第90話 器の底、2%の魔王



 身体が熱い。血液が赤熱していくような感覚に見舞われる。

 内臓の内側が灼ける。だが同時に、背中には酷い悪寒が這い回り続けていた。


 何かが、僕の内部から這い出してくるような悪寒。

 自分では触れ得ない僕の精神の内部に、装填されていた何か。

 或いは、僕が意識していないうちに巣食い、育っていた何か。


 ――もしくは、“僕自身の本質”と呼ぶべき何か。


 それが、ギギネリエスの精神同期に呼応して、疼くように動いているのを感じる。僕の意識と感覚の殻を突き破り、僕の意志から放たれることを望むように。


『“アッシュ。聞こえるかい? アッシュ。アッシュ”』


 僕の名を呼ぶ声。僕の腕に抱えられた、ルフルさんの口からだ。ルフルさんの声と混ざった、ギギネリエスの声。僕の存在を掌握しようとするように、ワザとらしく何度も呼んでくる声。


 無視はできない。僕は腕の中にいるルフルさんを一瞬だけ見た。汗ばんだ赤い顔のルフルさんが、僕の眼差しを受け止めて怯むように息を詰まらせるのが分かった。僕は目を逸らす。


 今の僕の身体は、ルフルさん半身と魔術的に接続されている。ギギネリエスの死霊魔術の応用らしいが、ルフルさんの人形遣いのスキルによって、僕は身体を動かすことができているのだ。


 ただ、ルフルさんと僕が接続されているのは、肉体だけではない。精神的な部分でも接続されている。


 だから今のルフルさんが、僕の眼差しを受け止めて恐怖を覚えたことが分かった。そしてこの感覚もまた、多少はルフルさんに伝わっているのだろうと感じる。


 だが、僕の身体を徹底的にスポイルしている、あのレーヴェスというネクロマンサーの拘束魔術の影響だろうか。もしくは、ギギネリエスが扱う死霊魔術の加減によるものか。


 僕の内部には、精神同期している筈のギギネリエスとルフルさんの記憶も経験も、何も流れ込んでこない。ただ、ルフルさんの人形遣いのスキルで動作している感覚だけがある。


 でも、今はそれでいい。何でもいい。

 余計なことを考えるときではない。


 僕は前だけを見据えたまま通路を駆け、ギギネリエスの声に応じる。


「……聞こえていますよ」


『“そうかい。そりゃあ良かった。まだ通信用魔導具の機能が復活してないだろう? ヴァーミルの姐さん達がお前と連絡を取ろうとしても繋がらないってんで、俺がこうして中継を繋いでるんだよ”』


 軽薄だが深みのある、よく通る声。黒フードの少女を挟んで、アッシュの背後についてきているセツナとサニアにも、この声が聞こえている筈だった。黒フードの少女からも、ギギネリエスの声に耳を傾けている気配が伝わってくる。


『“魔導具全般を使用不可にしちまう、あの妙な魔法円の影響なんだろうがねぇ。通信魔導具の調子が戻らないお前達と連携を取るためには、やっぱり俺の力が必要だったってワケさ”』


 恩着せがましい言い方をするギギネリエスに、僕は反応しない。無言によって先を促す。お喋りに付き合っている場合じゃない。


 僕達の背後からは、不定形に繋がり合ったゾンビ共の濁流が追ってきているのだ。更には、両手に手斧を握りながら心の底から楽しそうに笑みを浮かべ続けている、あの黒フードの少女も。


『“大丈夫だ。安心しろよ、アッシュ”』


 だが、そんな此方の様子を既に察しているはずのギギネリエスの声には、やはり緊張感は全くない。


『“今日は、お父さんである俺が味方なんだから”』


 悪意すら感じる優しい口調に、僕は何も言い返さない。


 ギギネリエスの声を発するルフルさんが、腕の中から僕を見上げてくる。自分の口から出た言葉に目を見開いていた。


 戸惑いを飲み込むようなエリシアさんの強張った目線を受け止めた僕は、また前を向く。セツナさんも、サニアさんも、僕の方を見てくる気配が伝ってくる。


「んふふふ。そういえば、貴方を造ったひとよね。ギギっていうひと。レーヴェスが言ってたわ」


 僕達を追ってくる黒フードの少女が、楽しそうに喉を鳴らすのが聞こえた。


 僕は無視する。相手にせずに通路を駆けていく。肩越しに目線を一種だけ向ける。黒フードの少女は追い付こうとしてこない。僕との距離を保って追ってくる。


 少女は、自身の背後を追走してくるセツナさん達には見向きもしない。飽くまでアッシュを狙っているようだ。だが、ここでは存分に戦えないと理解している顔つき。少女が本格的に襲い掛かってくるのは、間違いなく、劇場の外に出てからだ。


