第60話 手を引かれて



 ローザの胸の中で、アッシュが溺れて喘ぐようにして泣きだしてから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。よく分からない。短かった気もするし、長かったような気もする。


 ただ、泣くとスッキリするという話は聞いたことはあるが、あれは本当だと思った。


 アッシュの頭の奥は熱を持ってぼぅっとするのに、ぐちゃぐちゃになっていた胸の中は、不思議なほど静まっている。ただ、激しく泣いた後だからか、目の周りが少しヒリヒリしている。鼻を啜りながら、きっと今の自分の顔はひどい感じになっているだろう。


 アッシュの泣き声と涙の気配が止み、その呼吸が整ってくるまで、穏やかな表情のローザはアッシュのことを抱いてくれていた。


「……落ち着いた?」


 羽毛のように柔らかくて優しい声が、ふわりと降ってくる。ローザの体温と柔らかさに包まれたまま、アッシュは自分の顔を隠すようにして小さく顎を引く。


「……はい。もう大丈夫です」


 呟くように言うアッシュの声には、まだ涙の名残がある。少しだけ掠れて頼りないその声の響きは、目の前のローザの肌に溶けていくようだった。


「その……、お見苦しいところを見せてしまって、すみません」


「謝ることなんてないよ。ローザお姉ちゃんには、もっと甘えてって言ったでしょ?」


 やはりアッシュに気を遣わせないためか、軽やかで明るい声でそう言ってくれたローザは、「にしし」っと緩く肩を揺すって、アッシュを抱く腕にまた力を込めてきた。

 

 彼女の大きくて柔らかい、たっぷりとした膨らみが、アッシュの頬と顎のあたりで潰れて、むにゅむにゅと形を変えているのが分かる。


「あ、あの、ローザさん」


 泣き終えたことで、確かに気持ちに少し余裕ができた。だがその所為で、ベッドの上で抱きすくめられていることが意識の上にあがってきて、今更のように気恥ずかしくなってきた。


 密着しているローザの体温からは、清潔で華やかな香りがしてくる。液状石鹸の香りなのかもしれないが、とにかく気まずかった。


「そろそろ、腕を……」


 この抱擁を解いてくれるよう、ローザにお願いしようとした。


 だがローザの方は腕の力を緩めるどころか、「んぅ~?」などと猫みたいな口になって、アッシュの額あたりに頬ずりをしてくる。物凄い密着感だった。ローザの豊満な乳房の柔らかさや、抱きしめられたままで彼女の体温を受け取り続けていることを思うと、顔が熱くなってくる。


「やっぱりアッシュ君の身体って、筋肉があるからかな? 体温が高くて、ぽかぽかして抱き心地が良くってさ~。もうちょっとだけ、このままでいさせてよ」


「そ、それはちょっと……」


「え~? 何で何で~?」


 悪戯っぽくも甘えるような声で言うローザは、この部屋に満ちてしまった慎ましい沈黙を擽って、気まずい空気にならないようにしてくれているのだろうと思った。そのローザの気遣いには感謝しつつも、抱きすくめられたままでは全く落ち着かない。


 やはりこの抱擁を解いてくれるよう、もう一度頼もうとした時だった。


 部屋の扉が、バゴンッ! と、ノックも無しに勢いよく開けられた。あまりにも遠慮のない開け方だった。


「あっ」と素の声を出したローザが、アッシュの抱擁を解く間もなかった。


 そういえば、カルビとネージュ、それにエミリアが、遅れて『慈悲の院』に訪ねて来るという話だったはずだ。その通りだった。


「久しぶりだなぁ~、アッシュ~!!」


 部屋にズカズカと入って来たのはカルビだった。狂暴そうなニコニコ顔の彼女は、細身のジーンズを履いて、胸元を大きくはだけさせた黒い女性用シャツの上に、赤と黒の皮革製のジャケットを羽織っていた。


 アッシュと会うこと自体をかなり楽しみにしてくれていたようで、カルビの張りのある声には、うきうきとした高揚が漲っていた。


「カルビお姉ちゃんと会えなくて、寂しかったかぁぁぁぁぁああああああんん!!?」


 だが、その言葉の途中で、彼女の無邪気で嬉しそうな声が、盛大に裏返りまくった。


 さっきまでカルビの浮かべていた楽しそうな笑顔は、ベッドの上でローザに抱き締められているアッシュを発見し、目玉が飛び出さんばかりの驚愕の表情に変わった。更にその直後だった。


