20. 花冷え(凪)

 花が咲くと雨が降る、というのは何かのジンクスだっただろうか。まあ僕の場合は何かといえば、突然の雨に降られるからもはや珍しいことでもない。だからいつもの帰り道、ご近所の軒先で開き始めた桜を眺めた矢先に雨粒が落ち始めても今さら驚きもうんざりもしない。

 咲き始めたばかりの花は白く滑らかで、雨の雫もするすると流れていく。この季節には珍しい大粒の雨は次第に強くなって、花見にはとうてい適した状況ではなくなってしまったけれど、それでもふわりと開いた花は雨にも負けず、でなかなか頼もしい。いずれにしても、確かに春がもう訪れているのだ。


 ——降り注ぐ雨が、思いのほか冷たくても。


「インフルエンザじゃないね。ということはただの風邪。よかったねえ」

「39度近い熱が出てるってのに、よかったってこともねえだろ」

 呆れたような声は家主の千秋さん、そしてそれに肩を竦めて笑っているのはこの辺りで小児科の開業医をしているという千秋さんの旧知のお医者さんだ。普段は往診なんてしていないらしいけど、特例措置だそうだ。

「君は無茶をするから。まあでもよく頑張っててえらいね」

 千秋さんの旧友ふるなじみというわりには柔らかい物腰は、小児科医ならではだろうか。まるで小さな子供みたいに声をかけられて、どうしていいのかちょっと戸惑う。


 雨に降られて帰宅した日の翌朝、やたらと世界がふわふわして見えるなあと思っていたら熱が出ていた。有無を言わさず布団に放り込まれ、引き込まれるようにちょっと目を閉じたらいつの間にか眠りに落ちていた。目が覚めたらもう日が暮れていた上に、枕元に見知らぬ人がマスクをして座っていたというわけだ。

 千秋さんほどいかつくはなく、優しげな容貌で、けれど有無を言わさず長い綿棒をぐりぐりと容赦なく僕の鼻奥深く突っ込んだその人は、判定結果を見て穏やかに微笑む。

「発熱からきっちり十二時間。もうちょっと様子を見てからの方がいい気もするけど、周りで流行ってるっていうわけでもないんでしょ? 抗ウィルス薬を出しもいいけど、おすすめはしないね」

「とりあえず寝かせておけばいいのか?」

 少し不機嫌な声は心配している時のものだともう僕は知っているから、おとなしく布団を首元まで被って様子を伺う。

「基本的にただの風邪なら薬も無駄だからね。若いし、と比べて健康状態もよさそうだから、数日寝ていれば治る程度だと思うよ」

 何となく含みを感じた気がして目深にかぶった布団の下から目を向けると、お医者さんはふっと少しだけ千秋さんみたいな癖のある笑みを浮かべる。もしかしたら意外と似たもの同士なのかもしれない。

「君がこの家の前で行き倒れていた時に呼び出されたのが俺でね。元気になって何よりだ。あんなに動転したこいつを見たのは初めてだったから、どうなることかと思ったけど」

 まさかねえと意味ありげな眼差しは千秋さんの左手に向けられていて、まあなんていうかその意図は明らかだ。旧知の上に、そんな因縁まであれば僕との関係もご存じなのは間違いないだろう。いたたまれなくなってそろそろと頭まで布団をかぶると、含み笑う声が聞こえてきた。それも二人分。

「まあ、とにかく暖かくしてよく眠って。食べられそうならしっかり食べる。無理なら水分補給だけは忘れずに。お前がいるから大丈夫だとは思うけど」

「了解。すまないな、助かった」

 千秋さんが誰かにそんなふうにお礼を言うのを初めて聞いたから思わず布団からまた顔を覗かせると、二人して呆れたような眼差しを向けられたから、もうおとなしく眠ることにした。


 翌朝、目が覚めるとまだふわふわしていた。枕元にはスポーツドリンクが用意されていて、手を伸ばすと見計らったように襖が開く。

「目が覚めたのか」

 覗き込んできた声はいつも通りで、でも目を上げた先の千秋さんがいつもと違うように見えて首を傾げる。違和感はいつもより整えられた髭のせいだろうか。

「そこしか目がいかねえの、熱のせいか、わざとか?」

 呆れたように言う声でようやく気づく。いつになくかっちりした三揃えのスーツにネクタイもきっちり締めていて、人によっては別人かと思うかもしれない。ぼんやりした思考のまま、仰向けに見上げた顔は端正というよりは怜悧で、いわゆるインテリ何とかな印象が三割り増し。

譫言うわごとにしちゃあ、ずいぶんはっきりしてんな?」

 顔は笑っていても、眼が笑っていない。膝をついてこちらを覗き込んできた獰猛な獣の眼差しに、まとまらない思考のままでも危険信号シグナルが鳴ったのは認知できたので、慌ててにっこり笑って頬に手を伸ばす。

「ずいぶんなイケメンぶりですが、どこかへおでかけで?」

 そこまで言って、今週はどうしても外せない出版社の用事があると言われていたことをようやく思い出す。そして、鋭い眼差しのまま、片手でネクタイを緩める仕草に気づいて慌ててその手を掴む。

「僕なら大丈夫ですから」

「ろくに頭も回ってなくて、いつもの三倍くらい内心ダダ漏れのくせにか?」

「口が回る程度には元気ってことですから」

 ただでさえ衣食住お世話になりっぱなしなのに、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。千秋さんは不満そうに顔を顰めたけれど、僕だって一応成人しているし、譲れないラインはある。

