第67話 “今の自分”を見詰めながら


  クラン『鋼血の戦乙女』のヴァーミルとシャマニが、ローザの家を訪れてきた、その翌日。


 アッシュは懐かしさよりも後ろめたさのようなものを感じながら、神殿内にある養護院へと訪れていた。


 ローザ宅を訪れたヴァーミル達が、アッシュの過去や養護院での態度を調べていたのは聞いた通りだった。ただ、それに協力した養護院院長であるクレアがヴァーミル達に、「今度アッシュに会ったら、一度顔を見せに来なって、伝えておいておくれ」と頼んでいたのだった。


「クレア院長も、キミのことを気に懸けている様子だった。顔を見せに行って、少し話をしてくる方がいいだろう」


 ローザの家からの帰り際、アッシュを気遣うように微笑みを浮かべたヴァーミルが、そう言ってくれた。


 高身長で体格も良く、女性騎士然として厳粛な雰囲気を纏っているヴァーミルが、ただ厳しいだけでなく、思い遣りのある女性なのだと、そのときに確信した。きっと彼女は、クランメンバーからも信頼されていることだろう。


 シャマニの方はと言えば、同行依頼の話を終えた後でカルビ達と他愛の事ないで言い合い、どこか消耗しきったような様子ではあった。


「しょ、そ、それでは、アッシュさ……アッシュさん、またいずれ……!」


ただ、別れの挨拶をしてくれた彼女の瞳が、ローザの家に来たときよりも、遥かに輝きを増していたのが印象的に残っている。

 

 こうして、ヴァーミルとシャマニが帰ったあとのことだった。クレアに関わるヴァーミルの話を聞いていたローザが、「明日、クレアさんに会って来たら」と言ってくれたのだ。


「アタシ達のことなら気にすんな」とカルビが気を遣ってくれて、口許を緩めたネージュも、「アッシュ君の恩人なら、ゆっくりと話をしてきた方がいいかもしれないわ」と頷いてくれた。


 「今、このときにしかできない話もあるでしょうし……。会うことを先延ばしにしては、後悔することになるかもしれませんわ」


親身に言ってくれるエミリアの言葉にも、背中を押された。


 ただ正直なところ、アッシュは養護院に足を向けることを、そして、クレアと会うことを避けたいと思っていた。


 養護院にいた頃のアッシュは、クレアから勧められていた神官への道を断っている。職人街での働き口も紹介されたが、それにも応じなかった。社会との繋がりや人間関係を最低限まで削るつもりで、冒険者となって生きる道をアッシュは選んだのだ。

 

 ローザと出会う前のアッシュは――自身の存在を希釈することに腐心していた頃は――、どのような表情や感情を携えて養護院に出向き、クレアに顔を合わせればいいのか分からなかったのを覚えている。


実を言えば、『慈悲の院』でアッシュが静養していたときに、クレアが一度訪ねてきたことがあった。そのときは、アッシュの負っていた怪我の具合と、今の治癒状況、完全に体が癒えるまでに必要であろう期間など、そういった事務的な遣り取りをしただけだった。

 

 ただ、瀕死から回復したアッシュに向けられていたクレアの眼差しからは、安堵や慈しみを感じることができたのは間違いなかった。

 

 

 


「こんな土産なんて持ってこなくてもいいのに」


 執務室で向かい合ってソファに座ったクレアは、アッシュが手渡した茶菓子の包みを手に持ち、まじまじと眺めた。それから、大袈裟に眉を寄せて顔を顰めてみせる。


「見るからに高級そうだねぇ……。包装紙までピカピカじゃないか。このタルト、わざわざ美食街で買って来てくれたのかい?」


「わざわざなんて、とんでもないです。受け取ってください」


 眉を下げたアッシュが降参するように少し頭を下げると、顔を顰めたままのクレアが溜息を吐いた。しょうがない子だねぇ、というふうな溜息だった。


「……今回だけは、ありがたく貰っておくよ。でも、次に来るときは手ぶらで来ること。いいね?」


 子供を叱る顔になったクレアは、指を立ててアッシュに向けた。


「あんまり高級なモンを持ってこられたら、“おかえり”の一言すら、気持ちよく言えないだろう?」


 ゆっくりとしたクレアの口振りは、アッシュを非難するものではなかった。寧ろ、今まで遠ざかっていたアッシュとクレアとの繋がりや関係を、この場で確かめ直すような真剣で細やかな優しさを感じた。


