エピローグ

帽子ヶ原

僕たちは間違える

ピンポーン。凡庸な玄関チャイムで目を覚ます。

「はーい」

ベッドから体を起こし、手が届く範囲にあった服に着替える。午前中に起きるのは久しぶりだ。一人暮らしの、それも春休み中の大学生を咎める者は誰もいない。誰かと約束しただろうか、勧誘だったら面倒だとか考えながら僕はドアを開けた。

「お届け物です」

扉の前には配達員が段ボールを持って立っており、サインを求めている。僕は部屋に戻って十数秒ののちにペンを発見し、苗字を書いてやると荷物を渡して彼は去っていった。

ドアを閉める。狭いワンルームの中でこの段ボールは著しく生活空間を害していた。宛先が僕になっていることを確認し、カッターで開封に取りかかる。


中に入っていたのは脳だった。ガラスの容器は上下が金属製で、天面にはラベルが貼られている。

『天宮琴音』

そこに書かれていたのは、僕が好きだった人の名前だった。


彼女は先輩と呼ばせたがっていたから、ニュースで先輩の死が報道されるまで僕が名前を知ることはなかった。春休みに入ってすぐの頃だっただろうか、先輩は大学構内で毒を飲んで死んだ。キャンパスは封鎖され、大学から当たり障りのない連絡が届いたが詳しくは覚えていない。当時の記憶はずいぶん曖昧になってしまった。

円筒形のポッドに入った脳は保存液の中で静止している。抱えてみると思ったより重く、この部屋の中で彼女の脳だけがリアリティを有しているように感じられた。ポッドを机の上に置く。上下のパーツをしばらく見回すと、USB端子が見つかった。パソコンを起動してケーブルでつなぐ。

[この脳は「天宮 琴音」の脳です。「中村 研人」さんで間違いありませんか?]

数回個人情報を入力すると、チャット画面が表示された。念のためヘルプを読んでおく。

[この脳は脳相続法によってあなたに譲渡されたものです。死後に特殊な処理を行うことで脳機能のみを復元し、この画面を介して会話することができます。]

ため息をつく。どこかのマッドサイエンティストが脳を再生する技術を開発してから、この世界はずいぶんと変わってしまったように感じる。拷問なんて非効率的な手段は衰退した。殺してから「俺はお前の上官だ」と囁くだけで脳はペラペラと機密情報を喋るようになったからだ。

でもこの悪趣味な技術にも欠点はある。死んだ瞬間に魂とでも言うべき機能が欠落するのだ。残された脳は体に繋いでもなぜか蘇生せず、経験も感覚も死の直前で止まっている。チャットで話しかけ続けたとしても関係性に変化が起こることはなく、ただ本人の思考回路をなぞるだけの機械でしかない。

だから多くの人と同じように、僕もまた本人と脳とのギャップを感じてしまうのだった。生前の先輩と比べて今は自分の世界に浸っているような発言が目立つ。いくらチャットを重ねても、彼女は僕のことを感じ取って話す内容を変えていたのだなあという感想しか出てこない。僕は押し入れに先輩をしまった。保存液を取り替えるのは半年後でいい。カラーボックスの上に置かれた脳は、人間だった頃をすっかり忘れてしまったようだった。

脳が思った通りの振る舞いをしてくれなかったことで、僕は先輩という存在の消失を一層強く意識してしまったようだった。春休み最後の一週間、僕はひたすら寝ることだけに集中した。頭の中を先輩で満たせば、夢で先輩と会うことができたからだ。夢の中の先輩はどこまでも先輩らしい言葉をくれる。睡眠に時間をつぎ込んだ僕は連絡を無視し続け、友人の電話によって大学の再開を知ることとなった。


僕たちは学食で向かい合って座っていた。

「珍しいな、お前がサボりなんて」

「今日が授業開始日だって知らなかったんだ」

彼はカツカレーをかきこみながら僕に話しかけてくる。

「どうした?そんな気難しそうに」こいつは僕をおもちゃにするときは決まってこの声色だ。

「唯一の親友に相談してもいいんだぞ~」

「やめてくれ鈴川、新学期早々そのノリに付き合えるほどの体力はない」

明確に拒絶の意思を示すと、鈴川の表情は一瞬にして元に戻る。

「……まあ何があったかは知らねえけどさ、せっかくの新学期なんだから明るい顔しといた方がいいと思うぞ」

先輩の一件によるキャンパスの閉鎖が明け、構内は人であふれていた。僕と鈴川の右隣に座っているグループも新入生だろうか、人気ナンバーワンのメニューを大事そうに食べている。

