妖怪たちのバレンタイン――雷獣少年と狐娘(♂)
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今年も二月十四日が訪れた。世間で言う所のバレンタインであり、もちろんその事は雪羽もちゃんと知っていた。人間のそれとは異なるものの、バレンタインの行事そのものは、妖怪たちの間にも伝わり、定着しているためだ。
もちろんというべきか、雷獣である雪羽もまた、昨年までは何かとバレンタインで浮かれ、そしてその浮かれっぷりでもってオトモダチを楽しましていたはずだ。人間たちと同じように女の子から雪羽はチョコレートを貰い、豪胆にもそれを貪り食う。それが雪羽のバレンタインだった。
もちろん、雪羽がチョコレートを貪り喰らう事は保護者たちにはすぐにバレてしまうし、バレれば大目玉を喰らうのが常だった。チョコレートは人間には無害な食材であるらしいが、多くの妖怪たちにとっては危険物である為だ。厳密に言えばチョコレートに含まれるテオブロミンが中毒症状の原因になるらしい。
犬や猫がチョコレート中毒になるという話は有名であるが、獣妖怪の場合でも同じような事が起きうるという話だ。妖力の多い妖怪であれば、ネギ類だろうがチョコレートだろうが有毒成分の害を力技で抑え込む事が出来るという。だが、一尾や二尾程度のその辺にいるような一般妖怪ではそんな事すら難しいのが実情だ。
従って、妖怪たちの間で行われるバレンタインでは、チョコレート以外のお菓子や季節の果物をプレゼントするのが通例だった。ある意味、妖怪たちの行っているバレンタインは、欧米のバレンタインに近い物なのかもしれない。バレンタインとチョコレートが強く結びついたのは日本特有の事であり、それも港町にある菓子メーカーの戦略であるという説もあるのだから。
いずれにせよ、今年は雪羽がチョコレートを貪り喰らうというスリリングでエキサイティングなバレンタインはやってこないであろう。グラスタワー事件をきっかけに、これまで雪羽がつるんでいたオトモダチ連中とは縁が切れてしまったからである。
雪羽の養母である月華や叔母の天水はバレンタインにプレゼントを用意してくれているらしいが、クッキーやビスケット、あるいは果物をふんだん使ったタルトなどと言った、獣妖怪が食しても安全な物である事は言うまでもない。
あくまでも、チョコレートという危険物を口にして大丈夫であるというパフォーマンスが通じるのは、ノリのいいオトモダチ連中だけである。今となっては公私ともに親しい間柄となっている源吾郎も、雪羽がチョコレートを食べようとする事にはいい顔はしないし、そうなる前に全力で止めにかかるのは明らかだ。そもそも源吾郎も、妖狐の血が濃いという事で、用心してチョコレート類は一切口にしない程なのだから。
そんな訳であるから、普段通りに仕事をこなす一日になるのだろうなと雪羽は考えていた。職場の妖怪たちからバレンタインであるからと何かを貰う事は無いだろうし、貰ったら貰ったで相手は上司や先輩であるから何となく気まずい。
別に気負ったり構えたりせずに、普段通りに過ごしていれば良いのだ。雪羽はそんな風におのれに言い聞かせていた。特におかしな事は起こりはしないだろう、と。
だからこそ、雪羽は今、眼前の光景に強く驚いているのだ。
始業時間前。いつものように研究センターに出社した雪羽は、妖狐の少女が待ち構えているのを発見した。歳の頃は人間で言えば十七、八ほどであろうか。雪羽より背は高く、すらりとした身体つきが特徴的だった。あどけないがその面にはある種の気品も具えており、落ち着いた雰囲気の美少女だった。眼前の相手を美少女だととらえた事に、相当な忌々しさを感じはしたが。
目の前にいる少女が何者なのか、雪羽はきちんと知っていた。因縁浅からぬ相手と言っても遜色は無いほどに。
少女に化身したこの妖狐の名は宮坂京子という。昨年の生誕祭では、スタッフとして昼から夜までぶっ通しで働いていたのだ――泥酔した雪羽が、京子にちょっかいを掛けるまでは。
もっとも、宮坂京子と名乗るこの妖狐は、見た目通りの可憐な少女などではない。何せ宮坂京子というのは、源吾郎が変化した姿に他ならないのだから。要するに、姿は普段とは異なるが、源吾郎と雪羽が向き合っているだけの話である。地味に堅牢なセキュリティで護られている研究センターの中に、宮坂京子が足を踏み入れていても何らおかしな話ではない。大本が源吾郎なのだから、不審者認定は下りなかったのだろう。
