでこんなところにあるんでしょうか」

「見るため、ではないだろうな。他に用途を設けたのか……なんなのか」

壁、とは言ってもベッドの枕元に張ってあり、寝る時かつ意識して見ないことには、目に入らない場所である。

「おい、ちょっとこの裏側見てみろ」

 一応女性のベッドということを意識したのか、清に指示を出す。

「特には……あら、これはなんですかね」

 無い、と言いかけた清が何かを掴んでいた。

「何だ?」

「これ、透明な糸です。壁から伝っているようです」

 目を凝らさないと見られないほどの細く透明な糸が、白塗りの壁に同化しなおさら保護色の効果を成している。

「ほぉ……」

 清が透明な糸を引っ張ると、直径四センチほどの穴が開いていた。

「何かあります……荒木さん、箸みたいな何か貸してください」

 穴を覗いた清が、荒木に目を向ける。しかし箸など持っているはずがないので、ボールペンを一本渡す。

 それに眉を寄せた清だが、自分のペンと合わせ器用に壁の中を探り出した。

「荒木さん、朗報ですよ」

 清は壁からゆっくりとペンを抜く。

「何かの鍵です」

「これは……金庫の鍵だな。後は本体を探すだけか……」

 とその時、清の携帯が着信を受けた。一旦部屋の外へ出て電話を受けると、数分後に興奮の色を浮かべて戻ってきた。

「生野君からでした。江本さんの意識が回復したそうです! さらに例の灰皿と頭部の傷が一致して、指紋もとれたそうです。なんでも、冷たい川の中で指紋が固まったとかなんとか」

「そうか、それはよかった」

「犯行時の様子も聴取できたようです。夜遅くに部屋に帰ったとき、人の気配がしたそうです。電気をつける前に一度殴られ、意識が朦朧としたところでもう一発受けたそうです。それが三時ごろです」

「で、肝心の犯人は?」

「見ていないそうですが、背丈はわかりました。一五〇センチ後半とのことです」

「一五〇後半っていったら……」

「私がちょうど一六〇で、椎名明美はそれより高いです。庚恵美は、私より数センチ低いです」

 なるほど、と荒木は低く呟いた。

「二人に――」

「あら、まだいらっしゃったのですか?」

 荒木の言葉を遮るようにして、部屋のドアが開いた。そして椎名明美が現れた。

「散らかっていて申し訳ありません。捜査はお済になりました?」

「ええ、ところで椎名さん。金庫はどこにあるんでしょうか」

「金庫? 何のことでしょう?」

 荒木の唐突な質問に、椎名明美は顔色を変えない。

「いえね、ちょうど金庫の鍵を見つけまして。そこに不当な方法で集められた現金があると、ある信者の方から聞きましてね。それで、金庫の行方を捜しているんですよ」

「ある信者……?」

 椎名明美は怪訝そうに眉をひそめた。

「どなたかは教えられませんが、その方が手記を残しまして。そこに鍵の位置と金庫の存在、そして、この会の不当な金銭問題が記されていました」

「…………」

 椎名明美が微かに言った言葉を荒木は聞き逃さなかった。

「おや、井下さんが、なぜ手記を残したとご存じなんですか?」

 椎名明美が目を見開いた。

「いえ、私は何も……」

「井下さんは色々と必死だったようです。爆弾まで作ってスペクトル型まで辿らせたり、江本さんに気付いてもらうよう仕掛けたり……正義感が強かったんですね。あなた方のやり方に気が付いて、許せなかったんでしょう」

「……何を根拠に、あなたはそのようなことを」

椎名明美に微かな震えが見えた。

「江本さんが意識を取り戻しました。それに凶器も見つかっています。これからこの捜査は大きく進展するでしょう。自首と出頭では、大きく差があります。どちらを選ぶかはあなた次第ですが」

 椎名明美は何も言わない。口を固く、真一文字に結んでいる。

「椎名明美さん、あなたに任意同行を求めます。任意なので、椎名さんの意思で決めていただいて構いません」



       三



「椎名明美も庚恵美も自供しました。不当な金銭の動きに感づいた井下さんは、椎名明美に問いただそうとしましたが、すでに共犯関係であった庚恵美が口封じのため殺害。そこで井下さんの手記が江本さんに渡り、庚恵美が殺人未遂を起こした。ほぼ荒木さんの推理どおりです」

 清が報告をする横で、荒木は自分の机で月浜晄斗の新作『暗がりの丘』を、猛烈なスピードで読み進めている。発売から約三日は買いに行けず、今日の昼休みに車を走らせ、ようやく買うことができたのだ。

「それにしても、井下さんの手記があんなところから出てくるなんて、荒木さんそんなことどこで知ったんですか?」

 井下の手記と思われるものは、江本のカバンから出てきた。江本はそれに気づかずにいたようだが、実行犯であった庚恵美はそれを探して、江本の部屋にいたという。

「あー……最初は知らなかった。ハッタリだったんだが、本当にあってよかった」

は? と清が呆然とする。

「あれだよ、ある気はしてた。椎名明美をちょっと追い詰めようと思ってな、『事実の前借り』だよ」

「……なんですかそれ」

「いや、今ちょうど出てきてな……ほぉ、なるほど」

 荒木が本を一瞬清の方に向けたが、すぐに目を戻した。

「井下さん殺害に使われた凶器はキッチンにあった包丁だそうです。殺害後はそれを洗って、普通に使っていたようですよ」

「……サイコなやつもいたもんだな。気味が悪い」

「それと金庫ですが、椎名明美のベッドの下にあるそうです。二課がこの後そっちの捜査をするみたいですよ。そもそも、天道の会の設立は詐欺目的だったようですから」

「そうか。これで向こうに一個借りができたな」

 読書をしながらこちらの話にも耳を傾ける器用さに呆れつつも、清は報告を続けた。

「天道の会は今後も活動を続けていくそうです。幹部が二人と教祖はいなくなりましたが、江本さんを慕っている信者は多いらしく、彼を中心に運営していくとか。信者の方たちは被害者ですが、自然主義と太陽を信仰する気持ちは変わっていないそうです」

「意外と強いんだな、信者たち」

「江本さんの人徳でしょう。ところで、荒木さん。昼休みは一時間前にとっくに終わっていますが。ね、近藤課長」

 清が近藤へと話を振った。

 荒木がぎくりとして本から少し目線を上げる。

「荒木警部補、まだ報告書を見ていないが?」

 近藤は空になった湯のみを置いた。

「……三時間後に提出を約束します。お茶は、温めでいいですか?」


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