第8話 憧れているだけじゃ、焦げつくだけなんじゃない?
「それにしても、猫……動物が多すぎじゃない?」
「……確かに、そうだね」
日原君が苦笑いを浮かべる。
私は、スカートに気をつけながら、しゃがみこんだ。この公園に少しずつ、猫や犬の数が増えている気がする。すっと、手をのばす――その手が、日原君に止められた。
「……え?」
「映画の時間がなくなっちゃうよ」
「あ、う、ん、うん」
ぐっと、力強く握られて思わず、ボクはガラにもなく狼狽えてしまった。近い、だから近いよ、日原君。
ボクは男の子と免疫がそんなにないのだ。5歳の爽君は幼過ぎる。遠藤さん達は、むしろ自分の子どもにしか見えない。実験室の研究者は、利害関係が一致したビジネスパートナー、もしくは敵ぐらいの認識でしかない。
こんな風に、女の子として接してくれたのは、日原君が初めてだった。
「でも、ちょっと触るくらい――」
「犬は狂犬病がある場合もあるから。無闇矢鱈と触るのは、賛成できないかな?」
「それはちょっと、心配しすぎなんじゃない?」
ボクは苦笑を浮かべながら立ち上がった。一歩歩み進めて――。
「そっちじゃないよ、水原さん」
またクイッと手を引かれる。
「映画館は、こっちの方向からの方が近いから」
「え、そんなことは――」
「迷子にならないでね? 意外に、水原さんって、そういうところがあるんだね」
半ば感心したように。そしてクスクス笑って、日原君はボクの手を引いて歩き出す。
「ちょ、ちょっと! 迷子になんかならないから! 身長は低いかもしれないけど、子ども扱いをしないでよ!」
ボクの必死の抵抗もむなしく、日原君はボクの手を引いてズンズンと歩いていく。
「日原君?!」
「……だって、はぐれたら大変でしょ?」
クスッと日原君が笑う。
どうしてだろう。
動物たちが次第に、少なくなっていく。
ボクは、振り返った。
目が霞む。
何度も何度も、空間がゆがむ。そんな錯覚すら憶えて。
数匹の猫が欠伸をする。
いつも見ていた、駅前の風景が、眼前に広がっていた。
■■■
実は映画館というものに、ボクは初めて入館した。
ボクのなかの認識は、ポップコーンを食べる場所。素直に言ったら、あーやに心底呆れた顔をされたのだ。
(失敬な)
2時間程度の時間を暗闇のなか、拘束されるのだ。それぐらいの楽しみがないと、この試練には立ち迎うことができない。
――姉さん、本気で言っているの?
爽君にまで呆れられて、
分かったことは以下の三点である。
①上映中は、静かにするように。ポップコーンは音を立てて食べない。だが、できるだけ多く食べたらなお良い。
この点は大丈夫だ。
②映画をスマートフォン等で撮影してはいけない。啓蒙PRのための、カメラが踊るコマーシャルでは一緒に踊るとなお良い。ダンスは憶えた。流石、ボク。完璧だ。
③映画のクライマックスでは、一緒に見に行った人の手をしっかり握ること。これは、友人としてのスキンシップとして必要不可欠である。
全てを華麗に実践した結果、見事に日原君に怒られた。いや、怒ったというのは正確じゃない。唇の端が半笑いで。無理矢理、日原君に座らされたのだった。
(あーや、謀ったね?!)
いや、冷静に考えたら、これは明らかにボクが悪い。
あーやの出した情報を鵜呑みにして、自分で精査しなかったのだ。そして、肩の力を抜けと言われた気がした。
ボクのなかでもう答えは出ている。集めた情報の整理はもう済んでいる。カラクリも分かってしまった。確証を得た今、あとは――。
「ひゃん?」
思わず飛び上がる。日原君がイタズラめかした笑顔を浮かべて、ボクの唇にキンキンに冷えたパフェ。それを掬って、ボクに差し出して――そのスプーンが唇に触れていた。
映画を見終わった後。僕らはカフェで余韻に浸っていた。トリップし過ぎて、思考が袋小路に入り込んでしまっていたらしい。
「へ? え?」
「美味しいと思うよ?」
「え、でも、それって……」
「はい、良いから」
にっこり笑って、日原君が、ボクの口にアイスを放り込んでくる。
それって、間接キスってヤツなんじゃ……いや、もちろん子どもに、そんなことをされてドギマギするボクじゃない。全然、こんなの平気で――。
「水原さん、顔が真っ赤だよ、大丈夫?」
「だ、誰のせいだと――」
「僕はまだ食べてなかったんだけれど。美味しかった?」
「――ッ」
日原君の一言で、ボクの頬どころか、体中に熱を帯びて、火がつきそうになるのを感じる。
「おあいこだよ。僕も今日、かなりドキドキさせられたんだからね」
「う、それは……」
緊張しすぎだった。だって仕方がないではないか。今までこうやって、男の子と遊びに出るなんて、したことがなかったのだ。あーやの偽情報を鵜呑みにした、ボクが悪い。
「これが、野原先生が言っていた仕込みか。まったく……」
そう言いながら、日原君は笑みを溢す。あーや、日原君に何を言って――。
「野原先生からの伝言ね。『茜ちゃんは慣れていないから、いくつか仕込みをしておきました。日原君、フォローお願いね』だって」
クスリと笑みを溢す。やられた、って思う。あーやの声が、脳裏に響く。
あのね、茜ちゃん。初めてのデートはだいたい気負い過ぎて、失敗しちゃうんだって。ちょっと力を抜くぐらいが丁度良いみたいよ?