「……貴女、静かにしなさいよ。アッシュ君が身体を休めてるんだから。あんまり五月蠅いと、氷漬けにして叩き出すわよ?」


 眉間を険しく絞り、冷酷そのものといった声音で言うネージュが、カルビを横目で睨みながら部屋に入って来た。深い青と白を基調としたブラウスと、レディースパンツ姿である。お洒落でありながらも落ち着いた服装だった。


「ごめんさない、アッシュ君。カルビの馬鹿が騒がしくして……」


 カルビから視線を外したネージュは、冴え切った怜悧な美貌に、雪解けの春を思わせるような静々とした笑みを湛えている。だがそんな彼女もまた、ベッドの上のアッシュとローザを目撃して、その表情を再び凍りつかせた。


 身体をわなわなと震わせ始めた。「な……」とか「さ」とか「ぉ……」などと溢しながら、狼狽するというよりも、何故か傷ついたような様子だった。


 「ちょっとちょっとぉぉん!! カルビさんもネージュさんも!! なぁぁぁぁにをを2人して突っ立っているんですの!?」


 驚愕しているカルビと、慄いているような顔のネージュの背後から、力強くも凛とした声が部屋に飛び込んでくる。エミリアだ。


「一刻も早くアッシュさんの元気な姿を、この“淑女EYE”に刻み付けたいというのに! そんなところで立ち止まられたら、わたくしが入れないでしょう!? ……んん、どっこいしょ!」


 エミリアの装いは、やはりというか豪奢な黒いドレス風だ。大柄なエミリアを飾るドレスは派手ではあるが、エミリア自身の持つ高貴さの御蔭で、滑稽さや嫌味なところがない。


 まるで王宮のパーティ会場に踏み入るような優雅な足取りのエミリアは、カルビとネージュの間を割るようにして部屋に入ってくる。


「アッシュさぁぁん!! お待たせしましたわ! 貴方の最愛のぉぉ“エミリアお姉さま”が、ここに推ッ!! 参ッ!! ですわぁぁ……ッ!!」エミリアは満面の笑みで、彼女の周囲では歓びの結晶がキラキラと輝くようだった。「――というわけで早速ゥ、愛を確かめ合う意味も込めてェェ! 身も心も蕩けるほどの、SWEEEEEETでHOOOOOTな再会のハグをををぉおおおおおおおぁん!?!?」


 ほとんど絶叫に近い雄叫びを上げたエミリアの驚きっぷりは、彼女の口から心臓と魂が飛び出していきそうな勢いがあった。


「ねぇ、みんな、ちょっと待って。落ち着いてよ」


 ぎこちない苦笑を浮かべたローザが、ようやくアッシュへの抱擁を解いて、ベッドに座ったままで3人に身体を向けた。アッシュも目許を腕で擦い、ついでに涙の痕も手の甲で拭ってから、ベッドに座り直す。


 カルビとネージュ、それにエミリアに向き直ったローザが、身の潔白を訴えるように両手の掌を上げて「誤解だよ」と続けた。横目でアッシュを一瞥したローザは苦笑のまま、何か言葉を続けようとしたが、それをカルビが遮った。


「ずりぃぞ、ローザ!!」


 目を怒らせたカルビは腰に手をあてて指を突き出し、糾弾するような大声で言う。


「1人だけアッシュと仲良くなりやがって……、しかもベッドの上で! これは許せねぇよなぁ!?」


 その声音に妙な正義感らしきものを滲ませたカルビは、隣で立ち尽くしているネージュと、白目を剝いて身体を痙攣させているエミリアに顔を向けて、同意を求めるように力強く言う。


 カルビが発揮し始めた熱意についていけず、ほとんど置いてけぼり状態になっているアッシュは、今の状況を見守っているしかなかった。


「えぇ、そうね……」


 何とか冷静さを取り戻した様子のネージュが、神妙な顔になってから鋭い目つきでローザを見据えた。そして、ローザの罪を確かめるような、重苦しい声で言う。


「私達がギルドに出向いている間に、アッシュ君と、ぇ、えっちなことしていたのね……?」


 険しい尋問口調になったネージュに即座に追従したのは、「ハッ!?」と我に返ったように体を震わせたエミリアだった。白目から戻った彼女の顔つきは、正義を貫かんとするような精悍さが漲っている。


「それはいけませんわよ! ローザさん! アッシュさんを独り占めプレイだなんて! せめてわたくしも呼んでいただいて、じっくりと見学か、もしくは体験学習をさせていただかないとッ!!」


