第91話 幸福、虚像、逸脱1 <ルフル視点>
「ごめんなさい、セツナさん。今のあーし、めっちゃ足を引っ張ってるよね……」
ぐったりしているあーしの身体を、肩を貸して支えてくれているセツナさんに向けて、こんなことを言うべきじゃない。そんなことはあーしも理解しているが、言わずにはいられなかった。
「……お前のスキルは、あの小僧の身体を動かしている」
セツナさんの声は鋭く、低いかった。
「お前が居なければ、私も小僧も、あの黒フードに斬り捨てられていただろう」
睨むような目つきのセツナさんが、アッシュ君と黒フードの少女の激烈な打ち合いを見据えていた。あーしの身体を支えるセツナさんの腕が、微かに震えているのが分かる。
「この場で足を引っ張っているのは、私だけだ」
奥歯を噛み締める音と共に、セツナさんが溢す。あーしを黙らせるように。あーしは何も言えなくなる。ただ、セツナさんと同じく、アッシュ君が戦う姿を見守った。
あーしの半身は、今もアッシュ君に接続されている。
ネクロマンサーであるレーヴェスの特殊な魔術、恐らくは肉体機能そのもの奪うような魔術によって、アッシュ君の身体の自由は奪われたままだ。だが、あーしの人形遣いのスキルによって、今のアッシュ君は自分の体を動かすことができている。
だが逆に言えば、あーしの役割はそれだけだ。
戦闘に於ける感覚も判断も技術も、全てはアッシュ君の意志を反映している。
今のあーしは、アッシュ君の肉体機能を補助する装置に過ぎない。
あーしは、アッシュ君の戦闘に入り込めない。
半グロッキー状態のあーしは勿論だが、そのあーしを支えてくれているセツナさんも、そもそも近づけない。
アッシュ君に襲い掛かっている黒フードの少女=アナテが纏う鎖の嵐が吹き荒れていて、周りにある植え込みの木々をへし折り、引き裂き、薙ぎ倒し、バラバラに砕き散らしているからだ。
魔力で編まれた鎖の濁流と共に、アナテは猛烈無比な手斧の連撃によってアッシュ君を脅かし続けていた。
だがアッシュ君は、棒術のように杖を巧みに扱い、絶妙な身体の捌き方と足の運び方を駆使して、それらを打ち返し、跳ね返し、逸らし、往なし、躱し、ときに攻撃に転じながら対処している。
だが、傍目から見ていても、もうアッシュ君は限界だ。無理だ。あーしの指から伸びる魔力の糸は、まだアッシュ君に繋がっている。だから分かる。本格的にヤバい。
アッシュ君は、あの少女に今にも押し切られそうだ。斬撃と暴力の濁流に飲まれつつある。何とか耐えているが、それもギリギリだ。既にアッシュ君は傷だらけだし、血塗れだった。
あーしの持つ人形遣いスキルで身体を動かしているアッシュ君が、本来の力を発揮できていないというのも、あの苦戦の原因ではあると思う。だがそれ以上に、アナテが強過ぎる。
アッシュ君との戦闘に入る前にも、アナテは正面からの白兵戦でサニアを退けているのだ。恐らく本気だったセツナさんの居合斬りの連閃、あの超絶な技でも仕留めきることができなかった。
純粋な戦闘力で見れば、あーしが見てきた冒険者達の中でも、アナテは間違いなくトップクラス。というか、アッシュ君を圧倒している時点で、あーしの中では最強だった。
非人間的な強さだ。まるで悪夢。
そんなアナテが、より激しくアッシュ君を攻め立てる。
無数の斬撃と言葉と共に。
斬撃が激突する金属音。暴れ狂う鎖の暴風。
その隙間を縫って、アナテの声が響いてくる。
貴方には、誰かに愛される資格なんてないよ。
貴方の本質は、善良さを纏うことに矛盾するよ。
貴方だけが今更、正しさを纏うなんて無理だよ。
貴方の善良さは、ここで終わりだよ。
貴方の過去は、貴方を見逃さないんだよ。
アナテが放つ言葉はどれも純粋で、素直な悪意に満ちていた。
