第79話 確約された悪意2
黒ローブの両手に手斧が現れていた。戦闘用の手斧。恐らくは魔術的な強化が施されている。肉厚な刃に紋様が浮かび、濁った翡翠色に明滅していた。
「え? 式神遣いを優先? 死体? 欲しいの?」
間違いなく、少女の声だ。
杖を手にしたアッシュが身構えつつ、眉を顰めた次の瞬間には、彼女はチトセに向かって駆け出していた。姿勢を落とし、両手に握った手斧をすぅっと下げて、地面を滑るように。
「死体は? 私と一緒に回収する? うん。分かった」
疾い……!
アッシュは思わず瞠目する。
ヴァーミルやシャマニ、他の戦乙女達が、黒ローブに追いつく間も無かった。騎士団と歌姫たちを護るべくロングソードを構えていたサニアもだ。
全員が驚愕する気配が満ちて、すぐに散った。彼女達はすぐに、黒ローブを追おうとした。だが、防御的な位置取りだったこともあって出遅れた。
鎧などを身に着けていない身軽なアッシュだけは、位置的には黒ローブに最も近かったこともあり、咄嗟の反応が間に合っていた。だが、それでも簡単には追い付けない。
「……っ!」
アッシュは黒ローブの後姿を追いながら睨み、歯噛みする。その脳裏に、先程の“死霊魔術”という言葉が通り過ぎたときだった。
『援護するっす!』
機械獣遣いの戦乙女だ。耳元で彼女の声が響くのと同時に、空を鋭く旋回した機械獣たちが、既に黒ローブを囲むように急降下してきていた。
黒ローブの出現にいち早く気付いた彼女は、情報取集と現状把握として使役していた機械獣たちを、後方支援へと回していたのだ。装甲を纏った金属の巨鳥たちが十数匹、その鉤爪でもって黒ローブに襲い掛かり、四方八方から殺到する。だが――。
「邪魔しないで」
小柄な黒ローブは疾駆する速度を落とすことなく、両手に握った手斧を瞬間的に、そして縦横無尽に振るう。そして迫ってくる巨鳥たちを一斉に破壊して、バラバラの鉄屑にしてしまった。まるで乱暴に食い散らかすかのように。
いや、実際に食い散らかしたと表現した方が正しいのかもしれない。
機械獣である巨鳥たちが砕かれた瞬間には、青い魔力光が火花のように散った。あれは機械獣を駆動させるために籠められていた魔力に違いないが、その漏出した魔力を、黒ローブの持つ手斧が吸収しているのだ。
黒ローブが手斧を振るう軌跡には、濁った翡翠色が残光として帯を引き、それが蛇のようにのたうって、巨鳥たちから漏出した魔力を貪りながら、また手斧へと引き戻されていく。
その光景は1秒半ほどのものだったが、黒ローブが脅威であると認めるには十分だった。
『魔力吸収……!? まじっすか!?』
機械獣遣いの戦乙女が驚愕の声を上げた直後か、ほぼ同時だった。
「下がれッ! お前は姉様達の護りを固めろ!」
「えぇっ!? でもっ……!」
「つべこべ抜かすなっ!」
厳しい命令口調になったセツナが、ルフル達の壁となるべく前へ出る。
「私の剣技は守りに向かん! だが、お前の重装人形なら後衛全員をカバーできる!」
居合の構えを取ったセツナは、向かってくる黒ローブに踏み込みながら指示を飛ばす。
アッシュも認めざるを得ない。黒ローブは疾い。
スピードなら、恐らくはアッシュと同格だ。
前衛としてのルフルとセツナが撃破されずとも、黒ローブの俊敏さで同時に抜かれた場合、魔術士であるマリーテとステファ、セツナの3人は一気に窮地に立たされることになる。
無論、あの3人なら近接戦闘もある程度はこなせるはずだ。だが、まだ得体の知れない黒ローブを相手にするのは危険だ。最悪なのは後衛の全滅。それを避けるべく、セツナはより前へに出る。そしてルフルは後衛へ下がる。