「いやいや! 何もしてないよ!?」


 即座に否定したローザは勢いよくベッドから立ち上がり、一体何を言い出すのかといった表情で顔を赤くしている。


「もうっ、変なこと言わないでよ。アッシュ君とは、いろいろと話をしてただけだって」


「ほぉぉ~~~ん……」疑うような半目になって腕を組んだカルビは、アッシュに顔を向けてきた。「なぁ、アッシュ、それホントか?」


「ローザに押し倒されて、ぉ、ぉ、お尻を触られたりしなかった?」


 ネージュも続いて迫真の目力を込めて訊いてくるが、言いながら自分でも恥ずかしいのか、その白い頬が赤くなっている。


「えぇっ!!? アッシュさんを押し倒してッ!? そしてお尻を揉み解すことで、滑らかなアッシュさんの肌の感触と柔らかさを味わい尽くしたですってェェェェェんんん!?」


 さっきから声を裏返しまくっているエミリアは、爛々と輝かせた目をバキバキに冴えわたらせながら、現実と妄想の狭間で興奮し始めた。やたら顔も赤いし、「ンフーーッ! ンフーーッ!」と鼻息も荒い。


「そんなことしないよっ!!」


 がばっとカルビに向き直ったエミリアは、前のめりになって即座に否定した。


「え、えぇ、そんなことは何も……」


 両手の掌を上げたアッシュが、苦笑を浮かべて首を緩く振ったものの、彼女達の間でちょっとした言い合いが始まった。


 ただ、それは決して険悪なものではなく、仲間内だけで許されるような悪口紛いの冗談を言い合って、この場所に、日常らしい空気を流そうとしてくれているようでもあった。


 そんな彼女達の騒がしさを傍で眺めて居たアッシュは、この飾り気のない、しかし何処か繊細な雰囲気を、やけに懐かしく感じた。


 カルビも、ネージュも、エミリアも、あくまで自然体で、必要以上にアッシュを気遣うこともない。彼女たちの賑やかさには、アッシュを拒絶する気配が全くないことを改めて感じ、胸が詰まる思いだった。


 あの日、ダルムボーグでギギネリエスが語ってみせたアッシュの過去には、目を背けたくなるような凄惨さに満ちていた。だが彼女達は、そのアッシュの過去を無かったことにするのでもなく、過去は過去であり、そんなものは気にするなと切り捨てるのでもない。


 ただ、アッシュという存在を――冒険者という『役割』を果たす役者としてではなく、1人の人間として――受け入れてくれている。


 ローザの言う通りだと思った。今まで生きてきた時間の中で、もしも何か1つでも欠けていれば、アッシュはこの場に居なかったのだ。


 ようやく下がって来ていた筈の感情の水位が、また熱を帯びて溢れそうになる。アッシュは控えめな苦笑を浮かべ、それを黙って堪えた。彼女達の騒がしさの奥にある優しさを想うのならば、もう、この場では泣くべきではない。何とか涙を堰き止める。


 膝の上で拳をぎゅっと握り締め、アッシュは必死だった。だがそれは間違いなく、今まで生きてきた中で、最も幸福な時間でもあった。


 そんなふうに黙り込んでいたアッシュに気付いたネージュが、もう言い合いは終わりといった感じで、軽く息をついた。


「でも……、アッシュ君の様子を見るに、本当に何もなかったみたいね」


 冷静でありながらも、どこか安心したような声で言うネージュに、「まぁ、何にも無けりゃ、それでいいんだけどよ」と、ボリボリと頭の後ろをかいたカルビが続いた。


「えぇ。えぇ……。そうですわね。アッシュさんが御無事なら、それでもう何も要りませんわ……」


 何度も深く頷くエミリアも、大袈裟なほどに安堵している。


「だから最初から何も無かったって言ってるじゃん……。ちょっと話をしてただけだって」


 疲れたように洩らしたローザは短く鼻息を吐き、腕を組みながら「ねぇ?」と、アッシュに視線を寄越してきた。


 眉を下げた彼女の眼差しは、『妙なことを訊いてくる皆には呆れちゃうよね』というふうだった。アッシュも控えめに苦笑を浮かべて頷く。澄んだローザの瞳には、アッシュ自身の姿が映りこんでいることに気付いた。


 ローザの瞳に映る自分の顔つきが、今までよりも少しだけ、ほんの少しだけだが、変わっている気がした。アッシュは小さく息をつく。生まれて初めて泣いていたことを思うと、やはりまだ気恥ずかしかった。