それはそうと、雪羽は京子――便宜的にそう呼ぼう――を前に戸惑いを隠せなかった。突如現れた京子の意図が読めずにいた訳であるし、何より過去の所業を思い出してしまい、どうにも心が落ち着かない。
「どうしたの、雷園寺君。折角のイケメンさんなのに、そんな怖い顔をしちゃったら台無しじゃないの」
ここにきてようやく京子が口を開いた。つぶらな瞳をしばたたかせ、小首を傾げながら。ごくごく自然な、少女の可愛らしい姿である。中の
「どうしたって、そんなのはこっちが聞きたい位だよ!」
とうとう雪羽は吠えた。宮坂京子に対してではなく、島崎源吾郎に対して。
「島崎先輩! 何だってそんな格好で化けて出てやがるんですか。先輩が、女の子に変化するのが大好きなのは百歩譲って目をつぶってあげますけれど、よりによって、この俺の前で宮坂京子として姿を現すなんて……!」
「化けて出るだなんてご挨拶ね。私はちゃんと生きているんですから。何ならこの肌の下に熱い血潮が流れている事を、触って確かめてみてもよろしくってよ」
そう言って京子はにたりと微笑んだ。実際には、その容貌に違わぬ可憐で清楚な笑みが浮かんだだけにすぎない。だが雪羽には、その笑みの背後で、禍々しい妖気が漂っているのはお見通しだった。女狐の子孫も女狐なのだと思い知らされた。
更に言えば、源吾郎としての話術の巧みさも京子は受け継いでいる。源吾郎は真面目な気質の青年なのだが、やけに弁が立ち言葉を操るのが巧みな一面をも持ち合わせていたのだ。
しばし京子を見つめていた雪羽であったが、ややあってから深々とため息をついた。京子の化けの皮を剥がす事を諦め、それと共に源吾郎の行っている茶番に付き合う事を心に決めたのだ。
京子の姿で現れたのには多少ぎょっとしたのだが、それも源吾郎の遊び心だと思ったら可愛い物ではないか。そんな風に雪羽は思い始めていた。ただでさえ、源吾郎は週初めに打ち合わせやら賓客との会合やらに付き合わされたのだ。どんな話が行われたのかは雪羽は知らない。だが源吾郎がそれで神経をすり減らし、色々と思い悩む事があったという事だけは、昨日の彼の姿を見ていれば明らかだった。
だが今日はこうして茶目っ気を出して雪羽に相対しているのだから、悩みや心労からいくらか心が解放されたと思ってもばちは当たるまい。もっとも、あまりにもテンションが高い場合は、それはそれで気を付けなければならないのだが。
「おはようございます、宮坂さん。それにしても、今日は朝からどうされたんです? まぁその……昨年の事もありましたし、俺の事なんぞ、あなたはすっかり嫌っておいでかと思っていたのですが」
嫌っているのではないか。何気なく放った雪羽の言葉に、宮坂京子に扮していた源吾郎の表情が揺らぐのを見た。だが向こうもすぐに気を取り直したらしい。次の瞬間には、宮坂京子は静かに微笑んでいるだけだった。仮面のようなしらじらしい笑いではない、心からの笑みだった。少なくとも、雪羽にはそう見えた。
「生誕祭の事でしょう。もうね、その事は別に良いのよ。確かに私も驚きはしたけれど、特に何かされた訳では無いもの。それに、雷園寺君もあの後色々と反省して、それで真面目にやってるって事は、私も知ってるから」
そう言ってから、京子はハッとした表情を浮かべ、そうした近況は萩尾丸から聞いたのだと言い足した。何と言うか、その辺りの整合性をも考慮する所が、茶番にしては気合が入っている。そんな風に雪羽は思った。源吾郎は演劇に耽溺し、心酔している事を雪羽は知っていたのだ。たとえ源吾郎自身が、口ではそんな事は無い、演劇などは所詮は能力を磨くための道具だと言っていたとしても、だ。
結局君は何をしに来たのだ。雪羽が京子に尋ねる必要はなかった。既にその事について京子の方から口にし始めたからだ。
「あのね雷園寺君。今日はあなたにバレンタインのプレゼントを渡そうと思って、研究センターにやって来たの」
「バレンタインの、プレゼントだって……!」
雪羽が驚きの声を上げると、京子はその通りだと頷き、自信たっぷりに微笑んだ。
「雷園寺君も、去年までは色んな
ふと京子の手許を見ると、彼女はいつの間にか紙袋を手にしていた。さっきまで何も持っていなかったように見えたが、得意の妖術で紙袋は見えないようにしていたのかもしれない。
「はい、どうぞ雷園寺君。義理チョコ……? になるから、別にお返しとかは気にしなくて良いから、ね」
チョコと言うべきなのかどうか戸惑ったのは、獣妖怪がチョコレートを食べない事を京子も知っているからだろう。というよりも、普通に獣妖怪でチョコレートをプレゼントした場合、嫌がらせだと見做される事も珍しくないそうだ。雪羽ならば「こんなの平気だぜ!」とばかりに平らげるだけなのだが。
とはいえ、妖怪社会でもバレンタインのプレゼントは○○チョコと言う塩梅で呼びならわすのだが。チョコはチョコでもチョコレートではなくてちょっとした物の略であるなどとも言われているが、それはまた別の話である。
義理チョコなんだな。雪羽が言うと、京子はふいに照れたような表情を浮かべた。
「そりゃあ当然でしょ。私……もう付き合ってる
消え入りそうな声でそう言うと、京子はたまりかねて目を伏せた。白く滑らかな肌は湯だったように紅潮している。初々しいやつめ。雪羽は何も言わずにうっすらと笑う。付き合っている
京子はやおら顔をあげると、雪羽の顔をしっかと見据えて言い放った。
「ね、ほら。私の顔なんて見ていても面白くないでしょう。それよりも、ちょっとだけプレゼントを確認してみて、ね」
急かすような京子の言葉に雪羽は首を傾げる。すると京子は、火照りがやや収まったその顔に笑みを浮かべながら言い添えた。
「この前もチョコレートがどうだとか、ブラックチョコレートでもイケるとかって話をしてたでしょ。だからね、雷園寺君の為に良いのを探したの。きっと喜ぶと思うわ」
「何だって!」
笑みを浮かべる京子に対し、雪羽はまたしても驚きの声を上げた。チョコレートを食べたそうにしているからチョコレートをプレゼントした。京子が、というよりも源吾郎が雪羽に対してそんな事を行うなどと言う事はまずありえないからだ。獣妖怪の多くにとって、チョコレートが危険である事を源吾郎は知っている。腐るほど妖力があるのに用心して口にしないばかりか、雪羽がオトモダチの前でチョコレートを食べたという話ですら、眉を顰めるような男なのだ。そんな彼が、わざわざチョコレートを用意するだろうか。京子としての嫌がらせだったとしても、彼の性格を考えれば度が過ぎている。
それに――手渡された紙袋からは、チョコレートの匂いは漂っていない。クッキーかビスケットと思しき焼き菓子の香りはするのだが、焼き菓子について言及している訳ではあるまい。むしろ焼き菓子の方は果物のジャムの香りが漂っていた。
驚く雪羽を前に、京子は笑みを深めた。
「うふふ、気になるのなら中を見て見ても良いのよ」
「言われなくともそうさせてもらうぜ」
雪羽は言うと、紙袋のテープを手早く丁寧に剥がし、中に収まっているプレゼントを確認した。焼き菓子の香りを放つ小さな紙袋と共に、チョコレートの箱が入っているではないか。いや……有名なチョコレートメーカーのパッケージにそっくりなその箱には「チョコレートパズル」の文言が記されていた。
雪羽は京子から貰ったチョコレートを紙袋から取り出す。板チョコだと思って持ち上げるとそれはずっしりと重く、そして樹脂同士がかすかにぶつかる音が聞こえる。ビターなブラックチョコレートを模したそのデザインの箱には、「パズル」「難易度」そして「注意:食べられません!」という文言が躍っていた。
何という事は無い。本物のチョコレートではなく、板チョコを模したパズルだったのだ。雪羽はしばし板チョコパズルを見つめていたが、京子の方に視線を転じるや、大口を開けて笑い始めた。
「ははっ、ははははは。そうか、先輩がしたり顔でチョコレートをプレゼントするって仰っていたからさ、なんのこっちゃって思ったんだよ。ああだけど、チョコレートの形のパズルだったんだな。あはははは、こいつは一本取られたぜ」
「そうかい雷園寺君。君にそこまで喜んでもらえるとは、探した甲斐があったってやつさ」
笑い交じりに雪羽が言った時には、既に源吾郎は変化を解き、見慣れた青年姿で雪羽に向き合っていた。彼もまた、雪羽が喜んだ事が嬉しいのか、その面には無邪気な笑みが浮かんでいた。
注意:本文の描写はあくまでも物語内での表現です。犬や猫などのペットにはチョコレートは有害なので、絶対に与えないでください(筆者より)
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