第6話 絵本は語る ―side絵本―
「は……? あの、今、なんと……?」
「僕が愛しているのは―――貴女ですよ、お妃様」
王子様の言葉を聞いた途端、お妃様の背筋に何か、冷たいものが走りました。
まるで、動物が危機を察知した時の様に、悪寒と寒気が走ったのです。
これはなんだかまずい、というかこの人はやばい、とお妃様は思いました。
目の前まで迫る王子様の顔が、なぜかまるで肉食動物の様に見えたからです。
彼の黄金色の髪は揺らめいて、青く透き通った瞳は氷の様に鋭さを増し、お妃様を見つめていました。
「ひ」と小さな悲鳴を上げて、お妃様は後ずさりました。
が、王子はそれを無視してより一層距離を詰めてきます。
そして、お妃様の背中が玉座の背にぶつかりました。
逃げ場がない、と判った時にはもう遅く、お妃様は退路を断たれていたのです。
王子様は、お妃様が座る玉座の肘掛に両手をついて、彼女を囲むみたいに閉じ込めました。
「じょっ……冗談っ」
「冗談なわけないじゃないですか。美しく、そして気の毒なお妃様」
王子様が、お妃様を見ながら柔らかく、そして優しく労わる様に微笑みながら言いました。
「貴女はその美貌ゆえ、破綻した祖国を救う為に、半ば身売りの如くこの国の王に買い取られた。違いますか?」
お妃様は、目を瞠りました。
誰も知らないはずの自分の身の上を、なぜ王子が知っているのかと、驚いたからです。
それは、誰も知らないはずの、親友である鏡しか知らないはずの、お妃様の悲しい身の上話だったのです。
絵本の物語では語られない、もう一つのお話。
この世界である『白雪姫』のお話が創られる遥か昔にあった、一人の少女の物語として。
「どう、して……」
「僕は貴女の事なら、何でも知っているんです」
黄金色した王子様が、魅惑的に、そして優し気に微笑みました。
―――白雪姫のお父様、国王は好色な王で有名でした。
中でも美しい女を好み、白雪姫の母がそうであったように、自分の妻に美しいお妃様を望んだのです。
その頃お妃様の国は、財政破綻の危機にありました。
お妃様が十八歳の時に先代王妃が無くなり、その後に迎えた継母が大層な浪費家だった為です。
継母は国費を散々道楽に使い果たし、国の財政はすっかり目茶目茶になっていました。
しかもあろうことか、継母は国費の浪費に飽き足らず、自分より美しかったお妃様に嫉妬して、彼女を虐げるようになりました。
継母は、自分の容姿がお妃様に劣っている事が許せなかったのです。
継母に本当に苦労させられたのは、お妃様の方でした。
二十歳の時にお妃様は、継母によって寂れた塔へと閉じ込められてしまいました。
それから十年、誰とも接触させられる事無く、ずっと幽閉されていたのです。
そしてそれが解かれた日、お妃様は、破綻しきって負債まみれとなった自国の為に、白雪姫の生まれたこの国へ、嫁がされてきたのです。
好色な王の為に。
『白雪姫』という物語でお妃様を演じる為に。
お金で買われたお妃様は、泣く泣く自分の父親よりも老いたこの国の王の花嫁となりました。
幸いだったのは、この国に来てからすぐ、式の直前に王が病で倒れた事でした。
お妃様は無垢でした。
辛い境遇にありながらも、いつかは素敵な殿方にその身を任せることを、娘時代から夢に描いてきたのです。
けれど結果は故国を救うため、金銭と引き換えの政略結婚を強いられました。
王は、病で床に伏してから、そのまま起き上がる事無く亡くなりました。
……お妃様を本当の意味で、妃とする前に。
「この国の王がまだ生きていたならば、僕がその首刎ねていたのに」
そう言って、王子様は美しい唇を弧の形に変えて微笑みました。
お妃様には、その微笑がどうも悪魔の笑みに思えて仕方がありません。
「僕と来てくれますか、愛しい人。もう貴女が苦しむ事は無いのです。毒林檎を食べさせることも、焼けた靴を履かされることも、しなくていい」
すっと差し出された王子様の手を、お妃様は呆然とした顔で見つめました。
