元禄三年八月三日 とある武家の話
俺の伴侶は、お妙という女は狂っていた。
深井藤左衛門様の息女である妙は、礼節を
齢十九で俺のもとに嫁いできた後も彼女は変わらない。大した信仰心を持ち合わせていない俺にとって、それは異質なものとして映った。
ある時、お妙は侍女の死を
お妙が幼少の頃より長年仕えていたという老齢の侍女だ。あるいは母のように慕っていたのだろう。お妙の深い悲しみは計り知れない。しかし彼女の声は揺らぐことなく、朗々と辺りに満ちた。冥福の祈りは澄んだ水面の如く、細波の一つも立つことはない。それでいて、遥か彼方よりの波紋が伝わりくるような錯覚を覚えた。お妙は静かに、しかし鬼気迫る様子で念仏を称え続ける。
俺はその浮世離れした光景に、ぞっとするような思いがした。気付けば声を荒げていた。
「お妙、お妙……!」
振り向いたお妙の瞳は、俺のことなど映してはいなかった。ここではないどこかを、あるいは天上を見通していたのかもしれない。かと思えば、柔和な笑みを浮かべ、俗世のたおやかな婦女として振舞う。
「旦那さま、どうかなさいましたか?」
目の前にいる彼女は確かにこの世に存在しているはずなのに、何か繋ぎとめておくものが無ければ今すぐにでも御仏の座す場所へ逝ってしまうのではないか。俺はどうしようもない不安に駆られる。そのような時、俺はお妙の温かな手を握りしめて安寧を得た。
お妙が嫁いでより七年、俺たちは子を授かった。が、時を同じくして彼女は病に伏す。
医薬を尽くし看病をしても一向に回復せず、日に日に
肌寒い八月の夜、
「旦那さま、そんなお顔をしないでくださいませ。きっと健やかなお世継ぎを産んでみせましょう」
「違う……、違うのだ……。俺はお前のことが……」
目の奥が痛み、声が喉に貼りつく。言葉を
「それならば、なおさら心配することはございません。いったい何を怖がることがありましょう。死は
死が怖くないはずないだろう。生きたいに決まっている。救いを求めるというのならば、今すぐに救われるべきだ。頼む。逝かないでくれ。愛する女を失うくらいなら跡目など要らぬ。父祖からの叱責は甘んじて受けよう。例え俺が末代になろうとも、お前と添い遂げたい。末永く共に在りたいのだ。
俺の言葉は何一つ外に出ることなく、俺の中でぐるぐると渦巻いている。
「例えわたしが死したとしても、
そう言い残すとお妙は俺の手を離し、念仏を
俺は仏道というものに対して酷く失望した。元より信じてなどいなかったが、
お妙よ、お妙。どれだけ祈りを捧げようとも、その六文字はお前のことを、俺たちのことを救ってはくれないではないか。
俺は、安らかな顔で眠るお妙に縋りついて泣いた。心の在り処がわかるほどに泣いた。
いつまでそうしていただろう。障子越しに暁の光を感じる頃、赤子の泣き声が響き渡る。
――産まれた、産まれた落ちたのだ! お妙がその命と引きかえに産んだ子だ!
これが御仏の奇蹟だとでも言うのか。妻の命も、俺の心も、救ってはくれなかったというのに、子を慈しむ母の願いだけは叶える仏のなんと身勝手なことか。狂的に仏道を信じ続けた一人の女の結末が、俺の目前に広がっている。俺はこのやり場のない悲嘆をどうすればいい。
俺はお妙の忘れ形見を抱き上げた。
愛しい女が命懸けで遺した子を
◇
以下、蛇足です。
今回書いた掌編の大半は私の妄想ですが、元になった話があります。
江戸時代に書かれた『
今回参考にした話は、上巻に収録されている「吉田六郎左衛門が妻得益の事」です。「妊婦が祐天の信者だったから奇跡的に死後出産したぜ!」というお話です。たぶん妊婦は成仏できるだろうし、赤ちゃんは無事だし、一応はハッピーエンドなのかもしれないです。でも、なんだかやるせないですね。これのすぐ後に書いてある話が、「難産で死にかけたけど祐天が来てくれたから母子共に無事だったぜ!」というかんじなので、余計にやるせなくなってしまいました。
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