“おかえり”という言葉の持つ温かさに心を打たれ、そこにある深い愛情に、アッシュは何らかの反論をする余地を完全に奪い去られてしまった。


「……はい。次回からは、手ぶらで伺わせて貰います」


 アッシュが素直に頷くと、クレアは表情を緩めてソファから立ち上がった。


「分かればよろしい。少し待ってな。今から茶を淹れるよ」


 クレアが紅茶を用意してくれるあいだ、遠くからは子供たちの遊ぶ声が聞こえていた。その屈託の無さに誘われるように、養護院で過ごしていたときの記憶が過っていく。


アッシュ自身は、あんな風に声をあげて遊んだことはなかった。友達らしい友達もつくることが出来なかったし、その努力もしなかった。“教団”での日々から生き延びたアッシュは、自身の存在を疑っていた。

 

 目の前に置かれている温かな世界に、自分を馴染ませることができなかった。

 

 だが、養護院で過ごしていた時のアッシュは、少なくとも、あの無邪気で清らかな子供たちと同じ世界に居ることを許されていたのだった。


そのことを思うと、ゆったりと流れているこの場所の時間そのものが、アッシュの訪れを懐かしみながら、親しみを向けてくれているようにも思えた。


「上等の茶葉で淹れてるから、コイツは美味いよ。貰ったタルトにもぴったりさ」


 豪快な笑顔を浮かべたクレアが、ティーカップを乗せたソーサーを手渡してくれる。それに、アッシュが持ってきたタルトを小皿に乗せて、フォークも一緒にテーブルの置いてくれる。


 テキパキとしたクレアの手つきは、まるで酒を注いだジョッキと、そのツマミでも出すかのような勢いだった。アッシュは少しだけ笑った。そのアッシュの笑顔を見て、クレアも肩を揺らしながらソファに座る。


 そこでアッシュは気付いたのだが、クレアは自分のタルトを用意していなかった。自分は食べずに、養護院の子供たちに食べさせてあげるつもりなのだろう。ただ、アッシュが買って来たタルトもそんなに大量ではないから、何かの御褒美にでもと思っているのかもしれない。


「私に遠慮せずに、アッシュは食べておくれよ」


 ぶっきらぼうに言うクレアは、ずずずっと紅茶を啜ってから、肩の力を抜くように鼻から息を吐き出した。


「……さぁて。こうやって腰を据えて話をするのは、1年ぶりぐらいかい? アンタが『慈悲の院』で目を覚ました時には少し顔を合わせたけど、ろくすっぽ会話らしい会話もなかったからね」


 まぁ、死にかけから復活したばかりのアンタと、あんまり長話をするのも憚られたからねぇ。そう付け足したクレアは、微かに笑みを漏らして肩を揺らした。


「えぇ。……僕も、もう少し早く、近況の報告をしにくるべきでした」


「まったくだ。やっと帰ってきたと思ったら、虫の息だったんだからね。心配したよ」


 冗談めかしたクレアは、穏やかに下瞼を膨らませて目を細めた。それは日々の疲れを窺わせる種類の笑顔だったが、アッシュを見詰めてくる眼差しの中には、微かに潤むような光が佇んでいた。


 そのクレアの表情に申し訳なさを覚え、同時に、心配してくれていたことへの嬉しさで、アッシュの胸が軋んだ。


「……すみません」


 ほとんど反射的に謝ってしまったアッシュを見て、クレアは柔らかく苦笑した。


「そんな風にすぐに謝るようじゃ、冒険者には向いてないんじゃないかい?」


 言葉とは裏腹に、クレアの声音には棘も嫌味もなかったが、その言葉の先を想像させるものだった。ソロ冒険者としてのアッシュの苦労に心を痛めているようでもあったし、冒険者以外の生き方をあることを示唆しようとしているのかもしれなかった。