『“さて、ここからが大事な話になる。お前が抱えてる歌姫さんを、安全なところまで連れて行かなきゃならないだろう? その為に、ヴァーミルの姐さん達が彼方此方に連絡を飛ばしているよ』


「僕達は、どう動けば……?」


『“簡単だ。一瞬でいい。俺達と合流しろ。そのタイミングで、お前が抱えてる歌姫さんを、チトセの姐さんに預けるんだ。式神の狼達を使って、歌姫さんを運んでもらうんだよ。その護衛にはウルズちゃんがつく”』


 ルフルさんの口から出てくるギギネリエスの声は、のんびりとした口調だ。それでいて、悠然とした冷静さがある。


『“ついでに、負傷している剣聖サンにも離脱してもらう。チトセの姐さんに治癒施術を受けたあとで、歌姫さんの護衛として傍に居て貰いたいのさ。書類上の専属護衛2人が、護衛対象の歌姫さんをほっぽり出しちまうのは外聞も悪いだろう?”』


「……えぇ。理解できます」


『“それに、万が一ってこともある。メインホールで人造兵や機械獣をスポイルしやがった術士が、時間差で歌姫さんを襲ってこないとも限らないからねぇ。チトセの姐さんに傷を癒して貰えさえすれば、剣聖サンほど心強い盾はいないってわけさ”』


「わかりました。では……」


 僕は応じながら、背後を肩越しに振り返る。セツナさんに抱えられたサニアさんと目が合う。彼女は僕に何かを言おうとしたようだが、その言葉をぐっと飲み込み、頷いてくれた。


「私はヴァーミルの指揮に従います! チトセさんと共に私も、エリシアさんの御傍に……!」


「なら、サニアを預けたあとの私はどうすればいい? あの黒フードの相手をすればいいのか? それとも、あのゾンビの塊の相手に立ち回ればいいのか?」


 サニアさんを両手で抱いたまま、黒フードの少女の背後についているセツナさんが訊いてくる。もはや黒フードの少女に何を訊かれても、今の状況では些末なことだと言わんばかりだ。


 セツナさんは僕の方を見ず、背後から迫ってくるゾンビの濁流を鋭く睨み、それから黒フードの少女を見据え、それから目線を戻す。余計なことを考えていない眼差しだった。あの冷然さを僕も見習わねばならないと思う。


『“セツナちゃんにはアッシュと協力して、黒フードの女の子を相手にして欲しいみたいだよ。あぁそれと、ルフルちゃんが居ないとアッシュも動けないからねぇ。ルフルちゃんも、アッシュと同行ってことで”』


 自分の口から出てくる男の声にルフルさんが頷き、僕のことを腕の中から見上げてくる。ルフルさんは真剣な眼差しに少しだけ笑みを浮かべ、頷いてくれた。


 ……恐らくだがルフルさんには、僕の過去や内面については、もう知られている。正確には“経験”されてしまっていると言った方が正しいかもしれない。今の彼女の親身な目には、僕に対する気遣わしげな優しさがあったように思える。

 

 だが奇妙なことに、僕にはルフルさんの精神状況や過去の記憶、内面の感情などは殆ど流れてきていない。僕はただ一方的に、ルフルさんの肉体と魔術的なスキルを使用しているような状態だ。


 そしてこの状況を、ルフルさんは受け入れてくれている。だからこそ僕も、自分の役割を全うしなくてはならない。


『“あぁ、それと……。お前を追ってきてる女の子だが、どうやらレーヴェスの奴は、俺の作った魔人シリーズを参考にして作ったっぽいよ? つまり、お前の模造品ってわけだ。やけに白兵戦に特化してやがるし、他にも色々と身体に仕込んであるようだが、……まぁ所詮は模造品だ。お前の性能には及ばないよ”』


 ルフルさんの声を使い、緊張感のないお喋りを続けるヤツの言葉に冷たい笑みが混ざる。


『“お前の力を見せてやろうじゃないか”』


 ギギネリエスの声に籠る親身な邪悪さが、僕の中に入ってくるのを感じた。僕は、ルフルさんの、セツナさんの、そしてサニアさんの自然を感じていた。それら全てを無視して駆けていく。


 今の自分の“役割”のために。

 振り払えると思ったわけではない。


『“取りあえず、ここからの流れは分かったかい? それじゃ、そろそろ合流だ。俺達は先回りして、お前達が向かってる東ホールの出口の前辺りで陣取ってる。さっきも言ったように、まずは歌姫さんをチトセの姐さんに預けるんだよ。全てはそれからさ”』


 ルフルさんの口から出続けているギギネリエスの声に、僕の腕の中にいるエリシアさんが心苦しそうに眉間を絞っていた。そして僕とルフルさんを交互に見て、それから、追ってくる黒フードの少女を、セツナさんとサニアさんを振り返る。


「……私の為に、本当にありがとう。どうか皆、無事でいてくれ」


 心の底から絞り出すような、歯を噛み締めて真剣な祈りを捧げるような声で、エリシアさんが言ってくれる。


 僕達は言葉で応じず、目線と頷きだけを返した。打ちのめされた彼女の心に、どこまで寄り添えるのかなど分からない。だが、僕達は彼女の言葉を確かに受け取っていた。


 ほぼ同時だった。僕達は劇場の東出口から駆け出す。僕達を閉じ込めるような結界も無かった。或いは、解呪してくれたのだろう。


「アッシュ君……ッ!!」


 豊かな緑で覆われた敷地内へと走り出た僕達を迎えてくれたのは、魔導銃を手に握り締めたローザさんの声だった。


 見ればローザさんだけでなく、大戦斧を手に炎を身体に纏っているカルビさんも、分厚い冷気の渦を大槍に宿しているネージュさんも、大盾を背負うように構えたエミリアさんも居る。


 全身鎧の背に、神々しい翼を広げたヴァーミルさん、シャマニさんも、猛禽型の機械獣5体を展開しているウルズさん、式神の狼を群れとして使役しているチトセさんも。


 そして、ヴァーミルさんが乱暴に担ぎ上げている棺型の檻のようなものから、自由になった上半身を猫背に丸めているギギネリエスも――。赤黒い魔力で編まれた積層魔法円、そして、同じく赤黒い魔力で象られた髑髏の陰影を複数従えているヤツが、口を動かす。


『“さぁ、この仕事の仕上げだよ。アッシュ”』


 だが、その声はルフルさんの口から出てくる。


『“お前の身体はまだスポイルされたままだが、お父さんが手伝ってやろう”』


 その父親然とした穏やかな言い方が、明らかな悪意からくるものなのか。それとも、悪意を装うしかない、僕に向けられた何らかの感情の発露なのか。


 分からない。

 今はどうでもいい。

 僕は応じない。


 あの男に応じる必要性を感じない。ただ、ヴァーミルさんの指揮に従う。ヴァーミルさん達も僕達に向かってくる。


 彼女達の陣形に僕達を迎え入れるように。

 そこからの僕達の行動には、一切の澱みが無かった。


 まず、宙を滑るように前に出たヴァーミルさんとシャマニさんの2人が、僕達とすれ違う形で、黒フードの少女の追撃を阻んでくれる。


「武器を捨てなさい……!」


 鋭く言い放つシャマニさんは、雷撃を纏わせた長大な蛇腹剣によって地面を打つ。


「大人しく投降しろ……!」


 厳格な口振りのヴァーミルさんが、手にした大戦鎚で地面を殴打、陥没させる。


「ちょっ……!?」


 その際、ヴァーミルさんは、ギギネリエスを拘束している棺を武器のように横凪ぎに振るい、黒フードの少女を牽制してみせた。


「むぉぉぉ……!!?」


 暴風に揺すられる木の枝のように、振り回されるギギネリエスの上半身。間抜けな声。恐らくはアレも演技。ヤツは展開している無数の魔法円を維持し続けている。魔術士らしい、狂気じみた集中力。


「自由な時間を邪魔されるのって、やっぱり気持ち悪いなぁ……」


 黒フードの少女が笑いながら舌打ちをして、足を止める。そして円を描くように右側へ。流石に、ヴァーミルさんとシャマニさんを正面から相手をするつもりはないらしい。無視して、僕を狙おうとしている。


 だが、間違いなく黒フードの少女と僕との距離が離れた。

 ヴァーミルさんとシャマニさんが稼いでくれた、この貴重な数秒を活かす。


 僕は腕に抱えていたエリシアさんを、チトセさんに抱き渡す。セツナさんは、負傷しているサニアさんを。


 ほぼ同時。式神の狼達が、チトセさんとエリシアさん、そしてサニアさんを、その巨体の背に乗せて離脱。機械獣を従えたウルズさんが、高速飛翔によって随行。


「すぐに戻りますねぇ~……!」「気を付けて下さいっすよ!」


 すれ違いざまに彼女達の声を聞きながら、僕は身体を翻して反転。逆撃に入る。


 黒フードの少女に目を戻す。彼女と目が合う。そこで彼女が目を細めた。無邪気な照れ笑いの表情で、唇をゆっくりと舐めて湿らせる淫靡な仕種を見せる。


 黒フードの少女は、僕を見ている。離脱しようとしているエリシアさん達を追おうとはしない。徹底して僕を狙っている。あの少女にとって、僕という存在が特別なのだという確信する。感覚としてわかる。


 ――僕にとっても、彼女の存在は特別だからだ。


 僕は姿勢を落としながら、黒フードの少女との距離を保ちながら、この場を離れる。引き付ける。僕は少女を引き摺って行く――引き摺られていく。


 僕の今の動きは、ルフルさんの人形遣いのスキルによって再現された僕の意志だ。ルフルさんが傍にいてくれる限り、僕の身体は思う通りに動く。セツナさんが僕の隣で居合刀を握り直し、並走してくれる。


「……借りを返すぞ」


 前傾姿勢で駆けながら居合刀の柄に手をかけた、セツナさんの低い声。僕に対してか、それとも、あの黒フードの少女に向けられたのかもしれない言葉よりも、ほんの1秒。


 轟音。振動。歌劇場の東出口が爆発したように粉々になる。崩落する建物。濛々と上がる粉塵と砕けた石材の山を押し退け、ずるずるずるっ……っと這い出すように流れ出てくる。


 ネクロゴーレムというよりも、ネクロスライムとでも表現すべき、不定形のゾンビの塊だ。大きい。まるで小山のようだが、まだ育つのか。


『UUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUU……ッ!!』


 無数に折り重なるように融解している、屍たちの声が木霊する。まるで、この土地そのものを、この土地に住まう生き物を全て呪うかのような、怨嗟の大音声だ。


 劇場内から出てきた巨大なネクロスライムは空の下、もうアッシュ達を追いかけてくることは無かった。もっと大量の生者に死を与えるべく、街の市街地の方へと這って行こうとしていた。


 盛大な土煙を引き連れて纏うネクロスライムは、黒フードの少女を引き付ける僕とセツナさんから遠ざかっていく。だが僕達の代わりに、ネクロスライムに肉薄していく彼女達の姿が見えた。


「盛り上がってきやがったな。ふざけやがって」


 ギラついた笑顔で冷や汗を頬に伝わせるカルビさんが、大戦斧を担ぐように持って疾駆。ネクロスライムに迫っていく。


「あんなモノを街に出す訳にはいかないわ。この敷地内で止めるしか……!」


 分の悪い勝負に顔を顰めたネージュさんが、投げ捨てるように言いながら駆ける。カルビさんに続き、大槍の穂先に冷気を纏わせていた。


「カァァルビさんもネェェェジュさんもォォ、なぁぁぁにをナーバスになっていますのぉおおおお!? ああいうデカブツを相手にするのは、“トラブルメーカー”たる私達のパーティが最も得意とするところでしょう!?」


 そこに、エミリアさんの溌剌とした大声が響く。大事な旧友であるエリシアさんが無事であったことを認めた安堵が、エミリアさんの戦意を滾らせているのだと思った。


「や、自分でトラブルメーカーって言うのはやめようよ……。しかもそんな大声で……」


 引き締めた表情のローザさんが、魔導ショットガンを手にエミリアさんと並走し、口の端にだけ微笑を籠らせている。緊張と集中を維持しながら、冷静に周りを見ている目つき。


 陣形を整えたローザさん達のパーティが、ネクロスライムの横側へと回り込んでいく。黒フードの少女を牽制してくれたヴァーミルさんとシャマニさんも、ローザさん達の突撃に加わるべく飛翔。