――だから、デートじゃないって!
あの時、ボクがした必死の抵抗は、まるでムダだったワケだ。
「でも、意外だったなぁ」
「……なにが?」
こんな実験はしたことがない。流石のボクも未経験の領域を最初から完璧にできるはずがないじゃないか。ムスッとしながら、ストローでアイスコーヒーを啜った。
「水原さんって何でも完璧にこなす、そんなイメージがあったからさ。憧れていたんだよね」
「あこがれ……?」
「うん。誰に媚びるでもないし、自分のペースで行動できて、ちゃんと自分の意志をもっていて。本当に格好良いって思っていたんだ」
「ふぅーん」
ボクはあえて気のない返事をする。
「憧れているだけじゃ、焦げつくだけなんじゃない?」
「……」
日原君が、目を大きく見開く。
店内を流れるボサノバが、今だけはとても居心地の悪い。ノイズの方がまだ、良かったと思うくらい、窮屈感を感じる。
と、けたましく鳴り響いたのは、日原君のスマートフォンだった。
スマートフォンを取り出して、視線を落とす。
その顔が、凍りつくのが分かった。
「ごめん、水原さん!」
日原君が、手を合わせる。ボクは目を丸くするしかなかった。
「急用ができたんだ、支払いは僕がしておくから。今度、絶対に埋め合わせをするね! 水原さん、本当にごめんっ」
そう言うや否や、日原君は慌ただしく、席を立つ。ボクは目をパチクリさせて――それから、ガラス越し、彼の後ろ姿をただ、視線で追いかけるしかなかった。
「こちら、お下げしてよろしいでしょうか?」
恭しく、ウェイターが一礼をする。ボクは、アイスコーヒーを啜りながら、頷いた。
「トレー」
小声で、ウェイターが囁く。
監視型サンプル、弁護なき裁判団No.K――川藤さんだった。意外にカフェ店員の制服がよく似合っている。
「Ax-8765-PBポイントに
「やっぱり【
「観測値が足りませんが、推定ではおそらく。スポイトは【
「検証を怠るから、そんなことだよ」
「どうするつもりですか? 彼、
「遠藤さんは、測定を継続しているんだよね?」
「他のナンバーズも同様に、演算継続中です」
「より、多角的に分析して欲しいかな。あーやと、爽君にも協力してもらって良いから、お願いね?」
「――ENTER《エンター》」
「これを飲んだら、ボク達も行こうかな」
「トレーに提案が一つあります」
「うん、聞くよ」
「多少、まだ時間があります。ミルクティーでも淹れましょうか」
「それは助かるね」
少しでも、大人っぽく見せたくて。無理をして、コーヒーを頼んだのが、そもそもの失敗だった。口の中が今も苦くて仕方ない。
「川藤さん」
ボクはNo.Kに言葉を投げかける。No.Kがティーポッドから、ティーカップに茶を注ぐ、その瞬間だった。
「はい?」
「ボクに力を貸して」
「何を当たり前のことを」
No.Kは微笑む。それすら、A.Iが作り出した、プログラミングの成せるわざだと知りながら。
ボクは、きっと憧れていたんだ。
嘘の戸籍情報の元。研究のため、学校という場所にいるけれど。
もしかしたら、あの子達と同じように、青春を謳歌する。そんな
――憧れているだけじゃ、焦げつくだけなんじゃない?
どの口が、そんな言葉を紡いだのだろう。
■■■
『今度、絶対に埋め合わせをするね!』
日原君の声が、今も響く。
研究者は、本当に貪欲なんだ。
だから、って思う。
その約束、絶対に口約束じゃ終わらせてあげない――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます