第2話

「一之助。どうだ、あの子の様子は」


 権田一之助ごんだいちのすけ。少女を事務所に連れて帰ってきた男の名だ。昨日抱えたまま事務所に戻り、物置に布団を敷いて休ませている。


「まだ熟睡してますね。とりあえず栄養失調だけでも何とかしたいと思って、安原さんに頼み点滴を用意してもらいました。あとは目覚めたら、すぐに食事とれるように準備はしてます」

「そうか。あの汚れっぷりだと、食事よりも先にシャワーを求めるかもな」


 そう話すのは、東浦恵介ひがしうらけいすけ。今二人がいるこの事務所、「東浦法律事務所」の代表だ。権田はこの事務所の従業員、という立場になる。


「東さん。あの子、どこかで見たことがある気がします」

「ほう……お前が相手にする女にしては、少々若すぎる気がするが……いや否定はしないけどな」

「いや、そうではなくて……一年前に、学生運動があったでしょう。あの一件で当局に捉えられたメンバーの中に、あの子がいた気がするんですよね」

「あれか……主導してたメンバー、確か警備隊に殺されたって噂で聞いたぞ。悲惨な事件だったな」

「ええ、僕もそう聞いてましたけど……」

「目覚めたら、本人に聞くのが手っ取り早そうだ」


 東浦はそう言って立ち上ると、事務所の出入口へ向かう。


「一之助、裁判再開プロジェクトの会合があるから、行ってくる」

「分かりました。私は新宿Hビルの漏水トラブルの示談交渉の件をまとめないといけないので、今日はここにいます」

「……ああ、あれか。厄介なヤツだな。まあ、あの子もいることだし、留守番頼むよ。じゃな」

「東さん」


 扉を開けてまさに出ようとした東浦を呼び止める。


「あれから、三年経ちましたよね。……まだこんな風景を見るなんて、正直、落胆しました」


 東浦は開けた扉を、静かに閉める。


「何に、落胆した?」

「まだ食事もできないような子が、死にかけの子が街にいることに、です」

「……お前が救ったじゃないか」

「僕が見つけなければ、あの子は死んでました」

「そうだな、お前のおかげであの子は救われた。いったい何が問題だ?」

「……社会が、まったく成長してません。まだ職に就かない人もいるし、強奪は絶えない、警察が居なくなって、無法地帯も増えたし、手の入らない地域もたくさんあって、飢えに苦しむ人もいる……三年経っても、変わってないじゃないですか」


 権田の言葉を聞き、東浦は少し考えながら机に戻り、席についた。


「誰かのせいにしたら、何か変わるのか、一之助よ。この三年、田上総理のお陰で何とか俺たちは生きることができている。賛否はあるけどな、あの人がいたから、この程度で済んでるとも言えるだろう……俺は少なくとも評価してる」

「……昨日、新宿界隈だけで強盗二件ですよ。治安が悪すぎる……おかげで誰も商売をやりたがらないから、全ての商いが廃れていってます。これでも、この程度で済んでる、と言えるんですか。学生運動だって……」

「ならお前が警察をやるか?ありもしない社会のせいにするか?違うだろう。思うことはいくらでもあるさ……だから裁判も復活させたいし、法律も再整備したい。現状に納得がいかないなら、自分でやるんだ。俺に文句言ったって、何にも解決しやしない」

「そんなつもりは……」


 東浦に対して、権田は言葉を詰まらせる。無意識に批判を口にする自分に、自身が最も嫌悪感を抱いていた。


「政府は存在するし、テレビも映るようになり、ついにはインターネットも繋がるようになった……社会はんだよ……不思議だな。実態は、一之助の言う通りだ。じゃあ、どうする?」


 東浦は25歳の時に独立して事務所を立ち上げ、新宿界隈では一番の法律事務所と持て囃されていた。もちろん世界が変わる前の話だが、それは並大抵のことではない。そして権田は東浦と、世界が変わる前からの付き合いだ。互いを、よく知っている。だからこそ、話せば話すほど浮き彫りになる自分の不甲斐無さが、疎ましく感じられた。

 返事をしない権田をよそに、東浦は再び立ち上がり入口の扉を開く。


「お前の気持ち、分かるし否定はしない。その文句だって、パワーになることもあるからな。だからこそもう一歩だ、今のお前が作り出す思考の向こう側に行ってみろ……じゃあな」


東浦はそう言い残して事務所を出て行った。


「思考の向こう側……」


 東浦は常に、抽象的なアドバイスをする。権田にとっては聞いた瞬間、大抵が摩訶不思議な言葉でしかないが、時間が経つにつれて理解したとき、幾度となく点と点が線で結ばれる感覚を味わってきている。東浦とは、そういう人間なのだ。権田は、それをよく知っている。

 受け取った言葉を噛み締めながら、権田は仕事に着手するのであった。

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