「何としても魔術士どもの詠唱時間を稼げ!」
「りょ、了解……!」
重装人形4体を操っていたルフルが、更に4体の重装騎士人形を呼び出してみせる。
「でも、前衛も後衛も同時にこなすのが、ルフルちゃんなんで!」
4体の人形でセツナの援護を、そして残りの4体で後衛と自分の壁として配置した上で、自分も魔法詠唱に入った。
険しい表情になったマリーテとステファも、流石に無駄口を一切叩かずに詠唱に入っているし、チトセも手の中に札を取り出している。
前衛も後衛も、相手を迎え撃つには鉄壁の布陣だ。今のセツナやルフル達のパーティを突き崩すのは、どんな魔物であっても用意ではない。その筈だ。
だが黒ローブは、そのまま突っ込んでいく。
正面からセツナ達を食い散らかそうとしている。
「“あの者の足を止めなさい”」
低い声で唱えたチトセに従い、新たに生成された式神の狼たちが群れを成し、黒ローブを包み込むようにして躍りかかっていく。だが、それでも黒ローブは止まらない。
「邪魔だって」
前傾姿勢の黒ローブは、正面や横合いから飛び掛かってくる狼たちの巨体を、両手の手斧で次々と叩き潰し、砕き飛ばす。小柄だが凄まじい力だ。そしてあの力で振るわれることに耐えている手斧の強度も尋常ではない。
何匹もの狼達が血煙となって飛散り、吹き飛びながら、その身体に宿っていたはずのチトセの魔力、あるいは霊力が、黒ローブの持つ手斧によって吸収されていくのが分かる。貪るように。流し込まれるかのように。
黒ローブは破壊を撒き散らし、そこに宿る造命の魔力を取り込みながら、式神の群れを割っていく。
「コイツは……!」
黒ローブの突進を阻むべく、重装騎士人形の4体とセツナが更に前へ。
「うん。決めた。あなたたちは排除するね」
朗らかな言い方をする黒ローブの声には、緊張も躊躇も、真剣さもない。その空虚な明るさに綴じ込まれていた凄まじいプレッシャーだけが、周囲を侵食した。
無邪気さで彩られた殺意。悪意が介在しない、無色なままの害意。それらがアッシュ達の身体に掴みかかってくる。並の冒険者ならば気を失うような圧力。
実際に、魔術士のレイダー3人は悲鳴を上げて、頭を抱えるように座り込んでいた。さっきまで高揚した声を上げていた歌姫も、今は黙り込んでいる。恐らく、喋れないのだ。騎士達も立ち尽くしている。恐慌に陥ることすらできず、飲み込まれていた。
「邪魔だったら、何人か壊していいって言われてるから」
邪悪さと無邪気さを綯い交ぜにした声を、黒ローブはころころと笑わせた。そして、先行して躍りかかってきたルフルの重装人形騎士4体の間を、音も無くすり抜けていく。
命の無い重装人形達を相手にしない黒ローブが、セツナを正面に捉えた。
険しい表情のセツナもまた、黒ローブを間合いに捉えていた。
「なら、先にお前が死ね……!」
駆けながらも居合斬りの構えを維持していたセツナが、そこで刀を抜き放つ。居合刀の柄に添えられていた彼女の右手が、掻き消えるようにブレる。
一瞬の間に八閃。次の一瞬で更に六閃。
アッシュは見ていた。セツナが徹底的に練り上げた、魔術的な戦闘技能から繰り出される神速の斬撃。
「ごめんね」
空間を埋めるような斬撃。その白銀の線。刃の軌跡と煌めき。その全てを、黒ローブも目で追っていたようだ。
「わたしは、死ねないの」
黒ローブが微笑むように言った。優しい口振りで。
「もう死んでるから」
同時だった。
黒ローブが体の横で構えた手斧から、濁った翡翠色の魔力が溢れた。奔流だった。その魔力の光は凝固しながら編み上げられ、濁った微光を纏う、幾条もの鎖となった。