 そこで、僕達が装備していた通信用魔導具の機能が復活した。


『敷地内外にいる冒険者達は、ネクロスライムの動きを止めるべく応戦しなさい……!』

『負傷者を連れて離脱する際には、付近の人造兵と機械獣、冒険者達の協力の要請を忘れないでね』

『ギルドへの報告もお願いしますわ~。街に居る冒険者の皆さんにも、力を貸して貰わないと~』


 アルキスとオルキス、リエラ達が、他の女性冒険者達に指示を出している。


 即応する女性冒険者達の応答。戦闘に参加する旨の報告が多数。ギルドに向かう、少数の撤退者。負傷者。死者は無し。上級冒険者達の、手慣れた対応。全員が其々に役割を熟し、流れるように遂行されて噛み合う。


 それらの一連の流れは、僕の視界の隅で捉えていた十数秒の連携だった。エリシアさんの離脱を助けることと、僕達が反転逆撃に移るまでに停滞した時間は皆無。


 スムーズな反撃。反撃のための戦力の分散。分散された役割。役割を帯びた其々の戦いへと、僕達は入っていく――。


 目の前で笑みを湛えた脅威。黒いフードの少女が、その翡翠色の瞳に異様な輝きを宿して僕に向かってくる。


 僕はそこで足を止める。

 振り返りながら、杖『リユニオン』を構える。


 片腕で抱えて居たルフルさんを地面に降ろす。ルフルさんはまだ立ち上がれない。片膝立ちで、右腕と右手を動かし、僕の身体を動かしてくれている。彼女の身体の半分を、僕の意識が動かしている。


 ルフルさんの身体に燻ぶる快楽を、魔術的に接続されている僕も感じていた。だが、酷く遠い。虚しさを覚えるほどに。人形という言葉が頭に過る。今の僕は、間違いなく人形だった。


 僕は、ルフルさんを庇うように前に出る。

 その僕に、セツナさんが並んでくれた。


 遠くでネクロスライムが咆哮を上げている。敷地内の木々をへし折りながら、街に向かおうとしている。その巨大な脅威を背景にして、黒フードの少女が僕に向かってくる。あまりにも真っ直ぐに。


 どこかで、何かが違っていればと僕は思う。


 偶然の加減によっては僕こそが、襲撃者という彼女の立場にあってもおかしくなかった。或いは彼女もまた、誰かを護る僕の立場にあったかもしれない。


「私ね、レーヴェスから教えて貰ったわ」


 疾風のごとく距離を詰めてきた少女は、両手に握った手斧をグルグルと回しながら笑い、濁った魔力の奔流を纏う。魔力の微光と揺らぎは、即座に幾条もの鎖へと練り上げられていた。分厚い防御結界。攻撃にも転じられる、少女の魔力具現化。


 無数の蛇のような、濁った緑色の鎖の束を引き連れた少女は、僕に飛び掛かってくる。僕は下がる。赤い顔ではにかむ少女は、僕を見ている。僕だけを見ている。


 ルフルさんの壁となる位置には、セツナさんが横合いから入っていた。


 既に居合の構え。斬撃を放つ。一瞬のうちに、少なくとも8閃。それを鎖の束が弾く。或いは、千切れ飛ぶ。澄んだ金属音が折り重なる。塊のような重たい響きが余韻になる前。次の一瞬で、セツナさんは更に居合刀を閃かせる――。


「散れ……ッ!!」


 彼女の瞳と同じ色の魔力が、線状に奔る。赤い魔力。斬撃の帯。8閃。少女が纏った鎖の束が、横合いから大きく斬り飛ばされて霧散。鎖で防御しきれなかった斬撃が、少女の頬と首の後ろ、脇腹を僅かに裂いた。