抗いがたいほどに透明で、真実だった。
それらが、どれだけアッシュ君の心を削り、消耗させ、追い込み、否定するのか。あーしは、アッシュ君の感情と記憶と同期しているから、これも自分のことのように理解できた。
不覚にも、またあーしは涙を流していた。……苦しかった。
このまま、アッシュ君が殺されてしまうのを、手をこまねいて見ているだけなんて絶対に嫌だった。何とか、何とかしないと……。でも、どうすれば……。考えなしに突っ込んでも、無駄死にすることは目に見ている。
あーしの身体を支えているセツナさんも、そのことは分かっている筈だ。
その証拠に、セツナさんは決死で戦うアッシュ君を睨むように見守りながら、血が出るほど唇を噛んでいた。自分の無力さに耐えるように。
あーしも奥歯を噛む。噛み締める。何もできないまま、この場にいることの苦しさが堪らない。
いや、厳密には何もしていないわけじゃない。あーしの人形遣いとしてのスキルが、アッシュ君に戦う術を与えているのだから。それでも、弱い自分のことが嫌になる。生きていてゴメンなさいみたいな気分になる。
……小さい頃、住んでいた町を魔物に襲われた時の感覚と記憶が、あーしの脳裏で膨れ上がったときだった。
「“ルフルちゃんと、それからえぇと……、セツナちゃん、だったかな?」
あーしの口から、あーしの意思とは無関係に男の声が零れる。
「“これから楽しいショーが始まるんだが、もうちょっと離れてた方がいい。まぁ巻き込まれることは無いだろうけど、観劇ってのはやっぱり安全でないとねぇ。楽しめないし、内容にも集中できないもんさ”」
場違いで不真面目な口調が、楽しそうに弾んでいた。お気楽なその声音の奥に、どこか礼儀的で奇妙な気遣いの気配さえ含んでいる。
「“今の状況は悪くないが、この場を整えることができたのは、ルフルちゃんとセツナちゃんが居ればこそだよ。2人して落ち込むことはないさ。気楽にいこう。リラックスは大事だ”」
嫌味な程の余裕と鷹揚さは、この場を掌握した証なのだと分かる。
「“何なら、ルフルちゃんとセツナちゃんには、まだ大事な役割がある。これから始まるショーを見届けたあとに、アッシュを回収してやって欲しいのさ。こっちはこっちで、ヴァーミルちゃんを含め、他の冒険者共は、あの馬鹿デカいネクロスライムを相手にするので精一杯だからねぇ。キミ達にしか頼めないんだよ”」
あーしは半泣きのまま、口から男の声を吐き出し、戦うアッシュ君の姿を見詰めていた。アッシュ君は現在進行形で傷を負い続けていく。体と心を斬り刻まれていく。
無表情のアッシュ君が倒れる。蹴飛ばされる。
アッシュ君は地面を転がり、すぐに起き上がる。
そこに少女が笑顔で踏み込む。獰猛に。優雅に。
まるで花でも摘むような軽やかさで、無尽に振るわれる手斧。
濁った魔力が、斬撃の帯を引く。
その淡い煌めきが通り過ぎるたび、アッシュ君の腕の肉が斬られる。頬の肉が削り飛ばされる。脚が斬られて血が舞う。脇腹がごっそりと抉られる。少女の笑い声。アッシュ君の血の飛沫。紅の霧。真っ赤に染まった地面。
少女の斧の閃きは、まだ激しさを増す。
刃を捌き損ねたアッシュ君の左目が吹き飛ぶ。
顔の左側上部が抉られたのだ。
激しい剣劇の火花に、アッシュ君の鮮血が塗される。
苦痛を堪えるように険しく眉を絞ったセツナさんが、喉の奥で呻くのが聞こえた。アッシュ君の身体を動かしているあーしも、悲鳴を飲み込む。
アッシュ君と精神を同期しているが、傷を負う痛みまでは伝わってこない。だが、自分の身体が損なわれる生々しい感触は、絶えず響いてくる。
あぁ……。もう、なんでもいい。
誰でもいい。誰でもいいから。アッシュ君を助けて。
思わず、あーしは願っていた。
かつて、魔物に町を襲われたときと同じ脆弱さで。