 だが、さっきまで溢れていたあの涙は、自分の人生を前に進めるために、必要なものだったのだと思った。「えぇ」と、アッシュは俯きがちにローザに応えてから、指で頬を掻きながら頷く。


「僕も初めての経験だったので、どうしていいのか分からなかったんですが……。でも、ローザさんの御蔭で、スッキリしました」


「えぇっ!?」


 穏やかに言うアッシュの隣で、ローザは強張りきった表情になった。いったい何を言い出すのか、という目つきである。


「えっ」


 驚いたアッシュも、思わずローザの方を見てしまう。

 

 一方でカルビとネージュ、エミリアの3人は揃って、奇襲を受けたような深刻な顔になっている。そして無言のままで3人は顔を見合わせて、説明を求めるようにローザを凝視し始めた。視線でローザを刺すようだった。


 何とも言えない変な感じの空気になってしまい、アッシュも当惑してしまう。だが、この妙な空気を招いてしまったのが自分で所為であることも何となく分かったので、黙っているわけにはいかなかった。


「えぇっと、その……、実は、さっきまで僕は……」


 アッシュはそこで、自分が感情のバランスを失い、先程まで泣いていたことを正直に話した。多少は気恥ずかしかったが、この場で隠すほどのことでもないように思えて、すんなりと打ち明けることができた。


 真顔だったカルビとネージュ、エミリアも、彼女達のなかで何か納得するものがあったのだろう。


 「あぁ……、なるほどな」「そういうことだったのね……」「えぇ。納得しましたわ……」と何度か頷いて見せた彼女達は、アッシュとローザの間でなされた話の深刻さを想像したのかは分からないが、それ以上は話を広げようとしなかった。


「ね? 何にも無いって言ったでしょ?」


 肩を竦めて鼻を鳴らしたローザが、カルビとネージュを見比べた。だが、3人の方はローザの言葉など既に聞き流している様子で、アッシュに微笑みを向けてきている。先に動いたのはネージュだった。


「アッシュ君」


 ゆっくりと歩き、ベッドに座るアッシュの前に立ったネージュは、目許を緩めながら屈んだ。そして左手をそっと伸ばして、アッシュの右腕を掴むように触れてくる。


「私にも、何か力になれることがあったら何でも言ってね」


 冷たく澄みながらも、その芯に微熱を含んだ声音だった。自身と似た苦境を経てきた者に、手を差し伸べるような響きがあるのを感じた。


「そうだぜ~!」太い声を出してくれたカルビも、ずんずんとベッドに歩み寄ってくる。「お前は遠慮ばっかりだからな。そういうのは可愛くねぇんだよ」


 唇の端に微笑を過らせたカルビは横から割り込むようにして、アッシュの前に立っていたネージュを、どんっ! とお尻で押し退けた。押されたネージュが「ぅっ……!」と妙な声を出してよろけるが、その間にカルビは艶のある笑みを浮かべて、ドカッと豪快にベッドに座ってきた。アッシュの隣にだ。


「カルビお姉ちゃんに甘えたくなったら、いつでも言うんだぞ?」


 やけに優しい声を出したカルビは、アッシュを掻き抱くようにして肩を組んでくる。


「ぃ、いぇ、僕はもう、お世話になってばかりですよ」


「おいおいアッシュ、そういう遠慮が可愛くねぇって言ってるんだぜ~?」


 ミスを指摘する口振りのカルビは、アッシュに絡むのを楽しむように言いながら、より強く肩を抱いてくる。相変わらずというか何と言うか、身長さの所為で、カルビの豊かな胸がアッシュの頬と顎の中間あたりに押し付けられ、ぽよぽよと弾みまくっている。


 気まずくて仕方がない。アッシュはとにかくカルビに声をかけ、密着している身体を離して貰おうとしたが、「ちょっとカルビ」とローザが低い声を出す方が早かった。


「……アッシュ君が困ってるじゃん」


 カルビに肩を組まれるというか、抱き着かれているようなアッシュの隣で、ローザは腕を組んで唇を少しだけ尖らせていた。それは不機嫌と言うよりも、羨ましそうな表情に見える。