「あそこにいる本読んでる子、かわいくないか?」友人なりに心配してくれているのか、会話を絶やさないよう気を遣われているのを感じる。

「ああ、僕もそう思う」

息が止まるかと思った。鈴川が指した女の子に重なって、先輩がフラッシュバックしたからだ。先輩は白いロングコートを好んで着ていた、そして視線の先にいる女の子も同じ種類の服を着ている。たったそれだけの共通点で、僕の脳は先輩との記憶を再生してしまうらしい。

その後も他愛ない会話をぎこちなくこなし、鈴川はカツカレーの大盛りを、僕はうどんの並盛を完食した。

「じゃあ俺、マッチングアプリでデートの予定あるから」

「そういうのって実際に会ってがっかりしないのか?」

「いいんだよ、それでも案外楽しいし」

そう言って手を振ったまま、鈴川との距離は離れていく。パステルカラーの服を着た大学生が行き交うキャンパスで、僕は一人ぼっちになった。

鈴川と別れた後、僕は逃げるように家に帰った。あれ以上長居はできそうになかったし、正直あいつが切り上げてくれたのも好都合だった。ドアを閉め、深く息を吸う。息苦しさは消えない。入学したばかりの一年生は恥ずかしそうに、でも嬉しそうにしていた。大学生活に期待し、希望を持っているから彼らは生きていける。けれど僕にとって希望を形作る核は先輩で、それは失われてしまった。息を切らしたまま、僕は収納を開ける。先輩の脳が鎮座している場所。彼女と再び向き合わなければならなかった。

脳が入ったポッドをパソコンに接続する。雑談をしても、相変わらず先輩とはかけ離れた文章が出力されるだけだ。脳だけでは世界を感じることができず、新しく経験することもない。でも一度経験したことならどうだろうか。短く息を吸って、[僕と3ヶ月前に何をしたか教えてください]と入力した。すると、完全ではないにしろ答えが返ってきた。記憶と照らし合わせても時系列に間違いはない。こっちで補ってやれば、僕と先輩の思い出を一から再現できる。テキストに起こすことだって可能だろう。僕から先輩という完全なヒロインを分離するために。自分の人生を生きられるようにするために。僕は先輩の脳を使って美少女ゲームを作る決意をした。

前時代のゲームは開発に莫大な費用と労力を要したそうだが、現代のゲーム作りはさほど難しいことではない。僕は《図書館》の画面を開いた。この施設は死後30年が経過した脳、寄贈された脳を並列につないだ施設で、インターネットから容易にアクセスできる集合知として知られている。窓から見えるあの高い塔も、確か300万人の知恵が合わさった世界有数の《図書館》だったはずだ。

検索エンジンを一瞬で駆逐したこの公的サービスには学者や芸術家、そしてプログラマーの脳ももちろん内包されている。だからイメージを伝えてやれば数千人にも上るプログラマーの亡霊が同時に作業を開始し、300万人分の処理速度でコードが書き上がっていく。ヒロインの絵はちょっと画風が古かったけれど、根気強く指示を出したおかげか先輩の完璧さと繊細さをよくとらえていた。このようにして昼は大学で授業を受け、夜は美少女ゲームを作る生活を無理なく送ることができた。

プログラムはプロに任せているが、シナリオは先輩と僕の記憶をすり合わせたものだ。そのため、内容に齟齬が起きていないか確認するテストプレイの必要があった。暗い部屋でパソコンの画面を見ていると、吸い込まれそうな錯覚に陥る。

[……はあ。サークルの勧誘を避けて歩いていたら、大学に入って早々迷ってしまった。仕方ない、空き教室で休憩するか]

地下の教室の方が人がいないと思って階段を降りた。リノリウムと蛍光灯がどこまでも広がる廊下で、僕は一つのドアからこぼれるやさしい明かりをみとめる。その暖かさに引き寄せられるようにドアを開けた。

「ようこそ、入部希望で合っているかしら?」

彼女は光だった。


眩しさに思わず目を閉じる。

「ちょっと陽が強くなっていたわね、ごめんなさい」

先輩が室内のプリズムを2、3個動かすと僕はようやく彼女の姿をとらえることができた。

「これで見えた?」彼女はきらきらと笑う。

警備も巡回しない7号館のさらに奥、誰も使わない小さな教室を先輩は私物化していた。少しの茶菓子とティーカップ、それとたくさんのガラスやプリズム。地下教室には採光用の窓が取り付けられている。そこから差し込む日光は、反射と屈折によって教室を満たすまでになっていた。