瞬間的に、そして爆発的に発生したこの鎖の束は、黒ローブを護るような球状を象ってのたうち、奔って、セツナの放った斬撃の全てを弾いて、また消滅した。
あの黒ローブは自らの魔力を鎖として具現化し、防御に用いたのだ。近接戦闘用の魔術。セツナが居合斬りの間合いを、魔力によって広げているのと原理は似ているのかもしれない。
だがこのとき、居合斬りを放つためにセツナは動きを止めていた。
一方の黒ローブは動いていた。突進を止めていなかった。
その一瞬が決定的だった。
「じゃあね」
ぐんっと踏み込む速度を更に上げた黒ローブが、セツナの懐まで潜り込み、居合斬りの間合いを完全に潰してみせたのだ。
「ぐ……ッ!」
咄嗟に居合の構えを解いたセツナは下がろうとしていたが、黒ローブの踏み込みの方が疾い。間一髪のところでアッシュが黒ローブに追い付いていなければ、セツナはここで斬り伏せられていたかもしれない。
黒ローブの右斜め後ろから迫ったアッシュは、手にした杖『リユニオン』を、短剣である『エンクエント』、『パルティダ』に変形させていたし、黒ローブの右脚と右肩を狙った斬撃も、決して手加減したわけではないし、そんな余裕も無かった。
「わっ」
だが黒ローブは、セツナに襲い掛かる寸でのところで振り返り、身を捩って飛び退きつつ、アッシュが振るったエンクエントとパルティダを弾いてみせた。
その一瞬は、貴重だった。黒ローブの動きが止まった。セツナが下がる間を稼いだ。アッシュも黒ローブに並走する位置に追い付く。
だが、セツナが体勢を立て直すよりも先に、黒ローブも即座に動いている。やはり疾い。居合の間合いを潰し続けるつもりなのだ。執拗に食らいついてくる黒ローブは、詰め寄り続けることでセツナの行動を締め上げている。
更に黒ローブは、さきほどセツナの居合斬りを防いだ鎖を宙に展開した。自らの側面と背後を守るように。あれはアッシュの追撃を警戒したに違いない。これでアッシュも迂闊に近づけなくなった。
この1秒未満の時間の中で、黒ローブは戦闘を支配していた。
バックステップを踏み終えたセツナの顔には、苛立ちと焦りがあった。
セツナが居合刀を構える隙さえ与えず、黒ローブが迫る。音も無く踏み込んでいく。セツナを狙って両手の手斧を動かそうとしている。
それを阻むべく、アッシュも動いていた。
攻撃を選択できないほどに、本当にギリギリだった。
黒ローブが展開している、濁った翡翠色の魔光を纏う鎖の束。その防御を崩す暇は無いと判断したアッシュは、息を吐いて一気に踏み込む。
後退しつつも居合刀で何とか応戦すべく、立ち上がる途中のような姿勢のセツナと。そのセツナを食い散らかそうとする黒ローブの間に。
黒ローブが展開している、魔力の鎖を躱しながら、横合いから割り込むように。そして、セツナを肩で突き飛ばしながら、両手の短剣を後頭部の後ろで交差させて、防御姿勢をとった。
アッシュからタックルをされるなどと思っていなかったに違いないセツナは、簡単に押し飛ばされていた。
それでも居合刀から手を離さなかったセツナは、アッシュを見て目を見開いている。今の彼女の顔には、怒りと驚愕、後悔と自責と、赦しを請うような、壮絶な表情が刻まれていた。
アッシュとセツナの目が合う。
ほぼ同時だった
「あ」
少し驚いたような、黒ローブの暢気な声。少女の声と共に。
衝撃。瞬間的に。5回。手斧の連撃。
アッシュの背中に叩き込まれた。呼吸ができない。
背骨。肩から脇腹の骨。内臓。それらが砕けるのをアッシュは感じながら、喉の奥で治癒魔法を唱えていた。
肉体の破壊と再生。
アッシュの体内で同時に行われる。
治癒というよりは、変化の拒絶のように。
その引き換えにされていく、自分の寿命。