「そうですわよ!」


 そんなローザに勢いよく同意したのは、眉と目を吊り上げたエミリアだった。


 「カルビさんは距離感が近過ぎますわッ! もう少し慎みを持ってアッシュさんに接するべきですわよ! そうっ! この“淑女”たるわたくしのようにッ!!」


 まるで演劇女優のような仕種で自らの胸に手を当てたエミリアの隣では、カルビのお尻に押しのけられたネージュも腰に手を当てている。


「まぁ、エミリアが慎み深いかどうかは置いておくとして……。前から思ってたけれど、そうやってアッシュ君にベタベタするのを、貴女の方こそ遠慮すべきよ」


 威圧的に言うネージュは、突き刺すような勢いでカルビに指を向ける。ただ、カルビの方はアッシュを放すどころか、「へっ」と鼻で笑い、更に力を込めて抱き寄せてきた。


 カルビは普段のような装甲服姿ではないため、物凄い密着感と共に、彼女の体温が押し寄せてくる。ぅわわわわ。思わず出そうになった狼狽の悲鳴を飲み込んだアッシュは、身体を硬直させてしまう。


 そんなアッシュの様子には気付いていないカルビは、不敵な笑みを浮かべて、ネージュとエミリア、ついでのようにローザを交互に見た。


「分かってねぇな。アタシはな、アッシュに“遠慮すんな”って言ったんだぜ? そのアタシの方が、アッシュに遠慮にしてどうすんだよ? 距離が縮まらねぇだろうが」


 言いながらカルビは肩を竦め、「なぁ?」とアッシュに同意を求めるようにして顔を覗き込んで来る。カルビの言っていることはもっともらしく、それなりに正しいことのように聞こえた。


 アッシュは何と答えるべきか分からず、「そ、それは、まぁ……」などと曖昧な笑みで応じつつ、カルビから視線を逸らした。カルビの言い分に一定の理解を示したのか。ローザとネージュ、エミリアの3人も難しい顔になって目を見交わし、黙っている。


「つーワケで、だ」


 その3人の沈黙が、自身の言い分にこそ正当性があると判断したのだろう。ゆっくりと唇を舐めて湿らせたカルビが、肩を組んだアッシュに視線を流して来る。たっぷりとした艶を含んだ眼差しだった。


「じゃあ、アッシュ。これからアタシと添い寝でもするか?」


「……えっ?」


 肩を組まれたままのアッシュが間抜けな声を出すのと同時だった。腕を組んでいたローザが「は?」と眉間に皺を寄せて、下目遣いのネージュが舌打ちをした。エミリアの方も「……何がどういうワケですのよ?」と、冷然とした威圧感に満ちた声を発した。


「そんなモン決まってるだろ? カルビお姉ちゃんとアッシュが、互いの絆を深め合うための大事な時間が始まろうとしてるワケだよ」


 凄むようなローザとネージュ、エミリアの3人を相手に、カルビは全く怯む素振りも見せない。寧ろ、『お前らはそんなことも分かんねーのか』という口振りだった。アッシュは思わず「えっ、そうなんですか?」と言いそうになる。


 ……もしかしたら、カルビは酔っているのか?

 前にもこんな流れが無かっただろうか。


 そんな疑問がアッシュの頭を過っている間に、カルビが手をひらひらと振りながら、ローザ達3人に向けて順番に視線を流していた。

 

「とりあえず、今からアタシ達がベッドを使うからよ。ローザ達は、ちょっとそのへんでウロウロして来いよ。まぁ、そうだな……。2時間くらい」


「いや、行かないけど」


 不機嫌そうな顔になったローザが、呆れたように言う。


「なら、わたくしは3時間コースを所望しますわ!」


 エミリアがワケの分からないシステムというか権利を主張し始めて、「そんなの無いから」とローザと一蹴されていた。


「……その2時間で何をするつもりなのよ」


 腰に手を当てるネージュも、睨むようにカルビを見据えて目を細めている。


「何をするかなんて、言わせんなよ恥ずかしい。なぁ、アッシュ?」


「ぃ、いえ、何をするにしても、ローザさん達に2時間も待って貰うのはちょっと……」


 苦笑のまま、やんわりと言うアッシュの態度を予想していたのだろう。


「じゃあ、このまま始めるか」


 やけにしっとりとした声を出したカルビが、肩を組んでいたアッシュの耳元に唇を寄せてくる気配があった。カルビの体温を含んだ吐息が、耳というか首筋を這っていく感触も。


 もしかしたらカルビは、アッシュの耳たぶのあたりを、「はむっ」としようとしていたのかもしれない。だが、それはネージュによって阻まれた。


「調子に乗り過ぎよ」


 冷酷な声を発したネージュが、瞬時に手の中に大槍を召びだし、その石突でカルビの左の脛を打ったのだ。暢気にベッドに腰掛け、アッシュの肩を抱いていたカルビは完全に反応が遅れていた。ゴスッ!!とも、ゴツ!!とも言えない、くぐもった鈍い音が響く。


