第2話 ワスレナグサ

ワスレナグサ…あの小さく可憐な青い花は日本には明治期に西洋から入ってきたと聞いている。悲しい恋の伝説と共に。

 

時は1935年4月。大日本帝国の北部にある東北地方最大の都市「杜の都」仙台市の東北帝国大学病院では一人の女性が病でいくばくもない命の終わりを、最愛の一人息子を残していく不安と無念に悩まされながら待っていた。


「看護婦さん、私の命ももうそう長くはないのでしょう?」


女性に問われた若い看護婦はハッとして慌てて首を振った。


「……そんなことないわよ、しづさん!それよりも今日はオットーさんいらっしゃるの?毎日のようにお母様のお見舞いにいらして感心ですわ。背が高くて容姿端麗で何よりあの青い宝石のような瞳が引き摺り込まれそうに素敵な方ですわ。白人の方は東洋人を腹の底では馬鹿にしているってうちの父なんかは言いますけど……オットーさんは本当に誠実でお優しい方ですね。今年はおいくつでしたっけ?」


病室の枕にもたれながらしづは微かに微笑んだ。


「19ですよ。私もオットーがどんなお嫁さんを連れてくるのか見たかったわ……」


「そんな……見れますよ、必ず!」


カツカツという靴音が響いてきたかと思うとしづの病室に前で止まった。そしていつものように低くて聞き心地の良い若い男性の声が丁重にドアを開けた。


「お母様、お加減いかがですか?今日はワスレナグサを持って来ましたよ。ほら、お父様とお母様が運命的な出会いを果たされたという教会の花壇から、神父様にお願いして小鉢に花を分けて頂いたのです。お母様を幸せに導いてくれた花ですからきっとお母様の病気も癒してくれるでしょう」


「オットー……私のことはいいのですよ。それよりも自分の将来のことをよくよく考えて、決して過ちを犯さぬよう、自分の幸せにとって最善の道を選んでくださいね」


「心配しすぎです、お母様。たしかに僕にはお父様のような天性の音楽の才はないけれど、それなりのピアノ弾きとして人々に教えたり聞かせたりすることはできますから……」


「そうではありませんオットー。あなたの身の上はこの国の天皇陛下に準ずるくらい本当は高貴な西洋の皇帝の血筋を引く身の上。そんなあなたを政治や戦争の道具として利用しようとしている輩はこの国にも外国にもおるかもしれませぬ。どうかそんな輩の甘言に惑わされないで。幸福とは自分で呼び込むもので他人に与えてもらうものではありませぬ。私もあなたには比べようもないけれど、戊辰戦争で賊軍であった仙台藩士の孫娘で、この国のあり方をけして良い気持ちで見守ってきたわけではありませんが、あなたのお父様が言っていました、戦争は戦争を生み恨みは恨みを生むだけなのだと。私もそう思います、過去を引きずって歩く人生は誰も幸せにはしないのです」


渾身の力を振り絞って訴える母の言葉にオットーは圧倒されたのかしばらく母の眼をじっと見つめるだけだったが、やがてポツリと呻くように言った。


「お母様……僕の生みの親はどちらも自分の子どものことは省みない、自分のことだけで精一杯の親でした。でも、日本に来て実の父の弟であるお父様とその妻であるお母様に育てられてわかりました。人は人のために生きてこそ優しくなれるのだと…お母様、僕は僕を救ってくれた人々とこの国のためにできる限りの恩返しがしたいです。それが僕を幸福へと導く道標なのです」


「オットー……」


オットーの母は涙を流した。オットーにはそれが母が自分の意志に対し感動して流してくれた涙だと思った。だが、母の病は回復することはなくその日がオットーとしづの最後の対話になった。