僕は晴れた日には決まって先輩のところに通った。すなわち、ほぼ毎日だ。僕が一度サークル名を聞いた時には珍しくしどろもどろになっていたから、たぶんサークルなんてものは嘘なのだろう。それでも僕は彼女を先輩として慕った。きらめきに包まれたまま先輩と過ごす時間に比べれば、そんなことは些細なことだった。

先輩は聡明だった。僕の気持ちを見透かした上で必要な言葉をかけ、最後には決まって「気にすることはないわ、人生にはもっと大きくて素晴らしいものがあるのよ」と言い放つ。彼女の響かせる声と光が、心を濯いでくれるように感じた。僕が知らない僕の好みのお菓子を用意しては、驚く顔を見て少しだけ自慢気な表情をするのだった。


僕はパソコンを閉じる。開発は順調、シナリオに大きな修正は必要なさそうだ。先輩との時間を美少女ゲームとして残すという試みは今のところ成功している。記憶を初めから辿ることによって、僕は完成された映画を見ているような俯瞰した視点を手に入れた。だから彼女の物語はもう終わったのだと受け入れつつあった。


「研人ー、こっちだぞー」

鈴川がオーバーに手を振る。僕は店の前でたむろしている彼らに合流した。

先輩の喪失から立ち直りつつあった僕は、着々と生活能力を回復していった。大学に出席し、バイトをこなし、鈴川に誘われて入部したサークルで活動する。今日はサークルの飲み会だった。

「全員揃ったな、じゃあ入るか」

部長の言葉を皮切りに、ぞろぞろと居酒屋に入店する。厨房の音、他のサークルであろう大学生が騒ぐ声、やけに強い照明。暴力的なまでの情報量に顔をしかめる。人数が多いから数台のテーブルに分かれて座り、その結果僕、鈴川、部長、女子生徒一人が同卓になった。

「中村はまだだったよな、こちらは一年の瀬田さん」

「瀬田です、よろしくお願いします」部長の紹介に合わせて、彼女は小さくお辞儀をした。

「初めまして」

そこに鈴川が割って入る。「こいつ、瀬田のことかわいいって俺と話してたんだよ」そう言って俺を小突いてきた。

「えっ?今日が初対面だったはずだけど」

僕は記憶を辿ってみるが、彼女に見覚えはない。

「直接は会ってないけどさ、ほら、学食の時」

鈴川はそう答えた。

「ああ、あの白コートの」

僕は改めて彼女を見てみる。今日は淡いピンクのカーディガンを羽織っているようだ。目を大きくして笑う彼女は先輩とはぜんぜん違うタイプだった。

「でも惜しかったな、瀬田は彼氏いるんだもんな」

「いやー、なんかすみません。ラブラブなんで」

勝手にフラれてしまった。彼氏のことを聞くと、瀬田さんは嬉しそうにスマホの画面をこちらに向けてくれた。写真には面倒見のよさそうな青年と瀬田さんが夜の街をバックに笑っている。

「楽しそうだね。良い彼氏さんなんだろうなあ」

「そうなんですよ。相談とかも乗ってくれるし。もちろん彼氏の話もちゃんと聞くんですけど」

「いや、彼君めっちゃ頑張ってるじゃん」

「本当、彼氏のおかげで大学生やれてるみたいな感じです」

瀬田さんの彼氏で盛り上がる僕たちとは対照的に、部長は考え込んでいるようだった。

「いや、そうやって本心をさらけ出せる関係が一番だよな」

そうこぼした部長が瀬田さんは気になるようで、

「部長は彼女さんと上手くいってないんですか?」

と聞いてしまった。

「いや、上手くいってないわけじゃないんだけどさ。俺、わりと頼られようとするところがあるだろ?だから彼女の愚痴を聞くばっかりで、自分は溜め込んじゃうんだよ」

部長のチャットアプリには、部長の彼女から長文が毎日のように送られてきていた。

「それ、疲れません?彼女さんに言った方がいいですよ」

見かねた鈴川が諭すように言う。確かに今の部長は辛そうに見えた。

「でも、彼女も慰めてくれる俺を求めてる部分もあるから」

「そうかもしれませんけど」

「まあまだやってみるよ」

僕も加勢したが、先輩の意思は揺らがなかった。


家に帰った僕は、日課のテストプレイを進める。思い浮かぶのは、瀬田さんの幸せそうな顔だ。僕も誰かに心を開き、誰かの心を受け入れる覚悟を持てばあんな風になれるのだろうか。そう思った時だった。ゲームの進行を揺るがす、重大なバグが見つかったのは。