「いぴょっ!!?」


 その唐突な激痛に身体を強張らせて飛び上がったカルビは、上擦った変な悲鳴を漏らし、打たれた脛を庇うような体勢になってベッドから転げ落ちていった。


「てめっ、ネージュ……!!」


 カルビは怒声を上げようとしていたが、すぐに脛の激痛に敗北し、それ以上は言葉が続けることができなかった。痛みに堪える為だろう。


 すぐにカルビは「スゥーーーー……っ!」と情けなく震えた息を吐き出しながらプルプルと肩を震わせ、左脛をおさえたまま、声も出せない様子で蹲ってしまった。とにかく、めちゃくちゃ痛そうだった。


「だ、大丈夫ですか……?」


 肩を震わせるカルビに、アッシュはおずおずと声をかける。だが、カルビの返事が返って来るよりも先に、やけに落ち着いた笑顔のローザに「これぐらい、カルビなら平気だよ」と妙な迫力のある声で言われてしまい、「そ、そうですね……」とアッシュは頷いてしまった。


「あのさ、ネージュ。ひょっとしてカルビ、酔ってる?」


 ローザが疲れたような声で尋ねると、ネージュが面倒そうな顔になってカルビを見下ろした。


「此処に来る前に、ウィスキー入りのチョコを食べたのよ。それも山ほど」


「……もしかして、ギルドで?」


 そのローザの問いに応じたのは、やれやれと言った感じで鼻から息を吐き出したエミリアだ。


「えぇ、私達を出迎えてくれたシャマニさんとヴァーミルさんが、お茶菓子に用意して下さっていたんですのよ。それを、次から次へとバクバク食べていたのが」


「カルビってワケね」ローザも苦笑で付き合う。すぐにネージュも鼻を鳴らした。


「まぁ、高級なお菓子を用意してくれる程度には、幾つも事情の絡んだ話だったけれどね……」


「へぇ~……。等級に関係すること以外に、何か複雑な話もしてきたんだ? っていうか、シャマニとヴァーミルが出迎えてくれるなんて、ちょっと物々しいね」


「えぇ。今回のギギネリエスの件でね。ローザ、貴女にも大いに関係のある、重要な話だったわ。それに、アッシュ君にも……」


 手にした大槍をアイテムボックスに収納しつつ、大事なことを思い出したようにアッシュへと向き直った。


「あぁでも、アッシュ君には、先に話しておかないといけないことがあるの」


 謝ってくれたネージュは、銀色の指輪をアッシュに手渡してくれた。それがアイテムボックスであり、使い捨ての安物だということはすぐに分かった。


「神殿に入ったところで、リーナ達のパーティーと出会ってね。……これをアッシュ君に渡すように頼まれたのよ」


「リーナさん達が、ですか?」


「えぇ。アッシュ君に会いに来てたみたい。……でも、あんまり大人数だとアッシュ君も疲れるだろうって言って、今日のところは私達に遠慮してくれたのよ」


「そう、……だったんですね」


「多分だけど、ダルムボーグで助けてくれたお礼を言いたくて、アッシュ君を訪ねてきたんだと思うわ」


 眉尻を下げたネージュは、ふっとアッシュから視線を外して、優しい顔になった。さきほど出会ったという、リーナ達の様子を思い出しているのかもしれない。


 そういえば、とアッシュも思う。


 ダルムボーグでのアッシュは、オリビアに生命付与魔法を施したあと、リーナ達とは行動を共にすることなく、すぐにローザ達と合流しに向かった。


 ちょうど、クラン『ゴブリンナイツ』のメンバーであるゴブリンの精鋭達が、リーナのパーティの護衛についてくれたことを確認したからだ。


 あの時から、アッシュはリーナ達と顔を合わせていない。


 ただ、オリビアを含め、リーナ達のパーティが無事にダルムボーグを離れることができていたことは、目を覚ましたあとでアッシュも神官達から聞いていた。だが、彼女達の方からアッシュを訪ねてきてくれるというのは、何だか意外だった。


「それで、そのアイテムボックスには何が入ってるんですの?」


 ネージュの話の続きを促すように、興味深いものを見る目になったエミリアが、アッシュの手の中にある指輪を覗き込んでくる。確かに、何が収納されているのかは、アッシュも気になっていた。