「僕としては、冒険者として頑張ることを応援して欲しいですけど」


 冒険者に向いていない。それは以前、リーナからも言われたことがあるのを思い出しつつ、アッシュは曖昧な笑みと共に、冗談めかして不満を表明した。


 クレアは少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げると、口許を緩めてみせる。


「あぁ。まぁ確かに、その通りだね。今のアンタに、グチグチと言う資格は私には無いからねぇ」寂しそうに言って視線を下げたクレアだったが、すぐに不敵に笑って胸を張った。


「でも、アンタことを気に懸ける権利ぐらいはあるだろう。それにね、私の知ってるアンタが、あんまり遠く行っていないようでね。……嬉しくもあったのさ」


 持っていたティーカップをソーサーに置いたクレアは、鼻から大きく息を吸って、吐き出し、真面目な顔になって、アッシュに指を向けてきた。


「ヴァーミル達に協力する代わりに、私もね、色々と話を訊かせて貰ったよ。……時々、肝を潰すような額の寄付金が養護院にあったけど、アレはアンタの仕業だったんだね」


「仕業なんて言い方はやめてくださいよ」


 タチの悪い悪戯を叱るような口振りになったクレアに、アッシュはどんな表情で応じるべきか分からなかった。


「とにかくだよ。寄付をしてくれるのは本当に有難いけど、アンタの分のお金も、少しは残しておきな。分ったかい?」


「は、はい」


 アッシュが背筋を伸ばして少しだけ頭を下げると、不意に表情を引き締めたクレアは居住まいを正し、アッシュなどよりも更に深く頭を下げてくれた。


 今までの冗談めかした軽い空気を維持するのも、もう限界だと項垂れるようにも見えて、アッシュは一瞬だけ息を詰まらせた。


「アンタの御蔭で、養護院の子供達にも十分以上の医療や食事、教育を受けさせてあげることができてる。それは本当に感謝しているよ。ありがとう」


 それは間違いなく、養護院院長としての深い感謝が籠もった言葉だった。「……でも」と言葉を繋いだクレアは、そこで呼吸を置くような間を置いてから顔を上げて、アッシュを見た。悲しげであり、険しい眼差しだった。


「もしもアンタが自分の身を削るような状況で、この養護院に高額な寄付をしてくれているようなら……。私達は、アンタに感謝を伝える資格さえも無くなっちまう」


 アッシュから目を逸らさないクレアの声の端には、震えがあった。


「私はね、アッシュ。アンタが、アンタ自身を大事にしてくれることを願ってる。それだけは忘れないでおくれよ」


「……僕は冒険者として、ちゃんと生活をしていますよ。自分自身を労わる余裕も、最近は持てるようになりました」


 だから安心して欲しいというつもりで、アッシュは何とか口許に笑みを過らせて、クレアの視線を受け止める。それ以外に、アッシュに出来ることはなかった。


 悲しげに瞳を揺らしているクレアは、正面に座るアッシュを見詰めながら、養護院に来たばかりの頃のアッシュの姿を見ているのだろうと思った。


 そのクレアの眼差しを前にしたアッシュも、自分の心の中に、“教団”から生き残ってきた自身の存在を、ずっと疑い続けていた頃を思い描いていた。


 ――“お前は無価値だ”

 ――“お前は無意味だ”


 象牙色のローブを纏った男の声が不意に思い出されて、頭の隅に木霊した。


だが今のアッシュは、その記憶から伸びてくる声にも、大きく動揺しなかった。落ち着いて、それらの残響を受け止めることができた。アッシュの生きてきた時間が、今のアッシュとクレアに重なっていくのを感じた。