 半秒の攻防。だが、少女は止まらない。傷などお構いなしに僕に詰め寄ってくるついでに、彼女は再び魔力を纏った。


 先程よりも濃密に、もっと激しく、より獰猛に。巨大な質量の渦。少女を中心とした鎖の嵐。周囲の空間を薙ぎ払い、打ち据えるような乱打。


「……化け物めっ」


 呻いたセツナさんが咄嗟に、ルフルさんを腕に抱えて離れてくれる。ルフルさんの指から伸びる魔力の糸は、まだ僕と繋がっている。まだまだ糸は切れない。感覚として分かる。


 まだルフルさんと距離をとっても問題無い。僕の身体を動かせる。何か言いたげなルフルさんと目が合う。やはり僕は頷く。同時に少女が踏み込んでくる。


 1対1。瞬間的に。

 彼女の手斧。少女の朗らかな笑顔。既に目の前。

 刃と声が、僕に撃ち込まれる。


「貴方って、私達みたいな人形を壊してきたんでしょ? “器”としての性能を証明するために、自分と同じ死体人形を殺戮してきたんだよね? たくさん、たぁくさん、数えきれないぐらいに」


 黒フードの少女が無邪気に言ってくる。手斧での連撃と共に。猛襲。


 僕は杖で弾く。受け流す。躱す。逸らす。巻き込み、打ち払う。下がる。横に足を捌く。半身で前に出る。撃ち返す。その間にも、少女は陶然と僕を見つめ続けている。


「レーヴェスは言っていたわ。貴方ほどの性能の“器”は、もう製造されないんじゃないかって。“魔王の器”として完成されていて、誰もが恐れる存在だったの、調律で台無しされた哀れな死体人形だって」


 黒フードの少女の声に、打ち込みに熱が籠っていく。僕は黙ったまま彼女を見詰める。目を逸らさない。彼女と拮抗する。だが、すぐに押され始める。この少女は強い。


 ルフルさんの人形遣いのスキルで身体を動かしている僕は、防戦に追い込まれる。耐える。耐え続ける。少女と向き合い続ける。


「私はね、そのときの貴方に会いたいと思ったの。時間を越えて、“昔の貴方”に会ってみたい。今の貴方でも、十分に強くて素敵だけど……。今の貴方は、私に遠慮しているでしょ? 自分以外の全てに、世界に、周囲にある景色と常識に気を遣ってるというか、自分を隠してるよね? 我慢してる……、ううん、調整してるって感じかな……?」


 僕の杖『リユニオン』と、彼女の手斧がぶつかり続けている。僕と彼女の間の空間には、無数の火花が咲き乱れ、踊り狂っている。衝撃が僕の身体を伝う。骨と筋肉が軋む。


 躱しきれなかった彼女の斬撃が、僕の腕や肩、頬、額、脇腹、胸の肉を削る。膨大な魔力を帯びた彼女の手斧は、僕が着込んでいる防具をボロボロにした。


“どんな魔物の牙でも貫けず、破れない”と銘打たれた、非常に頑丈なローブも、ボディスーツも、容易く斬り裂いてくる。僕はすぐに血塗れになった。


 セツナさんが僕の援護に入ろうとしてくれるのが分かった。だが、吹き荒れる鎖がそれを阻む。鎖は僕にも押し寄せる。それを打ち払う。避ける。だが、同時に繰り出される少女の斬撃を捌けず、躱せず、僕の身体の肉が抉られていく。


「でも、もういいよ。辛いよね……。そういうの。だから私はね、貴方の全部を受け止めたいの。だから、我慢しなくていいよ? 貴方の全部を見せて。貴方が奥に隠しているものも、残さず解放して」


 上目遣いになった少女は、ねだるように言う。甘く淫らな声。囁くように。僕の存在を抹消しようとするかのような、手斧の乱打。激しさを増す。無垢なる殺意。驟雨の如き斬撃。僕の身体を削っていく。


「それが、私達の幸福だよ。道具という存在としての。人形という存在としての。自分自身を、その存在理由と設計哲学で満たすことでこそ、“私達”の価値と意味は証明されるんだよ。この一瞬だけでも。それが“私達”にとっての、生きるってことなんだよ」


 笑顔の少女。真剣で切実な口振り。

 人形からの。道具からの。死体からの。

 跳躍のための言葉たち。得難い瞬間を求める。

 僕との戦闘の中で、生きた証を、この時に刻むような。

 僕の身体に奔る傷が、彼女の存在を証明している。


「貴方なら、貴方なら……、使い捨てられることで、道具としての役割を全うする私の価値を認めてくれる。ううん、認めざるを得ないはずだよ。否定したくても、心の底では理解できるはずだよ」