「あぁ。それは……」


 アッシュに視線を戻したネージュが、少しだけ眉を下げる。何かを躊躇するようなその表情は、これが楽しい話題ではないことを告げていた。


「アッシュ君が住んでいた部屋の荷物が入っていると、リーナが言っていたわ」


「……えぇと、どういうこと?」


 不思議そうな顔になったローザだが、その一瞬あとには、「あぁ」と何かを納得するような声を出して頷いて居た。アッシュも軽くため息を吐いてから、「しょうがないです」と、少しだけ肩を竦める。


 リーナが届けてくれたアイテムボックスが意味するものは、単純なものだ。


 つまりアッシュは、今まで住んでいた部屋を追い出されたということである。思い当たる理由も1つしかない。


「基本的に冒険者居住区の貸し宿は、より高いお金を出す人が優先されますから」


 アッシュが支払う部屋代よりも、さらに上乗せした部屋代を払う者が現れたためだ。アードベルでは流れ者の冒険者も多いため、こういうことは珍しくもない。


 他の宿を探す手間を省くため、或いは、パーティメンバーが揃って利用できる部屋数を確保するためといった理由から、金にモノを言わせた冒険者が、他の冒険者の部屋を横取りしたりするのは日常茶飯事だ。


 それにアッシュも、こういう事態については了承した上で部屋を借りていた。普段なら部屋を借り続けるため、アッシュも部屋代を割り増しして払うのだが、今回は事情が違う。


 ダルムボーグでの戦闘で生死の境を彷徨い、この『慈悲の院』で目を覚ますまでの間に決まった話なのであれば、アッシュにはどうすることもできないものだった。


『金は十分に払うから、とにかく部屋を使わせろ』とせっつく声を、宿主としても無視をするわけにいかない。そういう乱暴な冒険者達も、宿側にとっては金払いの良い上客であることに変わりはないのだ。


 宿を経営する立場から見て、誰を部屋から追い出す方が利益になるか。そう考えれば、ここ数日、ずっと部屋を留守にしていた最低等級のアッシュよりも、割り増しした部屋代を払えってくれる者を残したいと思うのも当然と言える。


「でも……、どうしてこの指輪を、リーナさんが持ってきてくれたんでしょう?」


 アッシュが顔を上げると、ネージュが頷いてくれた。


「ダルムボーグから帰ってきてから、リーナ達は何度かアッシュ君が住んでいた部屋を訪ねていたそうよ。そうしたら、宿主のおじさんに声を掛けられたみたいね。『この部屋を使っていた冒険者と知り合いか?』って」


「あぁ。……なるほど、そうでしたか」


 指に嵌めたアイテムボックスに視線を落として、アッシュは頷く


「……僕が部屋の荷物を退かさないと、新しい人が入れませんからね」


「えぇ。そういう話の流れだったみたい。アッシュ君のことを知っているなら、その荷物を届けて欲しいと、そう頼まれたそうよ」


 そこまでネージュの話を聴いていたローザが、「ふぅん」と、少し明るい声を出した。


「リーナって娘のパーティも、悪い人達じゃなさそうだね。アッシュ君に何度も会おうとしてるってことは、ちゃんとお礼をしたいって意思の現れなんだろうしさ」


 言いながら、ローザはどこか嬉しそうだった。今まで孤独だったアッシュの人間関係が、また新しく広がっていく予感を喜んでくれているようでもあった。


「そのリーナって娘、アッシュ君のことが好きだったりして」


 冗談めかして言うローザに、アッシュは「まさか」と苦笑を返すだけに留めた。


 「……ローザ、話を掻き混ぜないで」と、微妙な表情になったネージュが、話題が逸れていく気配をそっと拭ってから、アッシュの指に嵌った指輪型のアイテムボックスに視線を向ける。


「アッシュ君が既に支払っていた今月の家賃と水道光熱費がそのまま、その使い捨てのアイテムボックス代になっているそうよ。部屋にあった荷物は全部収納してあるから、もう宿に戻る必要はない……。そう、リーナは言っていたわ」


「でも、それはつまり……」


 状況を飲み込んだエミリアが眉根を寄せて、ローザと顔を見合せた。ローザも難しい顔になる。


「アッシュ君の帰る場所っていうか、住む場所が無くなったってコトだよね?」


 深刻さを表情に浮かべたローザに、だがアッシュは緩く首を振った。


「いえ、そんなに困ることはないと思います。市街地でも『浄化の霊炎』も使えますし、銀行の預金にもまだ余裕がありますから。次の宿を見つけるまでは、路地裏で過ごせばお金もかかりませんから」