「僕が冒険者として生きることを選んだのは、ほとんど、自分の過去というか、僕自身という存在から逃げるためでした」


 自身に向けられているクレアの眼差しを、自分の想像の中で辿るような思いでアッシュは受け取る。アッシュの胸の内では時間が巻き戻り、そこには、養護院に来て間もないころの自分が、不安そうに立ち尽くす姿が浮かんできた。


「……でも今は、それで良かったのだと思います。そうやって逃げた先でこそ、優しい人達と出会うことができましたから」


 アッシュは、その心細げな自分自身の姿に声をかけるような思いで、クレアに微笑みを返した。


「その人達と出会う前の僕と、出会ったあとの今の僕では、明確に違います。……少なくとも今の僕は、自分の生きてきた時間を肯定したいと思っています」


 クレアに答えながら、カルビとの会話を思い出していた。


 あの夜のリビングで、カルビはアッシュの肩を抱いて言ってくれた。いつでも、過去に意味を与え直せるのだと。今頃カルビは、アッシュが酒に酔えることや、美味なものを美味と感じることができることを、ローザ達にも話してくれているのだろうかと思った。


「……正直に言えば、以前の僕は冒険者を続けていくことを、いえ……、生きていくこと自体を疑問に思ったこともあります。この世界の良識や常識に従うことに、何か意味があるのかと」


 その告白を聞いたクレアが喉を震わせ、息を詰まらせるような気配があった。だが構わず、アッシュは自分の言葉を前に進めた。


「でも、そんな時はいつも、クレア院長が僕に贈ってくれた『役割』という言葉が、僕を正してくれました。……クレアさんと出会うことが出来て居なければ、僕は、今とはもっと違う場所に辿り着いていたはずです」


 クレアと出会うことが無ければ、今のアッシュは存在しないのだった。“教団”から生き延びたアッシュを、社会の営みに招き入れてくれたのは、間違いなくクレアだった。


 アッシュの生きてきた時間において、クレアの力強い優しさに触れる機会が無かったとすれば、ローザ達との出会いもまた、大きな意味を持たなかったことだろう。


 世界と言う大きな視点で見れば、アッシュと彼女達の出会いとは、他愛のない偶然かもしれない。


だが今のアッシュにとっては、心から愛すべき奇跡だった。


「僕は、故郷や家族といったものとは無縁に生まれてきました。でも僕にとっては、この養護院が故郷であり、養護院に関わる優しい人たちが、僕の家族だったのだと……、そう思うようになりました。たとえ、今まで一言も言葉を交わしたことがなくとも」


 自分の内側から自然と湧きあがってくる言葉を、アッシュは大事に紡いだ。自身を『冒険者』という言葉の中に埋め込んでいく日常の中でも、この養護院の存在は、アッシュの内部の少なくない部分を占めていた。


「故郷と家族のために、冒険者である僕に出来ることは何かと考えた結果として、……何度か寄付をさせて貰っていたんです」


 そしてそれは、冒険者というアッシュの『役割』とは矛盾せず、逸脱せず、結果として、アッシュという存在の無害をヴァーミル達にも証明したのだった。


 アッシュを見守るような目になったクレアは頻りに下唇を噛み、言うべき言葉を喉に閊えさせたように、苦しげに唾を飲み込んでいた。その沈黙に縛り付けられたようなクレアの様子から、アッシュは、自らが切り出すべき話に思い至った。


 アッシュは、クレアが淹れてくれた紅茶に口をつけた。芳醇な香りが鼻に抜けて、温かな温度が喉を潤してくれる。


「……淹れてもらったこの紅茶、とても美味しいですね」


 アッシュは自分が何かを味わい、その喜びを誰かと共有できることを証明するように微笑みを浮かべた。続いて、タルトをフォークで切り分けて、口に運ぶ。タルトの生地が舌の上で解け、上品な甘さが口の中に広がった。


「タルトも甘すぎなくて、紅茶に良く合います」


 この会話の流れは、幼稚なほどにワザとらしかったかもしれない。


 だが、アッシュの肉体が、人と変わらない機能を持ち、常識と良心を備えていることを言葉で説明するよりは、より説得力があるように思えた。できるだけ平穏で暖かさのある会話で、アッシュは自身に関する話題に区切りをつけたかった。