しづの葬儀は彼女がカトリック教徒であるため夫のルートヴィヒも眠る、夫妻が初めて出会った「ワスレナグサの教会」で行われた。その葬儀でオットーが母を送る言葉として述べたのは生前の母に最後に述べた言葉と同じであった。葬儀が終わってオットーが教会の外に出ると、一人の軍人の幹部らしき初老の男性がそのわりには部下一人連れずただ溢れんばかりの涙を手で拭いながら握手を求めてきた。


「オットー=フリードリヒ殿あなたは素晴らしい人だ。あなただけが本当の日本と日本人を思い遣ってくれる唯一の国際人だ」


オットーは驚いたが相手を思いやり穏やかに尋ねた。


「……ありがとう。お褒めの言葉恐悦至極にございます。母に縁があった方でしょうか」


「ハハハハハ…私は東京の生まれですが出身地は岩手でして、子供の頃は仙台にはよく遊びに来ておりました。その時にしづさんに道案内などしてもらった縁からずっと文通を続けておりました。こんなこと言うのはお恥ずかしいのですがしづさんは私の初恋の人でした。私は歩兵第24旅団長として今は遠く福岡の久留米に着任しております東條英機と申します。何かご不便なことがありましたら何なりと私におっしゃってください……あっそうそうあなたを待っていたのは私だけじゃない。ほらあそこにいる麗しいお嬢さんもそうですよ」


東條はそう言って教会の入り口にもじもじと立っていた切れ長の涼やかな眼が印象的で色白で長い黒髪を左横一本の三つ編みに束ねた美少女を手招いた。だが袴姿の女学生の彼女はまだ不安げな表情で「……ごめんなさい、私人見知りが強いものですから」とか細い声で呟いただけだった。東條は世話好きなのであろう、「大丈夫です。ここにはあなたに意地悪をする人は一人もいませんよ」と彼女に歩み寄るとその肩を押してオットーの元へ連れてきた。


「君の名は?」


「……ゆりえです。あの去年の歌唱コンクール優勝なさったって新聞で見て。あのその大変失礼かもしれないけど声も素敵なんだろうだけどお姿も大変カッコいいなと思って一度拝見だけでもしてみたかったんです……」


ゆりえは慎ましそうに見えて根は大変素直な少女であった。そして何より美しいが儚げな面差しが印象的にオットーには刻まれた。西洋にはいないタイプの美人だな、と思った。


「ありがとう……失礼なんてことはないよ光栄だよ」


オットーはゆりえを怖気づけないよう微笑んだのでゆりえは少し安心したのか微かに笑った。その顔が亡き母であるしづによく似ている気がした。その様子をまるで我が子たちを見るようにニコニコと見守っていた東條が言った。


「オットー殿にゆりえさん、あなた方は知っていますか?この教会に咲く青いワスレナグサの伝説を…」


「……いいえ」とオットーとゆりえは二人同時に口にした。


東條はおやおやという顔で「あまり縁起のいい伝説ではないんですがね、昔ドイツのある国の騎士が愛する恋人を連れて川辺を散歩していたところ、川岸の向こうにワスレナグサが咲いていて、それを恋人に摘んであげようとして川に入ったところ、その川が急流だったので騎士は足を取られ流されてしまったのです。恋人に詰んだワスレナグサを掲げて『僕を忘れないでくれ』と言いながらね。恋人は毎年彼の命日になるとワスレナグサの花を髪に飾って彼を偲んだということですよ」と語った。


「まぁ、可哀想に」


「それじゃここで出逢った僕たちもあまり良い未来が待ってないかもしれませんね」


オットーとゆりえが感慨深げな顔をして静まり返ったのを見て、東條は笑った。


「なになに遠い異国のいにしえの伝説じゃありませんか。あなたたちは厳しいかもしれないけど新しい時代に生きる人類だ。伝説なんて関係ないと証明してみなされ。他の誰が文句を言ったって私はあなた方二人を応援しますよ!」


春の夕陽が青い小さなワスレナグサに映えるのどかな日のことであった。

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Forget-me-not 戦争と革命の世紀の愛 仲野和哉 @svarog0813

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