[「あなたは結局わたしと同じになることはできないのよ。」そう言ってコトネは僕の前から姿を消した。数日後、コトネは毒を飲んで死んだ状態で発見されたのだった。]


またこれだ。僕は思わず天を仰ぐ。何回やってもどんな選択肢を選んでもヒロインが死ぬバッドエンドで終わってしまう。僕はゲームを主人公のケントとヒロインのコトネが結ばれるトゥルーエンドで幕を閉じるように設定した。いくつかのルートのうち疎遠になるものこそあれど、コトネが死ぬものなんてそもそも作っていない。それにコトネが去り際に吐いていく言葉もその死因も、現実に起こったそれと全く同じだった。改めて僕と先輩の別れを体験させられると乾いた笑いが出る。こんなエンディング、ぶつ切りもいいところだ。パソコンの側に置かれた先輩の脳を見やる。たぶん、僕はずっと怖かったのだ。彼女の記憶そのものともいえる脳を受け取って、知ってしまうのが怖かった。なぜ先輩はいなくなったのか、なぜ彼女は死んだのか。そこに関連はあるのか。だとしたら、僕が彼女を死に至らしめたのだろうか。

彼女の脳にアクセスし、チャット画面を開く。

[なぜあなたは死んでしまったのですか。]


明くる日、僕は大学のキャンパスにいた。授業時間はとっくに過ぎていたが、頭の中からそんなことはすっかり抜け落ちていた。3ヶ月ぶりの7号館には相変わらず人の気配はない。階段を降り、先輩と過ごしたあの地下教室へと向かう。位置は体が覚えている。教室の中には主を失ったガラスたちがそのままの状態で置かれ、陽光を無秩序に反射していた。その中でもひときわ大きいプリズムを手に取る。埃を被ったそれを動かすと、下の手紙が顔を覗かせる。指示通りだ。僕が昨日彼女の脳から得た返答は、この手紙の在り処だった。そして、手紙はこの教室で読んでほしいとも指示されていた。先輩との思い出が詰まった場所で、僕は彼女自身に触れるように封を開ける。


この手紙を読んでいるということは、わたしの死を受け入れる覚悟ができたということね。おそらくはわたしの記憶によってここに誘われたと思うのだけれど、どうかしら。話を戻しましょう。あなたが知りたいのはなぜわたしがあなたから離れなければならなかったのか、なぜわたしが死ぬ必要があったのか。

その答えはわたしがあなたを愛していたからよ。あなたよりも先に。

すべてが始まった日、わたしのもとにやってきたあなたは光だった。わたしが集めてきたどんなガラスよりも輝いていたわ。この地下教室はね、私の城だったの。あなたは信じられないだろうけど、わたしは人通りが多いところだと過呼吸になってしまうのよ。

そんなわたしの心を、あなたはいとも簡単に開いてみせた。あのときは自分の場所がなくなると思ってとっさにサークルの形をとったけれど、正解だったわ。わたしを慕うあなた、わたしを侵さないように触れるあなた、わたしと笑うあなた。運命だと思った。

でもわたしは不安だった。あなたがいなくなってしまわないか、怖くて怖くてたまらなかった。だからあなたのことを知ろうと思ったの。まずあなたの鞄にGPSをつけることから始めたわ。そうしたらあなたの家がわかったから、次はあなたの家にカメラをつけた。あなたの行動がカメラを通して送られてくるようになったから、ある時あなたの真似をしてみたの。体に稲妻が走ったようだった。わたしという存在があなたと一つになっていくのを感じたわ。数日のうちに同じ間取りの部屋、同じ家具を揃えてあなたをトレースする生活が始まったの。だんだんあなたの思考が読めるようになってきて、試しに出したお菓子で喜んでもらえたときは本当に嬉しかった。満たされた日々だったわ。