愚かにも。非実在の何かに縋ろうとしていた。
あのときは女神さまに無視された。
黙過された。何も起きなかった。悲劇はそこに在り続けていた。
皆死んだ。焼け野原になった。ただ蹂躙された。
だが、今は違った。
「“いい機会だ。キミ達も見守ってやっておくれよ”」
あーしの口から出て来る男の声が、優しく、穏やかになる。
「“俺の息子の人生に於いて、なかなか有意義なイベントだからねぇ”」
男の声が途切れたのと同時だった。
プツン、と。あーしとアッシュ君を繋いでいた魔力の糸が切れた。いや、解けた。あーしの意思とは無関係に霧散してしまった。あーしの内部から、男の存在感と魔力が出ていく。アッシュ君との同期が切れたからだと分かる。
そして男の声と力は今、アッシュ君の中で響いている筈だった。
涙に濡れた視界で、あーしは見た。
もう瀕死だったアッシュ君が、手にしていた杖を地面に手放した。そして空いた両手で、少女が振り抜いてきた手斧をガッチリと掴み止めるところを。
肉が潰れる音。骨が砕ける音。密度のある音。無表情のアッシュ君の両手がグチャグチャになる。だが、猛攻を仕掛けていたアナテの手斧が止まっていた。
「やっとその気になってくれたんだね……」
アナテの笑顔が強張ったのが、あーしのいる場所からでも分かった。
だがあれは、死にかけだった筈のアッシュ君の抵抗に怯んだのではない。傷だらけで血塗れのアッシュ君の様子が変わったことに、更なる歓喜と期待を抱いた高揚によるものに違いなかった。
狂気的な笑みを萌したアナテが、両手の手斧を更に強く押し込み、アッシュ君に口づけをするかのように迫る。そのアナテの背後からは、濁流のように殺到する鎖の束。具現化された魔力の嵐。アッシュ君を今度こそ押し潰そうとしている。
絶体絶命。
だがそこで、血塗れのアッシュの唇が動いた。何かを唱えた。
“――I’m here.――”
唇の動きと、微かに聞こえた声。何かを確かめるような、大事なものを握り締めるような響きのそれは、何かを起動させるためのキーワードだったのかもしれない。
瞬間、アッシュ君の身体から迸ったのは暗紅の魔力だった。爆発的な奔流は、ただそれだけで凄まじい威力を持っていた。
「う、ぁ……ッ!?」
手斧をアッシュ君に打ち込んでいたアナテが跳び下がっていなければ、その身体は粉々に吹き飛ばされただろう。実際、濁流のようにアッシュ君に殺到しようとしていた鎖の大嵐は、暗紅の魔力の余波に飲み込まれて霧散し、消し飛んでいた。
あーしは口を開けたまま目を瞠る。あーしを支えてくれているセツナさんも目を見開き、唾を連続で飲み込んでいた。
「アッシュ君……」
思わず、名前を呼んでいた。
だが、あーしの声が届いている気配はない。
グチャグチャになった両手をだらんと下げたアッシュ君は、黙ったままで俯いている。動かない。ただ、そこに立ち尽くしている。立ち続けている。それだけなのに。
周囲にある全てに畏怖と沈黙を強いるような、この異様な存在感は何なのだろう……。
まるで、時間が制止したような感覚だった。だが、そんなワケがない。この場に唐突に現れた静寂には、巨大なネクロスライムが遠くで動き回っている轟音が混ざっている。戦況は現在進行形で刻々と変わっているが、それはあーし達の目の前でも同じだった。
“――Engage――”
低く呟く、アッシュ君の声。同時に、俯いたアッシュ君の背後に、禍々しい紋様が象れて、描き出された。暗紅の魔光によって編まれたそれは、神話で描かれるような光輪、いや、その大きさから言えば光背というべきだろうか。
暗紅の魔光が線となって、更に魔法円と描いていく。それらは複雑な紋様を幾重にも刻みながら、アッシュ君を囲うように編み上げられ、風ではない風によって周囲の空気が揺さぶられた。