「……何かあったら必ず連絡しろよ?」

「了解」

「大したことないと思ってもだ」

「はいはい」

「はいは——」

「一回、ですよね」

 先んじて言ってしまえば、ようやく千秋さんの表情が緩む。しばらくじっと僕の顔を見つめてから、大事な仕事とそこそこ口の回る僕の看病とをはかりにかけて、ようやく納得してくれたらしい。

 それから冷蔵庫に用意されているものとか、細々した注意が延々と続いてちょっとめんどくさいなと思ったけど、ちゃんと聞いておかないとこの人は本当に予定をキャンセルしてしまいそうだったから、神妙な顔で頷いておいた。

 最後に頭のてっぺんにキスを一つ落として、くしゃりと僕の頭を撫でると立ち上がって部屋を出ていった。そういう時の仕草は俳優みたいにキザだなあなんて思ったけど、地獄耳なのも知っていたから口には出さないでおいた。

 遠ざかっていく足音と、車のエンジン音。それらが完全に聞こえなくなってしまってから目を閉じると、あっという間に眠りに落ちてしまった。


 ふっと眼が覚めて、枕元のスマートフォンを見ると、いくつかメッセージが入っていた。千秋さんと、それからそろそろ長い付き合いになってきたかいから。そういえば遊ぶ約束をしていたっけと思い出して、連絡をいれておく。即座に何か必要なものはないかとか体調を気遣うメッセージがぱぱっと並んだすぐ後に返信無用、というスタンプが届いた。千秋さんがいるから大丈夫だと思ったのだろう。

 脊髄反射のリアクションとそういう気遣いができるあたりが付き合いが長く続いている理由なんだろうな、と一人で笑いながらサムアップしたポメラニアンのスタンプを送っておく。あいつならもうちょっと大型犬のイメージだけど。


 千秋さんはきっと仕事中だろうから既読にして返信は控えておく。それで伝わるだろうから。ゆっくり起き上がると、それでもくらりと眩暈がした。まだ熱が下がっていないのかもしれない。

 相変わらず静まり返った部屋で、咳をしても一人きり。なんだかそんな俳句だか短歌だかがあった気がする。誰だっけ。こんな時、千秋さんに聞いたら即レスで正解が返ってきそうなのに。

 ぼんやりしたままゆっくりと起き上がり、台所へ向かう。窓の外はもう日が暮れ始めていた。雨は降っていなくて天気が良さそうだから、咲き始めた桜はあっという間に満開になってしまうかもしれない。

「今年こそ花見、行きたいなあ」

 呟いた時、ことりと物音がした気がした。振り返る前に低い声が耳に届く。

「起きたのか?」

 眠る前に見たのと同じ、かっちりしたスーツ姿にやたらと端正な顔。ぼさぼさの寝癖になっているだろう僕とはきっと正反対の。

 

「あ、千秋さん……おかえりなさい」

 反射的に答えたけれど、千秋さんの表情はあまり晴れない。これは心配している時の顔だ。思わずくすりと笑った僕に、千秋さんもネクタイを緩めながらふっと笑う。心配性なのは自覚があるんだろう。そして、そうやって気にかけてもらえることに、僕がだいぶ甘えていることにも。

 安心したせいか、ふらりと傾いだ僕の体を千秋さんは躊躇いなく引き寄せて抱きしめる。体は熱いのに、布越しに触れる体温がひどく心地よかった。

「熱いのに寒いの、不思議な感じですねえ」

「外は結構冷えているからな。その上この熱じゃあ」

「外、寒いんですか?」

「花冷えだ。とはいえ雨は止んでいるから、急に散ってしまうようなこともないだろう。誰かさんの風邪が治るまでは保つんじゃないか」

 花見をしたいと言った僕の声が聞こえていたのかどうなのか、そう言って笑う千秋さんの声は暖かい。たった一日、熱を出して寝込んでいただけなのに、その温もりがやたらと心地よくて、だからまあそういうことなんだろう。


「お帰りなさい」


 もう一度、今度はちゃんと目を合わせてその言葉を繰り返すと、千秋さんも柔らかく笑って、眼鏡を外した顔が近づいてきて、すぐに離れる。

「……うつっても知りませんよ」

「そんなにやわじゃねえよ」

「そうやって油断してると寄る年波に——」

「へえ?」

 ちょっとした軽口が災いのもと。慌てて口を閉じたけれど、千秋さんは不穏な顔で笑って僕を抱え上げた。その意図を悟って、とりあえずの謝罪の言葉を口にしようとして、ふとそれに気づいた。ちょっと整えて上げた前髪。その頭に、白いものがいくつか。

「千秋さん、その白いの……」

「何だ、白髪か!?」

「違いますって、ほら」

 抱えられたまま、千秋さんの頭についていたそれをつまんで目の前に示す。


 ——雨に濡れた、ごく淡い、ほとんど白に近い薄紅色の花びら。


「春ですねえ」

「……そうだな」

 こうやって季節の移ろいをこの人と感じていくんだろう。それにしても、白髪の疑惑ひとつでそんなに慌てるなんて。思わず吹き出した僕に、千秋さんは少し眉根を寄せたけど、結局は二人で笑って、それから僕はまた少し眠ってしまうことにした。


 やたらと安心できるその人のそばで、舞い散る桜の夢を見ながら。次に眼が覚めた時にはきっと——僕に甘い千秋さんのおかげで——花見の準備ができているだろうから。

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