それからあなたがわたしを好きになった。あなたは分かりやすいからすぐに気付いたし、おしゃれにも気を遣うようになったわね。わたしはついに来た、と思ったわ。ついにわたしとあなたは一つになれる。嘘も裏切りもない関係になれる。だけどわたしは気付いたの。嘘をつかれるのが怖くて一つになろうとしていたのに、わたしの方が嘘をついていたのね。あなたの部屋に数十台のカメラを置いているのに平気な顔をしてお喋りしているんだもの。そもそも性格でさえ悟られない程度にあなたの好みに寄せていったのよ。あなたのタイプがわたしに近くて助かったけれど。

どう?気持ち悪かったかしら?わたしはひどく醜く見えたわ。嘘が怖いのに平気で噓をつく自分に耐え切れなかった。そしてわたしは罰を受けることにしたの。死によってあなたにしたことを償おうと思った。同時に一筋の希望を見たわ。脳でさえサルベージされてしまうこの世界で、ただ一つ自由なものは何だと思う?魂よ。死の瞬間に魂は肉体から解放されてしまうから、脳は感じることも経験することもできないの。魂という不定形な状態なら、本当の意味でわたしたちは一つになれるかもしれない。そう思ったとき、わたしから迷いはなくなったのよ。

わたしは醜い自分のままあなたと一緒にいるのが苦痛だったからあなたを拒絶し、あなたと魂の状態で一つになりたかったからわたしは死んだ。こんなわたしとだとしても一つになりたいのなら、わたしと同じ毒を飲める?


読み終わったと同時に、文鎮代わりに置いてあったプリズムが壊れる。中には小瓶が閉じ込められていたようで、僕は注意深くそれを取り出した。

独りよがりだ、と思う。勝手に僕に恋をして、勝手に僕を監視して、結局自己嫌悪で自殺する。傷つけられた僕の身にもなってほしい。嘘も裏切りもない関係なんてありえない。僕たちは初めから幻想を見ていたんだから。僕には先輩の言うような輝きはないし、先輩は聡明だから人の考えが読めるんじゃなくて僕をストーカーしたから僕のことがわかるだけだ。でも、僕は彼女を赦そうと思う。先輩は僕に嘘をついて裏切ったけれど、それでも地下教室で共に過ごしたあの時間は胸の中であたたかく光ったままだった。たとえ虚構の上に成り立つ関係だったとしても僕はよかった。秘密を話すのが怖くても、いくらでも待っていられる自信があった。死んでから手紙を渡すやり方なんて必要なかった。

小さな笑いが出る。先輩、見かけによらず不器用だったんですね。僕はどんな先輩だって愛せるのに。

小瓶を手に取る。ガラスが太陽を反射していた。


先輩、今どうしてますか。死んだら魂が肉体から解放されるのなら、先輩の魂はどこにいるんでしょうね。なにか運命のようなものであなたに届くと信じて、この手紙を書いています。

僕はあの後、毒を飲まない選択をしました。でも、僕はあなたのことを忘れたくなかったのです。毒の入った瓶を強く握り、壊れた小瓶は手の中にいくつもの傷をつけました。痛みはまだ残っています。

そして、嘘を二つつきました。一つは全世界に向けた嘘です。僕は一人でケントとコトネのハッピーエンドを書き上げ、インターネット上で公開しました。シナリオが評価されて、素人が初めて作ったゲームにしてはそこそこの人にプレイしてもらえました。研人と琴音の密かな失恋は僕たちの中にしかありませんが、ケントとコトネが結ばれた未来は多くの人に楽しんでもらえています。もう一つは、あなたの脳に向けた嘘です。あなたの脳に[中村研人は死んだよ]とチャットを送ってみました。すると、[ありがとう、優しいのね]という言葉を残して応答しなくなりました。思うにあなたは僕が手紙を読んだ上で生きることを選び、僕が死んだという嘘をつくことまでわかってたんじゃないでしょうか。それなら僕は一生かかっても先輩には勝てないような気がします。

僕はまだあなたの脳が遺したメッセージのことを考えています。あなたが生きていても死んでいても、そもそも誰と話していたって言葉が真実である保証なんてない。なら、お互いに虚像を見て幸せな嘘の中で生きるのもいいと思うんです。きっとこれからも僕は嘘をついたり、言葉が嘘になったりすると思います。

それでも、僕のつく嘘のいくつかは僕たちにとってささやかな救いになると信じています。

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エピローグ 帽子ヶ原 @boushi_ghr

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