非現実的で、非実在的な情景が、あーしの目の前に現れていく。あらゆる法則や理を捻じ曲げながら、神話の光景が現実の世界に割り込んできたかのようだった。
放散され続けて燻ぶる魔力は、アッシュ君の身体中にある傷口にも灯り、肉体再生を行っている。いや、寧ろそれは、アッシュ君の内部から傷口を塞ぎつつ、喰い込み、溢れ出しているかのようでもある。
破壊されたアッシュ君の顔の左上部からも、出血の代わりに膨大な魔力が立ち昇って渦を巻き、陽炎のように景色を歪めていた。
既にアッシュ君の顔以外の傷は、グチャグチャにされた両手も含めて、まるで時間を逆巻きにするかのように復元し、再生しつつある。
「あぁぁぁ……。すごいなぁ……。やっぱり、貴方はすごいよ……」
肩を揺らすアナテだけが歓喜している。彼女の声は震えている。爆発的な悦びを何とか堪えようとしている風情だった。
両手に手斧を握るアナテは、だが、まだアッシュに踏み込まない。陶然とアッシュ君を見詰めている。今のアッシュ君の内面から浮き上がりつつある何かを待ち侘び、その完成を祝福し、命を懸けて迎えようとしているかのようだった。
「……はぁぁぁaaaahh……――」
そんなアナテに応じたわけでは無いだろうが、俯いたままのアッシュ君が息を、ゆっくりと吐き出した。その吐息にも赤黒い魔力が塗されていて、ドラゴンの吐火にも似た凄絶な迫力に満ちている。
そこでアッシュ君が、ゆっくりと顔を上げた。アナテを見たのだ。その左の瞳の色が変わっていた。破壊され、再生した左目が。昏くて青みのある、優しげな灰色をしていたアッシュ君の瞳が、目が覚めるような山吹色に輝いていた。
アッシュ君という人格が、決定的に損なわれようとしている。
そんな恐怖を、あーしは覚えた。恐らくは同じような感覚に見舞われているはずのセツナさんも、浅い呼吸をしながら、奥歯を噛み締めている。
あーしとセツナさんは、傍観者という役割の中に閉じ込められたままで、自分達の出番を待つしかなかった。舞台袖に引っ込んだまま、ステージで行われる演劇の進行を窺うように。見守るしかなかった。耐えるしかなかった。そういう戦いだった。
一方の、舞台の上――。
狂気じみた笑顔のアナテは感極まっている。
「んふふふ……。凄い。凄い。凄いよ。魔王化なんて……。今まで誰も成功したことがない偉業だよ。歴史にプリントされるべき奇跡だよ。ぁあははは……っ。貴方はそれをやってのけた……!」
前のめりになって声を震わせるアナテは、欲しかったプレゼントの全てを目の前に積まれた子供のような無邪気さを発散させている。
禍々しい光背を背負い、非現実的な魔力を纏うアッシュ君を目の前にして、彼女には恐れも畏れもなかった。
「貴方は今、死体人形である私達という存在にとって、完璧な答えに到達している。あぁぁぁ。羨ましいなぁ。凄いなぁ。あぁぁはは! そして私こそが……、貴方の過去を引き連れた私という存在が、貴方を魔王に導いた……! 今の貴方を足止めするために捨てられた私も、道具存在としての価値を極限まで体現してる……!」
笑顔のままで目を見開いたアナテは、両手の手斧をギチギチと握り締めて空を仰ぎ、「KA、HAAAAAAA……!!」と大きく息を吐き出した。
自らの感じている幸福と一体化し、余すことなく味わうように。アナテは今、己の命そのものと釣り合う程の充実と情熱の中にいるのだと、あーしには分かった。
「今の私達、最高に“生きてる”よね」
再び鎖の束を自らの周囲に顕現させる。決死の戦いを挑もうとしている少女は、本当に幸福そうに微笑んでいた。
「貴方に会えて、本当によかった」
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