命の原形質。それら一気に消耗する感覚。
死が、自分の内側を素通りしていく感触。
空虚な痛覚がある。
それが無くなれば終わりだ。
アッシュの呼吸が戻る。
手に握っているエンクエント、パルティダの重さと冷たさを確かめる。
高い耐衝撃、耐刃機能を備えているローブとボディスーツの御蔭で、アッシュの身体が粉々にされるのを防いでくれた。ヴァーミルの推しブランドの品だけあって、確かに頑丈だ。ローブも破れていない。
アッシュの頭部も無事だ。身体は動く。戦える。
「今ので壊したと思ったのに」
背後で、手斧を振りかざすような気配があった。
即座に身体を反転させて、黒ローブが振り抜いてくる手斧の連撃を、弾き、躱して、アッシュも踏み込む。両手に握る短剣を打ち込む。黒ローブの腕と脚を狙って。
だが、これも難なく手斧で弾いてみせた黒ローブは、今度こそ狙いをアッシュに変えてきた。
今度はアッシュが下がる番だった。下がらざるを得なかった。
エルン村での鬼面ゾンビのときとは違う。アッシュは押されつつあった。
背後で、焦ったようなセツナの声が聞こえた気がするが、よく聞き取れなかった。応答する間もなかった。黒ローブが猛然と打ち込んでくる手斧は鋭く、正確で、無駄も容赦も無かった。それに凄い力だ。まともに受けきれない。
黒ローブの手斧での連撃を、アッシュは両手の短剣で受け流して、体捌きと足捌きを駆使して躱しながら、再び反撃の隙を伺う。だが、黒ローブの動きには乱れが無い。綻びも無い。ならば作るしかないが、それも簡単でない。
「あははっ……!」
アッシュを押し潰すように前に出て来る黒ローブは、周囲に展開していた魔力の鎖を消していた。防御に回していた魔力を、手斧へと流し込んだのかもしれない。
濁った翡翠色を帯びた手斧は、さらに速度と威力を増して、アッシュを脅かした。壮絶な連撃だった。黒フードは止まらない。
「あはははははッ……!」
フードがふわりと舞って後ろに流れた。黒ローブの、その素顔が露わになる。
第一印象を正直に表すならば、彼女は、まだ幼くも見える少女だった。
「きみ、すごいねっ!」
微かに弾んだ彼女の声は、幼さに任せてはしゃぐようでもあり、どこまでも楽しそうだった。肩辺りまでの翡翠色の髪も、降ってくる柔らかな陽光を塗されて輝いている。
「こんなに私と打ち合えるひと、初めて……!」
彼女はアッシュに対して、初めて友人が出来たことを喜ぶような、朗らかな笑みを浮かべてみせる。その可憐な顔立ちと表情のどこにも、暗い屈託の影は見えない。清らかささえ感じさせるほどだった。
その彼女の、洗い出されたかのような純粋で無垢な存在感と、彼女が操る手斧の無慈悲さは酷く歪で、ちぐはぐだ。
この少女は、何者なのか――。
彼女が操る手斧の連撃を捌きながら、アッシュは思う。
だが、それを考えている暇はない。そんな余裕もだ。
間違いないのは、この場での彼女は明確な脅威だということだ。
彼女がどのような存在であれ、アッシュにとっては鎮圧すべき襲撃者であり、退けるべき敵だった。
手斧を振り回す彼女の瞳が、きらきらと輝きながらアッシュを見詰めている。彼女の感情に呼応しているのか。彼女の手斧に濁りながら灯る翡翠色の魔力が、強く明滅しはじめた。先程のように魔力を鎖に具現化し、何らかの攻撃を繰り出そうとしているのだろうか。
それを律儀に受ける必要は無い。
だが、アッシュは彼女の猛攻を凌ぎつつも、押し返すことができない。
そして少女もまた、アッシュを完全に攻め切ることができていない。
アッシュと少女の近接戦闘力は、ほぼ互角だ。
互いの決定打がない。約4秒。長い4秒だった。