 道具としての少女は今、その主によって使い捨てられるという用途のなかで、自身の存在理由と存在価値を余すところなく満たしていた。彼女の存在は、どこまでも充実しているのだと思う。少女の瞳。僕を映す、翡翠の輝き。曇りが無い。自分自身の存在を賭して、僕に問いかけてくる。


「だって貴方は、自分を証明するために、私達と同じ死体人形を殺戮してきたんだもの」


 僕が引き連れている光景。他者を破壊する生々しい感触が、僕の手の中に蘇った。


 次の瞬間には、左側の視界が消えた。真っ暗になった。

 斧を食らったのだ。顔の左半分が吹き飛ばされた感覚。

 痛みよりも熱を感じる。血の味。

 顔から流れ出る血で、僕の体の前面が温かく濡れる。

 遠くで悲鳴のような声。


 鎖の嵐で足止めされる、セツナさんの悔しげな声。僕の身体を操りながらも、何とか魔法を詠唱しようとしているルフルさんの声。でも、2人の声はよく聞こえない。少女の声だけが僕に響く。


「それなのに“今の貴方”は、善良であろうとしてる。善意で自分を正そうとしてる。駄目だよ。そんなの。だって貴方は、自分と同じ人形達を殺戮してきたのに」


 手斧の乱打を繰り出し続ける少女は、劣勢の僕を責めるのではなく、説き伏せる口調だった。僕の反抗を飲み込むような、穏やかなで柔和な害意。


 僕は彼女の打ち込みに耐え切れず、片膝を着いてしまう。回し蹴りがきた。僕は横倒しにされる。地面に身体を叩きつけられるが、即座に起き上がる。僕の身体からは、夥しい血が飛び散っていた。地面が真っ赤だった。


「貴方に殺戮されて粉々に破壊された人形達にも、貴方のように生きる可能性があったのに。そういう尊い未来の全部に、完全な死によって蓋をしてきて生き残った貴方だけが、自分の命と人生だけに、善良な意味と価値を付与しようとするなんて」


 いつのまにか荒い呼吸をしていた僕は杖『リユニオン』で、彼女と対峙し続ける。彼女の言葉を受け止め続ける。少女は僕に斬撃を打ち込み続けながら、僕の存在と過去、罪を確かめる口調で続ける。


「貴方が貴方の事を大事だと思うことは、貴方の過去と矛盾するよ? 自分と同じ境遇の者達を、貴方と同じように生きられたかもしれない者達を殺戮してきたのに、今更自分だけが正しさを纏おうなんて」


 僕の身体が、少女に追い付かなくなってきていた。


 少女の手斧を捌く動きが遅れる。隙を衝かれ、超至近距離まで踏み込まれる。少女の殴打を食らう。僕を殴り倒した少女が楽しそうに肩を揺らした。僕はすぐに起き上がる。彼女の振るう手斧が、踊るように魔力の帯を引いている。それから逃れる。


「どうするの?」


 この瞬間に目掛けられた、僕への問い。

 僕だったかもしれない少女から。


 少女の姿をした、僕の未来だった可能性との再会。

 僕が手にした杖『リユニオン』と、少女の手斧が火花を散らし続けている。


「貴方は選ばないといけないよ。昔みたいに、死体人形の私を殺すか。それとも、自分の罪を認めて、私に殺されるか。ねぇ。どうしたい? 善良に生きようとする今の貴方にとって、私という存在は絶対に無視できないはず。私は、貴方の過去を突きつけてるんだから。向き合うしかないよね?」


 僕が生きていたかもしれない暗い場所からの、問いかけ。

 僕の罪を清算するのか、それとも、まだ生きるのかと。


「私は、貴方と同じ場所から来たの。貴方と同じ死体人形として言うよ。貴方には善意を行使して幸福になる資格なんてないんだよ。何をどう取り繕っても。私を殺しても、私に殺されても、貴方は“自分の本質”から逃れられない。克明になるだけだよ」