 衣服や身体を清潔に保つ『浄化の霊炎』と、消費した魔力や寝不足を解消するための各種魔法薬、それに携行食糧をアイテムボックスに揃えておけば、ほぼどんな場所でも野宿は可能だ。


 「『慈悲の院』を出てから、またどこかで貸し宿を探してみます」


 アッシュはローザに言いながら、ギルドにある低級冒険者用の宿泊施設の利用も考えたが、あまり期待のできる選択肢ではなかった。格安で利用できるギルドの宿泊施設は人気で、いつも低級冒険者で一杯だからだ。


 冒険者の楽園と呼ばれるだけあって、アードベルに訪れる冒険者の跡を絶たない。安定して儲けが出るダンジョンや魔物の狩場、あわよくば一攫千金を狙う、こうした冒険者の中には、低級冒険者の数も多い。


 アードベルには貸し宿も豊富ではあるが、空いている部屋を無事にみつけることが容易というわけでもない。それゆえに、アードベルの冒険者居住区では、路地裏に複数人で座り込んで夜を過ごす冒険者も少なくない。昼夜を問わず、人造魔導兵が街中を常に見回っているため、ある程度の治安は保たれているからだ。


 とはいえ、夜の冒険者居住区の安全と言うのは、やはり“ある程度”の枠を出ない。路地で無防備に、しかも1人で眠り込んでいたなら、襲われても文句は言えない。

 

 

 無論だがアッシュも、お金の力でもってして、他の冒険者から部屋を横取りすることは、やろうと思えば可能だっただが、それはしたくなかった。


 今までのアッシュは、あくまで冒険者達の社会的な貢献の一部になることを望んでいたのであって、その暴力的で横柄な振る舞いに紛れるためではなかったからだ。


 そしてその生き方も、さっきローザが肯定してくれたばかりだった。これからもアッシュは、アッシュになっていくのだと彼女は言ってくれた。


 いつか今日という日を振り返ったとき、それが優しくて温かな思い出であって欲しい。だから、アッシュは自身にも他者にも誠実でありたいと思った。最低等級であることや、ソロ冒険者であるという属性とは関係なく、アッシュが、アッシュ自身を好きになれるように。


 それはきっと、自分の人生を生き直すために、必要な努力なのだと思った。


「すぅぅゥゥゥゥゥゥゥーーーーッ……!」


 住む部屋を無くしたアッシュが、また別の貸し宿を探す手間を想像しようとした時だった。


「んふぅぅぅぅぅうううううううん……――!」


 迫真の深呼吸と共に、さっきまで蹲っていたカルビが立ち上がった。


 やけにゆっくりとした動きで、神妙な表情をしている。引きかけている脛の激痛が帰ってこないようにするためか、若干のぎこちなさのある動きで、ひょこひょことアッシュ達に向き直った。


「あの、だ、大丈夫ですか?」


 アッシュがほとんど儀礼的にそう訊くと、カルビは「あぁ、何とかな。アタシじゃなかったら耐えられなかったぜ」と力強く頷いてみせてから、ネージュを横目で睨んだ。


「……おいネージュ。お前、マジでもうちょっと加減しろよ。アタシの脛がどっか行っちまうところだったじゃねーか」


 恨みがましく言うカルビに、「治癒魔法で治せば?」と、半目になったネージュは冷たく言う。ローザも「そうよね」と冷えた声を出した。腕を組んだエミリアも、冷めた目で頷いている。


 そんな3人を順に見たカルビは、ちょっと怯んだ顔になったが、すぐに「そんな怒んなよ」と降参するように肩を竦める。


 その懲りてないふうのカルビを、ネージュが横目でジロリと睨んだ。


「今は真面目な話をしてるんだから、茶化したりふざけたりするつもりなら、少し黙っててくれる?」


「その真面目な話ってのは、アッシュの住む場所が無くなったっつー話だろ? 聞いてたっつーの。そんなモン、次にアッシュが借りる部屋が見つかるまで、アタシ達と一緒に住めばいいじゃねぇか」


 これで落着だろと言わんばかりのカルビの口調に、アッシュは思わず「えっ」と声を出してしまう。


 この「えっ」も、今日はこれで何度目だろうとアッシュが暢気に考えている間に、ローザとネージュ、エミリアが顔を見合わせて、「……それもそうね」みたいに何度か頷き合っていた。


「まぁ、アタシの家じゃなくて、ローザの家なんだけどな」


 にぃっと笑みを浮かべたカルビの声音は、楽しそうに弾んでいた。





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