縺れ合うようにして、互いの得物を打ち合う。
「嬉しいなぁ……! 楽しいなぁ……!」
手斧でアッシュの急所を執拗に狙いながら、少女は笑い掛けてくる。
「あはは……っ! あなたのこと、好きになっちゃいそう……!」
目の前の少女は、あれだけ穏やかで朗らかな笑顔を浮かべたまま、他者を破壊できる精神性の持ち主なのだ。その残虐性の根底にあるのは恐らく、悪意や害意が伴った快楽ではなく、倫理や良識的な感性や共感の欠落ではないか。
「もっと遊ぼうよ……! ねぇ……!」
彼女は笑う。楽しそうというよりも、嬉しそうに。
アッシュは薄く息を吐いてから応じた。
「お断りします」
少女との打ち合いを放棄するようにアッシュは告げ、更に大きく後ろに跳んだ。
戦闘の手応えを唐突に失った少女は、きょとんとした顔になり、空振りした手斧を下げながら、3度ほど瞬きをしてアッシュを見た。その表情が見る見るうちに、憮然として寂しげなものになる。
「……どうして? あなたは楽しくないの? そんなに強いのに」
拗ねたように訊いてくる少女に、アッシュは答えない。
目の前にいる少女を、アッシュが一対一で撃破する必要は無い。
この場に居るのは、アッシュだけではないのだ。
アッシュに加勢すべく、サニアやヴァーミル、シャマニ、それに、他の戦乙女達がすぐ傍まで来てくれていることには、アッシュは気付いていた。
体勢を立て直したチトセも、ルフルに防御されながら魔法の詠唱を完成させたマリーテやステファ、チトセも、隊列を維持しつつ少女を魔法の射程距離に収めつつある。
急襲してきた少女を引き付けたアッシュの行動は、少なくとも間違いでは無かった。危ういところではあったが、この黒ローブの少女を包囲するための時間は稼げたのだ。
両手に握った手斧を下げた少女も、取り囲まれようとしている自分の状況を把握したようだ。
「あ~ぁ……。残念だなぁ……。もっと遊びたかったのに」
迷子になって親を探すように周囲を見回した少女はそう溢し、ローブの懐から何かを取り出した。球状の金属細工のようだが、恐らくは何かの魔導具に違いない。薄青い微光を放っている。
「……うん。……うん。ごめん。レーヴェス。失敗しちゃった」
少女がアッシュに向き直りながら、この場に居ない何者かに言葉を向けているのが分かった。
アッシュは手にしたエンクエントとパルティダを握り直し、再び少女が襲ってくることを警戒する。だが、それこそ少女の悪足掻きだろう。
さっきのような急襲でチトセを狙うならばともかく、今の少女はアッシュ達全員を同時に相手にすることになる。幾らなんでも無謀だ。
いや、或いは、何らかの力を隠しているのかもしれない。
「……え。今はこれでいいの? ……そっか。わかった。うん。じゃあ。え、ほんと……? やったぁ!」
チラチラとアッシュの方を見ていた少女が、両手を上げて喜んだ。
「あなたとは、また会えるかもだって!」
またアッシュに笑い掛けてきた彼女は、そのまま手を振るように斧を振ってみせる。
「そのときは、死ぬまで遊ぼうね」
その声音も、柔らかな表情も、帰り道で友達と別れる子供のような、ゾッとするほど長閑なものだった。無邪気さが透徹しているが故の邪悪さが、この場の空気を澱ませ、沈ませていくようだった。
ただ、少女然とした笑みの中にある彼女の眼差しに、なにか、酷く熱っぽいものが滲んでいるのを感じた。おぞましくも純粋で、ひたむきな、何らかの感情が、アッシュに向けられたまま宿ろうとしているようだった。
だが、アッシュにとっては無関係だった。
あの少女がどんな感情を抱いていようと、関知する必要もない。
今のアッシュには重要な役割がある。それを果たすだけだ。