なんだか身の危険をひしひしと感じるけれど、それでもこの人は、私の境遇を知っている。
私が彼女に、白雪姫に毒林檎を食べさせるのが苦痛だった事を、苦しんでいた事を知ってくれている。
そしてこの世界を変えてくれたのだと―――
お妃様は、押しの強い王子様に怯えながらも、内心彼に惹かれているのを感じていました。
今自分に手を差し出す王子様は、今までの自分が知っている、線の細いただキラキラ光るだけの王子様ではなかったのです。
彼の纏う空気は、さながら騎士の様でありました。
「僕は、物語の主人公である彼女と毎回強制的に結ばれました。けれどずっと見ていたのです。悲しみに揺れる瞳で、彼女に林檎を差し出す貴女の姿を。僕はもう、貴女に苦しんで欲しく無かった。孤独なまま、過ごして欲しく無かった。最後は酷い苦しみを受けなければいけない貴女の姿を、見たくなかったのです……もう、貴女が傷つかなくて良い世界を、僕は創りたかった」
「っ……」
お妃様の頬に、王子様がそっと優しく触れました。
彼女の美しい顔には、大粒の真珠の涙が零れていたのです。
「もういいんです。貴女はもう、好きに生きていいんです。嫌な事はしなくていい。苦しまなくていい。これからは新しいこの世界で、幸せになっていいんです」
王子様が、お妃様の無垢な白い額に口付けました。
「まだ僕の事を好きになってくれとは言いません。ですが貴女が許してくれるなら、僕はこれから貴女と新しい物語を紡いでいきたい……どうか、許して頂けますか」
王子様は、お妃様の錫杖を持った手を握り、懇願する様にそう言います。
彼の青い瞳には、切なる想いが込められていました。
お妃様は、嬉しさで胸が一杯でした。
永い永いこれまでを思い出し、後から後から涙が零れて止まりません。
けれど確かに、彼が握ってくれる自分の手は、暖かさに満ちていました。
お妃様は顔を伏せ、嗚咽を零していました。これまで溜まりに溜まっていた苦悩や悔恨が、全て洗い流されて行くようでした。
彼女と王子様を囲み、見守っていた城の兵士や家臣達が、皆一様に優しい笑みを浮かべて彼女を見ていました。
この世界で誰よりも美しく、綺麗な心をもったお妃様。皆、それを知っていたのです。
しかし『本当の結末へと導くこの世界の意思』によって、彼らは皆遠ざけられていました。
伏せた顔にはらりと落ちたお妃様の黒髪は、夜よりも深く艶と輝きを放っています。
美しい頬の曲線に、長い髪がまるで絹のように添いました。王子様は優しく髪を梳き、そのままお妃様の涙をそっと指先で拭います。
ほのかに赤く色づいたお妃様の唇は、雨露に濡れた薔薇の花弁の如く、美しい色を宿していました。
たとえ役柄だったとしても。
何度も何度も、林檎を差し出し人を殺めなければいけない事が、お妃様はずっとずっと辛かったのです。
繰り返されるお話の中、何度もお妃様は白雪姫を毒林檎で殺めました。勿論自分の意思ではありません。
この世界の、絵本の意思だったから。
それはお妃様の心を酷く傷つけていきました。
お話が終わった後、華やかな終末に微笑みを見せる白雪姫を見ながら、焼けた鉄の靴を履き息を絶やしながら、それでも自分が許せずに、物語の外で短剣を手にしたこともありました。
死ねない事を、ただ痛みだけしか得られない事を、知っていながら。
「僕は、貴女の傍に在りたい。貴女が幸せになっていく手助けを、これからはしていきたいのです」
王子様は、乞い願いながらお妃様の手に口付けました。
それと同時に、お妃様の瞳から一層のとめどない涙が溢れ出し、彼女は持っていた『お妃様』の錫杖を投げ出して、そのまま王子様に抱き付きました。
わあわあと少女のように泣くお妃様を胸に、王子様は物語では見せたことの無い極上の微笑みを、彼女に向けて、浮かべたのでした――――
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