 そのアッシュの意図を、クレアは汲んでくれたようだった。


「……そうかい。あぁ、そうだろう」


 強く握り締めていた拳を、ゆっくりと解くように息を吐き出したクレアが、ようやく笑みを浮かべてくれた。執務室の外からは、また子供たちの無邪気な声が聞こえてくる。


 その声がした方をチラリと見たクレアは、飲みかけていた紅茶をグビグビと飲んで、「ぷはぁ」と息を吐いた。まるでビールを一気飲みしたかのような仕草に、アッシュはまた少し笑う。


「私が気に入った茶葉なんだ。あとで包んであげるから、持って帰りな」


「えっ、でも、来客用の高価なものなんじゃないですか?」


「アンタの寄付額がドラゴンだとすれば、この紅茶の値段なんざ毛虫みたいなモンさ。遠慮すんじゃないよ」クレアは嘆息してから呆れた顔になる。


「1人で飲み切きれないって言うんなら、ローザちゃん達と分ければいいじゃないか。また一緒に冒険をするんだろう?」


 クレアが好意的な響きを持たせてローザの名前を口にしたことに、アッシュは胸の中に温かさを覚えた。自分の大事な人同士が、友好的な関係にあることを純粋に嬉しく思いながらも、『慈悲の院』での自分の涙を不用意に思い出して、頬が微かに火照った。


「えぇ、それはまぁ、そうですけど……」


 アッシュが紅茶に口をつけつつ答えると、クレアが唇の端を持ち上げた。


「アンタもやっぱり、ああいう、おっぱいの大きいお姉ちゃんが好きなのかい?」


「ぅ、けほっ!?」


 危うく口に含んだ紅茶を噴き出しかけたアッシュは、半目になって言う。


「何を言い出すんですか、急に」


「いや、アンタも男の子だからねぇ。……オリビアもなかなかのモンだよ? ローザちゃんにも負けてないと思うけど、どうだい?」


「どうだいって……、何がですか?」


「ボインボインだよ」


「それを聞いて、僕はどう応じればいいんですかね……」


 さっきまで暗く深刻な話題から遠ざかろうとして、クレアが気を遣ってくれているというのは何となく分かる。だが、急におっぱいだのなんだのと言い出されては、ワケが分からなくなりそうだった。

 

「かかか! ローザちゃんの言う通り、そういうことにはあんまり興味は無いんだねぇ、アンタは」


愉快そうに肩を揺らすクレアに釣られて、アッシュも眉を下げる。


「ローザさん達には、本当にお世話になっています。感謝しても、しきれないくらいに……」


「ローザちゃんも同じようなことを言っていたよ。優しいアンタに、助けられてばかりだって。いい関係が築けているようで、私も安心したのを覚えてる」


 クレアとローザがそういった話をしていたのは恐らく、アッシュが初めて泣いた、あの日なのだろうと思った。あのときのローザの胸の温かさを思い出しながら、アッシュは緩く首を振った。


「……僕は、優しくなんてありません。誤解ですよ。ローザさん達も、クレアさんも、僕に対して好意的過ぎます」


 アッシュが穏やかに言うと、クレアが口を引き結んだ。だがアッシュは、今の自分の言葉を否定的に捉えて欲しくなかった。


「でも、だからこそ……」感謝と、自分の決意を伝えたかった。


「僕は、ローザさん達や、クレアさんの誤解の中に生きる僕を、大事にしたいと思います。“役割”以上に、それが本当の僕になるように」


 この世界から消えてしまおうとしていたアッシュは今の、自分自身を維持したいと思っていた。素朴な善良さと慎みの中で、冒険者として、誰かの幸せを手伝いたかった。

 

「いい心掛けだね。女神様はきっと、アンタを助けてくれるよ」

 

 そこでクレアが、本当に嬉しそうに笑みを浮かべてくれた。アッシュも笑みを返す。

 