「じゃあね。ばいばい」
襲撃者であるあの少女は、逃げるようとしている。ならばと、その足をとめるべくアッシュが踏み込もうとしたところで、少女の身体が積層型の魔法円で幾重にも包まれた。
そして次の瞬間には、少女の姿が忽然と消えてしまった。少女を包んでいた魔法円も瞬間的に霧散している。
周到な逃げ道を使われたに違いなかった。最初から、離脱する手段を持っていたのだ。結果的に後手に回っているアッシュ達に、今は為す術が無かった。少女が居た場所には、陽光が温めたそよ風が吹き抜けていくだけだった。
「な……」
短剣を手に構えていたアッシュは、その姿勢のままで絶句してしまう。
アッシュを援護しようとしてくれていたヴァーミルやシャマニ、サニアや他の戦乙女達にしても、同じような様子だった。だが、アッシュ達がそのまま呆然とするよりも先に、また新たな事態が起きようとしていた。
「う、うわああああ……ッ!!」
「だ、誰でもいいっ、助けてくれぇっ……!」
「俺達は悪くねぇ、命令されてやっただけだ……!」
「そうだ! 俺達は自分の命を奪われて、それで……!」
「ネクロマンサーだ! アイツが俺達を……!!」
哀れっぽい叫び声が、幾重にも重なって響いた。
また何かが起きたのだ。今度は何事か。アッシュ達は一斉に振り返って、見た。
何人もの男の悲鳴。叫び声。地面に転がっていたり、式神の狼たちに組み敷かれているレイダー達のものだ。残っていた魔術士のレイダー達も、被っていた仮面を捨てて、襲っていた筈の騎士達に助けを請うように地面に這い蹲っていた。
だが、その様子は異様だった。
最も分かりやすいのは、仮面を外した魔術士のレイダーだ。
「死にたくない! 死にたくねぇっ……!」
跪いて涙ながらにそう訴える、魔術士のレイダーのうちの、ひとり。30代後半だろうか。精悍な顔立ちのお男だった。その顔が、見る見るうちに干乾びていく。急速な老化のようにも見えるが、違う。あれは老化ではなく、衰耗か、衰微と言うべきかもしれない。
生きながらミイラになっていくような、いや、もっと不吉な印象ではあるが、動いていた死体が、もとの死体へと戻るような――。
「いや、……だ。死、にた……く……な……」
青空を見上げて両手を伸ばした男の声からも、明らかに生気が抜け始めている。
身体が急激にやせ細りはじめ、その両目も白濁していく。まるで生きる為に必要な全てを、一気に搾り取られたかのように。そして最後には、レイダーは乾いた地面に倒れ伏した。前のめりに。無造作に。
見れば、全てのレイダー達が沈黙し、力なく地面に横たわっている。
彼らもまた、仮面の奥で干乾びた顔をしているに違いなかった。
歌姫たちを護っていた騎士たちも息をのみ、戦慄に支配されて立ち尽くしている様子だった。誰も、何も言葉を発せない時間が通過していく。
その静寂は、レイダー達に予定されていたのであろう完全な死が、この場に齎したものに違いなかった。
彼らの死に際の言葉。ネクロマンサー。
その言葉の意味が、この場の混乱の中に、ただ虚しい余韻を残している。
凄惨な目の前の光景を受け容れるしかないアッシュ達の間を、陽光が温めたそよ風が、また素知らぬ顔をして吹き抜けていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
更新が遅くなっており、申し訳ありません……。
今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!
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