 凄まじい力で手斧を振り回す少女は、僕との打ち合いの中で目を細めていた。血塗れの僕の表情と言葉を待っている。僕の抵抗と無言を味わっている。


「あぁぁあぁ~~……。あぁふふふふぁ~~。キモチイイなぁ、ゾクゾクするっ……」


 僕を見詰める少女の声が、嬌声のように上擦る。戦闘の中で赤らめた頬が汗ばみ、艶が増している。


「今の私、貴方の過去も未来も内面も、全部を犯してる。めちゃくちゃにしてるっ……。ねぇ? 貴方はどう? 私を殺すにしても、私に殺されるにしても、貴方の人生の意味と価値は、ここが終点だよ? 行き詰まりだよ? もう何も無いよ? あぁはは」


 舌なめずりする少女の息が荒くなる。僕との打ち合いによる疲れでは決してない。興奮と高揚によるものだ。その証拠に、彼女の攻勢は更に強まる。僕を押し込もうとしている。


「ねぇ。ねぇ。貴方の善良さの最後なんだから、いっそのこと、貴方の全部を出してよ。私には我慢しないで。私は今、生きてるの。もっと実感をちょうだい。貴方が生きようとする姿を見せてよ。お願い。あぁあぁああ……。ねぇ、はやく……!」


 濡れるような少女の声に、親密さが増す。攻撃の激しさが増す。

 僕の身体を本格的に破壊しようとしているのだと分かる。


 僕は、目の前の少女に必要とされていた。熱烈に。

 そして少女もまた、僕に必要とされたがっているのではと思った。


 彼女にとっての、生きるという言葉の意味を満たすために。


「このまま終わりなんて、つまらないよ。がっかりだよ。だから、本気を出してよ。私には隠さなくていいの。安心して。私は貴方を嫌いになんてならない。どんな貴方でも受け入れるよ。だから、ほら……、出して、出してよ」


 僕を焼き尽くすかのような、少女の攻勢。縋りつくような、僕を求める声。少女が肉薄してくる。至近距離での打ち合いになる。少女の強さに、僕は明らかに押されていく。僕は下がることも出来ず、ただ耐えるように死を待つ。


 蕩けたような少女の顔が、僕の目の前にある。


 いつかのローザさんの声が、僕の心に響いていた。

 僕が引き摺ってきた景色を包み込むように。


 僕は、此処にいる。


「出して。全部出して。出して。はやく。はやく……! ほら、ほら、出しちゃえ。ほら、もう、出る? 出そう? 出せ……、出せ、出せ、出せ……!」


「“ケヒヒヒヒ”」


 血だらけの僕の口から出た笑い声。打ち合いで押し切られ、手斧で粉砕される直前の僕の感情とは、一切連動しない声。一瞬、少女が訝しげに眉を顰めた。


「“随分と熱烈なアプローチを受けてるみたいだねぇ、アッシュ”」


 どこまでも楽しそうな、おおらかな邪悪さを発散させるギギネリエスの声。


「“邪魔しちまったが、イイ感じにお前の身体を中から弄り終えたところだ。ナイスタイミングだよ。……ってなワケで、お望み通り、ちょっと見せてやろうじゃないか”」


 僕の声が言う。僕では再現できない冷酷さで。


「“お前にプレインストールされてた、とある魔王の力を。まぁ、出力できるのは精々2%ぐらいだけどねぇ。この騒ぎを落ち着かせるには十分だろう”」


 僕に装填されていたもの。ギギネリエスによって起動しようとしているもの。僕と一体化しているもの。僕の意志に関わらず、僕の本質に関わるもの。それが僕の内部で膨れ上がり、傷だらけの身体の隅々までを満たす感覚があった。


「“さぁて、父さんからのアドバイス、その1だ。アッシュ。お前がどんな力を振るおうとも、お前の心が、お前の安全装置になってることは俺が一番よく分かってる。だから、今は世界に気を遣わなくていい。お前の役割を果たせ”」

 

 僕はギギネリエスの声を血と一緒に吐き出しながら、ローザさんの言葉を胸の内で握り締める。

 

 僕は、此処にいる。

 



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いつも読んで下さり、ありがとうございます! 更新が遅れてばかりですが、いつも温かく見守って下さる皆様には本当に感謝しております……。


身体に堪える猛暑日が続いておりますが、どうか皆様も熱中症には十分お気をつけ下さいませ……。今回も最後までお付き合い下さり、ありがとうございました!

 

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