「僕は女神というものが、あまり好きではないのですが……」


「ほう。高位神官の私に向かってそういうことを言えるのは、冒険者らしい度胸の良さだね」


 冗談めかしたクレアだったが、そこで不意に、笑顔のまま少しだけ声を真面目なものにした。

 

「……アンタがこれからもソロ冒険者を続けるなら、オリビアと一緒にパーティを組んでくれる可能性だってあるだろう? 同じパーティにならずとも、同行することだってあるかもしれないだろう」


 クレアの目は何かを思い出しているかのように、焦点を遠くに置いていた。そこでアッシュも、すぐにダルムボーグでの一件に思い至る。


「またオリビアが危ない時には、助けてやっておくれ。勿論、リーナも……。リーナのパーティの子たちもね。アンタの力が及ぶ範囲でいいから」


「……はい。僕が力になれるのであれば、助力は惜しみません」


 アッシュが頷くと、クレアは眩しそうに目を細めて「ありがとう」と言ってくれた。


「そう言えば、オリビアもリーナも、アンタに会いたがっていたよ。助けて貰った礼を言えていない、ってね」


「えぇ。ダルムボーグでの戦いの後は、ちょうどすれ違いになりました」


 アッシュが『慈悲の院』で療養していたのと同じ頃、オリビアは、第9号区にある魔導医術研究院で過ごしていた。


 研究院は文字通り、錬金術士や医術士が研究を行っている施設ではあるが、同時に、高い治療技術を有している施設であり、いわば、アードベルの総合病院の役割も果たしている。


 ここで医術士達の治療を受けたり、錬金術士に魔法薬を用意して貰ったりするためには一定の料金が必要ではあるが、全体的に低く設定されているのが特徴だった。


 神殿での高額な治癒魔法を受けることができない者や、そもそも治癒魔法を受けて生命を削ることが危険だと判断されるような高齢者が、この魔導医術研究院を利用している。


 ダルムボーグから搬送されたオリビアは、肉体の傷が殆ど癒えた状態であり、なおかつ意識も戻りつつある状態であったため、『慈悲の院』には運ばれなかった。


 その代わりに、魔導医術研究院へとゴブリン達に担ぎ込まれ、そこで滋養魔法薬と処置されての静養という運びとなったのだ。


 『慈悲の院』で目を覚ましたアッシュも、治療を担当してくれた神官からオリビアの状況を教えて貰い、安心したのを覚えている。


「アッシュ。アンタは今日、これから忙しいのかい?」


 微笑んだままのクレアに訊かれて、アッシュは首を振った。


「いいえ。特に用事もありません。あとは銀行に寄ろうかなと思っているくらいです」


「そうかい……。なら、帰りにギルドにも寄ってみれば、リーナ達とも会えるかもしれないよ。オリビアからも、今日はギルドでリーナ達と会う予定だって聞いてる」


 クレアは記憶を辿るように顎に触れ、視線を斜め上に流した。


「そう……、なんですね。でも、もう流石に、何処かのダンジョンに向かっているんじゃないでしょうか?」


「いや、その可能性は無いと思うよ。一応の修行報告としてオリビアに訊いたんだがね。今日はギルドに集まって、次に向かうダンジョンを決めたり、掲示板で仕事を探したりしながら、これからのことを話し合うらしい」


 クレアの声は穏やかなままで、アッシュの背中をそっと押すような響きがあった。それは恐らく、母が子に、友達との仲直りを促すときや、新しい人間関係を芽吹かせようとするときに宿る種類の、親身な温かさが籠められていたからだった。


 アッシュは少し黙ってから、頷いた。


「教えて下さって、ありがとうございます。一度ギルドに寄ってみます」


「あぁ。そうしておくれ」


 クレアが小刻みに頷いたときだった。また窓の外から、子供たちの声が届いてきた。その無邪気な響きにくすぐられるようにして、アッシュもクレアも、自然と笑みを交わし合うことが出来た。




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今回も最後までお付き合い下さり、ありがとうございます!









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